諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ルソー】「災厄」概念と「聖なる野蛮人」概念の共通項?

本当の意味での出発点はこの投稿あたり。完全に五里霧中の状態から出発して、多少は考えが進みました。

どうやら以下の一連の投稿の発端はこれである模様。

ここに反論。

これにいつもの様に乱入。

この考え方へのコメント1

この考え方へのコメント2

一流の文学者による作品は、児童文学全体のレベルを高めるとともに、新美南吉をはじめとする次代の児童文学作家を発掘・育成した。一方「童心主義」と呼ばれる方針は、実際の子どもの姿から遊離していたという批判も後になされた。また、寄稿を試みた宮沢賢治の作品を三重吉がまったく評価せず、掲載に至らなかった点も、本誌の限界と評されることがある。

あ、なるほど「(そもそも文芸運動のトップダウンとして演繹された)童心主義」を本当に児童教育の中核概念に据えていいのかという問題も考えていかねばならないのですね。私はこの問題に文芸運動の方面からアプローチしたので、その観点がすっかり抜け落ちていました。後で色々調べてみる事にします。

個人的にはこの辺りも切なくて好きですね。脆弱で繊細な欧州人の自我境界がアフリカ大陸の異文化に侵襲されていく悲劇…これもある種の「三昧の世界」?

  • 考えてみれば確かにこういうベクトルで深化する事もある文芸運動上の「童心三昧の世界」を本当に児童心理とぴったり一致すると考えるのは非常に難しいのです。

    この提唱によって、大人の鑑賞に耐えうる優れた童話童謡が出現したが、同時に子供の興味をひかない懐古的耽美(たんび)的作品も現れた。

    本当に考え方の難しい領域ですね。その一方で興味深いのがルソー「むすんでひらいて」が確実に「童心三昧の世界」を体現する名曲に数えられる事…

この話が以下に続きます。

ここにも乱入。

ただし内容が冗漫過ぎて「新エロイーズ(Julie, ou La Nouvelle Héloïse,執筆1756年~1758年,刊行1761年)」自体が読み返される事はありません。

現代人の再読に耐えるのは、あくまで ゲーテ若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers,1774年刊行)以降というのが定評となってますね。

そういえば1960年代日本を席巻した「フランス歌謡」も、その正体は当時フランス・シャンソン業界を震撼させていた「ロシアからの刺客セルジュ・ゲーンズブルグ(ウクライナ系フランス人)

今更そうと分かっても、これを「フランス歌謡」と信じて血肉としてしまった日本歌謡界は後戻り出来ないのです。

そういえばマリ出身のアフリカ音楽を代表するミュージシャンたるサリフ・ケータも、その活動拠点はパリだったりするのですね。

高貴な野蛮人(フランス語:bon sauvage)」なる用語はジャン・ジャック・ルソーが使ったとしばしば信じられているが事実に反する。後にその語で表される様になった類型的キャラクターは、少なくとも16世紀にはジャック・カルティエ(ケベックを植民地化した人物。イロコイ族について語ったもの)やミシェル・ド・モンテーニュ(哲学者。トゥピナンバ族について語ったもの)の時点で既にフランス文学に登場しているのである。

  • 人間は本質的には善である」と言う考えは、イギリスの立憲君主制の確立期においてホイッグ党の支持者であった第3代シャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー=クーパー)が元祖であるとしばしばみなされている。シャフツベリ伯爵はその著書「美徳についての考察(1699年)」において、人間の道徳感は特定の宗教による教化の結果として生じたものではなく、自然発生的で、先天的で、感情に基づいたものであると仮定した(道徳感覚学派)。それによりトマス・ホッブズリヴァイアサン(Leviathan,1651年)」第13章での絶対中央集権制の正当化(この中でホッブスは、自然状態とは「万人の万人に対する闘争」であり、その状態における人間の生命は「孤独で、貧乏で、不愉快で、下賤で、短い」と語っているのは有名である)への反論を試みたのだっt。
  • ホッブズはさらに、そのような状態で生活している同時代例としてアメリカン・インディアンを挙げる。著作家は古来より、その時代の基準で「文明」とみなしうる範囲の枠外の環境において生活している人々を描写してきたが「自然状態」という用語を発明したのはホッブスであると考えられている。哲学者ロス・ハリソンも「ホッブズがこの便利な用語を発明したようだ」と述べている。

全体像を俯瞰すると16世紀末から17世紀にかけて、ヨーロッパ人がフランス宗教戦争(ユグノー戦争)と三十年戦争の苦難に包まれる中で次第に「野蛮人」概念がヨーロッパ文明に対峙する批判的存在として浮上。次第に「良き野蛮人」と綴られる様になっていく歴史的プロセスが浮上してくる。

え?この考え方だと上掲の「+i象眼と-i象眼への振り分け」とかどうなっちゃうの?その気付きが重要で、そんな基準なんて存在しなかったり、あってもヨーロッパ文明人には想像だに出来ない様な異質な内容だったりするにも関わらず「必要に応じて適時、適切な判断が下せる」の事こそが「聖なる野蛮人」が「聖なる野蛮人」と信じる事こそが、このファンタジーの肝なのです。

  • オイラーの公式(Eulerian Formula)e^{iθ}=\cos(θ)+i\sin(θ)の発見が1748年、さらにこれがガウス平面(Gaussian Plane)概念に拡張されるのが19世紀前半において。その間には、こんな奇妙な形而上学的概念がある種の神秘主義の源泉として存在し得たという事である。

入口こそ違えど、大体似た様な数学的構造(Mathematical  Structure)に辿り着きましたね。要するに水平面の設定がどういう内容であれ、これと直交する(相関係数が0になる)垂直面はそれと無相関な状態に到達するので、道出された結果にそれほど有意味な相違を与えないものなのです。

ここに乱入。

この様に海外では何かとややこしい展開を遂げる汎性愛(Pansexual)問題も、日本人女性の手に掛かると「推しへの愛に耐えるにはしっかり食べてしっかり寝て体を作る事」みたいな身体問題に還元されちゃう健全性、どう考えたらいいの?

そんな感じで以下続報…