本当の意味での出発点はこの投稿あたり。完全に五里霧中の状態から出発して、多少は考えが進みました。
どうやら以下の一連の投稿の発端はこれである模様。
「子ども」は『ルソー』により”発見”された。
— 明石市長 泉 房穂(いずみ ふさほ) (@izumi_akashi) 2022年5月5日
それまでは「子ども」という概念はなく、
“小さな大人”、“足らざる存在”とされていた。
大学時代、教育学部で、教育哲学を専攻し、
『ルソー』から多くのことを学んだ。
「子ども」は”小さな大人“でも”大人の持ち物“でもない。
「子ども」は「子ども」だ。 https://t.co/DWch4PNwJK pic.twitter.com/IpKBStLiIi
ここに反論。
西欧ではそうだったかもしれませんね。日本の江戸時代に来日した西欧人が日本の子どもが生き生きと楽しそうに生きているのをみて驚いたというエピソードを聞いたことがあります。
— kagono (@kagonogawa) 2022年5月5日
これ、西洋の話だよねえ。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月5日
本邦でどうだったのか?というのはきちんと検討した方が良いような気がする。
漢字文化圏には「子」「童」「児」ほか、種々の表現があるしなあ。 https://t.co/o7tJYgvkmv
西洋では19世紀まで貴族の子供服がなく、大人の服をそのままミニチュア化したものばかりだったそうで、本邦では平安時代より水干が男児の服としてデザインされていたようです。
— キャビアさん (@caviar3000yen) 2022年5月5日
ルソーの定義する子供はなくても、何らかの子供の概念があったのではと思われます。
これにいつもの様に乱入。
でもルソー本人の人生を追うと「エミール」を実践するどころか…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
儒教には「(大人の教育によって歪められる以前の)童心」を回帰すべき処と目する陽明学左派の立場があり、「お軽/勘平」検閲事件(1913年)以降「童謡の世界」に転身した北原白秋もまた「三昧の境地=一心に遊ぶ幼児の忘我状態」を最終到達目標に設定する様になりましたね。https://t.co/APeeaw3BXT
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
この「マスターベーション描写がタブーなら(汎性愛(Pansexual)的な)三昧の境地」なる、本当にどうしようもない(良識派を気取る文学評論家の皆さんがちゃんと指摘するのを目にした事がない)自明の場合としての連続性…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
いつの間にか海外のLGBTQA界隈で時々使われる様になった「Queer球面」概念では、赤道面=水平面を「性愛円環(男女→女女→女男→男男→)」に設定。 pic.twitter.com/LoKjdLuiZ2
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
ここにさらにハミルトンの四元数におけるij=k,ji=-kの考え方を援用し+k=汎性愛(Pansexual)象眼と-k=性嫌悪(Erotophobia)象眼に分割される垂直回転軸を付加。https://t.co/GRXskRfjfj
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
何故こう考えると嬉しいかって、無性愛(Asexual)を+k=汎性愛(Pansexual)象眼側に置く一方、現在国際的に荒れ狂ってる「子供を一切の悪しき外敵影響から遠ざけよ」運動を-k=性嫌悪(Erotophobia)象眼上における「不毛な反作用ベクトルに過ぎない」と規定すれば両者を完全に切り分けられるのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
まだまだ「Queer球面」概念自体が試験運用段階なのでコンセンサス形成までは至ってない様ですが、さしあたって歴史的に(時代遅れになって忘れ去られるまで)不毛な因縁に終始するだけの存在であり続けてきた後者に対し…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
…上で紹介してきた様な「(童心三昧概念に立脚する)日本童謡の世界」などが前者の空間的広がりを着実に勝ち取ってきた対比的景色の説明にとりあえず便利なので援用させて頂いた次第。https://t.co/vEKByAux3z
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
この考え方へのコメント1
ここ、すごく興味深いです。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月6日
やはりクイア理論は軸の設定に難がある感。
性嫌悪って、私は自他境界の問題がかなり大きいと思うんですよね 。
だいぶ前のですが、自他境界と侵襲感について絵にして考えてみたのがあります。
https://t.co/IBdphGAVVUhttps://t.co/Fj8qVbDlcb
この図は本当に分かりやすいです。実に勉強になります。なるほど「侵襲感」というのですか…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
確かにこの座標系の肝は自我境界がしっかり確立している「童心三昧の世界」の対極として、他人の意見をとりあえず「へぇ、貴方はそう考えるんだ」と受け止める事が出来ず、認識可能範囲がどんどん狭まっていくあの独特の狭量感を対峙させる点にあるのです。https://t.co/B2hrKorp9V
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
「認識可能範囲が開いてる/閉じている」の話はこちらでまとめてみました。https://t.co/HyFK7e09IS
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
Queer球面概念、どうやらまだまだLGBTQA概念をそのまま垂直軸に反映して「Z軸=汎性愛(Pansexual)-無性愛(Asexual)」と座標を切る考え方が主流みたいなので、ここは是非改善してもらいたいところですね。もしかしたらその時は「LGBTQA」表記そのものが変わる?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
はてなブログのアクセス解析を眺める限り「認識が開いてる/閉じている」話については、こちらの投稿の方が読まれている様です。平野耕太「ドリフターズ(DRIFTERS)」における「廃棄物(エンズ)」の例え、本当に使い勝手がいいなぁ…https://t.co/ustDMFN4pe
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
おもしろいですねえ。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月6日
脳内でショートケーキをぐりぐり回せないと辛そうですが。
自他境界の「層」が薄膜状だと視界が開けていて、ミスト状or厚膜だと視界がぼやけるんじゃないかな…という模式図(風船と生体膜から)、前に作ったんですが、恒常的な部分ミストだと、思考の次元潰れが起きますね。 pic.twitter.com/u1JgDdPKhw
たぶん人間、A-Cが成長時の遷移で、たいていの大人の場合Cをベースに少しだけBかD方向に揺れながら生きてるんだと思うんですよ。Eは統失さんの増悪期かなあ。AとEは認知上は似た表現型もありうると思います。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月6日
「自他境界の層が薄膜状だと視界が開けていて、ミスト状or厚膜だと視界がぼやける」。あ、面白いイメージですね。この「層」の性質をとりあえず多次元評価(一次結合によって統合される直交基底の集合)」で捉え…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
…次元分離やプライオリティ設定などでしくじればしくじる程「霧が濃くなっていく」と考えるのが今の私の立場といえましょう。グラフ化すると手ブレした感じに映像化されるので、健全な人間ならジンバルなどに搭載される「手ブレ補正機能」が自然搭載されている事を示唆している様にも思えます。 pic.twitter.com/bPcwAhCQwR
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
人間、成長する過程で「思考」における手振れ補正機能のようなものを獲得していくんでしょうけど、その獲得スピードが遅くなる、なんらかの問題を持つのが発達障害の器質要素なんじゃないかと思っています。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月7日
ここで興味深いのが、人類が「観測誤差の分布に特有の法則性がある事」に気付くのが19世紀前半(ラプラスやガウスの功績)、さらに「(平均と分散幅で表される)分布そのものを観測対象の実体と考える」統計革命を達成するのが20世紀初頭(第一次世界大戦(1914年~1918年)を通じて普及)と割と遅い事。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月7日
このパラダイムシフトの以前と以降では「人間が正気である基準」そのものも変わってしまう訳で、この辺りについてどう考えるかという話も出てくるのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月7日
しんどい話ですが「(商業化や工業化や情報化の相対としての)近代式自由主義的社会における正気」って、それ以前の社会に比べてかなりハードルが高いのですね。今回のロシア・ウクライナ戦争で改めてそれを思い出しました。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月7日
まさか21世紀に入ってから、文化の発展が「(それぞれが必要とする規模の常備軍を中央集権的官僚制による徴税で養う)主権国家体制の国際協調体制」に担保された法実証主義と、それが「適切な制約」を加える自由競争に担保された経済実証主義の直交(無相関)により担保される仕組みそのものが揺らぐとは…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月7日
表現できてはいないものの「勘」「経験値」として認識されていたものだと思います。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月7日
目が二つなのに1画面と認識されるわけですから、デフォルトの機能として「補正」入ってるのは明らかです(私は複視なので2画面仕様ですが、普通に認識補正はできてます)。
なので、情報の手振れ補正機能を、うっかり拒否しなければいいだけだと思いますね。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月7日
較正用の基準としての肉体界面は結構重要かなと。
「較正用の基準としての肉体界面」…こうした人類の歴史を「逸脱し過ぎたら糾す」形で超越的に導いてきたのは、案外それだったりするのかもしれません。「こんなシステムじゃみんな不毛に死ぬばかりだ」なるコンセンサスが高まる都度、パラダイムシフトが起こる、みたいな感じで。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月7日
それがコンドルセ公爵からジョン・スチュワート・ミルに継承された古典的自由主義の精神であり、かつ「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動こそ言葉であり、それだけが真の知性と倫理を生み出す」なるフランス行動主義の精神であったとも。https://t.co/toLLVdtIt3
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月7日
この考え方へのコメント2
山田耕筰の曲は一部の詩人の詩とともにあまた残ったが、「赤い鳥」は売れなかったというあたりが、考えどころかなあと思っています。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2022年5月6日
一流の文学者による作品は、児童文学全体のレベルを高めるとともに、新美南吉をはじめとする次代の児童文学作家を発掘・育成した。一方「童心主義」と呼ばれる方針は、実際の子どもの姿から遊離していたという批判も後になされた。また、寄稿を試みた宮沢賢治の作品を三重吉がまったく評価せず、掲載に至らなかった点も、本誌の限界と評されることがある。
あ、なるほど「(そもそも文芸運動のトップダウンとして演繹された)童心主義」を本当に児童教育の中核概念に据えていいのかという問題も考えていかねばならないのですね。私はこの問題に文芸運動の方面からアプローチしたので、その観点がすっかり抜け落ちていました。後で色々調べてみる事にします。
ガチンコ当時の考え方の最先端だったので、多くの日本人がついていけなかったのかもしれません。マーラーやエリック・サティの様な当時難解とされた現代音楽が、現代人の耳にはむしろスッと入ってくるみたいなパラダイムシフトが何処かで起こってるのですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
個人的にはこの辺りも切なくて好きですね。脆弱で繊細な欧州人の自我境界がアフリカ大陸の異文化に侵襲されていく悲劇…これもある種の「三昧の世界」?
- 考えてみれば確かにこういうベクトルで深化する事もある文芸運動上の「童心三昧の世界」を本当に児童心理とぴったり一致すると考えるのは非常に難しいのです。
この提唱によって、大人の鑑賞に耐えうる優れた童話童謡が出現したが、同時に子供の興味をひかない懐古的耽美(たんび)的作品も現れた。
本当に考え方の難しい領域ですね。その一方で興味深いのがルソー「むすんでひらいて」が確実に「童心三昧の世界」を体現する名曲に数えられる事…
この話が以下に続きます。
そうだよなぁ、「教育」関連の「教職課程」だと、未だにルソーだのスミスだのやっとるみたいだからなぁ……#なんか見た
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年5月5日
ある意味、マルクスなんかより鉄板かも(よしなさい)
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年5月5日
ここにも乱入。
ルソーさん、日本でいうと「日本人に言えない事をズバズバいうんで最初は面白がられるたけど、ズバズバ言い過ぎて炎上騒ぎを起こして最後は干されてしまった外国人タレント枠」みたいなポジションの人だったりして。あと以外な事に「近代的ラブストーリー」元祖の一人。https://t.co/QSs7xgJp2u
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
ただし内容が冗漫過ぎて「新エロイーズ(Julie, ou La Nouvelle Héloïse,執筆1756年~1758年,刊行1761年)」自体が読み返される事はありません。
現代人の再読に耐えるのは、あくまで ゲーテ「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers,1774年刊行)以降というのが定評となってますね。
そういえばあの筋の方々が「フランス有識者がスイス的無政府主義にかぶれる都度、血が流されてきた」歴史について真面目に考察するのを見た事がない気がします。https://t.co/AEjxJW9FlO
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
さすが「リスボン大地震(1755年)」に際しての「大災害で人が大量に死ぬのは集住するから。大都会などさっさと放棄して田舎に少人数ずつ分かれて暮せば良い」は大炎上して干されてしまいますが、フランス革命やクメール・ルージュを通じて環境テロリストに継承された考え方。https://t.co/bqI1EjVZCf
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
実は「フランス人が外国人タレント枠を有難がる風潮」で(アダム・スミスも含む)スコットランド啓蒙派の偏重も説明出来てしまうところもあったりして。https://t.co/mpazPDbha2
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
そういえば1960年代日本を席巻した「フランス歌謡」も、その正体は当時フランス・シャンソン業界を震撼させていた「ロシアからの刺客」セルジュ・ゲーンズブルグ(ウクライナ系フランス人)
今更そうと分かっても、これを「フランス歌謡」と信じて血肉としてしまった日本歌謡界は後戻り出来ないのです。
そういえばマリ出身のアフリカ音楽を代表するミュージシャンたるサリフ・ケータも、その活動拠点はパリだったりするのですね。
ルソー、ただのスイス人でなく「カルヴァンの神権政治」を経験したジュネーブ出身なのでリスボン大地震による大量犠牲者についても「神が望んだ事と人は受け入るべき」の一点張り。事実上「元祖無残様」状態で、これが干される原因になったという話はちゃんと伝えるべきかと…https://t.co/dNxtXTNULx
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
実は「啓蒙主義の巨人」ヴォルテールが理神論に傾いたのもリスボン大震災の被害について「これが神の意志の顕現である筈がない」と義憤に駆られた結果で、まさにその心境変化こそがルソーとの関係破綻に連鎖していく訳ですね。https://t.co/mRm6Pld8UX
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
一方、そんなヴォードレールにこっそり背後から近づき、秘密結社フリーメイソンに引き入れたのが「ビーバーハットを被った道化師」米国外交大使ベンジャミン・フランクリンだったという…そう、フランス人は本当に「外国人タレント」に弱い…https://t.co/HjHsH115oJ
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
そう、日本人は忘れてはいけないのです。フランス人に「戦場とメリークリスマス」と「楢山節考」が映画祭で同時ノミネートされると、後者を選ぶ特殊性癖がある事を。そう、有名な「聖なる野蛮人」概念…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月6日
「高貴な野蛮人(フランス語:bon sauvage)」なる用語はジャン・ジャック・ルソーが使ったとしばしば信じられているが事実に反する。後にその語で表される様になった類型的キャラクターは、少なくとも16世紀にはジャック・カルティエ(ケベックを植民地化した人物。イロコイ族について語ったもの)やミシェル・ド・モンテーニュ(哲学者。トゥピナンバ族について語ったもの)の時点で既にフランス文学に登場しているのである。
- 「人間は本質的には善である」と言う考えは、イギリスの立憲君主制の確立期においてホイッグ党の支持者であった第3代シャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー=クーパー)が元祖であるとしばしばみなされている。シャフツベリ伯爵はその著書「美徳についての考察(1699年)」において、人間の道徳感は特定の宗教による教化の結果として生じたものではなく、自然発生的で、先天的で、感情に基づいたものであると仮定した(道徳感覚学派)。それによりトマス・ホッブズ「リヴァイアサン(Leviathan,1651年)」第13章での絶対中央集権制の正当化(この中でホッブスは、自然状態とは「万人の万人に対する闘争」であり、その状態における人間の生命は「孤独で、貧乏で、不愉快で、下賤で、短い」と語っているのは有名である)への反論を試みたのだっt。
- ホッブズはさらに、そのような状態で生活している同時代例としてアメリカン・インディアンを挙げる。著作家は古来より、その時代の基準で「文明」とみなしうる範囲の枠外の環境において生活している人々を描写してきたが「自然状態」という用語を発明したのはホッブスであると考えられている。哲学者ロス・ハリソンも「ホッブズがこの便利な用語を発明したようだ」と述べている。
全体像を俯瞰すると16世紀末から17世紀にかけて、ヨーロッパ人がフランス宗教戦争(ユグノー戦争)と三十年戦争の苦難に包まれる中で次第に「野蛮人」概念がヨーロッパ文明に対峙する批判的存在として浮上。次第に「良き野蛮人」と綴られる様になっていく歴史的プロセスが浮上してくる。
え?この考え方だと上掲の「+i象眼と-i象眼への振り分け」とかどうなっちゃうの?その気付きが重要で、そんな基準なんて存在しなかったり、あってもヨーロッパ文明人には想像だに出来ない様な異質な内容だったりするにも関わらず「必要に応じて適時、適切な判断が下せる」の事こそが「聖なる野蛮人」が「聖なる野蛮人」と信じる事こそが、このファンタジーの肝なのです。
- オイラーの公式(Eulerian Formula)の発見が1748年、さらにこれがガウス平面(Gaussian Plane)概念に拡張されるのが19世紀前半において。その間には、こんな奇妙な形而上学的概念がある種の神秘主義の源泉として存在し得たという事である。
入口こそ違えど、大体似た様な数学的構造(Mathematical Structure)に辿り着きましたね。要するに水平面の設定がどういう内容であれ、これと直交する(相関係数が0になる)垂直面はそれと無相関な状態に到達するので、道出された結果にそれほど有意味な相違を与えないものなのです。
ここに乱入。
あっなんすかそれおもしろそう。あとで読む(メモ) https://t.co/M100Xcb2WY
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年5月5日
フランス革命やクメール・ルージュの思想の大源流となったスイス人が日本にもたらしたのが「ドリア」。様々な弊害も伴う「民族主義」概念の創始者シャトーブリアンが日本にもたらしたのが「シャトーブリアン・ステーキ」。どうして日本に伝わるとみんな食べ物の話に…https://t.co/QOOGHxzSRm
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
「革命はパンの不足から始まる」がモットーのクロポトキンの無政府主義も、日本に伝わると「日本のプロレタリアは、白飯さえお腹一杯食べさせておけば大丈夫」なる温情主義に変わり果ててしまうという…https://t.co/Hn5h9DhJkF
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月5日
ぎゃー!僕そういう面白い感じにすり替わっちゃう話大好物なんすよ!!!すんごいご馳走様きたこれ。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年5月5日
ちょっと後で何度か反芻して楽しむ…(メモ)
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年5月5日
この様に海外では何かとややこしい展開を遂げる汎性愛(Pansexual)問題も、日本人女性の手に掛かると「推しへの愛に耐えるにはしっかり食べてしっかり寝て体を作る事」みたいな身体問題に還元されちゃう健全性、どう考えたらいいの?
そんな感じで以下続報…