諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【露宇戦争】その行き着く先は?

以下の様に全体像を俯瞰してみると「日露戦争(1904年~1905年)」を「第零次世界大戦」と呼びたくなる人の気持ちが分からないでもありません。これを契機に露仏同盟(1891年~1894年)、英仏協商(1904年)とあわせ、英露協商(1906年)が成立し(第一次世界大戦を戦う)三国協商体制が構築された訳ですから。

ところで…

以下の戦争が第0次世界大戦または第零次世界大戦と呼ばれる場合がある。

浅田進史「開戦100周年における第一次世界大戦研究を振り返る(2017年)」にも「およそ10年前に、日露戦争の世界史的意義を検討するために、それを第0次世界大戦と呼び、軍事技術上の重要性や国際関係上の影響の広がりが議論されたことは記憶に新しい」とある。

トロイア戦争

いやそれ「紀元前1200年のカタストロフ」の話じゃないですか、やだもう…

今回の投稿の発端は以下のTweet

ここに乱入。

陸軍大臣時の1903年、同皇帝の勅命により極東視察のため来日、日本では新築後の芝離宮国賓として滞在した。事実上の偵察であったが、青山練兵場で挙行された観兵式などの歓迎を受けた。日本の軍事力を高く評価、日本との軍事衝突には一貫して反対していたが、日露戦争開戦直前にロシア満州軍総司令官に任命され日本軍と直接対決する事となる。

とはいえ、ロシア軍の任務遂行能力はクロパトキンの想定を遥かに下回っていたのである。このあたり、それまで現代ロシア軍同様「少数精鋭の特殊編成部隊による襲撃」ばかりで功を上げてきた弱点が出たとも。

日本軍の能力を高く評価していたクロパトキンは、日本軍との全面直接対決を極力避けた上でシベリア鉄道の輸送力を活用し、兵力と物資の蓄積を図りつつ、日本軍を北方に吊り上げて補給路が伸びきり疲労が激しくなった所を一挙に殲滅するという作戦を計画した。しかし会戦においては敗北を繰り返し結果的に後退したのみだった。そして後退を繰り返した結果、各兵士の士気低下を招き終始指揮系統が混乱した。またクロパトキン自身も時勢に流されたその場しのぎの作戦指揮を展開したため、日露戦争においてロシア軍が敗北する結果に繋がった。

そして…

さらに別の切り口。

この辺りの話の最前線はインド?

ここにも乱入。

そんな感じで以下続報…