諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「年長組」と「年少組」の死闘?

とりあえずメモがてら。

 

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実は2010年代、国際SNS上の関心空間年少組(nymphet=身体的成長速度が男子を抜く小学校高学年から、再び抜き返される中学生くらいの「勝気な」少女層)と年長組(Elder Ladies=当時の葛藤を全部経験済みで「まだ心の成長が体の成長に追いついてない人というより獣に近い状態」と総括する老成女子層。実際様々な日欧米コンテンツの翻訳や収集や批評に関わってる層が多く知識量も舌を巻くほど莫大)の壮絶な壮絶な殴り合いなどを目にするうちに「勝手に着たいものを着ろ。それについてこちら側がどう考えるかは、こっちが勝手に決める」ルールを体に叩き込まれました。

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こうした幼少組の矜持を、こう叩くのが典型的手口。

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ネロ先生「性的欲求バリバリの妄想少年が高校教師になるなんて大問題、そうおっしゃいましたね。

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「大丈夫、女子高生に食指は動かない」

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「汚いから」

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「女子高生の肌は大半が荒れている」

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「青い果実といえば聞こえはいいが」

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「未発達な肉は固そうだ」

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「明け透けで文学には存在し得ない暴投過ぎる表現をしてくる」

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「それが新鮮でそそられるかといえば、単に雑なだけ」

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まぁ幼少組の振る舞いなんて年長組からすれば全部お見通しなので、結果は後者の前者に対する圧倒的勝利に終わるのが普通でした。まるで幸村誠ヴィンランドサガ(VINLAND SAGA,2005年~)」の作中でアシェラッドトルフィンを、そのトルフィンガルムを翻弄する様に…

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  • 最初に連想したのが「うる星やつら(1978年~1987年)」で現役スケバンを名乗るジンジャーシュガーペッパーが「先代」ラム、弁天、お雪の歯牙にも掛けられない様子。さすがに古過ぎるネタで誰もついてこれないと思うが、日本の女性作家の場合、1980年代初頭海外同様バーバラ・ウォーカーのウルトラ・フェミニズムから開始しつつ、割と早めに「家父長制も家母長制も唾棄すべき権威主義的体制には変わらない」なるコンセンサスに到達して独自路線を歩み出している。同じ高橋留美子作品でも「めぞん一刻(1980年~1987年)」後半から登場する「年少組」八神いぶきに対して(自分も年少組の面影を多分に残す)音無響子はそこまで圧倒的に振る舞えないし「年長組」要素が強い六本木明美はむしろリアルタイムにその世代であるだけの八神でなく「心がその時代に取り残されたまま」の響子に突っかかっていくのである。
    ゆう☆スプリント on Twitter: "シュガー、ジンジャー、ペッパー ...

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    私はなんとなく二人の最終局面での衝突は「(生臭い三角関係が売り物だった)1970年代版うる星やつら」が「(学園ラブコメ物に整理された)1980年代版うる星やつら」へと舵を切る過程で「ラムちゃんのラブコメで使える部分」を偏微分によって除いた残りのドロドロが六本木明美に「三宅しのぶのラブコメで使える部分」を偏微分によって除いた残りのドロドロが音無響子に継承された結果としての「因縁の対決」と捉えていた。同時期には同じく色っぽい悪女を描く「P.S. 元気です、俊平(1980年~)」でデビューした柴門ふみが「東京ラブストーリー(1990年)」において(オードリー・ヘップバーン出演作品にあれほど傾倒した1970年代少女漫画の世界が唯一手を出せなかった)「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーと同分類の「自由な女」赤名リカを美化し過ぎる事も貶め過ぎることもなく描き切っている。要するにこの時期より日本の女流コンテンツは「良い子」と「悪女」を峻別する伝統の克服に動き始めたとも。そういえば当時は何故か(池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ(1977年)」の芥川賞受賞に刺激されて小説を書き始めた)森遥子作品も読んでいたりする。

    実はかかる「幼女VS熟女」の構図は厳然と米国伝統文化に由来するのだが(ナボコフ「ロリータ(Lolita,1955)」やジョン・アップダイク「A&P(1962年)」もその叙事詩環の一遍として組み込まれた)、米国本土でその超克が試みられたという話を不思議と聞かない。未だ(女流を中心とする)和製コンテンツが第三世代フェミニストバイブル(重要引用元)として奉じられ続けているのは、決して偶然の産物ではないのである。

  • ところで2010年代の国際SNS上に「年長組」として君臨した匿名女子アカウントには武内直子美少女戦士セーラームーン(1992年~1997年)」や「パイレーツ・オブ・カリビアン三部作(Pirates of the Caribbean,2003年~2007))」に特別な思い入れがある人が多かった。「リアルタイムにはちびうさに自己投影したけど(母親になった)今は月野うさぎに自己投影しがち」と述べ、テッド・チャンあなたの物語(Story of Your Life,1999年)」に登場する母娘を二人に重ねて読む苦行を楽しみ(本当に地獄の様なBad Tripを味わう)、「パオレーツ・オブ・カリビアン最後の海賊(2017年)」のラストに(三部作のヒロイン)エリザベス・スワンその物語の主人公の母親としてゲスト出演すると大興奮し「自分が母親側になった」事を思い知らされたりしていた。

    また幼女時代リアルタイムには「プリンセス・チュチュ(Princess Tutu,2002年~2003年)」を視聴していて片渕須直監督の手掛けた「アリーテ姫(2001年)」「ちょびっツ(2002年)」「BLACK LAGOON(2006年)」、さらにはその延長線上で「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road,2015年)」を好きなフェニミズム作品として挙げるタイプも少なからずいた。

    こうした層は最終的に「(バーバラ・ウォーカーが執着した)女神三態」すなわち女性のライフサイクルを「(体の成長に心の成長が追いついてない、人というより獣に近い段階の)跳ね返り少女(nymphet)」「(なんとかその危機は乗り越えてそれぞれが相応の成熟状態に到達した)賢婦人(Elder Ladies)」「(さらに酸いも甘いも噛み分け)かかる多様性を俯瞰し得る立場となった老女賢者(The Old Wise Woman)」に区切る人生観に到達した。老女賢者態追加に当たってはスターウォーズ・シリーズ(1977年~)、例えば「エピソード6/ジェダイの帰還(1983年)」でエンドア/デス・スター攻撃直前ブリーフィングにおいて「今度もこれだけの情報を得る為に多大な影響が出ました(それを無駄にしない戦いを望みます)」と述懐する司令官、および「ローグ・ワン(Rogue One: A Star Wars Story,2016年)」でデス・スター主要開発者ゲイレン・アーソの娘ジン・アーソらの決死の活躍で手に入った攻略データを「希望(Hope)」と呼んだレイア姫らのイメージが援用されている。また同時に(何となく頼りない)ルークやハン・ソロを「坊や達」とからかいつつ、自らも銃を手に闘う「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望(Star Wars: Episode IV A New Hope,1977年)のバトル・プリンセス的イメージが賢婦人層に付加されている。

     

そんな感じで以下続報…

 

 

 

 

 

 

 

美少女戦士セーラームーン』(びしょうじょせんしセーラームーン)は、武内直子による日本の漫画および、それを原作としたメディアミックス作品。講談社の少女漫画雑誌『なかよし』で1992年2月号から1997年

 

エロ=男性側からの性的搾取」としか考えられないフェミニストは、こういう経験を完全に素通りしてしまった?

ただこういう話も。

もちろんこうなると話が変わってくる訳です…