諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

唯物史観とイタリア・ルネサンス

実は「人間集団の上部構造(法律、政治、社会)を規定する下部構造(生産、経済)原始共産制、古代奴隷制封建社会、資本主義社会、共産主義社会の五段階を経る」とする唯物史観は、18世紀に栄えたスコットランド啓蒙主義の丸パクリである。

マルクスがその事実を徹底して隠蔽したので、オリジナルがケルト神話の構造を模した御伽噺に過ぎなかった事も、その異教趣味ゆえにナポレオン戦争時代に徹底弾圧されて本国ではとっくに滅びていた事も未だに知らない人が多い。

歴史の分野では、スコットランド人たちは文明の「自然発展」に関するメタ社会学的な議論を持ち出す傾向が強い。この「自然な歴史」あるいは「推測的な歴史 (onjectural history)」アプローチを創始したのはデビッド・ヒューム (1757) だ。推測的歴史は、アダム・ファーガソン (1767)、ジョン・ミラー (1771)、アダム・スミス (1776) によってはっきりした「段階」論的な形となった。たとえばスミスは、4 つの経済段階を通って進歩するものとして歴史を見ている。政治や社会構造はそれに伴うものだ。その4段階とは、狩猟採集段階、田園遊牧民段階、農業封建主義段階、そして最後の製造業段階(そしてスコットランドはいまやこの最後の段階に入ろうとしていた)だ。ファーガソンと同じく、スミスは分業と商業拡大こそが歴史を根本的に動かすものだとした。スコットランド学派の業績はヴォルテールをして、「われわれは文明に関するアイデアのすべてについて、スコットランドに頼っている」と言わしめた。

実際、あるアイルランド神話系列では「狩猟・採集民族」ネミディア族(Namidea)を追放した「遊牧民族」フォモール族(Fomoire)が、その後色々あって最終的には「封建的農耕民族」ミレー族(Milesians)に駆逐されたとする。それが実際にあった歴史の足跡と考え様とするから上掲の様な発展段階説に至るわけだが、実は各段階の登場順序は伝承によってまちまちだし(アイルランド人の直接の先祖に当たるミレー族が最後にくるのだけは一緒)、そもそも考古学的編年期との対応付けが完全になされている訳でもない。そのせいか19世紀後半のいわゆる「ケルティックルネサンスCeltic Revival/Scottish Renaissance)」においてさえ、この思考様式が復活を遂げる事はなかった。本家のオリジナルですらその程度の扱いなのである。

 ちなみにルネサンス(Renaissance)という語は「再生(re- 再び + naissance 誕生)」を意味するフランス語で、19世紀のフランスの歴史家ミシュレが「フランス史:第7巻(1855年)」に‘Renaissance’という標題を付けたのが学問上の初出。続くスイスの文化史学者ヤーコプ・ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien、1860年)」で決定的に認知されるようになった。「再生」意識そのものははやくも14世紀のダンテやペトラルカの著作に見られ、ジョルジョ・ヴァザーリの「画家・彫刻家・建築家列伝(伊: Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori 、英: Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects、初版1550年)」においても「rinascita(再生)」という語が用いられているが、その開始から終焉までの過程を歴史的に明らかにしようとする動きが見られたのもまた19世紀後半に入ってからだったのである。マルクスが革命運動から放逐されて著述家に転じたのも同時期で、それ故に唯物史観に「欧州史はルネサンス/大航海時代/宗教革命の時代を境目に全く別物に変貌した」とい視点が盛り込まれる事はなかったとも。

そもそも「ケルト神話には失われた自国の古代史の痕跡が残されていると信じたがったスコットランド啓蒙主義者の脳内」以外に唯物史観が存在した事などあったのだろうか。当時の欧州人が信じていたのとは異なり「農場領主制/再版農奴制」の歴史は大航海時代が到来して欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移し、大西洋沿岸の人口急増が食料価格を高騰させ巨大なビジネスチャンスが生まれた以前の時代までは遡れず、それ以前それぞれの地域がどういう経済状態にあったかも全く異なる。

戦国時代日本の惣村も最初こそ(軍役は「乱妨・人取り」で臨時収入を上げるチャンスだったし、堤防工事や道路整備は自分の生活に密接に関わっていたので)領主の賦役に素直に応じていたが、貨幣経済が浸透するにつれて自らは生業に専念しつつ、秋植木の余剰分で人を雇って供出する様になっていく。すでに江戸幕藩体制下で全国ネットワークを構築する「稲作は年貢で収める分に止め、余剰労働力を商品作物栽培や養蚕や手工業に回して現金収入を得る近世的農村」への移行が始まっていたのである。

そして最も唯物史観と程遠い変遷をたどったのが、まさにルネサンスの発祥地となった北イタリアだったのである。

  1. 東ローマ帝国ササン朝ペルシャの戦争が泥沼化し(6世紀後半)、代替交易地として栄えたアラビア半島イスラム教団が勃興すると(7世紀)、その隙をついて南下してきたランゴバルト族がすかさずイタリア半島東ローマ帝国領(ラヴェンナ総督府支配地)を掠め取った。その後何度滅ぼされても執拗に復活を続け、ロンバルティア貴族(ランゴバルト族末裔)が最後に蜂起したのは11世紀。その間にローマ教会はちゃっかり教皇領をせしめる事に成功して東方正教会からの独立を果たす(756年における「ピピンの寄進」)。*その後「ロンバルティア貴族」は現地住民と混血しながら静かに消えていったと考えられている。

  2. やがてイングランドから輸入した羊毛を毛織物に加工する産業がフランドルと北イタリアに勃興。現地で手工業者が力を持つ様になる一方、欧州中でロンバルティア商人が現地の領主や司祭から金融業や交易を任されたユダヤ商人と鎬(しのぎ)を削り合う展開に。*ちなみに当時のイングランドは商取引を全て外国人に委託して自らは牧畜に専念する「陸の国」に過ぎなかった。

  3. イタリアの北・中部では11世紀から12世紀にかけて諸都市内部で統領制(コンソラート)と呼ばれる行政機関の形成が進行し自由都市(comune/コムーネ)が誕生。商工業活動の発展,皇帝と教皇の対立の利用,周辺農村地域(コンタード)の支配などを通して自治的都市共同体=都市国家の性格を強めていく。
    *この頃から次第に「ルネサンス期イタリア名物」内部紛争が本格化。

  4. 皇帝派(Guelfi)と教皇派(Ghibellini)の争いに際して教皇コムーネはロンバルティア同盟を結成。イタリア進出を目論む「バルバロッサ (Barbarossa、赤髭王)」ことホーエンシュタフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ1世(在位1152年~1190年)の遠征軍をその市民軍が「レニャーノの戦い(Battaglia di Legnan,1176年)」で大敗させる。一方皇帝派コムーネの中では(神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によりロンバルディア地方のコムーネの勢力を阻止する目的で定められた)執政長官を起源にポデスタ制度(podestà、ラテン語で「力(potestas)」の意、当時のコムーネでは共和政ローマにおける独裁官と同様、戦争など緊急の際に臨時に1人に主権を任せる事があったが、これが終身化し世襲化した封建領主)が発展する事も。
    ダンテ「神曲(La Divina Commedia、地獄篇は1304年~1308年頃、煉獄篇~1319年?、天国篇1316年~1321年)」でさえ「政敵は全員地獄送りだ!!」というスタンスを貫いているくらいだから、当時の政争がどれだけ執拗に際限なく続いたか推して知るべしであろう。それを抑え込む為に超越的裁定者が必要となった次第だが、リミニのマラテスタ家などは地位獲得後も市政と激しい抗争を繰り広げねばならなかったのである。

  5. 貨幣経済が浸透するにつれイタリアの北・中部では貧富の差の拡大といった問題が表面化。各司教区の参事会などを中心に「私有財産の放棄」「使徒行伝に描かれた清貧生活への回帰」を訴える宗教運動が勃発。ある意味宗教革命や共産主義運動の先駆けとでも呼ぶべき展開だったが、飴と鞭を使い分けるローマ教会の懐柔が巧みで事なきを得た。
    *その副産物として残ったのが「すっかり牙を抜かれた」ドミニコ修道会(Ordo fratrum Praedicatorum、1216年認可)やフランシスコ修道会(ラテン語: Ordo Fratrum Minorum、英語: Order of Friars Minor、1223年認可)だったという次第。この辺りの事情はウンベルト・エーコ薔薇の名前(Il Nome della Rosa、1980年)あたりが詳しい。

  6. 13世紀後半から14世紀前半にかけてイタリア北・中部では、相互・内部の抗争に疲弊したり大国の圧迫を受けたりした中小規模のコムーネにおいてで一人の有力者に権力を集中させることで危機を打開することが図られ、世襲の僭主国家たるシニョリーア制(signoria、紳士、主人、領主などを意味するシニョーレ(signore)の派生語)が広まっていった。
    *その後、多くの僭主たちは皇帝・教皇から公・侯などの封建領主に封じられ、世襲支配に制度的保障を獲得することになる。サヴォナローラ神政(1494年~1498年)とローマ略奪(Sacco di Roma、1527年)に際してで追放されたフィレンツェの僭主メディチ家も1532年以降は君主(フィレンツェ公国/トスカーナ大公国)となる。なおフェラーラのエステ家のようにもともと封建領主(エステ家の場合はエステ辺境伯)だったものがシニョーレとして実権を掌握した例もある。

歴史段階説とは一体何だったのか?

ただし奢侈品の商いだけで10万人都市以上に成長するのは無理だった?

ところで本当に「マルクス主義(Marxism)」と「ルネサンス(Renaissance)」に接点がないか検索してのけぞった。

マルクス主義ルネサンス(Marxism Renaissance)。そんなのもあるのか!!