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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【沈黙 -サイレンス-】【保守主義的思考】日本はシャトーブリアンがただの肉の呼称になってしまう国?

マーチン・スコセッシ監督映画「沈黙」の公開が迫っています。国際SNS上の関心空間では「スター・ウォーズ/フォースの覚醒(STAR WARS: THE FORCE AWAKENS、2015年)で、カイロ・レン(Kylo Ren)を演じたアダム・ドライバー(Adam Douglas Driver)の出演だけが話題になってる感じ。

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遠藤周作「沈黙(1966年)」

この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。

「二十年間、私は布教してきた」フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰りかえしつづけた。「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」

「根をおろさぬのではありませぬ」司祭は首をふって大声で叫んだ。「根が切りとられたのです」。

だがフェレイラは司祭の大声に顔さえあげず眼を伏せたきり、意志も感情もない人形のように、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」。

 日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。

「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った。「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」

その言葉は動かしがたい岩のような重みで司祭の胸にのしかかってきた。それは彼が子供の時、神は存在すると始めて教えられた時のような重力をもっていた。

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」

「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」

「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」

「あなたが二十年間、この国でつかんだものはそれだけですか」

「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなずいた。「私にはだから、布教の意味はなくなっていった。たずさえてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった。私はながい間、それに気づきもせず知りもしなかった」

「適応主義(Accomodatio)」 によって世界中で大量の信徒を獲得してきたイエズス会の業績を裏面から眺めた様な作品ですね。

ところで日本人には想像だにし得ない「人間とは全く隔絶した概念」は「教会の神」概念だけに限りません。「伝統主義政治的浪漫主義進歩主義」「保守主義自然主義といった西洋から輸入した信念もまたそれで、やはり「根が腐ってしまった」感があるのです。例えばフランスやドイツでは「保守主義の父」とされるシャトーブリアンも、日本では単なる「肉の呼称」に成り果ててしまうのです。

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シャトーブリアンステーキ(Chateaubriand steak) - Wikipedia

最高級の牛のフィレ肉(テンダーロイン)からさらに中央部の最も太い部分のみをチョイスしたもの。牛1頭からとれるヒレ肉(およそ4kg)からわずか600グラム程度しか取れない。脂肪が少なく、肉質に優れた最高級のステーキである。

その名前はロマン主義作家にしてウィーン体制(ブルボン復古王政)下のフランスでは政治家としても活躍したフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand 1768年〜1848年、ナポレオン時代とオルレアン朝時代には体制に楯突いて作家に専念)に由来する。料理人にこれを命じて作らせた。あまりに美味だったので、こればかり食べて暮らしていたという。

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カール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」

保守主義という語にはじめて特殊な刻印を与えたのはシャトーブリアンであって、彼が政治的・教会的王政復古の理念を奉ずるその機関紙を1819年に〈Le Conservateur〉と名づけたときにはじまるのである。ドイツにおいてこの言葉は1830年代にはじめて土着した。イギリスにおいては1835年にはじめて受け入れられた。 
*「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中でフランス恐怖政治を批判して「古来の意見(ancient opinions)」「(偏見を含む)固定観念(prejudice)」を擁護し、保守主義の父」と呼ばれる事になったエドモンド・バーク(Edmund Burke、1729年〜1797年)自身は「保守する」という言葉は用いたものの、「保守主義」という用語は使っていない。 

 マンハイムは伝統主義を「自らを決っして意識した事のない植物的特性」「すべての個人のうちに多かれ少なかれ働いていた形式的態度」と規定します。そして(中世的身分制が崩壊し)根本志向(進歩的意欲)を放射的構造的中心とする自己機能化(自己組織化と凝集化)が始まると、互いに対立し合う二つの潮流、すなわち外罰的態度の一般化を起点とする進歩主義運動と、(その反動として始まった)内省的態度の個別化を起点とする保守主義運動が現れたとします。

*実はマンハイム自身は進歩主義運動が外罰的態度、すなわち「正しいのは自分であって、間違っているのは世界の方。一刻も早く全面的革命を起こさねば何も改善されない」なる焦燥感に立脚すると明言している訳ではない。しかしながら保守主義運動については明確に「内省的態度の個別化」と規定している以上、その対概念はこうしたものとして想像せざるを得ないのだった。
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そしてマンハイムは、ここでいう「根本志向(進歩的意欲)を放射的構造的中心とする自己機能化(自己組織化と凝集化)」を、19世紀前半にフランスやドイツを席巻した政治的浪漫主義運動に対応させました。そしてこれが以下の分裂を生んだと考えます。

  • 進歩主義的思考の核となった「平等で普遍的な体系の樹立可能性への憧憬(個性による差別への憎悪)」と「政治的・経済的平等を追求する自由(各人が個性を維持する事への拒絶)」。

  • 保守主義的思考の核となった「具体的体験への個別的感情移入(抽象的で思弁的な思考様式への嫌悪)」と「それぞれが個別的に与えられた環境下で自分なりの可能性を追求する自由(個性放棄の拒絶)」。

元来一つであるべき動向を無理矢理二分して党争の題材にしてもロクな結末は迎えません。パゾリーニが指摘した様に「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマに直面するだけです。
*どうして欧州大陸を一時期席巻した政治的浪漫主義はドイツが起点となったのか? 最近の研究によれば、ドイツこそがまさに(1714年から1837年にかけて英国王の同君統治下にあったハノーファー公国経由で流入してきた)英国保守思想と、(ナポレオン軍侵攻によって流入してきた)フランス啓蒙思想の邂逅地点だったかららしい。

ドイヅ・ロマン主義の形成と政治思想史上のその特徴

  • マンハイムの二分法に従えば「人間の幸福とは時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事である」としたヘーゲル哲学は「当時のドイツが到達可能だった両立場の最良の妥協案」だった事になる。英国保守主義とフランス啓蒙主義が邂逅したのは「先進地域ハノーファーやゲッティンゲンだったが、当時のドイツにおける政治的中心はあくまで(経済面は宮廷ユダヤ人に丸投げでブルジョワ階層が全く育っておらず、中間階層といったら軍人や官僚を指した)「後進地域プロイセンだったのであり(フランドル地方(オランダ・ベルギー)に近く、ブルジョワ経済がそれなりに発展してきた南ドイツに位置する)ヴュルテンベルク公国出身のヘーゲルとて妥協を強いられたという事になるらしい。

    *「そんなプロイセン中心に国家統合が為されたドイツ帝国(1871年〜1918年)を近代国家の手本に選んでしまったのが大日本帝國の不運」とする意見もあるが、そうした意味合いを持つヘーゲル哲学を断固拒絶したカール・マルクスプロイセン出身だったし、1930年代におけるナチスの政治的勝利にも要するに「プロティスタントと左翼の牙城」プロイセンに対する「カトリックと右翼の牙城」バイエルンの勝利という側面はあった訳で、そう簡単に単純視する訳にもいかない。ましてや海外逃亡に追いやられたマルクスが「小ドイツ主義盟主プロイセンより「大ドイツ主義盟主オーストリアに同情を寄せており、ヒトラーがそのオーストリア出身だった事を考えると尚更そうなのである。

  • 一方、この救い様のない対立図式が、例えば近年では「(家父長制に対する家母長制の党争的勝利を実現する為に全女性に個性の放棄を呼び掛ける)第二世代フェミニズム運動(1960年代〜1980年代)」と「(「自分にとって何が幸せかはそれぞれが自分で決める」がモットーの)第三世代フェミニズム運動(1980年代〜)」の絶望的対立などにストレートな形で顕現する様になった。

    *ここで改めて「内省的態度の対概念は本当に外罰的態度なのか?」問われる事になる。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが外罰的態度(何でも否定して勝利する権利)と結びつく場合、そちらの側が求めるのは、あくまで「内罰的態度」すなわち「批判された事を心から喜んで、批判者に感謝しながら滅びていく自由」に集約されてしまうからである。これぞまさしく共産主義圏における「自己批判」の精神。「客からどんなに殴られても、代金を踏み倒されても喜びしか感じないのが本当の商人だろ? 口答えするなんて商人の風上にもおけないなぁ」と弾劾するモンスター・クレーマーの心理。ハロウィン時期のネットに迂闊にインディアンのコスプレをアップしてしまった白人の少年少女を包囲して、そのアカウントが削除されるまで「貴様の様な奴が地上にまだまだ存在するから、この世界が駄目なままなのだ。子供のうちに一刻も早く俺達に感謝しながら喜びに包まれて自殺しろ!!」と詰り抜く快感。こうした人々は、それが「何人たりとも犯す事を赦されない生得的に保障された表現の自由」と信じ抜く事に自らの全存在を賭けており、クリントン候補落選運動に成功した直後に「トランプ陣営はネオナチで銀河帝國(Galactic Empire)だ!! 一刻も早く全アメリカ人が一丸となって倒さねばならない!!」とアジテーションするその態度について「貴様らの方がよっぽど銀河帝國(Galactic Empire)だよ!!」と陰口を叩かれているなんて想像だに出来ないのだった。確かに1970年代から1980年代にかけてセクハラを告発し、それが悪だという認識を社会に広めていった頃の第二世代フェミニズム運動は輝いていた。それ自体は「太陽にほえろ!(1972年〜1987年)」の様な旧世代のドラマに対する評価が完全に変わってしまった事でも明らかなのだが、それ以降の迷走も合わせて勘案するなら「国体護持の為に設立されたものの、無政府主義者共産主義者社会主義者や尖鋭的右翼を狩り尽くして以降は、存続意義を保つ為に言論弾圧言論弾圧に邁進していった特高警察の正義」をも併せて再評価せざるを得なくなってしまう。

    こうして全体像を俯瞰してみると「あらゆる女性は家父長制に対する家母長制の政治的勝利の為に全てを捧げつくさねばならない」という方向に煮詰まった第二世代フェミニズム運動の限界を「家父長制も家母長制も子供達を精神的拘束下に置く権威主義体制には変わらない」という発想で乗り越えた第三世代フェミニズム運動は、もはや単なる保守主義運動の一環に過ぎないとも?

こうした党争の水面下に透けて見える苛烈さ。そして、それが導入過程で必ず「腐ってしまう」日本独特の風土。そういう観点からマンハイムの「保守主義的思考(1927年)」を読み返すと、新たに色々な発見があるものなのです。

カール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」

伝統主義の無時間・無歴史性

われわれは旧来のものを墨守し、更新にたずさわるのを嫌うような人間的な心的素質を一般的にもっている。マックス・ヴェーバーはこれを伝統主義と呼ぶのを好んだ。旧来のものの墨守のみを意味する、このような伝統主義によって、人はまったく正当に、それが一切の改革主義に反対し、一切の志望された革新化への努力に反対する本源的態度であることを主張できる。

さらにまた、それが「普遍的人間」であること、その原初形態は「原始民族」において継承された生活形式の墨守が、じつに〔その生活様式を〕変更するときには起こるであろう呪術的不利益にたいする不安と密接に関連しているということを主張できる。

このような伝統主義は現代においても存在しており、今日でもなおしばしば意識の呪術的要素の残滓と結合している。それゆえ、伝統主義的行為は、現在においても、政治的 もしくはその他いかなる種類の保守主義とも結びつかない。

  • たとえばある政治的「進歩主義者」が、その私生活もしくは職業生活においてまったく伝統的に行為する事が可能である。

  • あるいは逆に、政治的に保守的な考えや感情をもっている人間が、その生活慣習においてはいつもモダンで進歩的に振舞うことも可能である。

むしろそれゆえに「伝統主義的である事」と「保守主義的である事」の両概念の間には本質的区別を設けなければならない。

伝統主義の予測可能性と、政治的保守主義の予測不可能性

ある所与の事態において伝統主義的反応がいかに現われるかは「伝統主義的態度一般」の形式的規定からたちどころに算定できる。(鉄道の敷設といった)革新の必要が生じた場合に伝統主義的反応がいかに現われるかは、疑問の余地がない。

ところが政治的な保守主義的行為はそれぞれの時期における行為を意味するのであって、その特性をあらかじめ確定することはまったくできない。まずここに根本的違いが見受けられる。

政治的保守主義の客観性と歴史性

政治的保守主義は、個々の個人の「 主観性」にたいする客観的・精神的構造関連であり、心的ならびに精神的実質よりなるひとつの特殊な共属性(Zusammengehörigkeit=一つの全体に属して互いに関係し合うこと)である。その精神的担い手の運命や自発性によって生み出され、再生産され、発展させられる以上は一時もそれから独立したものと考えられないが、それにもかかわらず個々の孤立した個人にはけっして創造できない。かつまた個々の孤立したどの担い手よりも時間的にずっと永続的であるがゆえに、客観的であるといえる共属性なのである。

歴史学派(historische Schule)…ドイツ・ロマン主義を直接間接の思想的背景として、自然法自然主義思想を排し歴史的方法を重視した。一九世紀ドイツにおける法学(フーゴー、ザヴィニー、プフタ)、経済学(リスト、ロッシャー、クニース、ヒルデブラント)、哲学思想(ディルタイ、ロータッカー、トレルチ)などの一学派をいう。この学派に共通するのは、すべてのものを歴史的に理解しようとする点であり、一切の事態は過程・発展としてのみ把えられるとし、したがって一切の生成に相対的価値だけを認めるのであって、(遺伝的要因など具体的決定因を求める)自然主義に対立し、生命的・有機体的発展理論と歴史的・実証的方法とを採用する。

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それゆえに「静態的」にはとらえられず、あくまで動的なものである。みずから変化するものであるから、人はかかる共属化した実質と体験との特定形態をかぎられた時間的断面では概略的にしめしうるにすぎない。

しかもそれは同時に歴史的でもある。すなわち構造変動のあらゆる後の段階は、先行する段階と緊密に関連し、同時にこの先行する構造的共属体を変化させるのであって、けっして脈絡なく突飛にうち出された新しいものではないのである。この意味でまた、成長と発展を語ることができる。

あらゆる歴史的・動的構造関連には根本志向(様式原理)が生きており、人は自分をそれに適合させ、それを自分の生活遂行において取り上げながら、構造関連とともに身につける。しかしこの「萌芽」、この根本志向、この様式原理も、無時間的・無歴史的なものではなく歴史のなかに生み出されたものであり、生きた人間の具体的運命とともに生成するのである。

伝統主義の反応的行為と保守主義の意味指向的行為

伝統主義的行為がほとんど純粋に(マックス・ウェーバーいうところの)反応的行為なのに対し、保守主義的行為は意味指向的行為である。これも両者を分ける重要な相違点といえよう。保守主義はあくまで時代により、また歴史的局面を異にするにつれ、さまざまに異なった客観的実質をもち、しかもたえず変化する意味関連に指向する。

  • この立場からなら政治的進歩主義者が日常生活において伝統主義的に行為することも、なんら矛盾なく理解できる。すなわち、彼は政治的領域では客観的構造関連に指向するが、日常生活では反応的に行為するのである。

  • その一方で、特定の政治的な進歩主義的綱領に固執するのは、すでにひとつの伝統主義にもとづいている。
    *経済人類学者カール・ポランニーも「革命主義の最大の弱点は、それが時代遅れになってもなお特定の時代や地域や人間関係に合わせた処方箋の執着し続ける点にある。純粋に存続そのものを目的とし、体系的整合性に執着しない保守主義の方がそうした弊害からは自由である」と指摘する。

だがここで気をつけないといけない事がある。

  • 確かに政治的なものについてはなんらかの優位があたえられるべきである。しかしながら、それはそれとして保守主義を単なる政治的な内容と態度だけで理解してはならない。当事者にとってそれが(自らを特定の思考方法の構成化にまで駆り立てる)全般的な世界観的・感情的なものの共属体をも意味している事を決っして忘れてはならない。

  • 保守主義は伝統主義的要素を自己のなかに取り入れ様とする。伝統主義における特定の歴史的形態を首尾一貫したものとして完成させようと努力する。

現象がこのように相互に推移しているにもかからわず、あるいはまさにそのためにこそ、 単なる伝統主義的行為と保守主義的行為は全くの別物として区別されねばならない。

ロマン主義化されていない保守主義進歩主義的改革主義

それにも関わらず、われわれは無意識のうちに旧身分的保守主義者と保守的ロマン主義者を、保守的ヘーゲル主義者とハラー主義者等々を結びつけて考えてしまう。そこに共通の内的原理、すなわち精神の志望方向(心的志向〈intentioanimi〉)が見て取れるからである。
*ハラー主義(Hallerismus) ハラー(KarlLudwigvonHaller1768-1854)はスイス・ベルンの貴族出身で、ドイツ反動時代の政治思想家。フランス革命軍の侵入により、ベルンに共和国が宣せられるや亡命したが、ナポレオンにより旧秩序が復旧したときベルン大学国家学教授の席につき、家産的国家論(Patrimonialstaatslehre)をとなえ、カトリックの立場から封建的復古を説き、しかも市民国家とともに絶対主義国家にも反対し、封建領主的国家の維持を主張した。彼の思想は保守主義的であるよりも、むしろ封建的反動の色彩が強い。

これらを一つのグループとして認識させる本質的特徴のひとつは、直接に現存するもの、実際的に具体的なものへの執着である。ここから具体的なものに対する新式の、いわば感情移入的体験が生まれてくる。

  • ロマン主義化されていない保守主義…当時「具体的」なる言葉は反革命の標識として用いられていた。何故なら「(それぞれの人間が置かれた直接環境下における特殊な態度や独自の活動意欲を伴う)具体的に体験し、具体的に思考する」志向性は、その反動として一切の「可能的なもの」「思弁的なもの」への極端なまでの嫌悪感をともなったからである。実際ロマン主義化されていない保守主義は、つねに直接的な個々の場合から出発し、自己の特殊な環境を越えてその視野を拡大しない。それは直接的な行為をめざし、具体的な細目の変更を問題にするので、自分が生きている世界の構造については、本来なんの顧慮もはらわない。
    *どうしてマンハイムはこれをあえて「伝統主義」と区別したのだろうか。ビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)にのドイツ庶民は、成り上がると部屋や衣装を「あたかも一つ上の階層に成り上がったかの様に」飾り立てたという。そういう過渡期的態度を指しているのだろうか。

    *彼らは若い頃のゲーテの抒情詩には酔い痴れたが、その「説教」には一切耳を傾けなかった。その一方で軍人や官僚には媚を売り、その命令には忠実に従ったという。

    *この時期にはパンチカード・システムを発明した自動人形(単数形Automaton、複数形Automata)技師ジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年~1782年)が職人から「オレ達が何を覚えるか指図するなんて何様だぁ?」「オレ達から職を奪うつもりか」と散々罵られ、石を投げつけられ、せっかくの発明品も跡形もなく破壊されている。一方、英国でも1733年に飛び杼(どんな幅の物でも一人で織れる)を発明したランカシアの織工ジョン・ケイが、生産効率の飛躍的改善の代償として熟練工の大量失業を誘発したせいで残りの一生を貧困の中で襲撃を恐れながら送る羽目に陥っている。

  • 進歩主義的改革主義進歩主義的行為は可能的なものの意識によって生き、体系的な可能性をとらえ、与えられた直接的なものを超越しようとする。そうした人物が具体的なものと戦うのは、その具体的なものを他の具体的なものによって置き換える為ではなく、別個の体系的出発を欲するが故である。この様に進歩主義的改革主義には、好ましからざる事実を発見すると、そのような事態を現出させている世界全体を改造する事で、この事実を除去しようとする傾向が見て取れる。
    *フランスのアナール学派の研究によれば、大陸系の近世ブルジョワジーは権力庇護下で発展してきた経緯から王党派寄りである事が多く、フランス革命期にはサン=キュロット(浮浪小作人)層やその支持を受けたジャコバン派独裁政権から貴族より徹底的に殲滅され尽くし、ほぼ根絶やしにされてしまったという。この損害のせいでフランスにおける産業革命導入は半世紀以上も遅れ、大英帝国一人勝ちの時代が始まったとも。確かに手っ取り早く「平等」を実現するには富裕層を殲滅して(貧富格差の原因となる)資本主義的発展の可能性すら除去してしまうのが手っ取り早い。
    ルネ・セディヨ 『フランス革命の代償』

それに対して保守主義改良主義の本領は、個々の事実を他の事実によって交換(代替)しようと志向する点にある。
王政復古時代に至るまで上掲の様な有様だった事も、ほぼ間違いなくこの時期に保守主義思想が芽生えた主要因の一つであったと考えられる。この辺りはフランスで「(王政を容認した)産業者同盟」構想を発表したサン=シモンの「18世紀は破壊しかおこなわなかった。われわれはその作業を続けるべきではない。 反対にわれわれが企てるべきは新しい建設のための基礎を築くこと」なる宣言にも表れている。
サン・シモンと産業主義の思想
「封建体制から産業体制へ」サン=シモンの社会思想

身分主義的所有体験とブルジョワ資本主義的思考体験

保守主義的な具体的体験の特質をもっともよ良く示しているのは、財産に関するブルジョア的近代的体験と保守主義的体験との対立であろう。

この点に関しては、メーザーの論文「真の財産について(Vondemechten Eigenthum)」から教えられる事が多い。そこで彼は財産にまつわる特定の関係の消滅を現象学的に確定し、それを押しのけて登場した近代的財産概念に対置させる。
*メーザー(Justus Möser 1720年〜1794年)…ドイツの歴史学者。イェナ、ゲッチンゲン大学に学び、各種の官職を務めるかたわら、歴史・経済・社会に関する多くの著述を発表し、ゲーテ、ヘルダーに多くの影響を与えた。その社会・経済思想は愛国主義を基調としており、主著『オスナーブリュックの歴史』はドイツの歴史を社会経済的生活との関連において観察したもので19世紀以後のドイツ史学、歴史学派、法学および経済学の発展に与って力があった。

彼によれば、古き良き時代においては、特定の財産と特定の所有者の間に肩代わりできない生き生きとした互酬関係が成立していた。「真の財産」はその所有者に特定の権利、たとえば国事の「議決権」、狩猟権、「陪審権」を与え、所有者の特殊な人格的名誉と密接に結びついていたので、その意味において譲渡不可能だったのである。したがって所有者がその所有地を売却したとしても、狩猟権まではゆずりわたされないのであって、売却された所有地の旧所有者に狩猟権が存続しているということは、新しい所有者が所有地の「真の」所有者なのではない事の不滅の象徴と目されていた。逆もまた然りであって、旧所有者が「成り上がり者」に真の所有の名誉を分与できないように、ある旧名望家が「単なる所有者」から所有地を買い戻しても、入手した財に当人の人格的名望からだけでは真の財産の性格を附与しえなかったという。

このように、特定の財産と特定の所有者とのあいだには肩代わりすることのできない互酬関係が成立していたのであり、一切の財産はこの人格的なかかわりあいにおいて体験された。こうした特有な体験がメーザーの時代までは伝聞としてしか伝わっていないながら、まだまだ実感を伴っていたのである。それが失われた事についてメーザーは次の様な遺憾の辞を述べている。「人々がこの本質的区別をもはやはっきりした形で示さないとしたら、言語や哲学はどんなにか不完全なものになってしまうことだろう」。身分的に構成された社会においては、人と財産とのあいだに前論理的・生活適合的な具体的関係が多く存在しており、やがてそこに、体験の具体性を制圧しようとブルジョア的・抽象的財産概念が現われたのである。
*日本人だと時代劇における「御下賜の品」を巡る陰謀劇を連想した方が手っ取り早いかもしれない。そもそも欧州における自由(Liberty)の起源は日本でいうところの「主君の前で帯剣したままでいる権利」「殿上で足袋を履く権利」「茶会で傘を差す権利」といった身分特権と結びついており、福沢諭吉は「御免」という日本語をその訳語に当てるべきか真剣に悩んだという。英国においてもジェントリー階層の形成は国王の所領売却に端を発するし、その仲間入りを果たすには以降も特定の条件を満たす「由緒正しい土地」の所有者となる必要があった。

後のロマン主義的・保守主義的理論は、好んでこのスタンスに立ち還った。

  • アダム・ミュラーは事物を人間の四肢の延長とし、封建主義を人と事物との融合として性格づけた。そしてその様な生き生きとした相互関係の消滅をローマ法の継受に帰し、その一切の責を負うべき「ローマ的フランス革命」を弾劾する。

  • ヘーゲルにとって所有とは「私が私の意志を事物のなかに置いたこと」を意味した。「所有の理性的な点は、欲求の満足にあるのではなくして、むしろ人格の単なる主観性が止揚されるところにある」。

  • 資本主義社会の労使関係においては人間が疎外されている」と主張したカール・マルクスら左翼陣営も、こうした「かつては諸事物にゆきわたった、あの生き生きした関係が存在したのだ」なるノスタルジーを積極的に利用した。レーニンが米国のテイラー主義(Taylorism)に魅了されたのも、そこに「領主が領主と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」に通底する「古き良き労使一体関係」を見て取ったからかもしれない。
    *その意味では最初から「スペクタクル史劇的歴史観」を好む保守主義的傾向を有していた訳である。

    *またこの意味において科学的マルクス主義は当初から「計算癖(Rechenhaftigkeit、Calculating Spirit)」に対するアンビバレントな感情を内包しており、最終的には科学的管理法(Scientific Management)の進化に取り残されたとも見て取れる。

中にはあからさまな弁護的態度や反省的共鳴も混ざっている。またそれ以前には全く知られていなかった話という訳でもない。ここで重要なのは、こうした古い身分主義的思考様式と新しいブルジョワ資本主義的思考様式が次第に分極化しつつも、それぞれ潮流の異なる場所に立つ層の体験志向の中にそれなりの形で継承されていったという事なのだった。
*おそらくこの問題意識、日本史学者が提言する「どうして武家政権以前の時代に朝廷が定めた文書様式や儀礼の次第(有職故実)は、武家ばかりか江戸時代の庶民にまで大切に守り伝えられたのか」「室町時代の東山文化はどうして現代のお茶の間文化の起源となったのか」といった問題を読み解く重要な鍵である。

近代国家の構造問題と近世まで政党政治が現れなかった理由

ある人は、近代国家の構造問題を次のようにきわめて適切にまとめている。すなわち、

  1. 民族的統一国家の形成
  2. 人民の国政への参与
  3. 国家の世界経済的組織への編入
  4. 社会問題の解決

がそれである。

中世においても、進歩的な動学を担う中心があった。すなわち、都市がそれである。しかし当時の段階においては、それはまだ全体的には「飛び地」である。だがこの都市の「島嶼性」も、それがのちに包括的潮流の萌芽細胞になるという事実を、なんら変更するものでない。

これに対して、国際的な教会的・宗教的文化は――われわれが判定しうるかぎりでは――すべての潮流を全体的過程に直接的に機能づけるこの過程的・動的なものの性格をもってはいない。
*いわゆるウルトラモンタニスム(ultramontanisme、教皇至上主義)。「山の向こう」といったニュアンスで、ドイツでは「アルプス山脈の向こう(すなわちイタリア)」、フランスではこれに加えて「ピレネー山脈の向こう(スペイン)」を指した。

さらに、政党形成の可能性は、封建的国家においても身分的国家においても強力な妨害をこうむった。この事情をラムプレヒトは次のように要約している。「封建国家は党派を育成できなかった。というのは、それは国家的に現実にはたらく諸力を各人ひとり残らずそして個人的に、忠誠宣誓の人格的絆によって支配者に結びつけたからである。したがってこのような見方からすれば、そして国家的見地からみれば、臣下のもとにおける一切の党派形成は徒党的な(faktiös)、国家に危険なもの、すなわち分派とみなされる。この見地はまた、身分的国家にもあてはまる。というのは、身分的国家においてもなお、すべての成員の多数は、忠誠宣誓を通じて土地支配者に臣下的な義務を負うからである(Lamprecht, DeutscheGeschichte, Freiburgi.Br.1904, ErgänzungsbandII, 2Hälfte, S.53)」
*「保守主義的思考」におけるマンハイムの基本的関心はどうやって「諸領域の分離」や「調和思想」といった伝統主義的思考様式に立脚する中世的人間分断社会が、近代における「中央集権体制下での政党政治」に痴漢されていったのかにある。 特にその関心をドイツに集中させているが、ここで述べられている条件そのものはドイツに限定されない。

革命的自由主義保守主義的自由概念

革命的自由主義は、経済的領域においては「あらゆる国家的もしくは同業組合的拘束からの個人の解放」を、政治的領域においては「人が欲すること、正しい正しいと思うことをおこなう権利、とくに「人権」の行使」を追求し、それが他の市民の自由と平等にを侵さない限り制限を設けられるべきではないとした。この自由概念は平等の理念、すなわちすべての人間の経済的・政治的平等を前提にしてはじめて、正しく把握することができる。
*「自由は、他の者を害さないすべてのことをなしうることにある。それゆえ各人の自然権の行使は、社会の他の成員にこれと同一の権利の享受を確保すること以外に制限を有しない。この制限は、法律によるのでなければ、きめることができない」(Déclarationdesdroitsdel'hommeetducitoyen,G.Jellimek,DieErklärungdesMenschen-undBürgerrechte,3.Aufl.,München-Leipzig1919,S.21f.の再録による。『人権宣言集』岩波文庫 131頁)。これはまさしく数学者にして啓蒙主義者でもあったニコラ・ド・コンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)経由でジョン・スチュアート・ミル「自由論(On Liberty、1859年)」へと伝えられた「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。権力が諸個人の自由を妨げるのが許されるのは、他人に実害を与える場合だけに限定される」なる発想そのものに他ならない。

この概念を正しく理解したならば、革命的思考にとって「人間の平等」が決して経験的事実に直結している訳ではなく、不可欠の要請(Postulat)を表明しているに過ぎない事は明らかなのである。それは生活の一切の領域における人間の平等化を要求したものではない。「経済面や政治面における平等な闘争」の実現を目指しただけだった。保守主義的思考がこの要請を、あたかも人間は実際に、かつあらゆる関係において、平等であるかのように、ひとつの事実主張として取り上げたのはまさに典型的な問題のすりかえといってよい。
*しかし実際には後世、科学的マルクス主義やその流れをくむ第二世代フェミニズム運動が「人間の平等が実現するのは政治と経済の分野だけなのだから、人間は一切の個性を放棄して全てを政治と経済の分野に委ねなければならない」なる主張を展開する事になる。民主集中制とは、それを実践する「革命的人格者」が、それが実践出来ない「劣位人格者」に対する全人格的代表権(生殺与奪権)を掌握するのが「正しい平等社会」と考える点において、オーギュスト・コントの「科学者独裁構想」や、日本で有識者層が戦前から夢想してきた「インテリ独裁構想」同様、ある種の封建制(貴族制)に分類される。

しかしながら、この社会学的条件によって必然的に生み出された誤解から新しい洞察が生まれた。保守主義的体験と思考は、財産概念と同様に以前の事物体験の仕方を反省的に取り上げて、思考潮流として掬い上げるのである。政治的必要の重圧が、この革命的自由概念に対抗する新たな自由概念を創り出した。革命的・平等的自由概念に対立するその特質から、われわれはそれを質的自由概念と呼ぼう。
*ドイツの哲学者ロータッカー(ErichRothacker、1888年〜1965年)はこれを「旧保守主義的自由概念」と呼んだ。ディルタイやマイアーの大きな影響を受け、歴史科学および精神科学の方法論、とくに解釈学の分野の研究で著名な人物。主著に「精神科学序説(Einleitungindie Geisteswissenschaften,1920)」「精神科学の論理と体系論(Logikund Systematikder Geisteswissenschaften、1926年)」「人間と歴史(Menschund Geschichte、1944年)」などがある。

こうして生まれた質的自由概念は、「自由」そのものでなく、その根底にある平等原理を攻撃する。いわく、人間はその素質において、そのもっとも内的な存在において不平等である、自由はすべての者がそれぞれそのもっとも内的な原理に相応したみずからの固有の成長法則を発展させることにある、と。たとえばアダム・ミュラーはいう。「私が書いたような自由にとって、外的平等の概念ほど矛盾するものはほかにない。もし自由というものが、生長と生に向かってのきわめて多様な性質をもつ諸被造物の一般的努力にほかならないとすれば、人が自由を採用すると同時に、この諸被造物の全固有性、すなわち多様性を廃棄するということほど、大きな矛盾は考えることができない」。
*アダム・ミュラー(Adam Heinrichvon Müller 1779年〜1829年)…ドイツのロマン主義的政治・社会哲学者。カトリックに改宗、ゲンツと交わり、メッテルニッヒの政治的助言者として活躍した。彼はその国家観において個人主義を排し、合理主義的・自然法的契約説を否定、全体的生命としての有機体的国家説を唱えた。経済観ではスミスの自由主義的コスモポリタニズムに反対し、経済生産の国民的性格を重視して生産力説の立場をとった。彼の理論には独創的なひらめきはないが「ロマン主義的社会理論の全コスモスを形式完備した形で体系化している」(バクサ)。

保守主義志向のロマン主義化。そしてヘーゲル哲学やドイツ・ロマン主義的家父長意識への発展

こうして生み出された質的自由概念は、革命的・平等的自由概念に対し、特殊な政治的趣意を帯びる事になる。

  • 自由主義的思想家は、その革命的機能にふさわしく、抽象的に可能的なものの見地から構成されたあらゆる人間の原理的平等、あるいは少なくとも(「抽象的楽観主義」から)あらゆる人間の平等の可能性に固執し、個人の自由を他の市民の自由を侵害しない範囲に設定する。

  • 一方、ロマン主義的思想家は、こうした自由の制限は、各人が自己の可能性と限界を見出す生長の「個性的法則」、すでに個人の本性のなかに既に存在すると考える。

しかしながら、この典型的にロマン主義的な自由概念は、無秩序的な主観主義ときわどく隣接する。

  • 自由主義的思考はあくまで公的生活の平面においてのみ設定し、その内面性いかんに関わらずこれを「私的」領域の問題として黙殺する。
    *根源的な意味合いにおけるリベラル思想は、まさにこういう「大雑把さな」考え方に立脚する。

  • ところが保守主義的思考が問題の内面化に全力を投じる(自由の要求の内面化が、世界革命的な尖端をとりのぞき、鈍化させる)と、そこから「外的政治的無秩序の影響を受けた内的無秩序(ある種のモラルハザード)」が生み出され、この内面化された無秩序が国家にとって好ましからざるものになり得るという、とてつもなく大きな危険を孕んでしまうのである。
    *「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが、この局面では「国家秩序の超越意思」という形で現れる訳である。

それゆえ、保守主義化したロマン主義的思考には、この「質的自由」を個々の個人から取り去って、広大な集合的構成物たる「有機的共同体」、すなわち、身分(Stände)を自由の真の担い手、「真の主体」たらしめるという傾向が現われた。「むしろ身分こそが内的生長原理の担い手となり、その展開のなかに自由が成立する」という形で妥協が図られたのである。だが、それならそれで質的自由概念の身分的由来が問われねばならない。身分の「自由(この言葉は同時に「特権」を意味し、ひとつの質的不平等の刻印を示す)」という鬼子が、再び国家ならびに所与の支配関係の存立を脅かす危険が台頭してくる。
*これはまさしくジョン王をマグナ・カルタ(Magna Carta=大憲章、1215年)調印に追い込んだ英国貴族達や、伝統的既得権益の守り抜くべく王権に対して反旗を翻し「公益同盟戦争(1465年~1483年)」や「フロンドの乱(La Fronde、1648年〜1653年)」を起こしたフランス貴族達の亡霊。そしてヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner)」は「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」の中において、19世紀前半におけるドイツ思想家の発想が、当時の政治的中心だったプロイセン絶対王政も(領主が領民と領土を全人格的に代表する)農本主義的体制も両方とも肯定する方向にしか働かなかったと指摘する。

かくして保守主義化したロマン主義的思考は、この個人的または団体的な、質的に異なった自由を、そのようなものであると同時にそれらの上に立つ全体のなかに底礎づけられるように処理してゆく必要に駆られる事になった。何を「全体なるもの」に位置付けたかはヘーゲル歴史学派、シュタールなどそれぞれ異なってはいたものの、問題意識の根本的構造そのものは恐ろしく似通っている。

*シュタール(Friedrich Julius Stahl、1802年1855年)…プロシァの法学者、政治家。ミュンヘンの生まれ。ユダヤ商人の子。エルランゲン、ベルリン大学の教授をつとめ、プロイセン保守党(Konservative Partei (Preußen)1948年〜1976年)の党首でもあった。シェリングの影響をうけ、多数でなく権威を根本原理とし、自然法の合理的原理を排して、法および国家は神の啓示、神意によるものだと説き、教条主義にもとづくキリスト教的国家理論を展開した。「彼はロマン主義的国家学のエピゴーネンであり、政治的保守主義の理論的集大成者」(バクサ)とみなされている。主著に「法哲学(Die Philosophiedes Rechts,1829年)」、「国家および教会における現在の諸党派(Diegegenwärtigen Parteienin Staatund Kirche, I-III,1863年)がある。

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鍵はどうすれば自由の原理を内面化させる一方で、外的関係が秩序原理に服するように設定できるかにあった。それでは何が「内面性」と「秩序」の両領域の衝突を予防するのだろうか。その答えは直接神によってか、さもなければ社会的・国民的力によって保証される一種の予定調和の前提に見出される事になった。ここで保守主義は(すでに多くのものを自由主義的思考から学んできたにも関わらず)「諸領域の分離」や「調和思想」といった伝統主義的思考を蒸し返したのであった。
*ここまでくれば「人間の幸福とは時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事である」としたヘーゲル哲学がどうして最終的勝利を収める事になったか、もはや明らか。そして、これこの処方箋が逆にロマン主義の世界に持ち込まれ、ワーグナーの「ニーベルングの指環四部作(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」やフリッツ・ラング監督・ テア・フォン・ハルボウ脚本映画メトロポリス(Metropolis、1927年)」における「ドイツ・ロマン主義的家父長意識」の大源流となっていくのだった。

*こうした世界観に日本人は伝統的に親近感を覚えてきた。それはもしかしたら、ただ単に大日本帝國ドイツ帝国を近代化の手本に選んだせいばかりではなかったのかもしれない。出島に来た外国人(オランダ人や、その振りをしたドイツ人)から「法専制国家」と呼ばれた江戸幕藩体制下の日本においても、なまじ資本主義的発展があってランティエ(rentier、地税生活者)たる武家の経済的没落し、身分流動性も高まったせいで「倫理規範としての身分制」なる意識が研鑽されて同様の思考様式が広まったのである。

確かに日本人的発想からは、良い意味でも悪い意味でも上掲の様に苛烈な「伝統主義」や「革命的進歩主義」や「ロマン主義」の様な概念は生まれ得ない様な気がします。それでは如何なる意味でも「確固たるもの」をを備えていないかというとそうでもない様なのです。

  • 南北戦争におけるゲスティバーグの闘い(Battle of Gettysburg、1863年)の帰還兵にして明治初期に松平春嶽を藩主に戴く福井藩のお雇い外国人として廃藩置県の現場に立ち会ったW.E.グリフィスの「ミカド(1915年)」によれば、日本人は「自らの内なる良心の声に可能な限り忠実に従おうとする傾向」が見て取れ、これを「イエス・キリストの声」として聞く様になれば立派なキリスト教徒と看做せるという。
    *逆を言えば「キリスト教徒にならなくても十分良心的な存在」という事でもあり、同時にプロテスタント宣教師でもあったW.E.グリフィスにとっては痛し痒しだったらしい。このあたりのジレンマは遠藤周作「沈黙(Silence、1966年)」でもしっかり描かれている。

  • またここで指摘されている「自らの内なる良心の声に可能な限り忠実に従おうとする傾向」は明らかに「お天道様が見てる」なる慣用句に見て取れる超越的存在と表裏一体の関係にある。
    *W.E.グリフィスは、むしろキリスト教に入信して「具体的な神を得た」後の方が相手の都合を顧みず改宗を強制しようとしたりして手がつけられなくなったと記す。背景に「明治時代日本を覆っていたある種の実存不安」みたいなものも見て取る向きもあるが、それはそれとしてこの辺りに「日本人としての本質的欠陥の様なもの」が透けて見える気もしないではない。

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  • こうした日本人の心のあり方を追求すると、陽明学左派に分類される李卓吾の童心説(人間は誰でも良心を備えて生まれてくるが、それは成長して知識や道理を刷り込まれるにつれ失われていくという儒教の「格物致知」理念に真っ向から逆らう考え方)や、北原白秋が動揺で表現した「三昧の境地(時間の経過も忘れて遊びに夢中になっている子供こそ、最も解脱に近い存在とする考え方)」に行き着く。これを新約聖書における「(イエスのところに連れてこられた子供を止めようとした弟子たちを諌め)イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません(マルコ10:13〜15)」なる章句とも重ねる向きもある。
    李卓吾(1527年〜1602年)…福建省泉州府晋江出身。祖先は回教徒とも。儒学者ながら僧形で暮らし、女性にも学問を教授。1599年に南京でイエズス会マテオ・リッチと邂逅して以後何度か会い、相互理解を深める。その著作「交友論」の中でリッチの人柄や能力について高い評価を下しており、またリッチの方も彼について「キリスト教に一定の理解を示した」「文学にも科学にも精通している」と書き残している。周囲から危険視されて迫害を受け、獄中で自殺。享年76。死後も弾圧は止まず、著作やその出版の版木は全て遺棄され王朝が清朝に交代してもその著作が禁書目録に載せら続けた。「明儒学案」にもその名は記されていない。近代中国ではその男女平等論などが高く評価されている。

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このW.E.グリフィスこそ、明治維新間もない日本から世界に向けていち早く「近世日本において何故基督教が弾圧対象となったかというと、それを最初に伝えたポルトガル人とスペイン人が日本で非礼を働いたからに過ぎない」「(他のアジア諸国と異なり)この国では本質的な意味で基督教弾圧が行われた事はなく、かつまた行う理由も存在しなかった」と伝えてくれた大恩人の一人でもあったのです。

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  • そもそも日本の態度は最初から一貫していた。豊臣秀吉が「伴天連追放令(1587年)」の中で問題視したのは「日本は神国たるところ…神社仏閣を打破り…」というその日本への配慮に欠けたフランシスコ修道会やドミニコ修道会イエズス会の一部勢力の排他的布教態度だったし、その後問題視される様になったのも「スペイン侵略主義への協力行為」という、これまた直接基督教を責める態度ではなかったのである。最終的に全面禁令として基督教徒を仏教籍に編入したのも(イエズス会とフランシスコ修道会やドミニコ修道会のそれに加えて、さらに)カソリック教国とプロテスタント教国の布教合戦まで展開するのを忌避したという側面があり、実際海外では後にこの説明で納得したという。
    *当時は旧教側(ポルトガル・スペイン)も新教側(オランダ・イギリス)も幕府を対象にあからさまなネガティブ・キャンペーンを展開。日本にはその記録が数多く残っていて、それがこの立場を裏付ける貴重な歴史史料となった。

  • 一方、時は幕末。1862年に福井藩松平春嶽が幕府の欧米列強に対する姿勢硬化を非難する文書の中では「今日の西洋の夷狄は昔日と大いに異なっており。今や遙かに開明的となり、かつ寛容となった。その結果、諸国が友情の契りで結ばれる様になったのに、我が国は一人かかる天の動きを知らず、世界の友情を失ってしまった。我が国によってこれに勝る恥辱はない」という表現が見られ、明治維新後はさらに「かつて我が国は(認識不足から)西洋に夷狄の名前を冠したが、実際に交通してみて夷狄でないと知った(中村正直「擬秦西人上書」)」という踏み込んだ表現まで見られる様になる。

  • 幕末時点から既に幕府海軍伝習所軍事顧問に就任したオランダ人将校カッテンディーケの報告も「確かに未だに踏み絵の強制は続いているが、すでに絵の表面が磨り減って単なる金属板と化しており、踏まされている民衆も何をしてるかまるで判ってない」という内容だった。
    *まるで遠藤周作「沈黙」の一場面の様だが、その日はいつの間にか「町娘達が精一杯着飾った姿を銅板の上で披露するお祭り」へと変貌しており、幕府が中止を伝えるとカッテンディーケの許に中止撤回を求める嘆願書が山と積まれ複雑な気持ちになったという。改めて銅板に目をやり「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」的な声を聞いた様な気がしたと日記には記されている。中止が撤回されたとまでは書かれてないが、最後の一文が暗喩しているのはもしかしたら…

  • W.E.グリフィス自身も「日本の民衆が恐れているのは基督教そのものでなく『邪宗門』と呼ばれる300年前から言い伝えられてきた人心を惑わし社会を毒する妖術使いに過ぎない」と、世界に向けて積極的に発信。

  • 最終的に「邪宗門禁止の高札」は、岩倉使節団(1871年11月-1873年9月)で彼らがそれを理由に不平等条約改正の訴願を世界中で拒絶された後で撤去されたが、その理由についてミカドは「民はもうこの禁令の主旨を理解している(後の判断は民に任せよ)」と玉虫色の発言で御茶を濁した。それは浦上四番崩れを引き起こした国内保守派の耳には「禁令を廃止しても民は既に基督教の害毒を知り尽くしているから容易にはこれに観戦せぬであろう」という意味に響くと同時に、海外には「くだらない迷信をまた一つ捨てました」という意志表明と受け止められたのだった。
    *W.E.グリフィスは「ミカド(1915年)」において、こうした内幕も海外に伝えている。

まぁこういう展開もあった上での遠藤周作「沈黙(1966年)」、そして今回の映画化という次第。ある意味「シャトーブリアンがただの肉の呼称になってしまう国」ならではの展開とも。状況に応じて絶えざる適応を続けるのが保守主義、という訳です。

坂口安吾 日本文化私観

講談を読むと、我々の祖先ははなはだ復讐心が強く、乞食となり、草の根を分けて仇を探し廻っている。そのサムライが終ってからまだ七八十年しか経たないのに、これはもう、我々にとっては夢の中の物語である。今日の日本人は、およそあらゆる国民の中で、恐らく最も憎悪心のすくない国民の中の一つである。

僕がまだ学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった…。テーブルスピーチが始った。コット先生が立上った。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、丁度その日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。

コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、また自ら好んで誦む。だから先生が人の死について思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないことがハッキリ分ったのである。あんまり思いもよらないことだったので、僕は呆気にとられ、思わず、笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺しても尚あきたりぬ血に飢えた憎悪を凝こらして、僕を睨んだのだ。

このような眼は日本人には無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。『三国志』に於ける憎悪、『チャタレイ夫人の恋人』における憎悪、血に飢え、八ツ裂ざきにしてもあき足りぬという憎しみは日本人にはほとんどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ仇討にふさわしくない自分達であることを、恐らく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかく、せいぜい「食いつきそうな」眼付ぐらいが限界なのである。

一方、マンハイムは ( ハノーファー・ゲッティンゲン経由で流入した)英国保守主義思想がドイツ保守主義思想に与えた影響について完全に「沈黙」。エドモンド・バーグが「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中で言及した「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」の概念とはどういう関係にあるのかについても一切触れていません。そういえば英国人は大陸系欧州人から「心と体がバラバラで成功の見込みがない」とか「正しく振舞う能力が欠如してるから破滅しか待ってない」とか日本人以上に滅茶苦茶な事をいわれています。こうした徹底的無視もそうした振る舞いの一環なのかもしれない。

しかしながら、この内容で英国の関与を否定するのは流石にやりすぎでは?
*フランスでは飛行機で初めて空を飛んだのもライト兄弟でなくフランス人だったと信じられているという。もしかして日本ではシャトーブリアンがただの肉の呼称になってしまった理由も…(以下自粛)

ウィーンで産まれハンガリー王国首都ブタペストで育ったユダヤ人経済人類学者カール・ポランニーは「大転換-市場社会の形成と崩壊(The Great Transformation,1944年)」において所謂「囲い込み(enclosure、16世紀と18世紀の二回に渡って遂行された強制性を伴う農地所有権整理)」や「スピーナムランド制(1975年~1834年、大陸からの革命思想伝来を恐れる英国政府が遂行したBasic Income理念元祖)」を分析し「大陸史と異なり、英国史においては、革命家が試行錯誤の末に革新的新体制に到達してきたプロセスなど追うだけ無駄である。新時代到来に直面した守旧派の社会制御、すなわち”何時誰に何所まで負けてやるのが最も効率的か見定める計画性”こそがこの国を欧州最強の列強として台頭させた」と客観的に結論づけている。
*もっとも、この本は「貨幣市場経済の浸透、それは元来社会活動の一環としてそれに埋め込まれていた(embedded)経済活動を社会や政治の拘束下から解放したが、その結果として解き放たれたのは何もかも碾き潰し尽くしてしまう悪魔の石臼だった(英国は欧州においてこの方面で最も先んじていたからこそ、真っ先にこの問題に直面した)」というスタンスなので別に英国を礼賛している訳じゃない。 

イギリスにおける保守主義とは

日本と違ってアメリカやイギリスには明確な法律がないということをご存知だろうか。法律がないというのはどういうことなのかというと、日本のようにきっちりと何かの犯罪に対して定義してそれらに対する罪をしっかりと明文化しているのに対して、アメリカやイギリスを始めとした国では事件に似ている事例から分析することによって罪を問う判例法がその全てにおいて優先事項として扱われている。そのため、アメリカやイギリスなどの弁護士はまずとある事件を解決する際にこれまで起きた事件とよく似ている案件から分析することから始まるという、日本の法律とはアプローチの違いが顕著に出ていることがよく分かるだろう。こうしたアメリカやイギリスなどの国における弁護士の活動は全て、古代から継承されている『コモン・ロー』というモノで画一化されている。その一般的な意味での性質については次のようなものとなっている。

  1. 法の支配…王国の一般的慣習によって作られた公法を元にした法律となっており、こうした慣習からその後における『国王といえども法の下にある』とする考え方が生まれた。

  2. 司法権の独立…コモン・ローにおいて裁判官は弁護士の指導者から選択し、そうすることで正義が最も達成しやすいとするだろうと考えられていた。この考えが生まれたのが行政から司法権が分離した始まりとも言われている。

  3. 陪審…コモン・ローを基盤とする法整備が整えられている国において、一般市民から選出された陪臣が裁判の判決を下さない限り、重罪における有罪の判決を与えられることはない。

  4. 判例法主…現在のイギリスでも用いられている法主義で、同一事実における裁判においては先例と同一に裁判するのが判例法となっている。

  5. ローマ法からの疎隔…イギリスがまだブリテンと呼ばれていた頃、ローマからの侵略を受けることになったが法に対しての侵食は行われなかった。その理由として諸侯らが国王に反抗して成果を収めたことで、固有の法習慣たるコモン・ローの擁護が政治的に有利だったからこそ、現在まで推し進められるようになる。

こうした面倒臭い法運用にはスペシャリスト育成が欠かせない。英国ではジェントリー階層がその役割を担う事になった。

英国トーリー党(Tory Party)/保守党(Conservative Party)

ジョージ1世の下で大蔵卿に任命されたロバート・ウォルポールの下で議院内閣制が発達。ウォルポールはホイッグの所属であり、初期の近代的なイギリス議会はホイッグ優勢で進められた。トーリーが政党としてのトーリー党と言えるような体裁を整えたのもこの時期となる。この時点では大地主層を政権の支持基盤とし、大地主層の利権を保護する政策を取った。

トーリー党ホイッグ党が定期的な政権交代を行えるようになった1830年代以降はイギリス議会政治における政界再編期でもあった。都市における工場労働者が選挙権の拡大、秘密選挙、平等選挙の徹底、生活待遇の改善を求めてチャーティスト運動を展開。議会政治の場にも大きな影響がもたらされ、トーリー党ホイッグ党はともに政党としての組織変革を求められる事になる。

  • 第1次選挙法改正(1832年)に際しトーリー議員を中心とする反対派が``conservative"と自ら名乗るようになる。同時期にはカールトン・クラブが党に所属する議員をメンバーとするクラブとして発足し、議員の組織化が図られた。

  • さらにロバート・ピールが自らの選挙区の有権者に対して自由主義色の強いタムワース・マニフェスト1834年)を発表。必ずしも党の全ての議員に受け入れられたわけではないが、少なくとも幹部層の間では党の方針であると暗黙のうちに了解される事に。こうして議会内の組織として政策的選好もしくは綱領を共有した近代的な政党としての保守党が確立されていく。
    *タムワース・マニフェスト(Tamworth Manifesto、1834年)…イタリア語manifesto (声明、宣言)が英語において選挙公約の意味で使われるようになった大源流。

  • 1840年前後、ロバート・ピールの指導下、党名が「保守党(Conservative Party)」に改められる(現在でも新聞の見出しなどでトーリーと呼ばれることはある)。

  • 最初の本格的な政権は1841年に成立した第2次ピール内閣であった。ピール内閣は内政面でタムワース・マニフェストにも現れた自由主義的な路線に沿って政権を運営。

  • 1845年には穀物法廃止問題で危機に直面。これはナポレオン戦争後のイギリスの保護主義政策を支える法案のうちで最重要のものであり、従って同法の廃止は通商政策の保護貿易から自由貿易への転換を意味していた。自由主義貿易を信仰するブルジョワジーを支持基盤とするホイッグ党員だけでなく閣僚及び党幹部の多くが穀物法廃止賛成派だったが、農業に利害を持つ地主貴族の多い一般議員も含めた党内全体ではあくまで少数派だった。

  • 保護貿易派ではベンジャミン・ディズレーリジョージ・ベンティンク卿といった若手議員が活発に運動を行っており、彼らは陸軍大臣兼植民地大臣のスタンリー卿(後のダービー伯爵、首相在任1852年, 1858年〜1859年, 1866年〜1868年)をリーダーに担いだ。党内調整に失敗したピールは辞意を固めるが、ホイッグ内の対立により後継内閣の組閣の目処が立たなかったため続投。

  • 1846年にホイッグの協力を得て穀物法の廃止は達成された。これは政権野党にあっても政権に大きな影響力を与えうるという好例になった。ここに至って自由貿易派と保護貿易派の対立は決定的になり自由貿易派は離党しピール派と呼ばれる新党を結成。

ピール派の離党は保守党に大打撃を与えた。以前の党幹部で閣僚経験の豊富な政治家の多くが離党組に含まれていたからである。

  • 1852年にダービー伯爵が組閣した際には13人の閣僚のうちダービー伯爵自身を含む4人のみが以前に閣僚の経験があるという状態であり、さらに1874年まで議会で過半数を握ることはなかった。その中で党首を務めたダービー伯爵は党組織の再建に尽力すると共にピール派との再統合を試みた。

  • そのピール派は1850年のピールの死後も独立した政党として活動したが、1852年には自党のアバディーン伯爵を首班にホイッグ及び急進派と連立内閣を成立させるなど徐々にホイッグ寄りの立場をとるようになった。そして1859年にはホイッグ、急進派とともに自由党を結成し合流することでピール派はその歴史に幕を閉じる。

保守党の党勢の回復は新たに政治参加を始めた労働者階級を取り込むことによっても図られた。

  • 第3次ダービー内閣では参政権の拡大が課題となり、ついに同内閣下で都市労働者にも選挙権を与える第2次選挙法改正(1867年)が実現。翌年ダービー伯爵は引退し、ベンジャミン・ディズレーリ(首相在任1868年, 1874年〜1880年)が後任の首相に就任。

  • 1868年の総選挙で保守党が自由党に敗れるとディズレーリは辞任し、代わって自由党党首のウィリアム・グラッドストン(首相在任1868年〜1874年, 1880年〜1885年, 1886年, 1892年〜1894年)が組閣した。以後、選挙を通じた2大政党間の政権交代が定着。

  • 1870年に保守党中央事務局(Conservative central office)が設立され全国に地方組織が確立されるなど、党の主に議会外での組織化と 党首の権限強化が進む。

ディズレーリは1874年に政権に復帰し、1880年の総選挙敗北後の1881年に死去。その死後しばらくは貴族院のソールズベリー侯爵、庶民院のスタッフォード・ノースコートの二頭体制が続いたが1885年までにソールズベリー侯爵(首相在任1885年〜1886年1886年〜1892年, 1895年〜1902年)が党首として党を掌握し、同年首相に就任。

  • この過程で英国保守党は第二次ディズレーリ内閣(1874年~1880年)のスローガンだった「トーリー・デモクラシー(Tory democracy)」を独自発展させる。

  • 19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期に議会外組織プリムローズ・リーグ(Primrose League)を英国最大の政治組織に成長させて「急激な変化を望まない」英国人気質を巧みに魅了して全国民が選挙権を有する同時代の保守党長期政権を支えた。
    *ここで鍵を握ったのはディズレーリの神聖視。大正デモクラシー前夜の日本でもこれを見習おうという動きがあった。大正11年(1922年)1月10日に大隈重信が胆石症のため早稲田の私邸で死去。1月17日に私邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。一方、その3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。

そして20世紀に入ると「英国保守党のライバルは1906年に結党された英国労働党(Labour Party)」という事態が到来する。

ドイツにも一応こういう政党はあった様です。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/Reichstagsfraktion_der_Deutschkonservativen_Partei_1889.jpg/220px-Reichstagsfraktion_der_Deutschkonservativen_Partei_1889.jpg

ドイツ保守党(Deutsch konservative Partei DKP、1876年〜1918年)

ドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich、1871年〜1918年)時代の体制政党。

  • 1876年、プロイセン保守党(Konservative Partei (Preußen)1948年〜1976年)を軸に保守派の諸勢力が合同して成立。ユンカー階級の利害を代表し、プロイセン東部やザクセン地方に支持基盤があった。プロイセンの伝統的政治・社会体制の擁護を主張し、宮廷、官僚層、軍部などでの影響力を背後として国内の民主的改革に反対する姿勢を一貫してとった。
  • 1890年代以降農業家同盟と結んで農業利益政党としての性格を強める。

1918年にドイツ国家人民党に合流。

 ドイツ国家人民党(Deutschnationale Volkspartei, DNVP、1918年〜1933年)

ヴァイマール共和国時代のドイツの保守ないし右派政党。ドイツ国家国民党とも訳される。ドイツ革命が起こってドイツ帝国が崩壊し、第一次世界大戦がドイツの敗戦に終わった1918年に誕生。帝政時代の政党ドイツ保守党(Deutsche Konservative Partei、略称DKP)と自由保守党(Freikonservative Partei、略称FKP)、そして国民自由党(Nationalliberale Partei、略称NLP)の一部が合流して結成された。

  • 主な支持層はユンカー(裕福な地主貴族)や実業家などであり、伝統的で保守的な政策を主張し、富裕層の利益を最優先にする「ブルジョア政党」であった。ドイツ帝政の復活を求める復古派も多く、ヴァイマール憲法と共和制に反対。そのためドイツ社会民主党など穏健左派に支配されたヴァイマル共和国政府に対して基本的には野党の立場をとった。
  • 1925年から1928年頃にはやや中道化し、ヴァイマル共和国政府に協力することもあったが1928年には対政府強硬派のアルフレート・フーゲンベルクが党首となった為に再度保守野党の立場へと戻る。その一方でフーゲンベルクは反君主制論者でもあって帝政ドイツを復活させる意図はないことを明言したため、前党首ヴェスタープ伯爵を含む帝政派保守の党員の大量離党を招いた。離党者たちは保守人民党(Konservative Volkspartei、略称KVP)を結成。

  • 1929年世界恐慌が起こると経済危機と共産主義の台頭を恐れた財界を代弁するフーゲンベルク率いる国家人民党は、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)とフランツ・ゼルテ率いる鉄兜団と「ハルツブルク戦線」と称する同盟関係を結び、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣として成立したハインリヒ・ブリューニング内閣を攻撃。

  • 1932年6月ブリューニング内閣が崩壊するとフランツ・フォン・パーペンに協力し、同内閣では国家人民党系の無所属右派が入閣。パーペン内閣が倒れ、クルト・フォン・シュライヒャー将軍の内閣が成立すると、再びナチスとの提携に動き、1933年1月30日ナチス・国家人民党・鉄兜団・貴族層など保守派・右派の連立により第一次ヒトラー内閣が成立した。国家人民党からは党首のフーゲンベルクとフランツ・ギュルトナーが入閣。フーゲンベルクが経済相兼農林食糧相、ギュルトナーが法相となっている。

  • 1933年6月27日、党首フーゲンベルクが閣僚職を辞任したのを機にヒトラーから圧力をかけられて党は自主解散させられる。党員はナチス党へ移るか政治から身を引くかを選ばされた。

戦後のドイツ連邦共和国(西ドイツ)の保守勢力キリスト教民主同盟(Christlich-Demokratische Union Deutschlands、略称CDU)とバイエルン・キリスト教社会同盟(Christlich-Soziale Union in Bayern、略称CSU)のもとでひとつとなり、中道左派ドイツ社会民主党と政権を争う様になった。そのためドイツ国家人民党のようなポジションの政党(与党の保守政党よりも国家主義的な野党)はドイツ連邦議会に存在していない。1962年に一度ネオナチ系の人々が国家人民党と同名の政党を誕生させたが、まもなくドイツ国家民主党(Nationaldemokratische Partei Deutschlands、略号NPD)と合併して消滅。 

 英国保守党や日本の立憲政友会(1900年〜1940年)みたいに「普通選挙を制して政権掌握に成功した経験を有する保守政党」とは同列で語れない様です。とはいえマンハイムの「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」が発表された1927年というのは一応、 ドイツ国家人民党が中道化してヴァイマル共和国政府と協力関係にあった時期に該当する様ですね。何か思うところがあったのかもしれません。「今こそドイツ国家人民党は英国保守主義を採用して政権が取れる政党に変貌せよ」と発破を掛けたかったとか。

保守主義論考

政策、教義、哲学という区分は有益で必要だが、その峻別は保守主義の場合には難しく、さらに「教義(doctrine)はなくても原則(principle)はある」といった保守主義論に散見される指摘を加えると、一層次元の区分は難しい。政治的保守主義が位置づけられるべき次元の曖昧さは、体系化を嫌う政治的保守主義の特色である。

そもそも保守主義は一般に自称としては好まれなかった。保守主義という言葉が、イギリスをおそらく随一の例外として、長らく「軽蔑語」だったためである。例えば、ドイツでは19世紀前半に先進国の英仏から入ってきた保守主義は、知識人のみならず、政治家にも忌避され続けたのである。

歴史叙述でも国別の違いは用いられる。君塚直隆は19世紀半ばのイギリス外交を論じる中で、パーマストンオーストリア大使に述べた例を紹介している。「メッテルニヒ侯爵はヨーロッパの政治的現状を頑なに維持することを保守主義(conservatism)と呼んでいるらしいが、われわれも保守主義者である。しかしそれは、公衆から要請があった場合にはいずこにおいても改革や改良を説き、推進していく性格のものである。しかるに貴国の場合にはそのすべてを拒んでいる。(中略)そのような停滞は保守主義とは呼ばない。貴国の抑圧的で息の詰まるような政策は、間違いであると同時に爆発をもたらすことになるだろう。ちょうど密閉して蒸気の出口を封じされたボイラーのようにね」。これは、時代を作った2人の政治家の世界観よりは、2人が育ったイギリスとオーストリアの保守イメージの違いを示しているだろう。

政治的保守主義は政治の役割や機能を限定し、人間の完成は非政治的領域にあるとする議論が多い。この文脈では英国人の現代保守主義理論家オークショット(Michael Joseph Oakeshott、1901年〜1990年)が頻繁に引用される。「政治的活動においては、人びとは、底も知れず、果てしのない海原を航海している。そこには、避難のための港も、投錨のための底地もない。また出航地もなければ、定められた目的港もない。その企ては、船を水平にたもって浮かび続けることである。海は、友であるときもあれば敵であることもある。船乗りの技術は、どんなに敵対的な状況からでも友を作るために、行動の伝統的なやり方のなかにある諸々の手だてを使うことにある」。何よりもたまたま乗り合わせたこの「船を水平にたもって浮かび続けること(The enterprise is to keep afl oat on an even keel.)」が重要であり、その理由や目的は措き、船は浮かび続けなければならないとする。一方で、オークショットは、「この保守的な志向は、[中略]自分自身の選択をし、そうすることに幸福を見出そうとする資質、情熱をもって追究する企画が数多くあること、排他的真理がある確信をもって抱く信念が多様であること、創造性に溢れ、変化に富むこと、大きなデザインを描かないこと。過度、過剰な活動、非公式の妥協[中略]といった現在の条件を受け入れることである。[中略]政府の仕事は単に差配することである。これは特定の限定された活動であり、他と結びつけば容易に堕落し、状況によって不可欠である。差配者のイメージはゲームのルールを管
理することを役目とする審判であり、また既存のルールに従って議論を支配するが、自らは議論に参加しない議長である」として、政府の役割を大きく制限する。このオークショットの議論がどこまで政治的保守主義に共通し、共有されているかは判断しづらいが、非政治領域が政治化することへの警戒や、個人の幸福追求の上で政府(統治)に対する期待の抑制などは比較的共通している。
*またもや英国人。でもマンハイムの「保守主義的思想」においては、こうした考え方って「革命的進歩主義」に分類される特徴だったのでは?
オークショット『保守的であるということ』 - 日本式論

国家イメージと関連する論点がナショナリズムとの関係である。論理的にも、また歴史的経緯を考えても、ナショナリズムは様々な政治思想と結びつきうる。政治的保守主義が身分論理に基づいて社会を構想すれば、国民(nation)という枠組みを嫌い、歴史上もフランス革命では国民は改革派や革命派の象徴財産であった。しかし、改革派や革命派が社会主義と結びつき、階級論理で社会構想を組み立てるにつれ、国民は政治的保守主義の政治資源となったという経緯がある。保守主義の「国民」とは調和的な国民であり、生者と死者とこれから生まれる子孫とのパートナーシップである。「2つの国民」を唱えていたディズレイリは時局への対応として「1つの国民」を打ち出し、このディズレイリの遺志を継ぐ「プリムローズ・リーグ」が結成され、イギリス保守党は、選挙権を有しない数多くの女性を含めた労働者を中心とする大衆運動という「左翼的」な手法を用いて、下院議員選挙での勝利を長く確保した(Popular Conservatism)。ナショナリズム、あるいは国民政党論は、政治的保守主義と結びつき、また袂を別つ。

*日本の立憲政友会の場合は、徐々に選挙権を拡大しつつ「我田引鉄」政策によってまずは在郷有力者達を懐柔し、これを最初の拠点として各市町村の青年団などを支援団体として育成していく形で普通選挙を制した。農本主義的伝統が濃厚に残存する後進国ならではの「泥臭い」戦略ではあるけれど、こういうのも「左翼的大衆運動」に分類されちゃうの?
立憲政友会 - Wikipedia

色々列記してきましたが、経済人類学者カール・ポランニーの「革命主義の最大の弱点は、それが時代遅れになってもなお特定の時代や地域や人間関係に合わせた処方箋の執着し続ける点にある。純粋に存続そのものを目的とし、体系的整合性に執着しない保守主義の方がそうした弊害からは自由である」という指摘が一番しっくりきますね。マンハイムによる分析の延長線上で理解できますし。実はポランニーの発言って「左翼陣営側からの自戒」なんですが、なかなかこの根本的欠陥を克服した話が聞けいない訳で…もしかしたらスペインの「左翼ポピュリズム政党」ポデモスに何かヒントが?

ちょっと希望の押し付け過ぎではないかとも思うが、オーウェンジョーンズが「ポデモスが崩れたら欧州の左派に未来はない」と言うのも、右派ポピュリズムへの抑止力として機能している左派ポピュリズムが他に見あたらないからだろう。

 日本は確かに抽象的思考が苦手で、シャトーブリアンがただの肉の呼称になってしまう国。保守主義は黙して語らず、ただ行動するのみ。だがそれで上手く回ってるなら、それはそれでいいんという考え方も? 

この映画は、単に宗教的な側面からことの善悪を決めつけようという作品ではありません。信徒に加えられる拷問は確かに暴力ですが、監督によると「宣教師たちが日本に持ち込んだ、“唯一絶対の真実がある”という思想もまた暴力なのだ」ということなのです。そこには普遍的な文化の衝突の図式があります。幕府=悪、キリシタン=善というだけでは割り切れないのです。

“神の沈黙”というテーマも、小説が書かれた時代よりもむしろ、現在の世界、神の名の下に争いや破壊行為が繰り返される時代にこそふさわしいものなのかもしれません。

スコセッシは語ります。「キチジローのような弱い存在をはじき出すのではなく、受け入れていく社会を」と。「いま最も危険なのは若い世代です。彼らは“勝者がすべてを勝ち取っていく”という部分しか見ていない。それが世界のすべてだと思ってはいけないのです。あらゆる者が強くあることはできません。『キチジローのような弱者の生きる場所はあるのか?』と問い続けることが必要なのです」。対立や排除ではなく、受容と寛容を選ぶこと。それこそがこの時代にあえて『沈黙 サイレンス』が撮られなければならなかった理由なのでしょう。

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…