諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【この世界の片隅に】【ゲンロン4】【ナチズム化したドイツ】【軍国主義化した日本】違いは何処にあったのか。

江戸時代、出島を訪れた「オランダ人」には存外、ドイツ人比率が高かった様です。

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こうしたイメージから「領主が領土と領民を全人格的に掌握する農本主義的伝統」が全土を覆っていたと思われがちな前近代ドイツ。実際、例えばカール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」も、(19世紀前半におけるヘーゲル哲学の登場によって一応の完成を見る)保守主義思想の形成史についてほぼプロイセン王国における動きしか参照していません。
*実は1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあったハノーファー王国経由で流入したエドモンド・バークの美学論及び保守主義論(及びその批判的継承)こそがドイツ観念論やドイツ保守主義の大源流になったとする説まである。

しかし当時のドイツはそれだけではありませんでした。オランダと隣接しライン川で結ばれた南ドイツ一帯。北海に注ぐエルベ川流域の河口に位置し、オーストリア公国の経済的中心だった時期もある港湾都市ハンブルクドイツ騎士団国の首都にして東欧の穀物輸出港としてハンザ同盟内においても重要な役割を担ったケーニヒスベルク(現在はロシア連邦カリーニングラード)。これらの地域では相応に資本主義的発展と国際経済網への組み込みが展開していたのです。

15世紀前半に入るとそれまで単なる羊毛の輸出元に過ぎなかったイングランドが毛織物産業に本格的に参入してくる。イングランド産毛織物に市場を奪われることを恐れたフランドル諸都市はブルゴーニュ公に働きかけて輸入禁止の措置をとらせた。

しかし(当時はブラバント公国の支配下にあったスヘルデ河畔の港町)アントウェルペン/アントワープやベルヘン・オプ・ゾームはこの動きに追随せず、イングランド商人が持ち込む毛織物がアントウェルペン/アントワープを介してライン川沿いのケルン商人の手に渡り南ドイツなどに供給される貿易網が成立。さらに運河やズウィン湾に土砂が堆積して大型船舶の航行に支障を来たすようになり、運河港としても経済の中心地としてもその重要性を失って衰退していく(運河が再生されるのは19世紀以降)。
*15世紀から16世紀にかけてブルゴーニュネーデルラントで活動した初期フランドル派または初期ネーデルラント派と呼ばれた芸術家達が登場したのがまさにこの時期。フランドル地方のトゥルネー、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市で特に大きな成功をおさめたとされる。

15世紀半ばになるとニュルンベルクアウクスブルクなどの南ドイツ商人も直接アントウェルペンまで取引に訪れる様になり、香料もブルッヘ経由でなくイタリアから南ドイツ経由で入手可能となった。
*そして15世紀末には外国商館がブルッヘからアントウェルペンへと移転し始める。

皮肉にも大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移するとイタリア諸都市は必然的に没落。本来ならイタリア半島と西欧を結ぶ交易路として栄えてきたスイスも巻き添えになる筈だったが(実際、ドイツとの交易はライン川経由でフランドル(オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)と直結する交易路を押さえた南ドイツ商人に奪われてしまう)、傭兵供給国として身の安全を図りつつ儲け、農閑期に営まれる家内制手工業的生産体制に立脚する精密機器輸出産業(羅針盤の部品、王侯貴族や教会関係者を楽しませる時計や自動人形(オートマトン)といった贅沢品など)を育てる事で何とか生き延びた。
*またあらゆる欧州諸国に傭兵支部が存在し、それゆえに本国が戦場となる可能性が限りなく低いという状況がプライベート・バンク事業を育てている。

ハンブルグは1189年、「バルバロッサ (Barbarossa、赤髭王)」ことホーレンシュタフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ1世(在位1152年〜1190年)から船舶航行の特許状を受けた。この特許状は第3回十字軍への貢献の報償としてあたえられたもので、商業上の特権をみとめるものだった。
*こうして関税特権、経済特権を獲得したハンブルグの交易都市としての発展が始まる。1241年にリューベック、1249年にブレーメンと防衛同盟を締結。同年、シャウエンブルク伯爵より完全な自治を許され、貨幣製造権も与えられ、これがやがてハンザ同盟成立に結びついた。ハンザ同盟の一員としてハンブルクは富裕な有力都市のひとつとなり繁栄し,1410年,1510年,1618年と三度神聖ローマ皇帝から自由都市の特権を与えられ、自治権を獲得維持。

リューベックハンブルクが商業同盟を締結した1241年とは、ワールシュタットの戦いが起きた年でもある。その都市の資源はその都市の商人が扱い、外来の商人は排他するという内容だった。1256年にはリューベックロストックが対立。しかし、ヴィスマールが両者の仲を取持ち、3都市は友好関係(ヴェンド同盟)を築く事に成功した。1259年には、ヴェンド同盟の会議も開かれる。ロストックヴィスマールリューベックを介してハンブルクとも結びつく。さらにハンブルクを通じて西方や南方の諸都市も同盟に加わった。この都市同盟はのちのハンザ同盟の基礎となり、ヴェンド同盟の会議はハンザ会議の起源となった。
*13世紀になると遍歴商人、使用人に実務を任せ自らは本拠地となる都市に定住しながら指示を出す「定住商人」が台頭する。彼らは定住する都市で都市参事会を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれていった。これに伴い、ハンザ同盟の性格も商人団体から、商人が定住する都市によって構成される都市同盟「都市ハンザ」へと変質する。しかし、この過程で上記のヴィスビュー(遍歴商人団体の中心都市)とリューベック(都市同盟の中心)の間で主導権争いが行われた。当時はノヴゴロド商館でヴィスビューの優位性が認められており、ノヴゴロドでのドイツ商人の紛争はヴィスビューが上訴地とされていた。また、ノヴゴロドの利益はヴィスビューに送られ、ヴィスビューのドイツ人、リューベック、ゾースト、ドルトムントで分け持っていた。1260年頃から諸都市との連携を強めていたリューベックは、ヴィスビューから覇権を奪おうと画策する。1293年、ロストックザクセンバルト海沿岸の諸都市代表が集まり、ノヴゴロドにおける上訴地をヴィスビューからリューベックに移すことが議論された。ヴィスビューはリガやオシュナブリュックと共に反対したが、会議に参加しなかった諸都市も含め大勢の支持を取り付けたリューベック側が勝利。さらに1298年のハンザ会議ではヴィスビューに拠点を置く遍歴商人団体の廃止が決議された。1290年代までにほとんどのハンザ都市がリューベックをリーダーとして認めるようになる。1294年には、ネーデルランドの都市、ツヴォレが書状の中でリューベックを「頭」、自らを「手足」に譬え協力を誓う。このようにリューベックをリーダーとする都市ハンザが台頭すると、それまで遍歴商人らによって独自に運営されていた各地の商館も都市ハンザの支配に下った。そして最終的決定権は現地商人ではなく、ハンザ同盟諸都市の代表によって構成されるハンザ会議が下す様になった。

ハンザ同盟の一員であり、バルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団は、ヤギェウォ朝ポーランドリトアニア連合にタンネンベルクの戦い(1410年)で敗れて以降、大きく西方に後退。プロイセン地方の新たな支配者となったポーランド王国の元、中小の都市は没落し、ダンツィヒやリガなどの都市が興隆した。この結果、東方のハンザ同盟都市は自己保身に走るようになり、同盟の一体感は失われていった。

北ドイツでは、神聖ローマ皇帝勢力が小さくなるにつれ領邦君主が勢力を伸ばした。領邦君主は自領内都市への圧迫をかけ、その結果多くの都市がハンザ同盟から脱退していく。またイングランド商人(イングランド国王やブルゴーニュ公の支援を受けていた)、ネーデルラント商人が北欧へ進出してハンザ同盟の商圏に食い込み、ハンザ同盟の独占体制を脅かした事により同盟の存在意義が揺るがされた。

1529年に宗教改革を受容しルター派やカルバン派の避難場所となってきたハンブルグだが、さらに1590年にポルトガルからマラーノ(改宗ユダヤ人)12家族が貿易に携わる目的で到着。聖職者達から彼らを放逐すべきという意見が出たが、彼らの存在の有用性を認めるハンブルグ議会はその居住を引き続き認めている。17世紀に入るとスペインが貿易の中心地をアムステルダムからハンブルグに移したので、そこにオランダに次ぐセファルディム社会が登場する事となった。
*(17世紀中旬までドイツに在住していたユダヤ人のほとんどがハンブルクへの転居を認められなかった為)。この地にはユダヤ人の宗教改革を受けて1818年に「ハンブルク宮殿」と呼ばれる新たなシナゴーグが建てられた。この神殿はポルトガル式の儀礼に基づいた改訂版の祈祷書を発行したが、その中の祈りの言葉はヘブライ語ではなくドイツ語で記されていた。

生き残るだけで必死の北ドイツ諸都市にはもはやハンザ同盟の為に義務を履行する余力などなく、だからリューベックハンブルクブレーメンの3都市にハンザの名で行動することが委任され、この3都市は強固な軍事的な同盟を締結。1648年に三十年戦争参戦国の間で締結されたヴェストファーレン条約の会場にも列席したが、まさにこの条約によってハンザ同盟都市の大半が領邦国家に組み込まれ、ハンザ同盟はその存続が不可能になったのだった。

そして1669年のハンザ会議を最期にハンザ同盟は機能を完全に失い、実質上終焉。
*当時は馬鈴薯や玉蜀黍や隠元豆といった新大陸より流入した栽培作物の普及によって食品売価がどんどん下がり、エルベ川流域やポーランドウクライナの農場領主(Gutsherrschaft)が損害を領民に皺寄せして際限なく再版農奴制を強化していった時期に該当する。ハンブルクもまたこうした東欧経済の衰退に巻き込まれていったのである。

ハンブルク - Wikipedia

1783年にアメリカと通商関係をむすんだことで短期間の再興をみるが、その繁栄もナポレオン戦争で終わりをつげ,1810年にはナポレオン1世の軍隊に占領された。しかしナポレオンの没落後ふたたび自由都市となり,1815年にドイツ連邦に加盟。1842年に4日間にわたる火災で市街地は被害をうけ(ハンブルク大火),1892年にはコレラの流行で8605人もの死者が出た。さらに第二次世界大戦の空襲で壊滅的破壊を受けるが、そのたびに復興。それゆえドイツの中では古い建物が比較的少ない近代都市である。

1871年のドイツ帝国成立の際にも、ハンブルクはどこの州にも属さず独立を維持した。それゆえ王侯貴族の支配なき自由都市としての気風が形成され、それがハンブルク市民の誇りでもある。

1918年11月のハンブルクの人民蜂起はドイツ帝国崩壊の先触れとなり、短期間ではあるが、社会主義のレーテ共和国が樹立された。1938年にアルトナ、ハールブルク、ワンツベックなどを併合。第二次世界大戦では潜水艦基地がおかれ、連合国軍のハンブルク空襲により多くの市民が命を失った。1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、その1州となった。

現在、市民にはプロテスタントが多く、政治的には中道左派ドイツ社会民主党 (SPD) が長期間市政を担うなど、南ドイツ第一の都市・ミュンヘン市とは、サッカーに限らず、あらゆる点で対照的である。ミュンヘンのあるバイエルン州カトリックの地盤であり、政治では保守政党キリスト教社会同盟 (CSU) の勢力が強い(ただし、ミュンヘン市の市政レベルではSPDが戦後の大半の市長を輩出している)。

ハンバーグ - Wikipedia

その起源は18世紀頃のドイツ-ハンブルクで労働者向けの向けに供されていたタルタルステーキ。名前の由来もハンブルグが訛りハンバーグとなったものとされる。

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  • 13世紀頃にヨーロッパに攻め込んだモンゴル帝国タタール人の生肉料理をが原型で、タタール人は硬い馬肉を細かく刻むことで、食べやすいものに加工していたとされる。その後、18世紀から20世紀前半にかけて移住したドイツ系移民によってアメリカにもたらされ「ハンブルク風ステーキ(ハンバーグステーキ)」と呼ばれるようになった(1891年の文献では既にHamburg steakの文字が使われている)。そして20世紀初頭には既に専用の丸いパンと組み合わせた「ハンバーガー(Hambrger)」の原型があちこちで見受けられる。

  • 一方明治時代の日本では、洋食店に「ジャーマンステーキ」というメニューがあったが、同一の料理かどうかは定かではない。確認されている日本で最古のハンバーグレシピは1905年(明治38年)の『欧米料理法全書』(高野新太郎編、吉田富次郎版)で、「ハムボーグ、ステーキ」と記述され、食感は現在のハンバーグより、むしろステーキに近いものだったという。明治の段階ではハンバーグは日本であまり認知されておらず、一般大衆に認知されるのは大正中期から昭和初期にかけての大正デモクラシーの時期であるが、名称はまだ「ハンバーグ・ステーキ」であり、大阪や神戸など西日本の洋食店では現在のハンバーグに近い料理を「ミンチボール」と呼んでいた。さらにパンを混入しない「ハンブルグ・ステッキ(刻み肉バター焼)」、玉ねぎを入れず、トマトソースで煮込んで仕上げた「メンチ・ボール」、牛脂で揚げる「ハンバグステーク(ひき肉の油揚げ)」、玉ねぎを入れずに目玉焼きを上に載せた「メンチ・エッグス」、片栗粉をつなぎやとろみに用いる「ハンブルグステーク」などの派生品が存在していた。

  • 日本では1960年代以降の高度経済成長期に急速に普及。当時は栄養豊富な畜肉が比較的高価な食材であり、安価な合い挽き肉(鶏肉と豚肉等)を使ったこの料理を食卓に上らせる事で、豪華な夕食を演出できるため、同年代以降の主婦が好んで夕食のメニューに取り入れた背景もあって、調理済みで後は焼くだけのものが発売されるなど、瞬く間に日本全国に広まった。更には1970年代頃から多様化したレトルト食品(レトルト・ハンバーグ)の登場・普及によりありふれた料理となった。このような経緯により、日本で食べられているハンバーグの原型は外国料理にあるが、オムライス、ナポリタン、ドリアなどと同じく西洋の料理をヒントとし、長年の間に日本人の好みに合わせた独自の進化を遂げた洋食料理の一つであるといえる。

特にデミグラソースで煮込むハンバーグは海外であまり見掛けず、日本独自色が強いとされる事が多い。

ハワイの料理のひとつロコモコ丼 (locomoco、Loco Moco) は日本の丼ものに近い。日本国内では日本語化してロコモコ丼と呼ぶこともある。もとは学生向けの安価なファーストフードだったが、ハワイの郷土料理としての色彩も濃くなってきている。

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  • 白飯の上にハンバーグと目玉焼きを乗せ、グレイビーソースをかけたものが基本である。近年誕生した店の中には、テリヤキチキンやマヒマヒ(シイラ)などハンバーグ以外の具材を用い、それに合わせたソースなどのアレンジを加えたものを「~ロコモコ」と称する例もある。こうしたバリエーションを持つ新しい店では、レタスなどの生野菜が追加されることもある。

  • ルーツは完全には明らかになっていない。ハワイ大学のジェームズ・ケリー教授の研究によれば、これは1949年にハワイ島のヒロで小さなレストランを営んでいた日系人のイノウエ夫人によって発案されたとしている。日本の伝統的な流儀で、白飯をよそった丼に焼いたハンバーガー・パティを載せ、自家製のグレイビーソースをたっぷりとかけて若者向けの安価な食事として出したというのである。"Loco" とはイカレた奴、あるいはLocal(地元)との掛詞で、このレストランの常連の高校生のひとりのあだ名に由来するとも言われている。また、"moko" にはハワイ語で入り乱れる、混ざるという意味があるが、この料理名への関連は薄く、単に語呂がよかったので定着したというところであろう。

ロコモコは今ではハワイにおいて非常にポピュラーな料理となっている。ハワイ以外の地ではほとんど知られていなかったものの、ファミリーレストランなどのメニューに加わることで、漸次その知名度は上がってきている。

プロイセン王国のケーニヒスベルク(Königsberg / Königsberg、「王の山」の意味)/ ロシア連邦のカリーニングラード(Калининград / Kaliningrad)

バルト海に面した港湾都市で、中世後期から1945年までの東プロイセンの中心都市であった。

以降短期間「キョーニクスベルク」 Кёнигсберг (Kyonigsberg) というようにロシア風の名称となり、時の最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンにちなんで、カリーニングラードと改称される。現在のカリーニングラード州州都。

前近代ドイツがこういう地域によって発展状態がバラバラ過ぎた有様だった事を念頭におかないと「どうやってヒトラーが台頭したか」見えてこない部分もあります。

あくまで近代化の必要にかられると「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」をあっけなく達成しまった大日本帝國とは出発点からして違うのですね。その大日本帝國ですら戦前は「東京VS大阪」「横浜港VS神戸」「陸軍VS海軍」「都心VS田舎」といった激しい対立構造に悩まされ続けたくらいですから「ましてやドイツをや」という事。それでは、その日本はどうやって「軍国主義化」していったのでしょうか?

  • 第日本帝国陸軍(関東)の大陸進出欲の起源は、おそらく19世紀後半の「不平士族反乱」にまで遡る。すなわち「薩長土肥幕府に参画出来ず、冷酷に切り捨てられた全国各地の下士の怨恨」こそが、その原風景。

    *「薩長土肥幕府」…さらに突き詰めると、その実態は薩長幕府」だった。かくして自由民権運動(1874年〜1890年)に際しては自由党を率いた土佐藩薩長土肥の土)出身の板垣退助(1837年〜1919年)が、第一次憲政擁護運動(1912年〜1913年、大正政変)以降の超越主義克服期に際しては佐賀藩薩長土肥)出身の大隈重信(1838年〜1922年)がカリスマ視される展開に。その一方で当時政界を牛耳っていた「九元老(山縣有朋井上馨松方正義西郷従道大山巌西園寺公望桂太郎黒田清隆伊藤博文)」に対する彼らの憎悪はますます先鋭化。これ実はヴィクトル・ユーゴーレ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」において活写された「7月革命(1830年)前夜において(ブルボン家の王政復古体制下においてアンシャン・レジーム(旧体制)回帰への容赦なき反対者として台頭し、1828年国会議員に選出されて、人気の反体制政治家となった)ラマルク将軍(Jean Maximilien Lamarque、1770年〜1832年)のカリスマ的人気獲得」に対応する動きとも。
    板垣退助 - Wikipedia
    大隈重信 - Wikipedia

    *さらには第3次桂内閣打倒(大正政変、1913年)や、大隈重信の「準国葬(1922年)」に、英国において19世紀末から20世紀初頭にかけて保守党政権を支えたプリムローズ・リーグ運動の影響を見てとる向きもある。実際、第3次桂内閣打倒において国会を囲んだ「大衆」は胸に「白い目印」をつけていたし、「大隈重信の準国葬(1922年)」はまさに(ディズレーリ首相を神格化した)プリムローズ・リーグ運動の精神そのもの。しかし何故か大隈重信の準国葬に引き続いて「平民宰相にして殉死者」たる原敬(1856年〜1921年)の葬儀には押し寄せ、正式の国葬だったにも関わらず同年開催された山縣有朋の葬儀は集団的に黙殺した「国民」は桂太郎の葬儀(1913年)には押し掛けている。「日本における政治とは何か?」という問いは、まずこの原風景から出発せねばならない。
    れきたん歴史人物伝/桂太郎

    *後世から振り返ると、こうした一連の動きの中で最も重要だったのは議論の末端、すなわち中江兆民「三酔人経綸問答(1887年)」で豪傑君が論じた「国内で処分を持て余してる士族は、海外に送って全滅するか新国家を建設するか選ばせればいい」という観点だった事になる。ある意味「継ぐべき所領のない次男以下や遍歴騎士は最前線送りにされて、新たな所領を獲得するか全滅した」欧州大開拓時代(10世紀〜13世紀)や、ポルトガルのアフリカ十字軍時代(15世紀)を牽引した時代精神Zeitgeist)そのもの。日本においてこの流れは(クーデターによって朝鮮王朝を倒さんとした)大阪事件(1885年)を精神的起源とする「大陸浪人ロマンス」に発展し、関東軍へと継承されていく。

    *欧州大開拓時代とポルトガルのアフリカ十字軍時代…「欧州大開拓時代」は一般的には「十字軍時代」と呼ばれる。その前史は「ノルマン人の制服事業(Norman Conquest / Invasion)」にまで遡る。後世から振り返ると(レコンキスタ運動(イベリア半島奪還)を除いて完全な失敗に終わる)中東方面での展開より(ポーランド=リトワニア連合王国ロシア帝国といった大国の出現母体となった)東欧方面での展開の方が重要な結果を残した。そして進出限界への到達と黒死病の大流行が力を内向きに転向させ、英仏百年戦争(1337年/1339年〜1453年)」を勃発させたとも。「ポルトガルのアフリカ十字軍時代」はまさにこの欧州大開拓時代」の終焉(ポルトガルにおけるレコンキスタ完了と騎士修道会の「御役目喪失」、黒死病流行による自給自足経済の崩壊)に対応する形で始まり、大航海時代(15世紀中旬〜17世紀中旬)の発端となった。そもそもイタリア人冒険者の参画抜きには開始すら不可能だった企画。そして16世紀初頭に航路がインドに到達するまでに(オスマン帝国と駆け引きしつつ、レパント交易掌握を続けたヴェネツィアを除く)イタリア大商人の投資によって完全事業化を達成。そして以降、欧州経済の中心は地中海沿岸地域から大西洋沿岸地域へと推移する事になる。まさしく欧州史における領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」からの脱却過程。だが皮肉にも、こうした動きはこの過酷な大転換期を(大西洋に面した欧州西部の急発展と人口爆発を支える)食料供給地帯に変貌する形で生き延びた「旧経済中心地(ロシアや東欧諸国だけでなくフィレンツェヴェネツィアの様な地中海貿易黄金期の覇者も含む)」にとっては「再販農奴(Gutsherrschaft=農場領主制)」の再来、すなわち「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」への回帰を意味し、最終的にはこの矛盾が第一次世界大戦(1914年〜1918年)勃発の遠因の一つとなっていくのだった。

    *まだ「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」から脱却出来てない段階で資本主義的的発展が始まると「ランティエ(rentier、王侯貴族や高位聖職者の様な地税生活者)」が手段を選ばず既得権益を駆使して新興産業階層の台頭を阻む地獄絵図が現出する。近代ロシア文学の世界にようこそ? 逆を言えば、英国や日本のランティエ」は負け方が上手で生き延びた。「ジェントリー階層は奉仕はすれど労働はせず」「武士は食わねど高楊枝」。

    *ところで太平洋戦争(1941年〜1945年)敗戦直後の日本人有識者は「第日本帝国時代における帝国陸軍の大陸進出欲」を「戦国大名精神の再来」と呼んでいる。

    *確かに当時の帝国陸軍が戦線拡大に執着すると同時に(軍事力供給源たる)農村社会の保存にも固執。様々な側面で「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」に回帰する傾向を示した事実は揺らがない(特に東条英機の家系が「後進的な」盛岡藩陸奥国北部、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩)出身なのを重視する向きもある)。だが実際に背景にあったのは19世紀ユーラシア大陸を舞台に英露が展開したGreat Gameに日露戦争(1904年〜1905年)を通じて巻き込まれていった展開だったのかもしれない。Great Game自体は単なる「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」への回帰ではなく、モンゴル世界帝国(1206年〜1634年)が樹立した国際的巨大商圏復活の試みでもあったのだが、果たしてそこまで遠大なビジョンが当時の帝国陸軍軍人にあったのやら。まぁこれは「ブロック経済樹立」に逃げ込もうとした同時代英国にもいえる事なのだけれど。そして良い意味でも悪い意味でも中国共産党が2014年以降打ち出した「一帯一路(Yídài yílù / Belt and Road, B&R)」路線とは、この遠大なビジョンを継承しようとする試みとも見て取れる。
    落日のオスマン帝国

    *実際には当時の日本陸軍は「戦国大名劣化コピー」とでもいうべき存在だった。戦闘に勝つことばかりに執着し、その後発生する占領地統治問題をすっかりないがしろにして占領地住民の不満を招いていたからである。

  • 日本の産業界(関西)は中国やインドとの交易があった為、世界恐慌(1929年10月24日)の影響の直撃を一旦は回避し得た。しかしながら満洲事変(1931年)、中国共産党の長征(西部奥地ソ連国境に近い延安までの逃避行)に終わる国内戦激化(1930年〜1934年)などによって中国経済が次第に麻痺状態に陥っていくと連動して衰弱。特に二・二六事件(1936年2月26日〜2月29日)後の粛軍人事によって政敵だった皇道派が一掃されて以降、陸軍統制派や(秘密裏にマルクス主義ソ連の計画経済を研究していた)革新官僚が大躍進。この動きに歯止めが掛けられず、完全に「抑止力」として機能しなくなる。内務省はそれ以前のゴーストップ事件(1933年)の段階でそうなっていた。
    満州事変 - Wikipedia
    革新官僚 - Wikipedia

    http://i.huffpost.com/gen/2656814/images/o-226-facebook.jpg

    *当時を実際に生きた司馬遼太郎は「日本は軍国主義化する事によって、世界中のどの国よりも早く世界恐慌のパニックから抜け出した。軍国主義は国内的な変質を遂げてはじめて可能なもので、その為狂信的な民族主義化を必要とした。ただの人間であってはならず、誰もが日本人である事に自己崇拝を持たねばならなかった」と簡潔に述べている。「軍国主義が台頭するにつれ対立思想が次第に敗北していく」というような悠長な展開ではなく、ある意味「生活」が掛かっていたのだった。

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    *その一方で「長い1960年代(1958年〜1974年)」に先駆けて、いわゆる「マルクス主義ヒューマニズム」が日本上陸を果たし「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを表面化させる展開でもあった。

    *「抑止力…産業界は「現地日本人救出」を名目に遂行された「山東出兵(1927年〜1928年)」についてはメディアを駆使し、ロビー活動を駆使してこれが「占領」に発展するのを阻止している。人道的配慮などではない。これを契機に中国全体に日貨不買運動が広がったら、自分達が大ダメージを受けるからだった。一方、もう一つの生命線「インドとの交易」は、大英帝国側から見れば「ブロック経済破り」に他ならず、太平洋戦争(1941年〜1945年)開戦に向けて静かに英国人の憎悪を鬱積させていく。第一次世界大戦(1914年〜1918年)参戦によってドイツ帝国からサイパンを獲得し、グアム諸島を領有するアメリカと国境が隣接する様になった事が両国の関係悪化につながっていった様に。

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  • そして盧溝橋事件(1937年)を発端とする日中戦争開戦が「ルビコン川を渡る」展開となってしまう。特に上海塹壕線突破前後の対応が最悪。

    南京戦(1937年8月〜12月)

    昭和12年(1937年)8月に上海塹壕網を突破した日本軍が追撃に転じ、12月までに国民党軍を中華民国首都南京まで追いやり、南京を陥落させた戦い。あくまで日本人が忘れてはならないのは、それ自体は「恥ずべき戦い」だったという事である。

    • 日本政府からの訓令はあくまで「上海塹壕網突破に成功したら中華民国と停戦協定を結べ」という内容。すなわちそれに続いた「追撃」と「南京陥落」自体がシビリアン・コントロールの箍(たが)を逸脱する現地司令部の暴走だった事実は揺るがない。

    • しかもこの時現地日本軍は「国民党軍の包囲殲滅」にも「中華民国政府の補足」にも失敗し、日中戦争の長期化と泥沼化を招いてしまう。南京脱出に成功した国民党軍と中華民国政府は漢口経由で重慶に籠城し第日本帝國が太平洋戦争に敗戦する1945年8月まで戦い抜き、大日本帝国から基礎体力を奪い続ける。

    • これだけ失態を重ねながら当時の現地日本軍司令官に与えられた罰は予備役編入のみ。これに気を良くした現地日本軍はますます増長して勝手な振る舞いに邁進していく事に。

    この失態の穴埋めの為に遂行されたのが重慶無差別爆撃という事になる。

    • 1938年2月18日から1943年8月23日にかけて日本軍により断続的に218回遂行された。当時の中国側記録を元に推計すると約1万人(しかし2万〜5万の諸説がある)。市民の実に8割が損害を受けたとされる。また1938年6月5日に行われた爆撃では燃焼弾が使われ、主要防空壕の換気口を破壊し為におびただしい数の避難者がその中で死亡した(中国側の資料と推計によると1000〜3000人)。この事件の死亡数は上に含まれていない。

    • しかも当時の日本軍戦闘機の航続距離が爆撃機のそれに及ばない為に奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生している。その為に重慶爆撃以前から立案開発が進められていた一二試艦上戦闘機(後の零式戦闘機)の制式化が急がれる事に(無理な試験飛行強行でテストパイロットの死者を出している)。

    • この無差別爆撃は東京裁判においても「無差別大量殺戮を意図した非人道的行為」としてで弾劾され、東京など日本の各都市への無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠として利用される事に。

    そして最悪なのは当時の現地日本軍がこうした軍事行動について国内外のマスコミの取材を完全シャットアウトし、さらに敗戦に当たって当時の資料の多くを抹殺した事。どれだけ捏造しても反証が上がってきにくいのはその為でもある。
    *しばしばエドガー・スノー「アジアの戦争(The Battle for Asia、1941年)」が「南京大虐殺の第一報」として挙げられるが、実際そこに記されているのは主にこの「現地日本軍によるマスコミの取材の完全シャットアウト」への怒りであり「大虐殺の噂」を伝聞情報として記したのも「そういう噂が流れても否定できない状況を日本軍自らが産み出した」と弾劾する為だったのである。まぁ実際「南京攻略」ばかり華々しく一方的に喧伝し、肝心の戦略的目的を果たせなかった事実を隠蔽した事実は揺るがない。
    188夜『中国の赤い星』エドガー・スノー|松岡正剛の千夜千冊

  • こうした観点から眺めれば、東條英機(1884年〜1948年)は「日本のヒトラー」どころか「戦争を食い止めるか(適切なタイミングでの停戦を含む)まともな戦争を遂行する独裁者とならん事を期待して選ばれたが、それに失敗し続けた小物」だった事になる。戦争開始責任はむしろ独自の信念に従って満州事変を引き起こした石原莞爾などにあったが、無論無能ゆえに「日本精神の真骨頂とは忠君愛国(思考停止)である」と繰り返し、ゴールも想定出来ないままダラダラと戦争を継続する事しか出来なかったこの人物もまた到底「無罪」ではなかった。
    *遺書一つとってみてもGHQに対して平然と「日米開戦の真因はペリー提督来航まで遡る」と言ってのけた石原莞爾の凄味がない。その石原莞爾東條英機について「そもそも思想的対立など有り得なかった。なぜなら彼にはそもそも思想などなかったのだから」と述べている。
    東条英機の遺書

  • 太平洋戦争(1941年〜1948年)で日本を破り、これを占領下に置いたアメリカ。日本の問題点は「封建制残滓」にあったと考え「女性への参政権の付与(1945年)」「(少数精鋭主義に基づく政治的エリート育成を廃止する)学制改革(1946年)」「(「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の温床となってきた地主層解体を目論む)農地改革(1947年)」「民主主義精神の徹底注入(1945年〜1952年)」などを断行。
    農地改革 - Wikipedia

    *それでは本当に「日帝残滓」は払拭されたのか。日本企業のアジアへの「再進出」が本格化した1950年代後半から1960年代初頭にかけてスポンサーの意向を受けて「豹の眼(映画化1956年、テレビ版1959年〜1960年)」「快傑ハリマオ(テレビ版1960年〜1961年)」「アラーの使者(テレビ版1960年)」が放映される。司馬遼太郎は「戦後、軍は完全解体を経て戦前体制を払拭したが、官はそうではなかった」と述べたが、「大陸浪人ロマン主義」もまたむしろ財界に継承されたと見てとるべきなのかもしれない。そしてその気風は第日本帝國から独立した国々の企業や軍隊にも継承される展開に(ただ台湾軍の場合、第二次世界大戦下における第日本帝国軍の島嶼防衛戦術が、当時最新の先例だった事が大きいらしい。かくして台湾の沿岸は硫黄島や沖縄での戦いを見習って地下壕だらけに)。

    豹の眼

    快傑ハリマオ

時代精神Zeitgeist)的な観点からは、二つの時代にまたがった展開となります。

http://cdn.quotesgram.com/img/97/86/1001023298-Zeitgeist_Movement_Chess_Piece_by_jjames_co.jpg

  • 領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」から欧州や日本が不完全な形で脱却していく時代(中世末期〜近世)。

    http://de.academic.ru/pictures/dewiki/66/Breitenburg_Schloss.jpg

  • 総力戦体制論(第一次世界大戦(1914年〜1918年)終了〜1970年代)の時代。
    *欧州においてはその開始時点においてやっと「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」からの完全脱却、すなわちロシア革命(1917年)、ドイツ革命(1918年〜1919年)、ハプスブルグ帝国とオスマン帝国の解体などが達成された。

こうした時代的特異性をちゃんと見定めれば、自然に「日本は再度困窮しても、再び軍国化して大陸に軍事進出する恐れはない」という結論に到達するはずなんです。

国際的には以下を結びつけて一つの時代区分と考える仮説も存在する(総力戦体制論)。

  • 欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実…日本の戦国時代でいうと「小氷河期到来に伴う全国規模での略奪合戦の激化」。

  • この時期における「万国の労働者が国境を越えて連帯しようとする世界革命志向と各国も成立した労働者主導主導型政権が政府の力で市場を制御下に置こうとする国家主義志向の衝突」…日本の戦国時代でいうと一向衆などの惣村土一揆の全国ネットワークと各地国人一揆の対立と共働。

  • 世界恐慌発生に伴って1930年代に進んだブロック経済化」…日本の戦国時代でいうとスケールメリットを追求する小田原北条家の様な新世代戦国武将の台頭と楽市楽座による御用商人選定過程。

  • 「冷戦発生に伴う世界の二分化」…日本の戦国時代でいうと織田信長包囲網の構築と挫折。

そしてこの仮説では現在を「既にその軛から脱しているが、次に目指すべき体制が見つかってない過渡期」と考える。

これ実は「Enjoy Korea(2002年〜2009年)」といった日韓掲示板において「貧しさと文化的貧困から終始大陸侵略のみを考えてきた先天的ナチス民族たる日本人は、そのまま存続を許しておいてはあまりにも危険なので、我々から略奪されても強姦されても虐殺されても罪滅ぼしが出来た歓喜の中で死んでいくべき」なんて基本的価値観を共有する韓国側論客に対して行われた断片的反論の寄せ集めが母体となっていたりします。

Enjoy Koreaは単なる単純なプロパガンダ合戦の場だっただけではなく、そういう感情からそれなりに離れた真の日韓交流もあって、そこでは「それでは日本人が本当に反省すべきポイントは何処? 勝てない戦争に自滅的に突入していったんだから、間違ってた事は間違ってたんでしょ?(韓国人はその巻き添えとされた事までは許してないよ)」みたいな冷静極まる議論もあったのです。
*まぁ割と安倍晋三著「美しい国へ(2006年)」における「戦前の悲劇は軍部の暴走によって起こった訳ではない。政治家と財界人が国の経営に失敗し、これを投げ出した事から始まったのだ」という主張を落とし所にする展開となったのは事実として認めざるを得ないが。

そして、こうした観点から改めて眺めると(総力戦体制時代の終焉に対応した)「長い1960年代(1958年〜1974年)」について、既成概念と随分違った景色が浮かび上がってくるとも。

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実は、遅まきながら東浩紀編纂「ゲンロン4」を読んだ感想文でもあったりして…