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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史⑥ 駄菓子ノリこそ「食文化におけるOver Drive感」?

何か神山健治監督映画「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜(2017年)」の感想投稿で「Over Drive感に欠ける」を連呼してしまいました。

そもそも「Over Drive感」って、一体何でしょう?

判定基準としては、例えば「距離のパトス(Pathos der Distanz)」理念を基準をに「スノビズム」や「エキゾチシズム」の展開を見ればよさそうです。

ニーチェの用語。彼によれば人間類型は,強さと弱さ,偉大と卑小,高貴と低劣などに応じて2分されるが,前者が後者に身を引下げるのではなく,あくまでも後者に距離をおき,わが身を保持しようとするパトスのこと。人類の向上もこれによってのみ期すことができるとされ,したがって同情をきびしく退ける貴族主義的思想が展開されることになる。
*日本には「関東風VS関西風」とか「御当地グルメ対決」みたいな「水平方向のパトス」と「太平天下が続いた江戸時代、(軍事訓練を兼ねた)狩猟から遠ざかった大名達がせめて野趣を味わおうと焼き目の入った雉焼きを好んだ」「この精神を(肉食を封じられた)精進料理の世界が取り込む形で「雉焼き豆腐」や「しぎ焼き」が誕生した」みたいな「垂直方向(?)のパトス」が複合したさらに複雑な展開が存在する。

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一般的には貴族の真似事をする…貴族趣味の俗物根性の事を指す。「知識・教養をひけらかす見栄張りの気取り屋」「上位の者に取り入り、下の者を見下す嫌味な人物」。

俗物根性。社会的地位や財産などのステータスを崇拝し、教養があるように上品ぶって振る舞おうとする態度。学問や知識を鼻にかける気取る態度。また、流行を追いかけること。

「他人との差別化、差異化だけを意識した教養主義、貴族趣味の態度」というのが現代でよく見られる消費社会的スノビズム
*だが、これだけ一方的に罵られてるにも関わらず、フランスにおける「シック(Chic)」の概念は「王当諸派ブルジョワ階層の何らかの形での合意によって成立した」としか思えない。日本におけるそれが「(伝統主義者で復古主義者の)白足袋族と(第一次世界大戦特需が産んだ新興成金階層たる)黒足袋族の何らかの形での合意」によって成立したとしか思えない様に。

*そもそも「日本最大の古都」京都は、その成立史からして謎めいている。

異国情趣。異国情緒。遠い未知の国にあこがれ,異国の風物,情趣の表現に基調を置き,文学的・芸術的効果を上げようとする傾向。ヨーロッパでは植民地政策による大航海時代から顕著となった。

反動として逆に異国情趣を蔑もうとするエスノセントリズム(ethnocentrism)を生み出したりもする。

エスノセントリズム - Wikipedia

社会進化論者ウィリアム・サムナー (William Graham Sumner) の造語で、自分の育ってきたエスニック集団(族群)、民族、人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想のこと。自民族中心主義、自文化中心主義とも呼ばれる。

*でも日本の三味線の様に「当初は異国情緒溢れる楽器としてもてはやされたのに、気づいたら伝統文化の一部になってた」ケースもあるので要注意。

この評価軸そのものが現実に引き摺られてズルズルと変動していく感じ…日本語で一言で表すなら「駄菓子ノリ」?

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元祖ヨーグルは、昭和36年(1961年)に大阪のサンヨー製菓株式会社が発売した『モロッコ・ヨーグル』だ。なんで「モロッコ」なのかというと、ヨーグルト→地中海→モロッコと先代の社長がイメージしたことによるらしい。

で、この「模倣が全然成功してない」 違和感こそが独特のOver Drive感に結びついていく訳です。「常識の範囲内に止まって無難に振舞ってる限り、決して到達出来ない境地」と言い換えても構わないかもしれません。

【速報】リビア市街戦の中でギター引きながら歩くギターヒーロー 隣でガトリングぶっぱなしててワロタ 戦争の夜へようこそ!!

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食文化におけるOver Drive感は、ここまで派手では ありません。ただ、じわじわと既存価値観を侵食していく事だけは確かな様です。

ソーライス - Wikipedia

ソーライスとは「ソース・ライス」の略で、ウスターソースを米飯にかけた食べ物のことである。「ソーライ」とも呼ぶ。

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  • 上村行世「史料が語る戦前・戦中・戦後学生の食料事情」 によれば大阪において太平洋戦争の前中後に学生によく食べられた。

  • 発祥は梅田阪急百貨店(1929年(昭和4年)開業)の大食堂。同食堂の人気メニューはライスカレーだった。
    小菅桂子「カレーライスの誕生」p172-175によれば阪急百貨店開業当時1929年(昭和4年)のライスカレーの値段は25銭、1935年(昭和10年)の拡張工事後には、20銭に値段が下げられた。

  • 客はこれにウスターソースをたっぷり掛けて食べるのが常だった。ところが昭和恐慌(1927年)のあおりで、ライスカレーではなく、ライス(5銭)だけを注文してテーブル据え付けのウスターソースを掛けて食べる客が増えた事が百貨店内部で問題視され、上層部がそういった客を締め出す目的でライスのみの注文禁止を決定、他店舗もこれに賛同し、徹底させる事態となった。しかし阪急社長の小林一三は、逆にこれを歓迎する姿勢を打ち出し「ライスだけのお客様を歓迎します」という貼り紙まで出させた。

  • 従業員の中にはこれに疑問を持つ者や店の売り上げを無視した姿勢に反発する者も少なくなかったが、小林は「確かに彼らは今は貧乏だ。しかしやがて結婚して子どもを産む。そのときここで楽しく食事をしたことを思い出し、家族を連れてまた来てくれるだろう」と言って諭したという(『その時歴史が動いた〈7〉』NHK取材班)」。こうして「ソーライス」は阪急百貨店大食堂の堂々たる「裏メニュー」となり、広く知られた。

  • 後年、関西の財界人のあいだでは「阪急食堂でよくソーライ食ったな!」というのが共通の昔話となったという(小菅桂子『にっぽん洋食物語大全』p232-233)。余談だが、後に景気が持ち直し、ソーライスで飢えを凌いだ人達は敢えてソーライスを注文し、当時の御礼の意味も込めて、わざと高い追加代金を食器や食券の下にそっと置いていくという事態が後を絶たず、逆の意味で従業員が悲鳴を上げる事になったという。

花森安治は、小林の「タネから客を作って育てる仕事」の一例として以下のように書いている。

…阪急百貨店が開店した直後、昭和5年、昭和6年は、浜口内閣の緊縮政策で、日本は不景気のどん底にたたきこまれていた。(中略)下級サラリーマンは、昼飯代にも事欠くありさまだったが、(中略)目をつけたのが、デパートの食堂のライスである。あれは五銭で、しかも傍に福神漬など、ちょっとついている。ソースでもぶっかけてくえば、(中略)腹の虫も満足する。というわけで、ビル街の昼飯どきはデパートの食堂で、この「ライスだけ」というのが大いに流行した。音をあげたのは、百貨店のほうである。(中略)ある日のこと、(中略)「ライスだけのご注文はご遠慮くださいマセ」といった貼り紙が出ていたのである。(中略)すると、翌日の新聞に、阪急百貨店の広告が、どかんと出た。「当店はライスだけのお客さまを、喜んで歓迎いたします。」小林一三は、その当座、昼飯時には、必ず食堂にいた。そして、ライスだけのお客には、とくに指示して、福神漬をたっぷりつけ、客席をまわって、そういう客には、じつにあったかい笑顔で、いちいち頭を下げてまわった
花森安治一銭五厘の旗』p202 (記事は元々「暮しの手帖」77号 昭和39年12月 に掲載されたもの。また引用書のタイトル・文中の「銭」の字は「かねへん」を欠く異体字である。また花森の文中にある「浜口内閣」は1929年7月から1931年4月。また花森の記述通りなら57 - 8歳ごろの社長小林一三が食堂に出向いてソーライスを所望する客に頭を下げて回っていたことになる。なお、花森の文には「ソーライス」と書かれた箇所はない。

現代日本では、こんな料理にも独自アレンジが加えられている。

Over Drive感」あるいは「駄菓子ノリ」は、以下の料理でさらに顕著に。

お好み焼きの成立史

安土桃山時代千利休が作らせていた「麩の焼き」あるいは「麩焼き(ふやき)」を原型として、江戸末期までに「助惣焼」を経て「もんじゃ焼き」へと発展し「どんどん焼き」や「お好み焼き」が成立した。

安土桃山時代における「麩の焼き」あるいは「麩焼き(ふやき)」

小麦粉を主体とした和菓子で、それを水で溶いて薄く焼き、芥子の実などを入れ、山椒味噌や砂糖を塗った生地を巻物状に巻いて成形する。巻いた形が巻物経典を彷彿とさせることから、仏事用の菓子として使われた。「秋の膳」の和菓子であり、茶会の茶菓子として安土桃山時代千利休が作らせており利休の茶会記『利休百会記』にもたびたびその名が見える。

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その実体は「フラワー・トルティーヤ(小麦粉でつくるトルティーヤ)」に近いとも。

江戸時代における「助惣焼(すけそうやき)」

麩の焼き」あるいは「麩焼き(ふやき)」が江戸に伝わり、江戸末期から明治にかけて味噌の代わりに餡を巻く様になったもの。「甘酒発祥の地」東京麹町で生まれたとも。生まれ1819年刊の『北斎漫画』に「文字焼き屋」の挿絵があっておそらく密接な関係があったと類推されており「(焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばていたとされる事の多い)もんじゃ焼き」の起源の一つに数えられている。

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これも割と実態としては「フラワー・トルティーヤ(小麦粉でつくるトルティーヤ)」に近い形態とも。

江戸時代末期から明治時代にかけての「もんじゃ焼き

明治時代日本における東京と大阪での「助惣焼」大流行を背景に成立したグラタン料理の一種。小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴。鉄板にコテで押さえつけて焼きながら食べるので、鉄板に接する外部は食感がパリッとしているが、押さえつけが足りない部分などはトロッとしている。現在は、東京の下町と埼玉県南部・東部、群馬県東部と栃木県南部に店が多い。
*「お焦げ」を楽しむグラタン文化の流入こそ、Over Drive感の端緒?

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  • 1819年刊の『北斎漫画』に「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代既に江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったことが分かっている。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、「もんじ焼き」これが「もんじゃ焼き」となったとする起源説がある。また豪商の子息で大酒飲みの「門次郎」と呼ばれる男に由来する説もある。いずれにせよ過去に盛んであった隅田川の物流、近代開通した地域の大動脈たる東武伊勢崎線沿線、旧奥州街道たる国道4号沿線などが交叉する東京都台東区浅草近辺を基点として関東各地に伝播したと言われている。
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  • 群馬は「発祥地は群馬であり特産品のうどんを作った際の余りのうどん粉を水で溶いて焼いたのが起源」とする。東京の浅草を基点とする東武伊勢崎線により、途中埼玉に伝播しつつ、群馬に伝わったともされるが、伊勢崎市ではこどもがおやつ代わりにうどんの打ち粉を水で溶き、醤油を加えて鉄板で焼いたものが「伊勢崎のもんじゃ焼き」のルーツとされる。その当時は貧しい家が多くソースが家庭に無かったため、醤油以外にかき氷に使われるイチゴシロップやカレー粉を入れることがあり、それが現在も隠し味としてイチゴシロップを入れた「あま」、カレー粉を入れた「から」、両方を入れた「あまから」として存在する。実際、群馬のもんじゃ焼きはキャベツ以外の具の量が少なく、焦がして食べる事もあまりなく独自発展した料理である可能性が高い。
    *いちごシロップにカレー粉!!

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  • また東京・下町の駄菓子屋には、昭和初期(1926年〜1936年)から昭和40年代(1965年〜1975年)頃まで大抵、もんじゃ焼きの鉄板があった。昭和20年代(1945年〜1955年)は物資が欠乏していたため、単にうどん粉を水で溶き、味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代(1955年〜1965年)も中頃をすぎると、キャベツはもちろん、切りイカなど具の種類も増えていく。この様にもんじゃ焼きは元来、下町を中心とした子供達に親しまれていたが、近年は食文化の変化、駄菓子屋の減少から子供達に食べられなくなってしまった。

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近年のもんじゃ焼きは東京下町の伝統的な食べ物として全国的に認知されるようになった反面、その客層が観光客やサラリーマンなどに代わり、酒のお供として食されるようになった。駄菓子屋自体が激減している昨今ではあるが、相変わらず現存する駄菓子屋もんじゃもあり、1杯あたり80円 - 300円といった昔ながらの価格で提供されている。店によりけりではあるが、価格差は量の違いであり、種類は上記昭和30年代(1955年〜1965年)のタイプの1種類というのが基本である。

昭和時代の「どんどん焼き

もんじゃ焼きが変化したもので、その呼称は同商品を売る屋台が「どんどん」と太鼓を鳴らしていたことから、あるいは、作るそばから「どんどん」売れたことから名付けられたとされる。円形で供されるものとして岩手県の「薄焼き」「どんどん焼き」があり、半月形で供されるものとして宮城県仙台市の「どんどん焼き」「お好み焼き」、富山県東部の「どんどん焼き」がある。割り箸に巻きつけて供されるものとして、山形県内陸部の「どんどん焼き」、宮城県仙台市の「くるくるお好み焼き」がある。なお、大阪府以西の「はしまき」も材料や割り箸に巻くなど類似点がある。うえやまとちの漫画『クッキングパパ』第11巻の「巻いて巻いてお好みバー」では、「お好みバー」との名称で「はしまき」が登場した。また、菓道(茨城県)が、どんどん焼きという名称の駄菓子の商品を販売している。
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  • 東京のどんどん焼き…昭和6年(1931年)頃、東京の屋台や縁日で「どんどん焼き」が評判になり、その後昭和前期頃までは東京・下町界隈などでもよく見られた。作家・池波正太郎は少年時代に東京浅草在住で、どんどん焼きを実際に多く食べ、その思い出や商品内容を多くの著作に書いている。それら著作によると、当時の商品内容は現在の関西風お好み焼きに近い物や焼きそば等の他、食パンを三角形に切ったものへ卵を入れて溶いた小麦粉を塗って焼きウスターソースをかけた「パンカツ」、溶いた小麦粉を小判形にのばした上に牛・豚の生肉薄切りをのせて再度小麦粉を振り乾かないうちにパン粉をかけて両面を焼いた「カツレツ」、溶いた小麦粉を細長く伸ばして豆餅と餡をのせて巻き込んで焼き黒蜜をかける「おしる粉」など、今では余り見られなくなったメニューも多く存在したという。また子供のオヤツとしてだけでなく、酒の肴や惣菜として大人も買っていく事が多かったとの事である。池波は自身で店番を買って出たりオリジナルメニューを考案するなど入れあげ、「将来どんどん焼き屋になろう」と本気で考えたが、周囲の反対で実現しなかった。以降東京では廃れたが、東北地方の一部などに食文化として残っている。

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  • 山形県内陸部のどんどん焼き…東京で修行した大場亀吉が山形へ戻り、昭和13年ごろにリアカーで販売したのが始まりとされている。ソース味が一般的で、割り箸の周りに巻きつけて持ち運びやすくした所が最大の特徴である。最初はどんどん焼きを経木にのせて売っていたが、熱くて食べにくいために大場は1本の削った木の棒に巻き付けて売るようになった。しかし、後進たちにとっては技術的に難しかったため、2本の木の棒、あるいは割る前の割り箸に巻き付けるように変化したとされている。作り方は、まず小麦粉を水で溶いた生地を角の取れた長方形から楕円形に薄く伸ばして焼き、海苔・青海苔・魚肉ソーセージなどを乗せる。焼き上がったところで、1本あるいは2本の割り箸にロール状または短冊状にくるくると巻き取り、ソースなどをハケでつけて完成となる。山形市霞城公園周辺において祭りやイベントの際によく出店されるが、営業地を特定せずにバイクで屋台を牽きながら山形市内を転々と巡っている者もいる。また、七日町商店街には常設の店があったが、現在は大野目のスーパーマーケット内に移転。なお、宮城県の祭りなどへ山形風どんどん焼きを積極的に出店している店もある。最近は店舗によってチーズや餅入り、カレー味などさまざまなバリエーションのどんどん焼きが登場している。

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  • 仙台のどんどん焼き…醤油味・ネギ入りで、持ち運び易いよう半月状をしている。「どんどん焼き」のほか、「お好み焼き」と称してどんどん焼きを出す店も見られる。また、後述するように「くるくるお好み焼き」も存在する。作り方は、まず小麦粉を水で溶いた生地を「丸く」引き延ばして焼き、ネギ・天かす・干しエビ・紅しょうがなどを乗せ、それに醤油を塗って半分に折って出来上がりとなる。かつて、一銭店屋で提供されていた時は、各自で焼いて食べていた。また屋台や駄菓子屋で売られていた頃は、新聞紙や藁半紙などに挟んで手渡されていたが、現在の祭りやイベントの出店では、焼きそばと同様にビニールパックに入れ、割り箸を付けて手渡されることが多い。お好み焼き専門店では、お好み焼きとは異なるものとしてメニューに加えている店がある他、国分町にはどんどん焼きを看板メニューにしている店もある。なお、店内飲食では、お好み焼きのように皿にのせて出される。

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  • くるくるお好み焼き…山形のどんどん焼きに影響を受けたと考えられる「くるくるお好み焼き」がある。作り方は、熱した鉄板上に小麦粉を水で溶いた生地(ゴマ入り)を「楕円形」に引き延ばし、紅しょうが、ふりかけ海苔、魚肉ソーセージの輪切りを並べて焼き、1本の木の棒に「ロール状」に巻きつける。これを醤油ダレが入った壺にさっとくぐらせ、もう一度焼くと出来上がりとなる。

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  • 仙台市内のたい焼き屋…餡の代わりにどんどん焼きを入れたものも売られている。

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  • 岩手県の「薄焼き」または「どんどん焼き…具が少なく、醤油味が基本であり、海苔をつけるため、食感・味は磯辺焼きに近い。ただし、ソースを選択できる店もある。作り方は仙台のものに近いが、仙台のものよりかなり具が少なく、大きな海苔を一枚上に載せることが特徴。最後に半月に折ることもあるが、一般には円形のまま供される。屋台などでは経木に載せて提供されることが多い。食材・調理法の点で、岩手で食される南部せんべいとの関連性が見られる。

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  • 富山県どんどん焼き…ソース味が一般的で、箸を用いて食べることもある。調味料には刻み昆布やサクラエビや紅ショウガを入れ、青のりなどをかけて食べることがある。生地は円形に焼き、半分に折って食べる(どんどん焼きは薄くて安いイメージがある)。県東部(東京に近い側)を中心に食べられている。関東発祥のどんどん焼きと関西発祥のお好み焼きとが、両文化の交わる富山で混同されている部分もある。

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その発展過程が「お好み焼き」と平行するのが特徴。

「一銭洋食」として始まった「お好み焼き」

おでん」同様、大正12年(1923年)の関東大震災の際に主食的位置を占めたのを普及の最初の契機とする。名前についても、当初は決まった名前はなかった。好きな具材を入れていく事で「好み焼き」と呼ばれていたが、この名称では良くないのではとなり、頭におを付けてお好み焼きになったらしい。今となっては、何が嚆矢であるか正確なところは分からないが、自然発生的に「お好み焼き」という名前が現れ、それが一般に定着して今に至っている。マヨネーズを置く店舗が増加傾向にあるが、基本的には卓上(鉄板のみの店では、鉄板脇)にある調味料は、ソースのみ。しかし、中にはコショウ(ホワイトペッパー)や一味唐辛子、七味唐辛子、ガーリック粉末を置く店舗もある。広島風では、キャベツの甘みだけで十分な旨みを賄うため、関西風と異なり生地にだし汁を混ぜたり、上に削り節を振り掛けることは少なく、卓上にも花がつおはあまり置かれない。削り節や魚粉は、生地をクレープ状に焼く際、生地の上に少量を載せるだけである。紅生姜についても、賛否両論があるが、広島県外の店舗では広島風お好み焼きにも紅生姜が載ってくる場合が多い。 

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大正末期には、既に神戸で「にくてん」が食べられていた。これは生地の上に様々な具を載せて焼き上げたものであり、現在のお好み焼きはこの延長線上にあるとも。

  • モダン焼き」あるいは「そばのせ」…関西風お好み焼きの一種で、具材に茹でた(あるいは蒸した)中華麺を、まだ片面しか焼かれていないお好み焼きの上に重ね、焼いたものである。一枚でお好み焼きと焼きそばを同時に賞味できるという、関西的な合理的発想が根底にあり、根強い人気がある。中華麺の代わりにうどんを用いる場合もあり、「うどんモダン」や「うどんのせ」と呼ばれる。また、店によっては、お好み焼きの生地に卵を加えない場合もある。ボリューム感あふれる外見と、それに違わない食感が特徴である。神戸・明石周辺では、焼きそばを生地とのつなぎにしたものが「モダン焼き」と言われている。薄く焼いた生地の上にそばを乗せ、その上から生地をかけてひっくり返して焼く。見た目は広島風お好み焼きに似ており、発祥は、昭和25年(1950年)に『志ば多』(神戸市)で考案されたという説が有力である。当初はそばではなく、うどんを使っていた。入れる具材によってバリエーションも少なからずあるが、卵を上面にのせ焼いたものを特に「月見モダン」と称す。モダン焼きや広島風お好み焼きに似ているものとして「にくてん」もあり、こちらは大正時代にはあったと言われている。 また、神戸ではお好み焼きの切り方にも特徴があり、ホールケーキやピザ同様に、三角状に均等になるよう切り分けて食べていた。

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大正から昭和にかけては1930年代の洋食ブームを典型例とする形でウスターソースを使用する「もんじゃ焼き」や「洋食焼き」「一銭洋食」が食料不足を補う方法としてもてはやされた。これは水で溶いた小麦粉を鉄板に円状に広げ生地を焼き、その上にネギや天かすなどを載せて作る「のせ焼き」が主流であり、子供のおやつのようなものであった。現在も、祭など、屋台で提供されている事が多い。ここからコンニャクや豆といった具を入れ、醤油で味付けして食べる「ベタ焼」「チョボ焼」が派生し、それが各種鉄板料理へと派生していったと考えられている。関西では「混ぜ焼き」を特徴としており、これを「関西風お好み焼き」とも呼ぶ。

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昭和30年(1955年)前後までの関西下町では、町内に一軒位の割合でお好み焼き屋があり、庶民の親しまれる日常の食べ物であった。「お好み」と略して呼ばれる事もある。夫婦で自家営業する形態が一般的だが、戦争などで夫に先立たれたり、水商売を引退した女性などがひとりで経営する店も多く見られた。戦後はさらに店の数も増え、大阪市内においては町内に四軒五軒と、あげくは向かい合ってお好み焼き屋が乱立するほどであった。お好み焼き屋が多い事から、家庭でお好み焼きを作るという習慣はなく、主に近所のお好み焼き屋で出来あがったもの持ち帰り、家庭で食べるというスタイルが主流。店で焼いてもらったものを家庭で食べるという形が定着していたため、お好み焼きの出前も活発に行われるようにもなった。昭和50年(1975年)頃からは、多種多様な料理を外食するというスタイルが世間で増えだしたこともあり、お好み焼きも店で食べるという事が定着し始めた。また、関西のお好み焼き屋では、焼きそばや焼きうどんなども昔からメニューとして提供されている。店の看板などにおいても、「お好み焼き・焼きそば屋」と言った記述が多く見られる。この当時から、文字通りお客のお好みで肉や野菜、季節の魚介類を具として加え、焼くといった、現在にも通じるスタイルでお好み焼きが提供されていた。近年では、ステーキや魚介類を中心とした鉄板焼き店に業態を変えた店もあり、かつてのように外食や出前でしか食べられなかったお好み焼きも、家庭で一般的に作られる様になり、今や家庭料理上位に入るメニューに。

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  • 具材…キャベツや鶏卵がいつころから定番の食材になったかについてははっきりしたことは分かっていない。キャベツそのものは冬性の季節性野菜であったが明治37年(1904年)頃から普及しており決して高価な食材ではなかった。高級レストランでは生食されていたが一般的ではなく、家庭では油いためにしたり汁物の具材などに利用されていた。昭和30年(1955年)頃にはソース焼きそばの具材としてすでに定番であって、お好み焼きにもこの頃には定番化されていたと見られる。鶏卵については大規模養鶏が導入されたのは昭和30年代(1955年〜1965年)であり戦後しばらくは高級食材であった。

  • ソース…ツヤと粘度があり、各種野菜やナツメヤシ等を原材料とした、甘みと辛味の加減が程良いソースが用いられる。1990年代までには粘度の低いウスターソース(中濃ソース・濃厚ソースなどを含むウスターソース類の総称ではなく、狭義のウスターソース。以下同じ)が使われていた。 今日では神戸市のオリバーソース、大阪市イカリソース(現在はブルドックソースの子会社)、名古屋市カゴメ広島市オタフクソースなど多くのメーカーからお好み焼き専用に調整されたソースが発売されている。特に関西においては、街のどこのスーパーでも、お好み焼き専用ソースとして十数種類陳列されているほどで、個々人のソースへのこだわりの深さを感じさせられる。また、とんかつソースに代表されるように、関西では辛口のソースが最も多くお好み焼きに用いられている。関西以外の各地にも独特の「地ソース」が存在しており、その地域の味として利用される事がある。お好み焼き専門店では、これら既製品のみならず、ウスターソース、とんかつソース、辛口のどろソースなど、各種ソースをブレンドした独自のソースを使用することも多い。

  • マヨネーズ…昭和50年(1975年)頃からマヨネーズが使われるようになった。 更に、同じ関西でも大阪と神戸ではマヨネーズに対する嗜好に違いがある。現在の大阪では、どの店でもマヨネーズがかけられて提供されるのに対し、神戸ではマヨネーズを置かない店も少なからず存在する。また、置いていても注文をしないと出てこない店も少なくない。全国的に、関西風のお好み焼きを提供する店では、基本的にマヨネーズが使用される。また、店によっては溶きがらしを少量加えることもある。お好み焼きの表面に、ソースとマヨネーズを同時に混ぜあわせながら塗る(この時、マスタードを少量混ぜ合わせる店もある)のが従来のマヨネーズの塗り方であり、古くから営まれているお好み焼き屋のほとんどが、この方法で提供している。一方、新しいスタイルの店では、ソースがあらかじめ塗られたお好み焼きの上に、細いノズルのついた容器でマヨネーズを噴射して模様やデザインを描いたり、パフォーマンスとして離れた位置からかけたりする所もある。

  • サービススタイル…関西風お好み焼き屋では、焼き始めから最後の青海苔や削り節等のトッピングまで全ての調理工程を店が行うスタイルが最も一般的である。昭和55年頃から全国にお好み焼き屋が広まっていくが、関西の店が焼くスタイルとは逆に客が焼くといった形態が地方では多く見られるようになった。関西でもごく一部のチェーン店でのみ、オーダーごとに生の具材と生地を客に提供し、客が自分で調理し焼き上げる「半セルフサービス」の店がある。店側は食材を用意するだけで良く、効率が求められるチェーン店等でこのスタイルが確立されていった。関西以外の地方で「半セルフサービス」が先に広まった理由として、店員の調理技術がほとんど必要なく容易に開業できるという発想が根底にあったと考えられる。なお、関東一円でも、この半セルフサービスの店は顕著に見られる。このスタイルは、ホットプレートなどの普及で家庭でも広く一般化したこと、高度な調理技術を必要とせず自由に焼き具合や調味加減ができる面白さも手伝って、カップルや学生、団体客などに受けている。地方から関西のお好み焼き屋に来て初めて、店が最後まで焼くスタイルが関西の標準である事を知り、驚く人も少なくない。ただし、現在では関西以外の地方においても、店が焼き上げまで行い最後のトッピングのみ客に任せるスタイルも珍しくはなくなった。またお好み焼きを、米飯のおかずとする人が多いのが関西の特徴である。また、関西のお好み焼き屋、定食屋には米飯を添える「お好み焼き定食」を出す店舗が存在する。関西地方では、コテ(方言でテコとも言う)でお好み焼きを好みの大きさに少しずつ切り、直接コテに載せて食べる。それ以外の地方では、お好み焼きを切り分けて皿に取り、箸を使って食べる事が多い。

広島でも終戦後「一銭洋食」は流行し、それを元に、ねぎをキャベツに置き換えたり、「もやし」や「そば」などの具材追加で、乗せ焼きが特徴の広島風お好み焼きが誕生した。その焼き方は、昔から今まで一貫して生地と具材を混ぜずに焼く「重ね焼き」である。現在のような広島風お好み焼きの完成形が突然出来たわけではなく、当初は屋台営業の為、他店のレシピや調理技術が盗み易く、各店が互いに影響を与えあいながら現在の形へと進化していった。小麦粉を水で溶いたものを薄く伸ばして焼いた生地の上に野菜や肉といった具を重ねてひっくり返し、生地でふたをして「蒸し焼き」にするのが特徴。具と小麦粉で出来た生地を混ぜて作る関西風の「混ぜ焼き」との大きな違いとなっている。

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  • 戦争で食料が不足した戦後に、少量の小麦粉と野菜を多く使用して作られるようになり、お好み焼きと称されたのが始まりであるが、戦前に子供のおやつだった「一銭洋食」が元の形になっている。近年では「ご当地グルメの代表格」ともいわれ2006年現在、広島市だけで800軒以上(1992年中国新聞調べからの推定)、広島県内には1,700軒以上あるといわれる(総務省統計局、平成21年経済センサスより)。店舗数では全国3位、人口10,000人あたりの店舗数では全国トップといわれる。1950年頃に発生した屋台街(後にお好み村になる)で開業した、みっちゃんの井畝井三男と善さんの中村善二郎が広島風お好み焼きの元祖とも。その他、初期のお好み焼きの屋台の流れをくむ店は「麗ちゃん」「へんくつや」などがある。1950年当時のお好み焼きはまだまだねぎ焼きに近い物であった。戦争や原爆で夫を亡くし、自宅の土間を改造して店を始めた女性も多く「〇〇ちゃん」という屋号が多いのはその名残りである。また、1963年に中国地方を襲った昭和38年1月豪雪で、中国山地の農村から一家で離村し、高度経済成長期の広島市に移住した農家の主婦が住宅地に開業した例も多い。現在も町の小さなお店に、老婦人が一人で焼く店舗が残るのは、こうした理由もある。昭和40年代(1965年〜1975年)頃までは、家から卵や肉をお店に持っていって入れてもらう事が出来た。現在は肉や卵 (合わせて肉玉と呼ぶ) は当たり前に手に入ることが多いが、昔は野菜とそばだけ、あるいは野菜だけといったことも珍しくはなく、この頃の野菜だけで作られたお好み焼きの値段は250円程度だった。また、プラスチック製や発泡スチロール製のトレーが普及していなかったため、お店で食べない場合は、各家庭から平らな皿を持っていき、それに出来たお好み焼きをのせてもらったり、新聞紙にくるんで持ち帰っていた。もう少し時代が下ると、ラップで包んで持ち帰っていた。

  • 具材…当初は肉が入っていない野菜の重ね焼きで、二つ折りにして新聞紙にくるんで提供されていた。キャベツや揚げ玉などが入れられていたが、この頃はまだ、そば等の麺は入れられていなかった。このクレープのような生地に、焼きそばやうどんと卵焼きを二つ折りにして挟むというスタイルは現在でも呉地方を中心に残っており「呉焼き」とも呼ばれている。円盤状のものに比べて場所をとらないため、スーパーマーケットやコンビニエンスストアの惣菜のひとつとしてもよく売られており、またやり方によっては片手で食べることも可能になるので、祭りなどの露店ではこのスタイルで売られることもある。戦後の食料事情により、季節により供給量が左右されるネギを、単価が安く年間通して手に入りやすいキャベツに変えた(もやしは後年入れられる事になる)。昭和30年代になると、そば(中華めん)やうどんを入れるようになる。これは、その頃発売されたインスタントラーメンの影響ともいわれている。当時は米はまだ貴重な時代だった。こうして当初はおやつ程度の物だったものが、主食へと変化していく。具材が多くなったため、二つ折りにしにくくなり、円盤状のままで出すようになった。こうして、1955年頃には現在の広島風お好み焼きになった。

  • ソース…最初の頃はウスターソースを使っていた。多くなった具に対応するために、そばを焼そばのようにソースで味付け、さらに表面にも塗っていた時期もあった。しかし、さらさらのウスターソースではお好み焼にしみ込んでしまう欠点があり、ウスターソースに片栗粉を入れてとろみのあるソースを作って欲しいというオーダーにソースメーカーが応えて、濃厚なソースを使うようになる。その後、広島風お好み焼きの生地や具材に合うように甘味や酸味を持たせたり、液体のソース製造時の沈殿液を使うなどの改良がなされた。こうして誕生したお好み焼き用の濃厚ソースを「お好みソース」と呼ぶようになったが、小さな工場では昔ながらの製法で作っている所もある。現在では広島のメーカーであるオタフクソースがお好み焼き専用のソースを製造し、お好み焼き店の開業を支援していることもあり、多く利用されている。味は若干甘め。それ以外には、毛利醸造カープソース(やや辛め)・サンフーズのミツワソース、センナリの広島ぢゃけん、中間醸造三原市)のテングソースなどのお好み焼きの専用ソースも使用されている。多くのお好み焼き店では単一メーカーのソースを使用しており、ソース会社では、納入先のお好み焼き店に自社の名前が入った暖簾を提供している。そのため、暖簾にあるメーカー名を見ることで、その店がどのメーカーのソースを使っているか分かることが多い。近年では幟(のぼり)を立てている店も多く、より分かりやすくなっている。なお、一部の店では複数のソースを独自にブレンドしたり、前記以外の製造会社にソースを特注したりしている。また、お好み焼きを食べるときに用いるヘラ (コテ) やお皿、ソース差しなどの道具にも、ソースのメーカー名がついていることがある。特に、多くの小規模な店舗がある広島市内では、ソース会社がお好み焼き店の開業支援をしており、「近所の主婦」が内職で自宅の一部を改装し、安価で店を開くことが出来た。広島県は日本酒の産地であり、そこから派生して酢の製造も盛んであった。先述のオタフクなど多くのソースメーカーは酢の醸造会社をルーツに持ち、今もソースと酢の両方を製造している。

  • マヨネーズ…広島では、当初お好み焼きにマヨネーズを使う習慣はなかったが、マヨネーズをかける食べ方も広がっている。お好み焼きにマヨネーズを提供している店であっても、焼き上がって客に提供された時点ではマヨネーズがかけられていないことも多い。このような店では、卓上にセルフサービス用のマヨネーズが置いてあり、客が好みに応じてマヨネーズを使えるようにしている。なお、マヨネーズを置くお好み焼き専門店であっても、店舗によっては追加料金を必要とする場合がある。このような歴史的経緯もあり、焼き上がったお好み焼きに対して、客の好みも聞かず一方的にマヨネーズをかけるような店に対しては、これを好ましく思わない人々も多い。

  • …お好み焼きに使用される麺は中華麺で、多くはお好み焼き用に製麺されたものが使用されることが多いが、焼きそば用の麺が使用されている店もある。店舗によって寸胴でゆでてから鉄板に出す「生麺」、予めゆでてある「ゆで麺」、蒸してある「蒸し麺」の3種類のうち一種類が使用される。3種類の中では生麺が比較的人気で、お好み広場やお好み村の店舗やガイドブック等に掲載されているような店舗では生麺が使用されることが多い。しかし、生麺を焼く時に使用するラードのカロリーを気にしたり、調理時間が長くかかることで、人気店でもゆで麺や蒸し麺を使っている場合もある。鉄板上での麺の調理法は大きく分けて2種類ある。八昌やみっちゃんをはじめ主な店舗の調理法は、お好み焼きの生地や野菜などの本体を焼くと同時に、その横で並行して麺を炒め、最後に本体を麺の上に重ねる方法である。最近人気のいわゆる「麺パリ」と呼ばれるパリパリした仕上がりのお好み焼きはこの方法で調理されている。麺の調理時に、塩やこしょうなどで軽く味をつけたりソースで味付けされることもある。もう一種類の麺の調理法は「三八方式」と呼ばれる方法で、麺を塩コショウなどで味付けして炒めたあと、小麦粉で薄く引いた生地の上に載せ、その上に野菜や肉等の具を載せてひっくり返す方法である。こうすると麺が野菜と一緒に蒸し焼きされ、全体に広がりのある味になる。中華麺に代わるバリエーションとしてうどんがあり、うどんは中華麺がない時などに、古くから代用されてきた。近年では蕎麦やパスタを用いる店舗もある。広島以外では、上記のような麺入りのお好み焼きを関西風の「モダン焼き」と区別する意味も込め、「広島焼き」と呼ばれることがある。これは、関西地域の祭りなどで広島のお好み焼きとは異なる厚手の生地にキャベツだけが入り小型の四角形に切り分けたのものを「広島焼き」と称して売っている屋台が多数出店し[16]、それが広島のお好み焼きなんだと勘違いされて広まった名称である。当地の広島で名付けられたわけではなく、広島では、ほぼ使われることがない呼び方である。広島において広島風のお好み焼きのことは、関西同様に「お好み焼き」あるいは「お好み」と呼んでいる。そのため、広島焼きと言っても通じないことは無いが、地元民にいい顔はされない。なお、関西風の「モダン焼き」という言葉は、店のメニューとして提供されていない限りは、通じない事が多い。ただし、広島県三原市では、旧来の麺無しをベースとして「お好み焼き」と呼び、中華麺またはうどん入りを「モダン焼き」と呼んでいる。 広島では通常、中華麺入りかうどん入りを選択して食べることが多いため、麺を入れない場合は「麺無し」とリクエストすれば良い。

  • サービススタイル…広島のお好み焼きを焼くには技術が必要であり、広島県以外にも、広島の老舗やソースメーカーで技術習得した上で出店しているお好み焼き店もある。しかし、広島風のスタイルを取り入れてはいるが独自の調理をしている店もあり、小麦粉の生地が厚すぎることがあったり、あるいは「広島風お好みピザ」に近いもの、大阪風の混ぜ焼きに中華麺を入れたもの、薄い生地に混ぜ焼きを重ねて提供している店などがある。ソースメーカーの幟やのれんがあれば、少なくともソースは広島から取り寄せているということで、広島と同じお好み焼きかどうかを判断する場合に一定の目安となる。広島のお店の注文書(メニュー)には「お好み焼き そば (うどん) 肉 玉子」という風に書いてあることもあるが、これを「肉玉そば (うどん) 入り」「そば (うどん) 肉玉」、などと注文する。デフォルトである肉玉そば(うどん)にお好みでトッピングを付加したり、そば(うどん)抜きなどとすることも可能である。おすすめや人気のトッピングの組み合わせは「餅チーズ・肉玉そば(うどん)入り」などとメニューに併記したり、「スペシャル焼き」「○○ちゃん焼き」などと店舗独自の名前を付けていることもある。そば (うどん) の下に「W」と書いてあることがあるが、これはそば(うどん)を2玉使う「ダブル」という意味である。 「ちゃんぽん」または「ミックス」いう言葉が使われている地域もあり、そばとうどんを半玉ずつ使用することを意味している。またミックスダブル等の呼び名もありこれはそばとうどんを1玉ずつ使うことを意味している。多くの店舗ではテイクアウトも可能であり、店舗によっては出前や電話予約などを行っていることもある。近年では海外からの観光客のため英文のメニューを用意している店舗もある。また典型的な広島風お好み焼きの店は、真ん中に大きな鉄板を擁するテーブルがあり、その周辺にいくつか小さめのテーブルが配置されていることが多い。客はお好み焼きを作る大きな鉄板の周りに座り、焼かれたお好み焼きを鉄板の上から直接小型のヘラを使って食べるのが基本である。しかし、このような大きな鉄板のあるテーブルは店に一つしかないことが多く、鉄板で同時に食べられる人数には限界がある。そのため、店の中には鉄板のない小さいテーブルも配置されており、鉄板で食べない場合はお好み焼きを皿にのせてもらい、箸で食べる。歴史的には、昔からある広島のお好み焼き店は自宅を改装したようなところも多く、規模が小さい店が多かった。鉄板の周りにしか席がないような狭い店では、必然的に客は鉄板の上で食べるしかなかった。食べている間に冷めるのを防ぎ、最後まで焼きたての味を楽しむため、また、屋台発祥の店では、皿をわざわざ洗うための水を節約するために客に鉄板で食べさせ洗い物をなくすという理由や、物が豊かではない時代に割り箸の消費量を減らすという理由もあり、ヘラで食べるようにしたところ、これが功を奏し慣習となったとされている。近年では大きめの店が増えテーブル席が増えたことや、ヘラで食べるのは多少慣れが必要で観光客や女性には扱いが難しいこともあり、皿で出す店や出す前に皿か鉄板を聞く店も多くなった。鉄板で出す場合も小皿や箸を用意し、卓上のソース等をお好みで自由に使えるようになっている店舗が多い。

  • 地域差…同じ広島県内であっても、地域によって色々なバリエーションがある。これらは定番というものではなく、お好み焼きのメニューの一つとして提供されるものである。  特に近年「ひろしまフードフェスティバル」で「てっぱんグランプリ」を開催して競う傾向にあるため、年々進化しつつある。ちなみに2014年の「第5回てっぱんグランプリ」に出展された地域の産物を使用した最新のご当地お好み焼きは三原市「三原焼き(三原で人気の鳥モツ入り)」、世羅町「せらの恵み焼き(トマト、大葉、チーズ入り)」、神石高原町「神石高原焼き(神石牛、こんにゃく麺入り、トマトソース)」、三次市「三次唐麺焼き(ピリからの赤い色麺「唐麺」とカープソースを使用)」、呉市「呉焼き(細うどんを使用し卵でとじて半月状に折る)」、広島市「広島生めんお好み焼き(茹でて焼きパリっとさせたお好み焼き用の麺とチーズ入り)」、尾道市尾道焼き(砂ずり、いか天、わけぎ入りで、尾道オリジナルソース使用)」、廿日市市「はつかいち牡蠣盛焼(廿日市産の牡蠣と大葉入り)」。ただし、これがご当地の定番ということではなく、ご当地焼きの特徴を生かして考えられた最新のバリエーションと考えるべきである。

  • 福山市など岡山県境に近い広島県東部(備後地域)…近畿圏にも近いことから関西風のお好み焼き店が多い。備後地域では関西風のお好み焼きがもともと主流であったところに、後から広島風のお好み焼きが浸透していった。なお、この地域ではお店によって変わった具を入れる所がある。 府中市では、豚バラ肉の代わりにミンチ肉や細切れ肉を入れ「府中焼き」と呼ぶ。地場産業の家具・桐箱製造業で働く母親が多く、お好み焼きは子どものおやつや晩ご飯だったため、子どもがお小遣いで食べられるようにと、バラ肉ではなく安い合い挽き肉を使ったのが始まりである。ミンチ肉は細かいため熱を通すとよくダシが出てうま味が増し、脂も多く出て麺がカリッと焼き上がるのが特徴。また、卵も溶き卵にしたものをソースを塗ったお好み焼きの上からかけて仕上げる方法も存在する。狭い鉄板でたくさん焼けるようにという工夫から、形は楕円形をしている。 尾道市では砂ズリ(砂肝)を入れる店がある。 三原市では、モツ (鶏のレバーやヒモ) を入れる店が市内全体(約80店舗)のうち7割でトッピングとして取り扱いがある。三原市は養鶏が盛んで、鶏肉の生産量は広島県全体の約半数(46%)を占めており、広島県地域資源にも認定されている。昔から安価で新鮮な鳥モツが容易に手に入れることが可能だったため地域に根付いた。また、そばやうどんを入れたお好み焼きを特に「モダン焼き」と呼び分けるが、これは関西地方独特の呼び方で、広島県内で広島風のお好み焼きを出している地域ではあまり見られない特徴。戦前、戦後から三原市の産業基板を築いていた「帝人」や「三菱」では、当時から関連企業の仕事で関西からの来客も多かったと思われ、関西での呼称である「モダン焼」と注文を受けることが多く定着したという見方がされる。 竹原市では、生地に酒粕と日本酒を練り込んだ「竹原焼き」を提供する。 呉市ではうどんを入れたり、普通に焼いた後、半分に折り半月型にする場合が多いといった特徴がある。 庄原市は、広島市から離れている事もあってお好み焼きは馴染みの薄いものだったが、近年町おこしの一環として「庄原焼き」を考案。そばではなく、庄原産の米を入れてポン酢で仕上げているのが特徴。

その歴史的経緯から地方ごとの普及度合いに著しい差異が見られる。

  • 北海道と東北地域…北海道では大きいチェーン店があるが、北海道全体で人口比の店舗数が少なく多くは食べられておらず、また東北地方ではもんじゃ焼きから発展したどんどん焼きが主流。

  • 関東もんじゃ焼きがポピュラーであるが、もんじゃ焼きとお好み焼き(関西風)の両方をメニューに置いている店舗も多い。鉄板が各テーブルに設置され、客が自分で焼き、完成後は鉄板の上で切れ目を入れ、鉄板からヘラで直接または小皿に取って食するスタイルである。メニュー名は加えられる具材を指して「○○天」と表現する事が多い。昔の具はもんじゃと同じ桜エビ、切りイカ、焼きそば、紅生姜が使われる事が多かったが、現在はチーズや餅、明太子をはじめ、トッピングはバラエティに富んでいる。使用するソースは、中濃ソースやマヨネーズなど様々である。また、広島出身者が広島風お好み焼きの店舗を開業することもあり、都内各地には広島風お好み焼きの専門店も見られている。

  • 東海地方…県東部の富士宮市周辺に「しぐれ焼き」と呼ばれる、富士宮焼きそばをのせたお好み焼きがある。 浜松市を中心とする遠州地域では「遠州焼き」と呼ばれ、たくあんなどの漬物や紅しょうが、ねぎを刻んで生地に入れることがある。正統派なお好み焼きから逸脱し、生地を薄焼きで具に沢庵を入れる邪道な製法が用いられている。これは戦後の物資不足の時代に浜松市三方原台地へ引揚者が入植し、大根の増産が行われたことから、当時適当な食材として導入されたことが由来だと言われている。尚、地場のソースとしては高嶺ソース、トリイソースなど生産されている。名古屋市のお好み焼きの作り方は広島風とほぼ同様だが、両面とも小麦粉で綴じるためにやや厚みがあり、ともすれば関西風のように作っているかのような仕上がりになる。名古屋市の調味料メーカー、カゴメのお好み焼きソースが使われる比率が高い。同じく名古屋市の調味料メーカー、コーミからは家庭用のお好み焼きソースとして赤だしみそ入りの『コクうまお好みソース』が発売されている。お好み焼きのソースに味噌を入れるのは、さすが名古屋と驚く人が多い。スーパーマーケットやホームセンターのフードコートなどでは、初期の広島風と同じく二つ折りにしてアルミホイルに包んで販売されることが多い。量を少なくし価格を100円台からと安く抑えてある店舗が多い。家庭で作られるお好み焼きは、上記とは異なる。作り方は大阪風と同じく、キャベツと山芋、天カス、干しエビ等を、小麦と水、卵、牛乳と混ぜ合わせ、肉を乗せて焼いていく。だが、大きな違いとして、ひっくり返してから、広島風にヘラでしっかりと抑える事が挙げられる。ギュウギュウと、上から押さえつけ、中の空気を完全に抜く事で、表面はサクサク、中はもっちり、どっしりとした、食べ応えのあるお好み焼きになる。また、切り分け方も、多くの家庭の場合、東京風に、十字に切り分けていく。

  • 北陸地方富山市では刻み昆布を生地に入れることがある。ただ、どんどん焼きの方が刻み昆布や桜えびや紅ショウガを入れ、青のりなどをかけて食べることが多い。ちなみにこの地域には「おやき」という独自の小麦食文化も存在する。

    日本伝統的「小麦食」おやき(お焼き、御焼き)

    小麦粉・蕎麦粉などを水で溶いて練り、薄くのばした皮で小豆、野菜などで作った餡を包んで焼いた食品。形状は円形で、直径8~10cm程度が一般的。焼き餅、あんびん、ちゃなこ、はりこしなどとも呼ばれる。また北海道などでは今川焼きや大判焼きを「おやき」と呼ぶ。

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    おやき(長野県)…長野県の多くの地域は急峻な地形や寒冷な気候の為に米の栽培に適さず、古くからソバやコムギを原料とした食品を食べてきた。(しばしば特に冬季降雪量の多い北信地方安曇野地方が起源と目される)おやきもその一つであり、小麦粉や蕎麦粉を練って作った皮で具を包む。その一方で同じ豪雪地帯でも下水内郡栄村は、小麦の栽培に適さない代わり稲作に向いていた為に米粉を原料とした「あんぼ」というおやきを作ってきた。

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    • あんの材料には野菜・山菜が用いられるのが一般的。小豆餡、野沢菜、茄子、おから、きのこ、かぼちゃ、切り干し大根、複数の野菜を混ぜたもの、胡桃など、様々な種類がある。野菜・山菜のあんは、あらかじめ味噌、塩、しょうゆなどで味付けをしておく。太平洋岸・日本海沿岸と交流が多かった地区では、塩秋刀魚や鰯など魚をあんに用いることもあった。

    • 元は小麦粉や雑穀粉の皮であんを包み、焙烙で表面を軽く焼いて乾かしてから囲炉裏の熱い灰に埋め、蒸し焼きにした食品だったが、各家庭から囲炉裏が無くなった現代では油を引いた鉄板で焼くか、オーブンなどで焙り焼きにする。長野市中心部など善光寺平(長野盆地)では、「お焼き」の名前ながら蒸篭や蒸し器で蒸すのが一般的となっている。

    • 観光的価値が見出されるにつれ次第に長野県全域に広まり、名物とされるようになった。同様の食品は長野県のみならず、日本各地の気候や水利の関係で稲作が難しかった地方でも作られてきた。

    おやき(鳥取県…小豆の餡を、米粉を原料に作った物で包んだ、甘い菓子。もち米、うるち米の粉を練った物で小豆の餡を包む。ちなみに鳥取県の隣の島根県でも、米粉やよもぎなどを練った物で小豆の餡を包む(長野県のおやきより鳥取県のおやきに似てた調理法の)おやきが存在。旧暦6月15日にはおやきを水神に供えたあと、家族全員で食べていた。

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    • 調理法としては、もち米、うるち米の粉に水を混ぜてこねる。中に小豆の餡をはさんで、両面を焼いて食す。鳥取県東部(因幡地方)では、茗荷の葉を使い釜で焼いた釜焼き餅や、笹の葉を使って青葉の香りをつける。春から初夏にかけて作られることの多い料理である。鳥取県倉吉市では、里芋と米粉をベースにほっこりやわらかくこね上げる製法が伝わっている。他にはかぼちゃ、じゃがいもなどその時に手に入る食材を利用して作られる。中には野菜やひき肉、よもぎなどを包むのが好まれる。餡をはさんだ甘いものも食されている。

    日本において全国規模で白飯食文化が定着するのは第一次世界大戦(1914年〜1918年)以降である。「おやき文化」はそれ以前の日本の姿を垣間見させてくれる貴重な歴史遺産といえる。

  • 近畿地方…豚肉を使った関西風お好み焼きを主とするが、地域ごとに独自の具材を使ったご当地お好み焼きも多くある。兵庫県神戸市長田区のぼっかけ」と呼ばれる牛すじの煮込み入りのお好み焼き、大阪府岸和田市の鶏肉と牛脂を具に使う「かしみん焼き」、大阪府富田林市の、豚肉の鉄板焼きを用いた「ブー太郎焼き」など。神戸市では「大貝」と呼ばれる本荘貝も用いられる。またあぶらかすや生すじ肉などもつが使用される地域もある。関西風の作り方とは大きく違うお好み焼き様の料理としては、焼きそばを卵で綴じる和歌山県御坊市の「せち焼き」、兵庫県姫路市発祥でスプーンですくってつけ汁にひたして食べるスタイルの「どろ焼き」などがある。

  • 中国地方…広島風お好み焼きが知られる地方であるが、広島風と関西風を提供する店もあり、それら広島風とも関西風とも違う独自の作り方のお好み焼きが名物になっている県や地域も多い。広島市内であっても「徳川」のように関西風の専門店も存在する。岡山県備前地域(特に日生町)では「日生風お好み焼き」「日生焼き」などと呼ばれる独自の焼き方をするお好み焼きが存在し、中でも「カキオコ」と呼ばれる岡山県名産のカキをいれたお好み焼きが名物である。また、カキのシーズンではないときに提供される「エビオコ」(カキオコのカキをエビに変えたもの)も有名である。また、浅口市では手延べ麺のバチを大量に生地に混ぜ込んだ、バチのお好み焼きがあり、カキオコに倣って「バチオコ」と呼ばれる。広島県東部の備後地方南部では、府中市を中心に、豚や牛挽肉を使用した「府中風お好み焼き」があり、これを「府中焼き」と呼び街おこしのご当地グルメとする活動がある。広島風お好み焼きに似ているが、挽肉から出る脂と肉汁が特徴的である。小さな街に多くのお好み焼き店が存在している。広島県三原市では、そばやうどんの入ったお好み焼きをモダン焼きと呼称する場合がある。製法は広島風とも大阪風とも異なり、まず生地を敷き、別の場所で麺と具(キャベツ、豚肉など)を炒めたのちに生地の上に載せ、生地を少しかけて反転させ、蒸し焼きに入るという製法をとる場合が多い。また、イカ天のことをのしイカと呼称したり、鶏肝(レバーやヒモなど)を入れるなど、独自の特色がみられる。 隣接した地域で文化も食文化も似ているの尾道市では砂肝とのしイカを入れたものを「尾道焼き」と称している。広島風お好み焼きの中でも、広島市中心部の店と呉市呉市近辺の店では具材を重ねる順などに若干の差異があり、呉のものを「呉焼き」と呼んで区別することがある。呉焼きは焼いた後、半分に折り半月型にする店が多い。広島県庄原市では、広島風の「肉玉」をベースとしソバの代わりに「庄原の米」を炒め、「お好みソース」ではなく「ポン酢」をかけて食べる「庄原焼き」と呼ばれるものも存在する。因島では「因島お好み焼き」、略称「いんおこ」と呼ばれ、うどん入りが主流で、かつお粉とウスターソースで炒めた麺を野菜より先に生地に載せる[25][26]。「尾道焼き」とともにしまなみ海道B級グルメ料理として知名度の向上を目指している。ちなみにこの地域にも「おやき」文化が存在する。

  • 四国地方…関西風お好み焼きが全域にわたって広まっており、広島風は歴史的に広島県との繋がりが深い愛媛県の一部地域で食べられる程度である。徳島県では、ミカン、甘く煮た金時豆、ヨーグルト、エビを入れて丸く揚げた「天ぷら」、フィッシュカツなどの独特の具を用いたものも供されている。

  • 九州地方…福岡市内では厚さ約2センチで腰の強い生地を特徴とするお好み焼きがある。ソースは粘りの強いものを使用。白いカスタードクリーム状のマヨネーズを大量に使用することも大きな特徴である。お好み焼きの中に黄身を崩した目玉焼きを埋め込まれることも多い、生地は焼く途中で追加され表面はカリカリに焼き上げられる。福岡県大牟田市熊本県荒尾市では「ダゴ」と呼ばれるお好み焼きが食されている。九州7県では人口あたりのお好み焼き店の数において大牟田市が1位、荒尾市が2位となっている。基本的には大阪風であるが、中には広島風やもんじゃ焼を基本とする店もある。北九州市ではマヨネーズではなく、マヨネーズとケチャップを混ぜたオーロラソースをつけて食べるのが定番となっている。

このグチャグチャさ加減は地中海沿岸の麦食文化とモロコシ食文化を起点としつつも、東アフリカからプランテン(調理用バナナ)が上陸し、新大陸から伝来したトウモロコシ食文化がモロコシ食文化を駆逐し、西アフリカを起点としてキャッサバ(タピオカ)食文化が広まったアフリカの粉食文化を想起させるとも。
*さらには終戦直後の食糧入手が困難な時代を経て常食化していくプロセスは「ナポリタン」の成立史と重なる側面も。

ちなみにアメリカでも世界恐慌(1929年)を契機として「ケチャプサンド(トマトケチャップを塗っただけで具の一切入ってないサンドイッチ)」が登場。米国でチリコンカーンが広まったのもこの時期とされる。

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チリコンカーン(英: chili con carne、西: chile con carne)

名称はスペイン語の「肉入りトウガラシ」から。代表的なテクス・メクス料理およびアメリカ料理で、アメリカ合衆国国民食のひとつでもある。

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  • 米国では、chile con carneを英語風に「チリコンカーニー」 (chi-lē-ˌkän-ˈkär-nē) と発音するが、実際は単に「チリ」という略称で呼ぶことが多い。ヒスパニック系アメリカ人の多いアメリカ合衆国南西部では、非ヒスパニック系の間でも、よりスペイン語に近いチリコンカルネと呼ぶこともある。日本ではチリコンカーンの他、チリコンカンとも呼ばれている。ファーストフードチェーンや一般の食堂でも提供されている庶民的な料理である。

    http://livedoor.blogimg.jp/ma888tsu/imgs/5/b/5b8b0d5c.jpg

  • 挽肉とタマネギを炒め、そこにトマト、チリパウダー、水煮したインゲンマメ(金時豆、赤いんげん豆やピントビーンズなど)などを加えて煮込んだものが最もよく知られている。肉は牛肉であることが多いが、豚肉、鶏肉、シチメンチョウの肉などでも作られる。仕上げにマサ・アリナ(トルティーヤ用に石灰水処理したトウモロコシの粉)やオートミールでとろみをつけることが多い。バーベキューソースで味をつけたり、シナモン、コーヒー、チョコレートなどを隠し味に用いることもある。

    マサ - Wikipedia

  • 豆の入ったチリを「チリ・ビーンズ」豆の入らないものを単に「チリ」または「チリ・ノー・ビーンズ」と呼び分ける場合もあるが、厳密に定義されているわけではない。チリを供する際にはおろしたチェダーチーズをふりかけたり、クラッカーを添えて、各自が食べる前に砕いて入れることも多い。

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  • テキサス州は「19世紀半ばにメキシコから独立しアメリカ合衆国に併合されたテキサス州南部で発祥した」と主張しており、これを「州の料理」に指定している。

    アメリカのチリ

  • 実際の起源ははっきりしない。肉をトウガラシ、ハーブ、香辛料と煮込んだテハーノの料理が起源とも、カウボーイのペミカンに似た保存食が起源とも推測されている。1835年にはサンアントニオで粉唐辛子やオレガノ、クミン、ガーリックパウダー等を配合したチリパウダーが発明された。

    オレガノ (Oregano Origanum vulgare)

    シソ科の多年草。ヨーロッパの地中海沿岸地方が原産。香辛料として使われる。和名はハナハッカ(花薄荷)。マジョラムの近縁種であり、別名ワイルド・マジョラムとも呼ばれる。広義には、O. compactumやO. majorum、観賞用のO. rotundifolium、O. pulchellum、種間雑種などOriganum属全般を指す。属名のOriganumはギリシャ語で「山の喜び」を意味する。

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    • ハナハッカ属の中では最も認知度の高い種で、カルバクロールという化合物を含有した精油が成分の一つにあり、樟脳に似た特有の香りを発する。植物そのものよりも発する香りをオレガノと呼称することが多い。大半は地中海気候で育ち、米国北東部に自生する。高さは60cmから90cm。茎は柔らかく枝分かれしていてかつ毛深い。葉は概ね卵形で、表面が滑らかなものと毛が生えたものに分かれる。夏から秋にかけて、白、赤紫色の花を咲かせる。
    • これを材料とした茶は消化の促進を助けると考えられ、薬屋の棚に多く陳列していた。花はポプリの材料として利用される。

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    • O. vulgareの葉は、ほろ苦い清涼感があり、生もしくは乾燥させて香辛料として使われる。生葉よりも乾燥させたほうが香りが立ち、トマトやチーズと相性が良い。主にイタリア料理、メキシコ料理などで使われる。俗にピザスパイスと呼ばれるものは南イタリア人が好むオレガノが主成分であることが多い。 1835年にはテキサス州西部の商業、金融、工業の中心地サンアントニオで粉唐辛子やオレガノ、クミン、ガーリックパウダー等を配合したチリパウダーが発明された為、チリ料理にも入っている。またナポリ風カポナータ(夏野菜の炒め煮)にも入る。

      エスビー食品の記載にも「イタリアのトマト料理によく用いられるハーブのひとつで、トマトソースのピザやパスタ、煮込みなどによく合います。また、肉や魚などの臭み消しにも重宝し、グリルや炒め物、煮込み料理などに広く用いられています。」「ローマ時代から名高いハーブで、当時の美食家アピシウスが「おいしいソースには欠かせないスパイス」と言ってその香りを愛したといわれています。」とある。

    • スウェーデン山地の農民が、酸味を防ぎ、アルコール度を高める為に、エール(ビールの一種)にオレガノを付加したという記述が、ジョン・ライトフットの手記に記されている。

    薬用として駆風薬、頭痛薬として利用される他、消化促進、呼吸器系、歯痛や毒グモに噛まれた時の解毒薬、治療薬として用いられた。しかし、現在は薬用として用いられる事はほとんど無い。また園芸植物としても好まれる。草丈は30-60cm。花色は多くの品種ではピンクだが、一部の品種では白色。生育には、やや乾燥気味の気候が適する。

    *日本人の感覚ではちょっと「雑草」感がある?

  • 1880年代には、色鮮やかな民族衣装を身につけた「チリ・クィーン」と呼ばれるヒスパニック系の売り子たちがサンアントニオの繁華街でチリを売るようになり、サンアントニオの名物となった。1893年のシカゴ万国博覧会では「サンアントニオ・チリ・スタンド」という売店が設置され、南西部以外のアメリカ人にもチリの味を広めた。第二次世界大戦までにテキサス州や他州のテキサス州出身者が多く住む地域で、チリ・パーラーと呼ばれるチリ専門店が繁栄。

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  • テキサス州のチリにはいんげん豆もトマトも入っていなかったが、1920年代あたりになって中西部でチリに豆が入れられるようになり、1930年代から1940年代になってトマトが入るようになった。クラッカーやチーズを入れる食べ方も中西部で生まれた習慣である。

    インゲンマメ(隠元豆、Phaseolus vulgaris)の栽培史

    マメ亜科の一年草。別名、サイトウ(菜豆)、サンドマメ(三度豆)。中南米原産。16世紀末にヨーロッパを経由して中国に伝わり、17世紀に日本に伝わったと言われている。1654年、明からの帰化僧・隠元隆琦が日本に持ち込んだとされることからこの名がついた。実際にはフジマメ(藤豆、フジマメ属)を持ち帰ったという説もある。このためかどうか不明だが、関西ではフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはフジマメ、サヤインゲンは三度豆と呼ぶ。

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    ①安価で低脂肪、高蛋白の非常に優れた食品で、世界中で主食または主要な蛋白源として利用される。また血糖値を抑制する効果のあるα-グルコシダーゼ阻害作用があるポリフェノールが含まれる。

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    • 日本では若いさやを食べる軟莢種(サヤインゲン)と、成熟した種子を食べる種実用種がある。 サヤインゲンは、生のまま天ぷらにするか、塩茹でにして和え物やおひたしにするか、あるいはバター炒めにすることが多い。成熟した種子は乾燥させて貯蔵し、煮豆や甘納豆、菓子用の餡などに用いられる。金時豆(赤インゲン豆)、うずら豆および虎豆(共に斑〈ふ〉入りの豆)、毛亡(手亡とも)および大福豆(共に白インゲン豆)はインゲンマメに含まれる。キドニービーンズは赤インゲン豆、ピントビーンズはうずら豆のことであるが、主に輸入品がこう呼ばれしばしば混同される、ハナマメ(白花豆)、フジマメは近縁の別種である。日本では北海道が主産地となっており2006年(平成18年)の作付面積は8,880haで収穫量は18,000tとなっている。特に、大正金時は、最も人気がある品種である。

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      現在日本で食べられているさやいんげんは、明治時代に入ってから政府が欧米から導入したものが元になっていて、今では全国で栽培されています。

    • スペインではアストゥリアス地方の郷土料理ファバダ・アストゥリアナ(Fabada Asturiana)やカスティーリャ地方のオジャ・ポドリーダ(Olla podrida)が有名。
      アストゥリアス地方では既に16世紀以前から豆が栽培され、主食となっていたと考えられている。

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      *スペイン・カスティーリャ地方の「オジャ・ポドリーダ(Olla podrida、豚豆シチュー)」…元来は中東伝来のひよこ豆が使われていたと推測されている。

      *フランス宮廷料理におけるエスパニョールソース(Espagnole sauce)の起源とされる事もある。

      この本では「フランス料理における唯一の、本当の基本ソースは、挑発的な名前を持つエスパニョールソース、つまりスペイン風ソースである」として「この濃厚でスパイシーなソースは1660年にスペイン王女がルイ14世に嫁いだ時に連れてきたスペイン人コックがフランスにもたらした、キツネ色に焦がした小麦粉を使うスパイシーなソースからその名をとっている」と述べています。
      *記録によってはイタリア料理人や南仏料理人の存在感など皆無とされてしまうのは想定内?

      *スペイン・アストゥリアス地方の郷土料理「ファバダ」…広まったのは新大陸から隠元豆が伝来した16世紀以降とも。

      アストゥリアスで有名なのはシードルと牛乳とファバダ

       *言語圏的にはラテン語に完全制圧されてしまったが、ロマネスク時代( romanesque、10世紀前後)のアストゥリアス貴族(西ゴート王国末裔)はノルマン貴族をハブとしてブルゴーニュ貴族(ブルグント王国末裔)やロンバルティア貴族(ランゴバルト王国末裔)と結んで一大文化圏を築いていた。

    • また9世紀よりバレンシア地方で作られてきた米料理「パエリア」の山の幸風にも入る。そもそもイスラム圏ではトルコ料理ののエトリ・クル・ファスリィェなど中世より広く地中海世界では食肉と豆(ヒヨコマメや豌豆)を煮込んだ料理が広く存在してきた。伝統的にひよこ豆や空豆を食べてきたムスリムにとっては自然に代替品として入ったと推察されている。
      OB刈谷:FEIJOADA PARTY

    • フランス料理・イタリア料理では白インゲン豆が煮込み料理に好んで使用される。乾燥重量の2割余りをタンパク質が占める。アミノ酸組成のバランスも良くアミノ酸スコアは100であり、特にリシンを豊富に含み、リシンが不足している主要3大穀物(小麦、トウモロコシ、米)との食べ合わせも良い。地中海沿岸交易を通じてムスリムから伝えられたとする説、中世にスペインからサンティアゴ巡礼路によって伝えられたとする説などがある。
      *フランス南西部のカスレ(フランス語cassoulet、 オック語caçolet)…豚肉ソーセージや羊肉、ガチョウ肉、アヒル肉等と白インゲンマメを、料理の名前の由来にもなったカソール(cassole)と呼ばれる深い土鍋に入れ、長時間煮込んで作る豆のシチュー。

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      カスレの元となる料理が生まれたのは、英仏百年戦争(1337年/1339年〜1453年)の頃と言われています。

      戦火にあえぐカステルノダリーCastelnaudary(カルカッソンヌの北西約40kmに位置する小さな田舎町)の村人達が、村に残っていたあるだけの食材(豆、豚肉、鶏肉など)を底の深い土鍋に入れて水と油脂で長時間煮込み、疲弊した兵士たちにふるまったのが始まりとか。

      この土鍋がカソールと呼ばれるもので、伝統的に陶器生産が盛んなこの地域独特のもの。“カソール”を使い作られた料理だから“カスレ”という名前がつけられた、という説が有力とのことです。
      *要するに南仏でも隠元豆伝来以前から(おそらくイスラム圏の影響で)豆食が定着していたという事。

    • ラテンアメリカ諸国においてフリホレス(隠元豆)は玉蜀黍やキャッサバに並ぶ重要主食である。そして欧州の肉豆煮込み料理がブラジルやポルトガルに伝播して「フェジョアーダ」になったと考えられている。

    ②2006年(平成18年)5月6日、TBSテレビで放送された『ぴーかんバディ!』で、白インゲン豆を3分間炒ってから粉にして、ご飯にまぶして食べるダイエット法を紹介したところ、激しい嘔吐や下痢などの健康被害が全国で発生した。これは豆類全般に含まれるレクチンの一種、フィトヘマグルチニン(PHA)の作用によるものと考えられる。レクチンは蛋白質なので加熱すれば変性し、人体には無害になる。レクチンを無毒化するためには、豆を少なくとも10分は加熱する必要がある(豆を美味しく食べるためには、柔らかくなるまでさらに加熱調理しなければならない)。例のダイエット法の加熱時間は短すぎるのである。なお、フィトヘマグルチニンを最も多く含むのは、種皮の赤いいんげん豆である。

    トマト(Tomato、学名Solanum lycopersicum)栽培の歴史

    南アメリカアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産のナス科ナス属の植物。また、その果実のこと。多年生植物で、果実は食用として利用される。緑黄色野菜の一種である。日本語では唐柿(とうし)、赤茄子(あかなす)、蕃茄(ばんか)、小金瓜(こがねうり)、珊瑚樹茄子(さんごじゅなす)などの異称もある。もちろん古代ギリシア世界ではその存在を知られていなかったが、イタリア語でトマトを意味する「 pomodoro 」の語源は「黄金の林檎 pomo d'oro 」である。

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    ①原産地は南アメリカアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)。ヨーロッパに伝わったのは1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰って以降だが、それがスペイン経由で1554年にナポリへと伝わる。ナポリシチリアインカ帝国同様にハプスブルク朝スペインに支配されていたので、スペインを通じて新大陸の食材が手に入りやすかったのでる。

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    • イタリアの港町ナポリではナポリタンソース(Ragù napoletano)をスパゲティに絡めたものをスパゲティ・アッラ・ナポレターナ(Spaghetti alla Napoletana)と呼び、フランス、スイス、ドイツにもほぼ同名の料理がある。歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は、イタリア人シェフのアントニオ・ラティーニが著し1696年に2巻本で発行した「近代的家令(Lo Scalco alla Moderna)」 である。 ラティーニは在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えた人物で、彼の記した「スペイン風トマトソース」は、皮をむいて刻んだトマト、タマネギ、胡椒、イブキジャコウソウ、ピーマンを混ぜたものだった。こうしてナポリでは17世紀から18世紀頃にかけてトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及していったが、その範囲はあくまでナポリとその近郊に限られていた。 そういう訳で他の都市の者はトマトソースをナポリ風(ナポレターナ)と呼んだが、当のナポリ人はこのトマトソースを単に la salsa 「ソース」と呼んでいたのである。そしてナポリにあったトマトソースのスパゲッティがフランスに伝わりスパゲッティ・ナポリテーヌ spaghetti napolitaineと呼ばれるようになった。
    • 17世紀に入るとフランスのマルセイユでブイヤベースの食材に加えられる。

      オクラ(Okra、 秋葵、 学名: Abelmoschus esculentus)

      アオイ科トロロアオイ属の植物、またはその食用果実である。英名 okra の語源は、ガーナで話されるトウィ語の nkrama から。その形状からLady's finger(婦人の指)とも呼ばれる。

      原産地はアフリカ北東部(エチオピアが有力)。原産地や熱帯では多年草で、何年も繰り返し果実をつけるが、日本では冬越しができないため一年草である。和名をアメリカネリと言い、ほかに陸蓮根(おかれんこん)の異名もある。沖縄県鹿児島県、伊豆諸島など、この野菜が全国的に普及する昭和50年代以前から食べられていた地域では「ネリ」という日本語で呼ばれていた。今日では当該地域以外では「オクラ」という英語名称以外では通じないことが多い。

      • 熱帯から温帯にかけて栽培されているが、エジプトでは既に紀元前元年頃には栽培されていた。

      • アメリカ州では、主に西アフリカから移住させられた奴隷によって栽培が始まり、現在でもアメリカ合衆国南部、西インド諸島、ブラジル北部など、アフリカ系住民の多い地域でよく栽培されている。

      • 日本に入って来たのは明治初期である。従来「ネリ」と呼んでいたトロロアオイの近縁種であるため、アメリカネリと名付けられた。現在の日本で主流を占めるのは、稜がはっきりしていて断面は丸みを帯びた星型になる品種だが、沖縄や八丈島などでは大型で稜がほとんどなく、断面の丸いものが栽培されている。他にも莢が暗紅色になるもの(赤オクラ)など品種は多い。熱帯では多年草であるが、オクラは少しの霜で枯れてしまうほどに寒さに弱いために、日本では一年草となっている。

      料理方法…刻んだ時にぬめぬめした粘り気が出るが、この粘り気の正体は、ペクチン、アラピン、ガラクタンという食物繊維で、コレステロールを減らす効果をもっている。他の栄養素としては、ビタミンA、B1、B2、C、ミネラル、カルシウム、カリウムなどが含まれるため、夏ばて防止、便秘・下痢に効く整腸作用などが期待できる。 粘り気を外に出さないように、莢のままやさしく加熱する料理もある。また、穀粉と一緒に加熱する、酸味の水に漬ける、先に油通ししておくなど、粘り気を抑えるための調理法がある。

      • 日本では、生あるいはさっと茹でて小口切りにし、醤油、鰹節、味噌などをつけて食べることが多い。他にも、煮物、天ぷら、炒めもの、酢のもの、和えもの、スープ、すりおろすことによってとろろの代用にするなどの利用法がある。

      • インドグジャラート州では、輪切りにしたオクラをひよこ豆の粉(ベサン besan 英語版)と炒めたビンディ・ヌ・シャーク (bhindi nu shāk) という料理があり、南インドには、炒めたオクラをヨーグルトで和え、油で炒めた香辛料で香りをつけたヴェンダッカイ・タイール・パチャディ (vendakkai thair pachadi) という料理がある。

      • パキスタンから中東、北アフリカ、西アフリカ、西インド諸島では、輪切りにしてトマトや肉と煮込み、ご飯にかけて食べることが多い。

      • キューバでは、煮込み料理にする他、ピラフのように米と炊き込む。

      • ブラジルバイーア州には、オクラ、タマネギ、干しえび、ラッカセイまたはカシューナッツを煮込んで作る「カルル・ド・パラ」(caruru)というソースがある。

      • アメリカ合衆国では、南部の料理によく用いられる。北部ではオクラ特有の粘り気が嫌われることが多く、21世紀現在でもあまり栽培されていない。南部ではスープの具にしたり、輪切りにしてコーンミール(トウモロコシの粉)をまぶして揚げたり、ピクルスにする他、オクラをベーコンと米と一緒に炊き込んだ、リンピン・スーザン (Limpin' Susan) というピラフのような料理もある。ルイジアナ州クレオールケイジャン料理では、ガンボ (gumbo) と呼ばれる煮込み料理にとろみをつけるのに、オクラが使われることが多い。オクラを入れたスープもしばしばガンボ・スープと呼ばれるが、これはフランス語の「ゴンボ」(gombo) が英語に導入されガンボとなったものである。なお、「ゴンボ」は「オクラ」を意味するアンゴラ語の「キンゴンボ」(ki ngombo) もしくは中央バントゥー語の「キゴンボ」(kigombo) に由来する。ちなみにオクラのことを、キューバでは「キンボンボ」(quimbombó)、プエルトリコでは「キンガンボ」(guingambó) と呼ぶ。

      • ベトナムでは、大振りのオクラをスライスしたものを、ヤギ肉の焼き肉と一緒に焼いて食べる。

      • 西アフリカでは、細かく刻んだオクラをヤシ油で煮込んだソースを、米やフフなどの主食につけて食べる。

      加工食品として、ソースやケチャップの原材料としても用いられる。種子は煎じてコーヒーの代用品として飲まれた歴史がある。

       ガンボ(Gumbo)

      アメリカ合衆国ルイジアナ州を起源としアメリカ合衆国南部メキシコ湾岸一帯に浸透したシチューあるいはスープ料理。言源は、アンゴラで話されているバントゥー語の方言でオクラを意味する「kingombo」がなまったものと言われている。 この言葉はカリブ海で使用されるスペイン語に「guingambó」または「qimbombó」として取り入れられた。この二つの言葉は、プエルトリコでは現在も使われている。

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      ジャンバラヤ(jambalaya)と並んでルイジアナ州クレオールの人々がアメリカ料理に対して行った最大の貢献とされ、テキサス州南東部、ミシシッピ州南部、アラバマ州サウスカロライナ州チャールストン周辺のロウカントリー、ジョージア州ブランズウィックなどの地域で食されている。一年を通じて食されるが、通常は寒い時期の料理と考えられている。

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      基本的には濃いスープストック、肉または甲殻類、とろみ成分、および「聖なる三位一体」と呼ばれる野菜(セロリ、ピーマン、タマネギ)で構成される。伝統的に米にかける形で供され、四旬節の際にはガンボ・ザーブ(gumbo z'herbes)というルーでとろみをつけた緑色のガンボも食される。スープストックは、シーフード・ガンボであれば魚介類で、チキン・ガンボであれば鶏肉を使って可能な限り濃く作る。典型的なガンボは、鳥肉類、甲殻類、豚肉の燻製のいずれかひとつもしくは複数を使う。鳥肉類としては、鶏、アヒル、ウズラなど使われるのが通常である。地元の甲殻類としては、淡水産のザリガニ、メキシコ湾産のカニ、エビなどが使われることが多い。タッソ(ケイジャン・ハム)、アンドゥイユ(燻製ソーセージ)を入れることにより、料理にスモークの香りが加わる。

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      とろみをつけるのにオクラを使うか、フィレ・パウダー(クスノキの一種サッサフラス(Sassafras)の葉を粉にしたもの)を使うかによって大別される。いずれの場合においてもルーを加えることも可能だが、近年はルーは単体で使うのが通例である。ルイジアナでは、オクラとフィレを混ぜるのは一般的ではない。ケイジャンクレオールのスタイルで分けることもできる。クレオールのガンボで使うルーは、通常ある程度茶色付いているものの色は浅めで、トマトを入れることもあるが、ケイジャンのガンボはより濃い色のルーを使用しトマトを入れることはない。
      「ケイジャン/ケージャン(Cajun)」

      アカディア人」を意味する「アケイディアン」(acadian)の訛りで、フランスが北米に設置したアカディア植民地で暮らしていたフランス系カナダ人の人々のうち現在の米国ルイジアナ州に移住した人々とその子孫。

      18世紀中旬のフレンチ・インディアン戦争期、英国王への忠誠表明を拒否したため、英国植民地に強制追放(大艱難、Great Upheaval、1755年~1764年)され、一部が元フランス植民地でスペイン領となったルイジアナに分散して移住。ルイジアナ買収(1803年)でアメリカ人となる。ルイジアナ州ニューオリンズおよびルイジアナ州南部の「アケイディアナ」と呼ばれる地域に定着した集団がよく知られる。1990年の国勢調査ではルイジアナ州で43万人、米国全土で60万人。

      音楽用語では白人がアコーディオンなどを演奏する音楽の一分野を指す。 

      「ルイジアナ州のクレオール (Louisiana Creole people)」

      ルイジアナ買収(1803年)によって米国の一部になる前の、フランス領ルイジアナ時代の移住者を先祖に持つ全ての人種及び異人種間の混血の人々、またはこれらの人々の独自の文化とクレオール料理を指す。1718年頃のニューオーリンズの最も早い段階での「クレオール」の定義は「フランスではなく、植民地(現在のアメリカ)で生まれた子供」だった。この定義は、1803年に米国が成文化するようになった。当時のクレオールの定義では、1700年代半ばから1800年代前半まで当地を統治したスペイン人の支配階級も含まれていた。

      米国のルイジアナ州外出身の作家などが「クレオール」という用語を混合した人種の家系だけを指す誤使用例がしばしば見られるが、これは伝統的なルイジアナでの用法ではない。地元民、特に比較的純粋なフランスとスペインのクレオールの家系の出身の人々は「クレオール」という言葉の伝統的な用法ではアフリカの家系は入っていない、と主張してきた。しかし、植民地時代の記述によると、用語のより広い語法が18世紀後半には既に一般的であったことを示している。例えば「自由身分の色つきのクレオール人」、またはルイジアナ州で生まれた純粋なアフリカ系の黒人奴隷も「クレオール人の奴隷」と言及されている。

      ルイジアナクレオール・ヘリテッジ・センターでは、「クレオール」のことを、「一般的にフランス白人、アフリカ黒人、スペイン人とインディアンを先祖に持ち、そのほとんどがルイジアナに居住しているか、ルイジアナに居住している親戚を持つ人々」と記述している。さらに、「中国人、ロシア人、ドイツ人、およびイタリア人をはじめとする他の多くの民族がクレオール民族およびクレオール文化の成立に貢献した」と付け加えている。

      現在、クレオールはフランス、またはスペインの文化的背景を共有する、あらゆる人種の人々の、広い文化的グループとして受け入れられている。自身を「クレオール」であると自認するルイジアナ人は、彼らの先祖が歴史上、直接フランスからルイジアナに来た人々か、カリブ海のフランス領植民地を経由して来た人々たちのフランス語を話す共同体にいた、という場合が最も一般的である。仏領カナダのアカディア人の子孫は、クレオールよりもむしろケイジャンとしての意識を持っている可能性が高い。現在でも「クレオール」は、スペイン人、フランス白人、インディアン、そして/または、アフリカ黒人を起源に持つ人々を指すのに使用される。

      1850年までの、新しい「アメリカ人」移住者による長年にわたるクレオール差別の結果、フランス人およびスペイン人のクレオールは政治力を失い「クレオール」という言葉はますますニューオーリンズの人々なら誰でも、またニューオーリンズの動物や建物なら何でも指すようになった。例えば、ミシシッピ川沿いに植民した初期のドイツ人の移民までもクレオールと呼ばれた。

      多くのルイジアナクレオールたちは、英語、フランス語以外に、ルイジアナクレオール語(クレヨール・ルイジアン、creyol luizien)と呼ばれる特有のクレオール言語を話してきた。 

      その起源は複数の文化が出会った18世紀にまで遡る。

      • フランス料理のブイヤベースをベースにチョクトー族インディアンの使用していたフィレ・パウダーと地元の魚介類が加わって地方色が強まる。さらに西アフリカの奴隷達がオクラを持ち込み、これがルイジアナの台所にもたらされた。そしてスペインの入植者達がさらにピーマン、トマト、それに調理されたタマネギを加えた。
        *サッサフラス(Sassafras)…クスノキ科サッサフラス属の樹木の総称、またはそのうち特に北米東部原産の1種 Sassafras albidum を指す。木全体に柑橘様の芳香があり、特に根から精油「サッサフラス油」が抽出され香料として用いられる。ただしその主成分たるサフロールには毒性があるため、現在はアメリカ合衆国における食品使用が禁止されている(サフロールを除いたもの、あるいはクスノキ等から得られる代替品を使用)。が多く用いられる。他に木材も用いられ、中国では薬用にもされる。かつては根がルートビアの風味付けに用いられた。またアメリカ合衆国ケイジャン料理とクレオール料理では、サッサフラス(S. albidum)の葉を粉にしたものをフィレ・パウダー(filé powder)と呼び、ガンボのとろみ付けに用いる。なお、葉にはサフロールは含まれていない。

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      • 文献上の初出は1800年代初頭。1885年には、料理書『La Cuisine Creole』の中にフィレ・ベースとオクラ・ベースのガンボの違いについて解説されている。同書は、フィレ、オクラ両方を使ったガンボのレシピを多く掲載しているが、ルーを使ったものは含まれていない。

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      • ガンボ・ザーブ(gumbo z'herbes、緑色のガンボ)は、通常の四旬節、中でも特に聖木曜日、聖金曜日の際に食されるガンボの一種。元来は、標準的なフランス語で「gumbo des herbes」と表記された。標準的なルーとスープストックの組み合わせにカラードの葉、カラシナ、カブ、キャベツ、ほうれん草、レタス、フダンソウ、パセリ、ネギなどの緑色野菜を加える。家族によって習慣は異なるが、聖木曜日、聖金曜日の夕食時にのみに供される。通常7種類もしくは9種類の緑色野菜が使用され、単純に「九種の野菜のガンボ」などと呼ばれた。現在のように豊富な食材を揃えたスーパーのチェーンが展開する以前は、料理人が庭でキンレンカなど食することのできる植物を摘んで加え必要な数の野菜を揃えることも珍しくはなかった。この種のガンボは、四旬節の際の禁欲精神を維持するためにニューオーリンズカトリック教から生まれたもので、元来は野菜のみで作られたものと推測される。しかしながら、料理を飾り付けるこの地方の強い傾向から、魚介類(エビ、カキ、カニ、魚)などを加えるようになった。これは少なくともカトリック教会における基準に違反するものではなかったが、やがて味付肉類(ハム、ソーセージ、ベーコン、あるいはときには牛肉も)をも加えるようになった。これはもはや断食の基準を満たしてない。

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      ガンボに使用される米は、殆どの場合塩水で炊いた白米かパーボイル米(半ゆで加工米)である。米の種類は丈の長いインディカ米で、ガンボの中でバラバラにならないようにある程度粘りのあるものが使用される。

      ブイヤベース(bouillabaisse)

      南フランスのプロヴァンス地方、地中海沿岸地域の代表的な海鮮料理。マルセイユの名物。世界三大スープの一つとしてあげられることもある。
      ヌーベルキュイジーヌ化によって「魚じゃが」みたいな料理に変貌?
      Everyday to enjoy — bouillabaisse I cooked bouillabaisse last night.

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      ①原型は付近の漁師が、見た目が悪かったり、毒針があって危険などの理由で商品価値のない魚を自家消費するため、大鍋で塩と煮るだけの料理であったと推測されている。

      ②17世紀に新大陸からトマトが伝来すると食材に取り入れられた。

      ③19世紀にマルセイユが観光地化すると、多数のレストランが地元料理のブイヤベースを目玉料理にして技巧を凝らし、料理法も発展、洗練されて今日に至る。

      • 鍋にオリーブ油を敷き、セロリ・タマネギ・フェンネルなど香味野菜を炒める。

      • 数種の白身の魚やエビ・貝などを入れる。ブイヤベース憲章によればカサゴ(Rascasse)、 白カサゴ(Rascasse blanche)、 足長ガ二(Araignée de Mer)、 ホウボウ(Galinette)、 マトウダイ(Saint Pierre)、アンコウ(Baudroie)、 西洋アナゴ(Fielas)、 オコゼ(Chapon) から4種、またオプションでイセエビ(Langouste)やセミエビ(Cigale de Mer)を使う。鯛、ヒラメ、オマール海老、ムール貝類、タコ、イカ、は入れない。一方、スープは別途小魚でとる(この小魚の種類も決められている)。

      • トマトやジャガイモなどの野菜、にんにく、塩少々、白ワイン等の調味料を入れ煮込む。

      • サフランフェンネルローズマリー、ディル、パセリなど、ハーブ類で風味をつけ煮こむ。仕上がると海鮮風味の濃厚なスープができあがる。 好みによりルイユ(rouille)やアイオリソース、クルトンを添える。

      • ブイヤベース憲章では、さらに「いったん魚を鍋から出し、スープと別の大皿に盛って客のテーブルに運ぶ。スープを先に供して風味を楽しませ、魚は客の目の前で切り分ける」とされる。サフランには薬用クロッカスの別名もあり、風邪などにも効果があることから、薬膳鍋といった趣もある。

      またイタリアのトスカーナ州リヴォルノにはカッチュッコ(Cacciucco)と呼ばれる魚介類をトマトソースで煮込みパンを添えた、ブイヤベースに似た料理が存在。料理名に「c」が五つ入ることから、5種類以上の魚介類を入れるものとされる。
      Marcia is Amused. - Last night our friends had us over for Cacciucco,...

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    ②有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く最初は観賞用とされた。その一方でナポリにおいては18世紀後半までに貧しい人々がトマトをパンに乗せる具として使う様になっており、すぐに訪れる観光客に対する名物料理となった。これがピザの起源となる。また「カプリ島風サラダ(インサラータ・カプレーゼ)」にも欠かせない。

    • その一方で「トマトケチャップ」を使った最古のレシピが1795年の "Receipt Book of Sally Bella Dunlop" に登場。切ったトマトに塩を振り、2・3日置いてからしみ出した果汁を香辛料と煮詰めたもので、酢も砂糖も加えていない(現在とは違い、調理中に隠し味として使ったと考えられている)。

    ③一方北米ではその後もしばらくは食用としては認知されなかった。

    • 1820年、ニュージャージー州のロバート・ギボン・ジョンソンは、町の裁判所前の階段でトマトを食べて人々に毒がないことを証明したとされるが、詳しい資料は残っていない。

    • しかしハインツ社が1876年に瓶詰めトマトケチャップを販売。これが広く普及してケチャップを代表する存在となった。これを使って調合したバーベキュー用ソースは、醤油を使ったテリヤキソースや韓国風ソースを引き離して今なお絶大な人気を誇り続けており、アメリカを代表する味との声すらある。

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    • 1893年当時アメリカは輸入の際、果物には関税がかからず、野菜には関税が課せられていた。このため、トマトの輸入業者は、税金がかからないようにと「果物」と主張。これに対して農務省の役人は「野菜」だと言い張った。両者は一歩も譲らず、さらに果物派には植物学者も加わり、論争はエスカレート。とうとう、1893年に米国最高裁判所の判決を仰ぐことになってしまった。判決は「野菜」。裁判長はずいぶん悩んだと思われ、判決文には「トマトはキュウリやカボチャと同じように野菜畑で育てられている野菜である。また、食事中に出されるが、デザートにはならない」と書かれていた。なお、裁判当時の記録としてローラ・インガルス・ワイルダーの小説『大草原の小さな家』では、トマトにクリームと砂糖をかけて食べる記載がある。

    ちなみにトマトは米国で最初に認可を受けた遺伝子組み換え作物である。1994年5月、FDA(連邦食品医薬品局)が承認したFlavr Savrというトマトで、長期間の保存に適した品種であった。ただし、開発費用などを回収するために通常のトマトよりも高い価格に設定されたため、商業的にはそれほどの成功を収めなかった。

    遺伝子組み替えの歴史

    ④日本には江戸時代の寛文年間頃に長崎へ伝わったのが最初とされる。貝原益軒の『大和本草』にはトマトについての記述があり、その頃までには伝播していたものと考えられているが、青臭く、また真っ赤な色が敬遠され、当時は観賞用で「唐柿」と呼ばれていた。中国では現在も「西紅柿」(xīhóngshì)と呼んでいる。日本で食用として利用されるようになったのは明治以降で、さらに日本人の味覚にあった品種の育成が盛んになったのは昭和に入ってからである。

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    ⑤アフリカ大陸北部は古来からローマ帝国イスラム文化の影響を受け、インド洋に面した東アフリカはアラブ商人が持ち込んだ文化の影響が強い。一方、大西洋に面した西アフリカは、大航海時代から奴隷交易時代にかけて揉まれたせいでヨーロッパの食文化やアメリカ大陸原産の食素材を受け入れ、キャッサバや落花生などは今や食生活に欠かせない素材となっている。南部アフリカでは、もともと素朴だった先住民の食文化が、16世紀以降に入植した白人の食文化を受け入れ大きく変動した。そうした文化圏を越えて食材としてのトマト受容は進んでいる様に見受けられる。
    *アフリカではなんとトマトは「冬野菜」らしい。

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    ⑥中国、台湾、香港、日本などでは、ボルシチと同じ調味料を用いながら、テーブルビートを用いずに、代用としてトマトを用いた具だくさんでオレンジ色のスープを「ボルシチ」と称している例がみられる。

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    • 中国は、ソ連との関係が深く、ロシア料理が西洋料理の代表であったが、テーブルビートの入手は困難であったため、正統な「紅菜湯」に対して、トマトで代用したものを「羅宋湯」と称して、洋食店で提供し普及した。「羅宋」は、上海語でルーソンと読むが、英語の「Russian」に漢字を当てたもので、「ロシアの」を意味する。香港では「茶餐廳」と呼ばれる喫茶レストランや学校の食堂でもよく出る洋食メニューである。

      極東の窓:「ボルシチ」を中国の上海で。

    • 日本でのボルシチの紹介は、新宿中村屋にロシアの作家、ウクライナ人のヴァスィリー・エロシェンコが伝え、1927年に販売されたものが本格的な始まりとされているが、このボルシチはテーブルビートを使用せず、トマトを煮込んだものである。
      *ロシア人の感想。「ビーツの味がしない。これはボルシチではない」。

    こうして紆余曲折を経ながらトマトは世界中で「ありふれた食材」としての市民権を獲得していったのだった。

     

  • チリが全米に普及したのは、1930年代の世界恐慌や、肉類が配給制になった第二次世界大戦がきっかけとされている。肉が手に入りにくくなった時、挽肉にいんげん豆やトマトを入れてボリュームのある汁物仕立てにしたチリが家庭で重宝されたのである。現在最も一般的なトマトや豆の入ったチリは中西部で生まれたもので、あまり辛くなく、香辛料の使い方も南西部のチリとは異なっている。

アメリカ軍のレーションに採用された事から、第二次世界大戦中後には、アメリカの同盟国・被占領国にも広まった。例えばイギリスで食事を供するパブにおいても、ランチメニューのひとつになっている。
*こうして「妙にグローバルな英国料理」がまた一つ…

*英国元来の味はグレービー(肉汁)ソース?

  • テキサス風チリテキサス州本来のチリには、トウガラシ以外の野菜は入らない。肉は牛肉または仔牛肉が好まれ、ペカン大に切るか粗挽きにして用いる。副菜として煮込んだいんげん豆(フリホレス)を供することはあるが、豆をチリに入れるのは邪道とされる。

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  • シンシナティ風チリオハイオ州シンシナティの名物チリは、マケドニアからの移民が1920年代に考案したものである。普通のチリよりも汁気が多く、シナモンで風味をつけてあるため味も独特である。ホットドッグやスパゲッティの上にチリコンカーンをかけて食べる点が特徴で、チリとスパゲッティだけの組み合わせをトゥーウェイ (2-way)、これにおろしたチェダーチーズ、豆、刻みタマネギのどれかをトッピングするとスリーウェイ、どれか二つをトッピングするとフォーウェイ、3つ全てトッピングするとファイブウェイと呼ばれる。

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  • ベジタリアン・チリあるいはチリシンカーン (chili sin carne) …肉の代わりに豆を主体とするか、グルテンミートなど植物性タンパク質由来の挽肉代用品を使用したチリである。色々な野菜を刻んで加えたり、豆を数種類用いて味に変化をつけることが多い。

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またホットドッグに豆の入らないチリをかけたチリドッグや、ナチョスのトッピングとしても人気がある。

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ルイジアナ州に近い米作の盛んなテキサス州東部では、ガンボの食べ方と似た、炊いた白飯にチリをかける食べ方がある。チリにマカロニなどショートパスタを加えたチリ・マック (chili mac) はアメリカ軍のMREのメニューの一つでもある。

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 こうして「新世界作物の伝来史」が絡んでくると、ますます「駄菓子ノリ」という表現の上から目線が気になります?

だがしかし - Wikipedia

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日本人なら白飯に決まってるだろ!!」みたいな公定ナショナリズムに対する強烈な反証。アメリカでも「東海岸に上陸した清教徒とインディアンの交流が生み出した)とうもろこしパン(Cornbread)こそアメリカ人のソウルフード」みたいな公定ナショナリズムに「ピザうめぇタコスうめぇ」で対抗する伝統があり、そういう次元の話なのですね。
*検索に引っ掛かって吃驚した。「白飯王」なるインドの王様が実在したとは…何かドラゴンボールっぽい?

さて、私達は一体どちらに向けて漂流しているんでしょうか…