これまでの投稿で述べてきた「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代?)」の終焉過程を巡る重油な指摘…
例の「ツタヤ的空間」に代表されるような「いまどきオサレな空間」ってのは、ある意味トーキョーエリジウム的生活ライセンスを持った/持たされた人がたの(もしかしたら貧困かも知れん)「労働者」のありようをうまいことコーティングしてくれる魔法なんかも知れんな…… #雑なことを言う
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) January 13, 2017
70年代いっぱい、領域によっちゃ80年代あたりまでも、いわゆるマルクス主義的世界観なり社会的認識なりを前提にして書かれたということを織り込まんとうまく解釈でけんようなところ、正直あるんだわな。何も歴史学とその界隈だけの話でもなく。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) August 14, 2018
だからと言うて「マルクスを読まにゃあかん」じゃなく、大枠でええから当時前提となっとったものの見方や考え方を補助線として持っとくってだけのことなんだが、それを「大学」や「学会/界」などの外側でゆったり担保しとった「人文書」市場の広がりが枯渇していってすでに死滅寸前になっとるわなぁ。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) August 14, 2018
「思想史」(言い方はいろいろにせよ)的脈絡、つまり「人文書」市場が結果的に担保しとった「戦後」の人文社会系「教養」ごと全部なかったことにされていった90年代末からゼロ年代の情報環境と、その過程で考えなしに浮上していった言説がどれだけその後今に至るまで悪さしとるか、だわな( ´Д`)y━・~~
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) August 14, 2018
トーキョーエリジウム的言語空間、ポエム系もの言い、内輪と身内でだけ超伝導的に流通する(かのように思える)コピーライティング、生身のおのれの制御の下に置かない/置けないことばともの言い群の自明化、などなどそのへん全部からんでくるお題なんだと思うとる。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) August 14, 2018
あと、「専門性」とかが過剰に称揚されていった分、俯瞰して見通す意識や視線が実は衰退しとるとおも。大綱化と教養課程解体の弊害でもあるんだが、ガクモン世間の見取り図をおおまかにでもまず刷り込む機会が大幅に失われちまったのに「入院」志望を煽って「競争」で擂り潰す環境醸成したわけで、な。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) August 14, 2018
「学会」がやたら増えてった時期とも重なるのはあれ、こちとらようわからんかったが、そういうそれまでの裏打ちになっとった背骨なり支柱になっとったディシプリンが煮崩れてく過程で収拾つかんようになってった現われだったんかな、とかいろいろと、日本語環境の人文社会系については。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) August 14, 2018
そもそも忘れられがちな重要ポイント。それは総力戦体制時代にはカール・シュミット流の「敵友理論」によって峻別されていた「科学的マルクス主義(ほぼ「スターリン主義」と同義?)」と「(同様に宗教や伝統的価値観への依存心を意思の力で超克しようとした)ロシアン・ボルシェビクズムやイタリアン・ファシズムやドイツ・ナチズム」といった全体主義思想間の対立構図が、もはや現代人には理解不可能となっているあたり。
すると実はこういう問題が浮上してくるのです。
ジョン・フォード監督の米国映画「わが谷は緑なりき(1941年)」…「怪我で障害を負ってふてくされていた子供が、親しい人達に励まされてリハビリの努力を開始し、やがて大自然の中で機能復活を果たす 」エピソード映像化のオリジナル。
阿部豊監督「あの旗を撃て(1944年)」…戦時下(昭和18年(1943年)1月~昭和19年(1943年)3月)大日本帝国が「アメリカ文化が浸透し、ハリウッド映画を見慣れていたフィリピン人」を対象に封切りした国策映画の興行成績トップは「あの旗を撃て」(137770人)、「ハワイ・マレー沖海戦」(50165人)、「阿片戦争(47719人)」「支那の夜(47644人)」。恥も臆面もなくハリウッド映画をそのままパクったのが成功の理由だった。
「マルキスト」高畑勲監督の手になるTVアニメ「アルプスの少女ハイジ(1974年) 」…原作から宗教色を排除しようとした結果「自らの精神的弱点を克服して車椅子生活から脱却するクララ」が最も有名なエピソードとなる。しか別作家の手になる原作「ハイジの青春 アルプスを越えて」を映画化した「チャーリー・シーンのアルプスを越えて(Courage Mountain、1989年)」においては「(宗教にすがる人間的弱さの)意思の力による超克」を達成したクララは成人後、なかば必然的にナチス(注)へと傾倒していく。*【注】実は映画「ハイジの青春(Courage Mountain、1989年)」第一次世界大戦中という設定らしく、クララの国家主義者への変貌は「ナチスへの熱狂」でなく「ヴィルヘルム皇帝を戴くドイツ帝国への熱狂的忠誠心の表明」が正解となる模様。
川原礫「アクセル・ワールド(2009年〜)」…「家族間の甘えの克服」「人間の心を病ませる都会と精神的健康を回復する場としての田舎生活」「宗教にすがる人間的弱さの意思の力による超克」といった伝統的構図がリアリティを失った結果、この系統の物語文法が「健常者<身体上の障害や精神的トラウマを抱える人々<表面上は普通にしか見えないが心の奥底に闇を飼う選ばれし者達」なる中二病御用達の世界観において「宇宙進出ロマン」と結びつけられる。実際「アクセル・ワールド」の主人公ハルは「車椅子の師匠」倉崎楓子に「(東京タワー上で)貴方の重力の軛から抜けたい感情は大気圏を越え宇宙まで届いたんです」と指摘。そう、彼女のアバターの真の意味は…
げに恐ろしきは「生存バイアス」。我々は歴史上どんな通り道を辿って今日に至ったかなんて、かくもあっさり忘れ去ってしまうものなんです?