こういう考え方もあるのか。どこまで現実にそうだったかはともかく興味深い考察。
うる星やつらについてWikipediaで調べてみたら、実はラムは第一話のみのゲ... - Yahoo!知恵袋
「うる星やつら(1978年~1987年)」連載以前に「勝手なやつら(1978年)」という投稿作品があります。この作品が新人賞を獲得し、不定期連載5回の予定で執筆を開始。連載最初に三話用意されたそうです。その中の第1話を見た編集側がラムを支持し、ラムをヒロインで行く事に変更するよう高橋氏に持ちかけたようです。
ラムという宇宙人ヒロインと言う事で当時の編集長がタイトルも「勝手なやつら」から「うる星やつら」に変更。時間的に間に合わない為第2話はラム無しで掲載、第3話は描き直しで、ラムが諸星家に住み込むことになります。
ラムをヒロインにして正式連載となりますが、第15話「いまだ浮上せず」にはラムは出てきません。完全にラムを無視した話でしのぶがヒロインです。この話だけ絵柄がやや古く、差し替えとなった幻の第3話の可能性が高いです。
第13話「系図」ではあたるとラムが十年後(昭和64年)に行き、あたるがしのぶと結婚し息子諸星こけるを育てています。この話は明らかに「うる星やつら」に対する原作者の意思であり、クサビとなってます。後にアニメ化しますが、アニメは最初からラムがヒロインである為この話だけはアニメ化しませんでした。
330~335話にかけて、原作ではついにしのぶに別の男をあてがい、運命製造管理局の因幡と出会います。この時のどたばたで「系図」の未来を複数ある未来の一つとして、これを放棄、因幡の意思で未来を作る事となります。
実は私もそうなんですが「しのぶ派」には、未だ納得のいかない部分も…
ようつべでうる星やつらのOVAを観た。因幡君の回。
— mejiro (@mejiroyoyogi) 2020年4月29日
私はあたる×しのぶ派なので、30年前に原作読んで以来ずっと、何というか悪い言葉を使えば「あてがわれた」感が拭えない。この回のアニメは初見だけど、それは今もなお変わらない。
しのぶが因幡にキスしたのは唖然としました、漫画にはそんな場面無かったのに
— 青たこ (@houchu1) 2020年4月29日
31巻と33巻を読み返しました。確かに無いです。蛇足です。
— mejiro (@mejiroyoyogi) 2020年4月29日
続き)作者によって造られたキャラクタたちが勝手に動き回るようになって、メインヒロインから外された三宅しのぶは他のキャラクタとの絡みこそあれ後半以降埋没して、彼女はどうしたら幸せになれるのか?収拾をつけるべく模索の結果が因幡の登場。
— mejiro (@mejiroyoyogi) 2020年4月29日
続き)昭和64年の同窓会の回に登場した諸星あたるとしのぶの息子、諸星こけるをどうするのかもあって。産まれてくるはずの子どもをいないことにはできなくて、結果こういうことに。
— mejiro (@mejiroyoyogi) 2020年4月29日
追記。作者は産婦人科の開業医の子ども。これ以上はさすがにゲスパーが過ぎるか。
— mejiro (@mejiroyoyogi) 2020年4月30日
諸星こけるは犠牲となったのだ? そういえばしのぶは彼の存在を知らない…もし知ってたら、物語展開は一体どうなってたのだろう?!
そういえば連載が進むにつれ次第にフェイドアウトしていく「あたるの母」の口癖は「産むんじゃなかった」。そして以下のネタは「セイラームーンのBirth Controlネタ(悪戯をやめないちびうさを、月野うさぎが「未来の私に連絡して産むのやめちゃうから」と脅す。多分二次創作同人誌からの転載)」と並んで21世紀における国際的Meme界にまでしっかり継承されていたりするのです。そもそも諸星あたる自身がかなりのボーダーライン上に…
あたるの母ちゃんのこういうところがほんと好き pic.twitter.com/ljG4CtZlVu
— 蝉岡こう (@kw_00) 2019年5月18日
後悔アルバムの本編も草だから見て pic.twitter.com/TMe8hfzQQp
— 蝉岡こう (@kw_00) 2019年5月18日
ここで思い出すべきは東京のコインランドリーに捨てられた子供達が、東京に「神経ガス」ダチュラ散布という無差別テロの形で復讐する「コインロッカー・ベイビーズ(1980年)」。手塚治虫の漫画「MW(ムウ, 1976年~1978年)」との連続性を指摘する向きも。
さらにはこんな意見も。
高橋留美子の番組キャラクター部門の1位犬夜叉で2位はラムちゃんだったのにトレンドに入るの3位の殺生丸様なの女性は正直ねって感じがする。犬夜叉当時はまだ子供だったから普通に犬夜叉好きだったけど今見たら多分私も殺生丸様になるな
— 無花果🐉マレかわいい (@gareichijiku) 2019年11月16日
イケメン丸。奈落もイケメンだけどやっぱり丸だな
— 無花果🐉マレかわいい (@gareichijiku) 2019年11月17日
キモイ(笑)私も好きではなかったかな。でも人気あったよね。かごめの人気のなさに笑ったけど。作品人気犬夜叉が1位なのに他作品のヒロインより下という事実 #るーみっく大投票
— 無花果🐉マレかわいい (@gareichijiku) 2019年11月17日
顔だと思う。鬼蜘蛛の時キモイけどね。私は嫌いだったな。性格もそうだけど中の人の話し方もちょっと苦手だった。ラムちゃんとか管理人さんは好きだけど乱馬はシャンプーだったし犬夜叉は桔梗だった(そのルートはないと分かってても)リンネは見てないから知らぬ
— 無花果🐉マレかわいい (@gareichijiku) 2019年11月17日
犬夜叉からるーみっくに入り古いやつも読み漁ったのだ。あかねは結構理不尽だからかな。シャンプーも初期はひどいけど何より顔が一番可愛いから。本当か謎だけど噂でシャンプールートは少し先生考えてくれてたらしいけどね(道場に住んでるのにどうするのか謎)桔梗は死しかないから無理だけど
— 無花果🐉マレかわいい (@gareichijiku) 2019年11月17日
うる星が当初のヒロインのしのぶよりラムが人気でヒロイン交代した前歴あるかららんまで似た感じのおかっぱヒロインでリベンジしたかったらしい。でも結局シャンプー人気出て悩んだんじゃない?最終的に初期貫徹したけど
— 無花果🐉マレかわいい (@gareichijiku) 2019年11月17日
それでも「現実は常に正解」…
改めて検討材料を揃え直してみましょう。
高橋留美子「うる星やつら(1978年~1987年)」 - Wikipedia
1978年に短期集中連載作品として『少年サンデー』に初掲載され、好評であったため1979年に月刊連載化・不定期連載化された。
当時高橋はまだ大学生であったため、約20 - 30Pの作品を数カ月おきに連載していたが、大学を卒業すると同時に週刊連載に移行。
1980年より「少年サンデー」にて本格的週刊連載となり(第1回の本格連載は面堂終太郎登場話である原作第23話「トラブルは舞い降りた!!」)、一週およそ16Pの連載が続けられた。定期連載以降、最終話まで作者都合による休載はない。
あだち充の『タッチ』と共に、当時の『少年サンデー』を支える二本柱となるほどの人気作品となったことからテレビアニメ化・アニメ映画化もされ、単行本34巻(全366話)に及ぶ長期連載作品となった。最終回時点では『がんばれ元気』を上回り、『少年サンデー』史上最長巻数だった。
不定期連載時は恋愛要素が皆無で、ドタバタやSFをメインにしたギャグ要素が非常に強かったが、週刊連載になり話が進むにつれて恋愛をメインに、ギャグをサブにした雰囲気、いわゆるラブコメの作風に変化させてゆく。後半にゆくに従って、笑いの要素を抑えた、非常にシリアスなストーリーも盛り込まれていく。そこに高橋留美子の持ち味の奇想天外なキャラクターなどを絡ませつつ、恋愛、学園モノからSF、妖怪、幽霊、伝奇、スポーツ、冒険、格闘、歴史など、ある意味「なんでもあり」の世界観を打ち出し、長期連載作品となっていった。
当初は諸星あたるを中心として話が展開することが多かった。高橋は当初、いろんな災いを呼び寄せる受身のキャラクターであるあたるでは、毎回の話を作るのに行き詰まってきたため、短期連載の後半から週連載への移行を境に、あたるをもっと楽観的で積極的な浮気性のキャラクターに変化させていく。すると、今度はラムがあたるを追いかけるストーリーばかりになり、後半はラムの扱いに苦労したという。したがって、藤波親子の登場前後の週連載の前期までは、様々なキャラクターが登場してはあたるとラムの関係に絡みつつ話を展開していくパターンが多かった。藤波親子の登場あたりの中期 - 後期にかけては、次第にそれまで登場したキャラクターたちの再登場や、竜之介と弁天、レイとクラマ姫等のサブキャラ同士を絡めたり、それまで登場したキャラの近親者や関係者などを登場させて話を展開させるなど、群像劇に近いものとなる。回によってはあたるやラム以外のキャラクターを中心として話が進み、そこにあたるやラムが登場はするものの傍観者に留まり重要な役割を果たさないエピソードも多くなる。
物語のほとんどが一話完結型。登場人物は基本的に進学、卒業などがなく、週刊連載開始後は、あたるやラムたちは友引高校2年生(開始当初・短期連載時は1年生)のままである。ただし正月、節分、七夕、クリスマスなどのいわゆる年中行事は、連載の掲載時期にあわせて毎年行われ、最終回までこの設定は貫かれた。ただし、あたるの浮気性の改善や面堂の暗所恐怖症の原因究明のため過去に行く話や、「系図」や因幡くんのシリーズ連作などで未来に行くエピソードでは、登場人物は相応に若かったり大人になっている。
こうして全体像を俯瞰してみると意外にもラムちゃんが再登場する「うる星やつら」第3話「悲しき雨音」の物語展開へのきちんとした分析が重要となってくる様です。
- メガネ初登場回。「ラムちゃんを地球に呼び戻す会」を結成し、数学のテストのカンニングを条件に諸星当たるを引き込む。
- 手を結び合って輪をつくって心の中で「ベントラベントラスペースピープル」と唱える儀式を2時間以上続けた結果、別のUFOが現れ、物語は突如ファースト・コンタクト物に推移。
- 実はこのUFOは星間タクシーで諸星あたるの宇宙まで届く思念波を捉え「家に帰りたい」という注文に従っただけであったが、地球と宇宙の物価はあまりに違い過ぎ、運賃としてUFO編隊による「地球が含有する全ての石油」の強制取り立てが始まってしまう(そもそも地球全部を運賃として引き渡したとしても成層圏までしか辿り着けない)。
*松本零士「宇宙海賊キャプテンハーロック(1977年〜1979年)」もそうだが地球軍とインベーダー軍が戦闘する描写がない。それ以前に、そこに登場する「インベーダー」が戦って排除すべき(排除可能な)相手かが分からない。そしてここに「インベーダーが人間の目から見て好ましい姿をしている様に見えるとするなら、それは間違いなく計算づくの擬態であろう」なる恐るべきドグマが登場する。そうか、ならばラムちゃんが可愛い様に見えるのもまた…
- ここにラムが登場。諸星家への同居許可を条件に料金を肩代わりを申し出る。諸星あたるに拒否権など存在せず、無事石油の地球への返還が始まる…
*この物語自体「信頼できない語り手」論法で解析すると様々な解釈が…
そうこの話、実は1970年代後半当時の和製コンテンツ業界を席巻していた「(悲観的ガイア仮説を加速させた)オイルショックによる不景気到来」「起死回生作としての怪奇/オカルト/UFO/超能力ブームへの(不本意ながらの)便乗」といった諸要素の「ほぼ全部」入りなのですね(ちなみにサクラ初登場の第4話「あなたにあげる」が悪霊憑依を扱うオカルト回、あたるとしのぶとラムの三角関係が擬似バミューダトライアングル現象を引き起こす失踪ミステリー回で「全部入り」が完成)。それはある意味デビュー作「勝手なやつら(1978年)」から継承されてきた最初期路線の終着到達地点でもあった訳なのです。
高橋留美子「勝手なやつら(1978年)」 - Wikipedia
高橋留美子のデビュー作。1978年、第2回小学館新人コミック大賞佳作を受賞。サンデー本誌に掲載されてデビューとなる。これにより高橋留美子の代表作となった『うる星やつら』の初連載へと繋がっており、原案にもなっている。
新聞配達員のケイが、諸事情によって半魚人・宇宙人・地球人にそれぞれ1個ずつ、合計3種類の異なる爆弾を体内に埋め込まれてしまう。3つの爆弾のどれか一つでも爆発すると残りの爆弾も誘爆し、複合作用により宇宙が無くなるほどに威力が増大してしまった。
起爆スイッチを押さない限り爆発しないと安心した直後、地球人科学者が、爆弾をケイの心臓と連動させ、ケイが死んだり体内から出すと爆発するようにしてしまったことを告白。宇宙の存続のため、彼は皆に大事にされる事になる。
- 当時の和製コンテンツを語る上で、永井豪原作の元祖スーパーロボットアニメ「マジンガー Z( 1972年~1973年)」続編「グレートマジンガー(1974年~1975年)」の思わぬ苦戦と永井豪と石川賢原作「ゲッターロボ(1974年~1975年)」の相応の成功は外せない。要するに消費者が安易な既存路線の継承を受容せず新機軸を求めているのは明らかだったが、オイルショック(ピークは1973年,1979年の2回)による景気冷え込みもあってそれを何処に求めるかが実に難しい問題となっていく。第二次怪獣ブーム/ 変身ブーム(1971年~1974年)を支えてきた「仮面ライダー(1971年~1973年)」シリーズの人気にも陰りが見え始め「キューティーハニー(1973年)」「魔女っ子メグちゃん(1974年~1975年)」の様な当時の国際的ウーマンリブ運動の盛り上がるりの影響を受けた変身少女物も一時的停滞を余儀なくされる。
- 映画「日本沈没(1973年)」「ノストラダムスの大予言(1974年)」が日本国内で大ヒットし、川内康範原作の「愛の戦士レインボーマン(1972年~1973年)」「ダイヤモンド・アイ(1973年~1974年)」「正義のシンボル コンドールマン(1975年)」において敵組織が現実を意識した生々しい悪として描かれ、横山光輝のバビル二世/マーズ系世界観や、石ノ森章太郎のキカイダー/イナズマン系世界観が悲観的ガイア仮説に傾斜していったのはまさにそういう時代だったのである。
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ここから当時の和製コンテンツを特徴付ける「(景気形態の影響を受けるどころか、国際的陰謀論の横溢でむしろ勢いを増した)怪奇/オカルト/超能力/UFOブームへの(疑問符だらけの)斜に構えた傾斜」という流れが立ち上がってくる。
時代に過剰適応して野村芳太郎監督映画「八つ墓村(1977年)」を完全なるオカルト物に改変した脚本家橋本忍が「幻の湖(1982年)」で撃沈したのを見ても、当時の和製コンテンツ業界が「斜に構えた」のは必ずしも間違いではなかった。
1970年代も末期に近づくにつれ聖悠紀「超人ロック(同人誌発表1967年~)」の商業誌進出(1977年~)、萩尾望都「11人いる(1975年)」「スター・レッド(1978年~1979年)」、(A・E・ヴァン・ヴォークト「スラン(Slan, 1940年 )」から出発しながら「人間」を描き切る事で原作に横溢する「選民意識とその裏返しとしての劣等感を背景とする人種間戦争」という要素を完全に消し去った重厚なSF超大作)竹宮恵子「地球(テラ)へ(1977年~1980年)」の少女漫画という媒体での成功、月刊ムー(1979年~)刊行、宇宙に適応した新人類ニュータイプが登場する富野由悠季監督作品「機動戦士ガンダム(1979年〜)」、星野之宣「月夢(1979年)」「幼女伝説(1979年〜1982年)」の登場などを通じて当時の混沌状態は次第に解像度を高めつつ(21世紀以降ですら再引用に耐える)和製コンテンツ独特の方向に整合化され統合が進むのであるが、こうした流れを語る上で鬼子となってくるのが1974年にデビューして宮崎駿にその才能を嫉妬され「諸星あたる」の名前の由来となった諸星大二郎だったりする。
またこの時代、「うる星やつら」同様あえて当時の解像度UPトレンドに乗らない事で独自の立ち位置を確保したのが寺沢武一「コブラ(1977年〜)」だった。まぁみんな意外と細かいSF設定的整合性より「スペースオペラ(Wide-screen Baroque=ワイドスクリーン・バロック)」の方が好きだし、まさにその指向性こそがスターウォーズの国際的ヒットに繋がっていくのである。
*そういえば「コブラ」には悲観的ガイア仮説の設定を引き摺った作品も存在する。大抵は古代文明を滅した最終兵器で、悪党がそれを暴走させ様とするが失敗し、無人の地に遺棄される展開。
吾妻ひでおの不条理SF漫画なんかも割とそういう立ち位置だった。
時はまさしく「夜明け前が一番暗い」暗黒時代(Dark Age)…どうしてセカイ系評論者は、ほぼ同時代に現れた以下の2作品について対比的に語って来なかったのでしょう?
①横山光輝「マーズ(1976年~1977年)」の世界観
- 悲観的ガイア仮説のストレートな顕現例。
*ラーの監視者「地球人に対するそんな考え方は捨てろ。地球人は場所や環境によって悪鬼に早変わりするんだ(ユダヤ人ホロコーストや「南京大虐殺」やソンミ村を思わせる場面)。そんな例が数えればキリがないほどあるのに、それが一度国に帰ると良き市民となり、良き父親に早変わりしてしまうんだ。しっかりしろ。上部だけに騙されるな」。 - 「東京総合病院の院長の娘春美」が「キミ・ボク関係」を構築し得なかったが故に人類に絶望したマーズが地球を滅ぼすのを防げなかった。
-
この問題は後にアメコミの世界においてアラン・ムーア「ウォッチメン(Watchmen, 1986年~1987年)」におけるDr.マンハッタン問題として再燃する。
*そういえば竹宮恵子「地球(テラ)へ」にも新人類ミュウが一旦は旧人類と縁を切って外宇宙に逃れる道を選ぼうとするも、やがて心理的抵抗が勝って地球に折り返す場面が出てくる。悲観的ガイア理論への処方箋としての「キミ・ボク関係」、かなり重要…
②高橋留美子「うる星やつら(1978年~1987年)」の世界観(定期連載以前)
- 悲観的ガイア仮説のパロディ。諸星あたるは人類を何度も滅亡の危機から救いながら危険が去った後にはお約束的に毎回スケープゴートとして袋叩きにされ続ける。これ実は、鬼頭莫宏「なるたる(1998年~2003年)」において人類が自業自得で「リセット」をされる物語文法そのもの…
*「自分に不利な状況を引き当てる為なら、その思念波が大気圏の外まで届く」はまだいい。「あらゆる霊障をもたらす悪霊を引き寄せ自分に憑依させてしまう」特徴は、元が相応にタフでなければ幼少時のうちに死んでいる。一方「自分に不利な結果をもたらすコンピューター抽選には全て当たる(そうやってラムもクラマも引き当てる)」特徴はある意味、相手も不幸に巻き込んでいる。「人類の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」観測時にしばしば顕現する「傴僂で鳩胸」現象…
- そういう諸星あたるに対し「優しいインベーダー」ラムは、決して「まだ人類に未練なんてあるっちゃ!? 別にいなくなってもダーリンも地球も宇宙も困らないっちゃ」とは申し出ない。
*考えてみれば「追手」が「犯人」逮捕を最優先課題と考え、現地への影響を最小限に留める事を心掛けているハル・クレメント「20億の針 (Needle, 1950年)」「一千億の針 (Through the Eye of a Needle,1978年)」、特撮TVドラマ「ウルトラマン(1966年~1967年)」、映画「ヒドゥン (The Hidden, 1987年)」、ロバート・R・マキャモン「スティンガー(Stinger, 1988年)」の時間線。岩明均「寄生獣(Parasyte, 1988年~1995年) 」のミギーや映画「ヴェノム(Venom, 2018年)」のヴェノムなら、人類との交渉上こういう言い回しが有効である事を熟知した上で確実に取り引き材料に使ってきた事だろう。物語文法上、この時宿主側は上手い言い訳を考えて相手を説得しないといけない。岡本倫の漫画「エルフェンリート(Elfen Lied, 2002年~2005年)」の主人公が新人類「にゅう」に「僕だけでなく、みんなが生き延びないと僕の心は死んでしまう」と伝え人類殲滅を思い止まらせた様に。その一方で「ヴェノム」の主人公の様に「まぁ悪党は食ってヨシ」という例外条件を設けた時点で地獄の釜が開いてしまうのである…それなら誰なら完璧な形で善人と善人を峻別し得るというのだろう?
では誰が(「うる星やつら」第1巻におけるここまでの展開では)「キミ・ボク関係」を駆使して(諸星あたるやラムがもたらす可能性がある)全面的破滅の可能性から人類を守り抜いたのか。ある意味その当事者は、あらゆる次元の災厄を「諸星あたると自分の関係に割り込む(ロミジュリ式物語文法におけるバルコニー的)障害」としてしか解せず、全て痴話喧嘩レベルに落とし込んでしまう三宅しのぶだったのかもしれない。そうまさに「高慢と偏見(Pride and Prejudice, 1813年)」作中世界を統括する「娘の嫁ぎ先を心配する郷士の妻」の如き「恐るべき日常化機能」を付与された存在…
*以下の文章が最後の一行でジェーン・オスティン化する恐ろしさ…まぁ元々それ以前の文章だって必ずしも強引な外挿設定とはいえないし?
ある意味、この構造自体は谷川流「涼宮ハルヒ・シリーズ (2003年~)」における「この宇宙全体が超能力者たる彼女の願望の射影結果に過ぎないかもしれない」涼宮ハルヒに周囲の「人間(宇宙人のインターフェイス、超能力者、未来人)」が「昨日を繰り返す形で明日も来る」退屈な日常しかイメージさせない様に画策している世界観に継承されたとも。かかる(仏教世界に勤行概念をもたらし、カソリック的世界観における壮麗な儀礼と並列関係にある)儒教的呪術性への言及抜きに「2000年代後半における空気系の登場」は語り得ない。
- こうした世界構造は「ラムとしのぶの対決姿勢」が先鋭化しするとあっけなく崩壊してしまう(しのぶとラムの関係が決定的に破綻し、諸星あたるが人類に絶望したらラムは諸星あたるだけ救って人類を滅亡させてしまえば良い)。そこでゲストキャラが次々と投入され「あたるとラムとしのぶの三角関係」が常に脅かされ続けるばかりか二人が第三のライバルに対抗して共闘する工夫が遂行され続ける展開を迎えたとも。
*そう、まさにこのジレンマこそがハル・クレメント「20億の針 (Needle, 1950年)」「一千億の針 (Through the Eye of a Needle,1978年)」、特撮TVドラマ「ウルトラマン(1966年~1967年)」、映画「ヒドゥン (The Hidden, 1987年)」、ロバート・R・マキャモン「スティンガー(Stinger, 1988年)」の時代には存在せず、岩明均「寄生獣(Parasyte, 1988年~1995年) 」や映画「ヴェノム(Venom, 2018年)」が不可避的に抱える主題となってくる訳である。
第四話「あなたにあげる」第九話「大勝負」第19話「ディスコ・インフェルノ」におけるサクラ登場
第六話「愛で殺したい」第七話「憎みきれない六でなし」におけるレイ登場
第八話「いい日旅立ち」における弁天(初出は短編)「再登場」。
第10話「お雪」におけるお雪登場。
第14話「未だ浮上せず」における人魚登場(脇役過ぎて画像がネット上にない)。
第16話「女になって出直せよ」第17話「思い過ごしも恋のうち」第18話「父よあなたは強かった」第21話「勇気があれば」におけるクラマ登場。
第21話「勇気があれば」における「安達原鬼子」
改めてWikipediaの記述に戻ります。
高橋留美子「うる星やつら(1978年~1987年)」 - Wikipedia
高橋は当初、いろんな災いを呼び寄せる受身のキャラクターであるあたるでは、毎回の話を作るのに行き詰まってきたため、短期連載の後半から週連載への移行を境に、あたるをもっと楽観的で積極的な浮気性のキャラクターに変化させていく。すると、今度はラムがあたるを追いかけるストーリーばかりになり、後半はラムの扱いに苦労したという。したがって、藤波親子の登場前後の週連載の前期までは、様々なキャラクターが登場してはあたるとラムの関係に絡みつつ話を展開していくパターンが多かった。
大体この時期に該当する流れとなる模様。男(あたる)側からも女(しのぶ)側からも「心細いな」が歌えた物語段階となる。一応、週刊連載開始に合わせて登場した「新キャラ」面倒周太郎まではなんとかこの範疇で扱えそう?
*正直言って私は、ここで顕現する「諸星あたる観点から見た(隙あらば浮気してきた)三宅しのぶ」なる概念を「男女(男男,女女)関係の完全平等化」を標榜する第三世代フェミニズムと結び付けて考えており、そこに21世紀以降の未来を見ている。当時はまだまだ早過ぎた?
高橋留美子・うる星やつら
— 馬鈴薯そば (@potatosoba) 2016年11月8日
新連載スタート
週刊少年サンデー・小学館
1980年 pic.twitter.com/opdhqMhZkY
それでは1970年代がどれほど混乱に満ちた時代だったか改めて別観点から…
- 世界恐慌の余波で「シリアスな社会物」へのシフトが強要された1930年代ハリウッドにおいて、実際に大ヒットしたのは逆張りしたフランク・キャプラのスクリューボール・コメディだったりウォルト・ディズニーの長編アニメ「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs, 1937年)」などだった。こうした番狂わせは1970年代後半の日本でも起こっている。例えば石森章太郎原作のTVドラマ「がんばれ!! ロボコン(1974年〜1977年)」とかイマイのプラモデル「ロボダッチ・シリーズ(1975年〜)」とか…当時の製作者側は「こんな暗い時代だから逆にコメディ・タッチが受ける」という発想になかなか辿り着けなかったというエピソードも。
*高橋留美子「うる星やつら」の慧眼は、まさにここにあったとも。
また当時の男子にとっては「玩具屋の超合金売り場」や「模型屋のプラモデル棚」も重要なメディアとして機能していたのである。長谷川のウォーターラインシリーズの延長線上における宇宙戦艦ヤマト系の艦隊シリーズとか、アオシマのマグネモ・シリーズや輪切り戦艦シリーズや猟奇分割巨大ロボットシリーズとか…今から思えば、そこに広がっていたのはまさしく「(児童の乏しい財布の中身を狙った「少額商品の大量シリーズ展開」なるマーケティング戦略のみがかろうじて共通される)混沌(カオス)そのもの」だったのである。直前の「変身サイボーグ」大ヒット期(1972年~1974年)には(従来の作品の延長線上)シリーズとしてのラインナップ充実の必要性は理解出来ても、それと対を為す形で「背景となるオリジナルストーリーを充実する」という発想が育っていなかった。やはりここでも「解像度」の問題が表面化してきたといえよう。
- マカロニウェスタンの影響を受けたアクの強いキャラクターが活躍する異色譚から、柳沢きみおが開拓した「月とスッポン(1976年~1982年)」「翔んだカップル(1978年~1981年)」といった少年向け週刊漫画誌におけるマイルドなラブコメへの推移がじわじわと進んだのもこの時期。ある意味メインストリームが見失われ、誰もが試行錯誤の最中で虚数(Imaginaly Number)めいた有り得ない概念間の補完で満ち溢れていた時代だったとも。
*例えば小池一夫原作漫画もマカロニ・ウェスタン臭の強い「御用牙(1970年~1976年)」から、次第にラブコメ臭を強めていった「魔物語 愛しのベティ(1980年〜1985年)」への変遷を遂げている。
そして突然思わぬ形で訪れる「夜明け」…
それは輝かしいばかりではなく、それまで闇の中で手掛かり一つなく続けられてきた無数の試行錯誤の産物の多くが朝日の輝きに耐え切れず(多くの生物が硬い外郭を備える様になり化石が残る様になったカンブリア期以前の様に)屍体すら残さず消滅していく、そんな無残な時代でもあったのです。
- こうして高橋留美子「うる星やつら」初期作品を読み返してしみじみと思った事。おそらく当初のコンセプトだった「諸星あたるが毎回別の災厄に遭遇するハプニング物(比較的事件の規模が小さい)」のままでも、それに少し手を加えた「悲観的ガイア理論のパロディ物(比較的事件の規模が小さい)」でも連載を1970年代末まで続けるのすら難しかったのではあるまいか。
*そもそも作品のクオリティ云々以前に、1970年代を席巻した「児童向け怪奇百科事典」の様な世界が急速に収束しつつあったのである。そして(月刊ムー刊行などにより)次なる到達地点として浮かび上がってきた、より高度な「怪奇/オカルト/超能力/UFO/時空間ミステリー」の市場キャパシティは遥かに小さい(「レッド・オーシャン=市場規模は大きいが、ライバルも多い状態」「ホワイト・オーシャン=ライバル自体は皆無に等しいが、市場規模も皆無に等しい状態」とするなら「ライバルばかり多くて市場規模に見合わない」ピンク・オーシャン状態)事も明らかとなってきた。
*そして何より、当時この分野で突出していた小松左京や諸星大二郎や萩尾望都や大友克洋の超人振り(1980年代に入ると星野之宣辺りの名前も加わる)。多くの作家が、相応の教養に支えられる形でああ超越的に振る舞えなければ勝てない世界で自分が生き残るイメージを保ち得なかったし、実際かかる次元的集約は一歩間違えば小説「コインロッカー・ベイビーズ(1980年)」「帝都物語(1985年~)」における無差別テロ志向、映画「幻魔大戦(1983年)」「AKIRA(1988年)」における選民思想、漫画「ぼくの地球を守って(1986年末~1994年)」における前世因果思想を経てオウム真理教のサリン散布事件に辿り着いてしまうのだから。
*そういえば同時期盛り上がったレザー・ゲイ・ムーブメントも1990年代に入ると、一旦「バットマンの乳首」事件なる終着地点に辿り着く。1970年代の高橋留美子は「ラムのビキニ姿」「弁天のハードコア・ファッション」といった形でこの領域にそれなりの形では足を踏み入れつつ、決してその精神面についてまでは決して踏み込まなかった事で巻き添えを回避した。まぁこれは寺沢武一の諸作品についてもいえる事だが(一方、あえてこうした転落イベントに毎回巻き込まれつつ、その都度きっちり生還を果たてきた原作者小池一夫の様な化物も存在する)。
- だから早々にこうした世紀末的破滅に突き進んでいく路線を畳み「あたるとしのぶとラムの三角関係に割り込みが入り続ける」構造へと推移したのは歴史のその時点の最適解だったが、そのままでは1980年代に一大ブームとなった王道ラブコメの(男女二人の間に障壁を設け、それが克服されていく様子を描く)バルコニー構造に合致せず、それで次第にしのぶが切り捨てられていく。
*その途上で「レイ・ラム・あたる・しのぶ」「ラム・あたる(悪)・あたる(善)・しのぶ」「面堂・ラム・あたる・しのぶ」と四枚羽構造の内容を次々と更新していくトライアルが興味深い。
何というギリギリの舵取りの連続(探せば失敗例が無数に転がっている)。全体構造として「文明開化によって日本語そのものが変質していく時代にメインストリームに残り続けた北原白秋」みたいな壮絶なサバイバル譚が見て取れます。これが浮かび上がってきた辺りで、以下続報…