「その時、4chanが動いた」?
*これまでどうして国際SNS上の関心空間でクール教信者「小林さんちのメイドラゴン(原作2013年〜、アニメ化2017年)」が思わぬ評判を獲得したか理解できなかったが、鍵は「Etarnal MILF」なる新概念の提案にあった?
色々な意味で酷い。そして日本人がこのネタを思いつけなかったのが悔しい…
「その時、4chanが動いた」?
*これまでどうして国際SNS上の関心空間でクール教信者「小林さんちのメイドラゴン(原作2013年〜、アニメ化2017年)」が思わぬ評判を獲得したか理解できなかったが、鍵は「Etarnal MILF」なる新概念の提案にあった?
色々な意味で酷い。そして日本人がこのネタを思いつけなかったのが悔しい…
日本人のほぼ全員がネットワークに接続した端末を持った結果起こったのは、ネットワークを介した無意識の統合とか思想の統制とかでなく、論理も根拠も無く風潮の有無だけで正誤を測るような飛びっきりの馬鹿の可視化でしたとさ。
— 蟹春雅暮 (@QaNiM1S0) 2017年5月4日
最近、声を荒げて「北朝鮮危機が迫ってる今こそ、全日本人が現政権の機能麻痺と自衛隊の即刻機能停止を心から望んでいる!!」と主張する人々が次第に勢いを増しつつある様にも見受けられます。
しかも「そう考えられなければ平和主義者でも民主主義者でもない。そんな似非平和主義者や似非民主主義者はナチスであり、まず本物の筋金入りの平和主義者にして民主主義者たる我々から真っ先に殺される」なんて行動主義的立場に立脚している様です。まさしく「平和主義者/民主主義者優越主義」。どうやらそれが彼らによって唯一心から許せる「民主主義」や「平和主義」のあって良い形態みたいなんですね。
*もしかしたら脳内が「反体制はもうそれだけで無条件に格好良く正義という熱狂的陶酔感」が今よりずっと蔓延していた20世紀的思考様式のまま停止してるのかもしれない。
そんな彼らの間において「ナチス」なるレッテルは宗教戦争全盛期における「異端」や共産主義全盛期における「修正主義」同様、単なる罵倒語ではなく「そのレッテルを貼られた対象への攻撃を躊躇う者は相手の仲間として一緒に粛清される絶対正義」へと昇華された模様。とどのつまり、ちゃんと時代に流れについていってないと明日「(本物の筋金入りの平和主義者で民主主義者たる)我々」の手によって次にアウシュヴィッツ送りになるのは君達かもしれない?
*ある意味、まさしく外敵との対峙より政敵に対する勝利を最重要視するカール・シュミットの政党政治論の世界とも。
政治は現実を相手とするため、わかり易さが必要だ。しかし、わかり易さが問題を浅薄なものにしてしまう場合も少なくなく、そのような場合、わかり易さに警戒し、わかり易さの胡散臭さを問い、場合によってはわかり易さを粉砕する必要もあるだろう。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2017年5月3日
どうやら問題は「本物の筋金入りの平和主義と民主主義」の「本物の」が掛かっている言葉が「平和主義」や「民主主義」でなく「筋金入り」な辺り?
日本語って本当に難しいですね…
続きを読むインタビューによれば、神山健治監督「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜(2017年)」には「親世代が子世代に伝るメッセージ」という側面が存在する様です。
その一方で父親や母親の世代を美化し過ぎた結果、息子や娘の世代がその単なる従属物に過ぎなくなってしまった側面も見受けられます。ある意味「俺TUEE系」ならぬ「親TUEE系」という次第。
実は「親TUEE系による俺TUEE系の超克」なる主題自体そのものは1990年代における「TV系サイバーパンク世代の中年危機問題」まで遡ります。
*要するに当時話題になったソフィア・コッポラ監督作品「ヴァージン・スーサイズ(The Virgin Suicides、1999年)」や「ロスト・イン・トランスレーション(Lost in Translation 、2003年)」がどんなに美しい映画であっても、「ひるね姫」のエンディングがどれだけ涙を誘う出来栄えでも「現在なおこの世界を主体的に生きているのは(子世代でなく親世代たる)我々である」なる立場に立脚する限り「(自ら主体的に生きる権利を剥奪された)子世代の叛逆」は避けられない。宮台真司はこのジレンマについて容赦無く「我々の世代はあらゆる革命を主導してきたし、これからも遂行し続けていく(後の世代には、我々に感謝しつつその決定に盲従する自由のみが存在する)」と考える「すっかり保守化しながら、自らそれが自覚出来てない革新派の悲劇」と定式化した。「ひるね姫」に登場するココネの父モモタローに垣間見える「反体制はそれだけで格好良いとする美学への陶酔」と考えねならないという次第。
そもそも現代日本を覆う閉塞感は、日本のベテラン評論家層が以下をまともに指摘出来ていない点と無関係でないのかもしれません。
「サイゴンか、クソ、俺はまだサイゴンにいる」ウィラード中尉はベトナム戦争のさなか河を上りジャングルへと向かう。その先には掌上の舞をもなしうる可憐な舞姫エリスがいた。一時享楽にふけるウィラードだったが本来の任務「カーツ大佐抹殺」を果たすためそこを後にし、エリスは絶望し発狂する。
— ゲルン@読む機械 (@gern) 2010年5月28日
とどのつまり現代日本を覆う閉塞感は「俺TUEE系作品と親TUEE系作品の衝突は不可避」なる覚悟の甘さに起因する所も大きいのかもしれない?
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