「縁日のタコ焼きにはタコが入ってない(テキ屋は匂いだけつけて本物を入れない事でより稼ぎを大きくする)」といいます。
同じく「縁日的」といわれた「パチものガンプラ」を思い出させるエピソード。要するに「お客さんは雰囲気を味わいにきてるだけなので、実際のクオリティにはこだわらない」なるニヒリズムがその背景にあったりする様です。
*そもそも、こうした粗雑さは「国家間の国際競争が世界を動かした」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)に否が応でも付きまとってきた。それが1980年代に入ると「商業至上主義時代(1960年代〜1990年代)」特有の解像度急増の煽りを受けて急速に衰退していく。
ロシア革命(1917年)をレーニン率いるボルシェビキが乗っ取り「民主集中制」を確立していく過程がまさにこれ。それが20世紀を「共産主義の世紀」としたのでした。
実は共産主義こそ純粋な意味における国民国家の体現、すなわち後進国が「健全な資本主義的発展がもたらす健全な市民社会と文化の発展」なる要素を切り捨ててまで「国家間の国際競争」に取り組んだケースワークというべきなのかもしれません。それは「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」の論拠であり「領主が領土や領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」がそのまま資本主義的発展に移行しようとすると、必ず新興産業階層の台頭が阻害されてしまう歴史的課題に対する回答と考えるべきかもしれないのです(棒読み)。
*英国のジェントルマン階層も日本の武家も「商業活動への直接参加」を禁じられていた。前者は後者と異なり土地の私有を認められていたが、それは「地主」と「土地経営者」の分離が早期より進められていたからだったし、後者も割と農家や商家との政略結婚を通じて割と「原則論の無効化」に成功したりしている。それはそれとして「伝統的支配階層が新興商業階層の台頭を阻害しない」政経分離の建前はあくまで尊重されたのであり、こういう部分が帝政ロシアや(ハスプブルグ家の統治下にあった)東欧やオスマン帝国は駄目駄目だったのである。主権国家成立史の観点から見ても「在地有力者の豪族化」は全く望ましいものではなかった。
*ただまぁ日本における「自由民権運動を通じて政治意識に目覚めた江戸時代の株仲間(全国規模の富農・富商ネットワーク)の末裔が、立憲政友会の「我田引鉄」政策に懐柔されて男子普通選挙実現にこぎつけていく歴史的プロセス」については(それが「自民党一党支配」の大源流であるという意識も手伝って)日本人の間ですら「(それが女子参政権容認に結びつかなかったという点において)先進性というより後進性の象徴」と考える向きが大多数を占める。英国においても「女性の政治参加は保守党を有利にするばかり」という認識から自由党や労働党が女性への参政権付与に抵抗し続けた(党利を優先する)複雑回帰な具改正民主主義の歴史が存在するのだが、日本においてそのエピソードが語られる事はまずない。
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