諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

都市から国家に(欧州の経済的中心の歴史的推移)

大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移するまで、(ミラノを中心とする)イタリア北部や(フィレンツェを中心とする)イタリア中部フランドル地方は並列的に発展してきた。

その歴史はどちらも都市の興亡によって彩られているが、何故かその掉尾を飾るのはロンドン。その事自体が経済的繁栄の単位の都市から国家への推移を意味していたと言って良い。

 ブルッヘ/ブリュージュ(フラマン語Brugge、仏語Bruges、英語Bruges)略史(全盛期;12世紀~15世紀前半)

  1. 9世紀、初代フランドル伯のボードゥアン1世によって建てられた城塞が街の起源とされる。3代アルヌルフ1世の時代に、シント・ドナティアン教会やシント・サルヴァトール教会が建てられ、城塞も強化された。
    フランク王国時代まで遡る名家フランドル公はイングランド王室やフランス王室と政略結婚を重ねながらフランドルを(イングランドより輸入した羊毛を加工する)毛織物産業に立脚した欧州経済中心地に育て上げてきたが、第4回十字軍(1202年~1204年)で建国されたラテン帝国の皇帝就任以降は男子に恵まれず次第に衰退の一途を辿る(その後フランスのブルゴーニュ公の手に渡る)。

  2. 12世紀に大津波が、海から10km以上も離れたこの地を襲来。その時に残された大きな溝に運河を作り、フランドル伯フィリップ・ダルザスのもとでズウィン湾とこの地を結ぶ水路が整備され、町中に水路を張り巡らせ、船での交易に便利な港町を作った。以降北海に出る玄関口として格好な場所となり、イングランドや北欧と内陸を結ぶ交易は、13世紀になるとハンザ同盟の在外商館がおかれたほか、1277年にジェノヴァ商人が大西洋沿岸を経由してズウィン湾にまで訪れるようになり、金融・貿易の一大拠点として繁栄。
    *裕福になった市民は自分達の成功の象徴として、町の真ん中に高い塔、鐘楼を建てた。教会が社会を支配していた時代、時を告げる鐘楼は、教会や王の権威や権力が強いところでは市民が建てることはできなかったが、ブルッヘの市民は自分たちで市場の開始の時刻を告げる鐘楼を建てることで、ヨーロッパ最初の資本主義の拠点としてその自立を越高々に表明したのである。騎士中心のフランス軍が歩兵中心のフランドル諸都市連合軍に撃破された「金拍車の戦い(
    1302711日)」もこの時代を象徴する戦果だった。

  3. 15世紀前半に入るとそれまで単なる羊毛の輸出元に過ぎなかったイングランドが毛織物産業に本格的に参入してくる。イングランド産毛織物に市場を奪われることを恐れたフランドル諸都市はブルゴーニュ公に働きかけて輸入禁止の措置をとらせたが(当時はブラバント公国の支配下にあったスヘルデ河畔の港町)アントウェルペン/アントワープやベルヘン・オプ・ゾームはこの動きに追随せず、イングランド商人が持ち込む毛織物がアントウェルペン/アントワープを介してライン川沿いのケルン商人の手に渡り南ドイツなどに供給される貿易網が成立。さらに運河やズウィン湾に土砂が堆積して大型船舶の航行に支障を来たすようになり、運河港としても経済の中心地としてもその重要性を失って衰退していく(運河が再生されるのは19世紀以降)。
    *15世紀から16世紀にかけてブルゴーニュ領ネーデルラントで活動した初期フランドル派または初期ネーデルラント派と呼ばれた芸術家達が登場したのがまさにこの時期。フランドル地方のトゥルネー、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市で特に大きな成功をおさめたとされる。

アントウェルペン/アントワープ(オランダ語Antwerpen、フランス語Anvers、英語Antwerp)略史(全盛期:15世紀後半~16世紀)

  1. 15世紀初旬にイングランドが輸出する毛織物を扱い始めた頃より頭一つ抜きん出た。歴史家フェルナン・ブローデルは「このスヘルデ川に臨む都市はじつに国際経済全体の中心にあった。ブリュージュはというと、その最盛期にあっても、その地位まで到達したことがなかったのである」と評している。ヴェネツィアの大使だったフランチェスコ・グイチャルディーニも「何百の船舶が一日に往来し、2千もの荷馬車が毎週やってくる」と記している。
    *ただしアントウェルペンの繁栄はヴェネツィアジェノヴァの様に同市出身の商人が世界各地に勇躍していった結果ではない。ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク)、スペイン、ポルトガルなど各地からやって来た商人たちの手で支えられていた。(市政は地元の土地貴族らによる寡頭政がとられていたが、彼らは原則上実業に従事することを禁じられていた)そもそも自由都市自治共和国であった訳ではない。一時はブリュッセルブラバント公による支配から離れたものの、1406年より再びブリュッセルの統制下に置かれていた。

  2. 15世紀半ばになるとさらにニュルンベルクアウクスブルクといった南ドイツ商人が直接アントウェルペンまで取引に訪れる様になり、香料もブルッヘ経由でなくイタリアから南ドイツ経由で入手可能となった。
    *そして
    15世紀末には外国商館がブルッヘからアントウェルペンへと移転し始める。

  3. 1501年以降、スヘルデ河岸にポルトガル船が香辛料などを積んで到来する様になり最初の黄金期が到来。急成長が始まる。1508年にはポルトガル王のもとで商館が設立され、1510年にはイングランド商館についての記載も史料に残された。この好況は1521年よりフランス王家とハプスブルク家が衝突するイタリア戦争(1494年~1559年)が泥沼化し、間の戦乱によって商業が麻痺したことで収束。*マニュエル様式(1500年代から1530年代にかけてポルトガル宮廷を飾った内装)だけが当時の栄華を伝える生き証人となった。

  4. ジェノヴァ略奪(Sacco di Roma、Genova)以降、スペインは次第にジェノヴァ銀行家をお抱え御用貸しとして宮廷に取り込んでいく。その影響で1535年からセビーリャ経由でアメリカ大陸産の銀が流入する様になって第二の黄金期を迎えるが、今度はスペインの国家財政が破綻した1557年に収束していく。
    *当時のジェノヴァ銀行家の私邸の豪華な内装がこの頃の栄華を偲ばせる。

  5. イタリア戦争の最終的な講和条約となるカトー・カンブレジ条約(1559年)が締結されるとやっと経済的安定が戻り、第三の黄金期が訪れる。この時期にはイングランドと競合しつつも繊維産業が発展をみせたが、フランス国王が内戦たる公益同盟戦争(1465年~1477年)終結を(イタリア戦争を引き起こした)イタリア介入開始の好機としか考えなかった様に、スペイン国王もイタリア戦争終結をフランドル介入開始の好機としか考えなかったせいで八十年戦争(1568年~1609年、1621年~1648年)が始まって好況が終わった。ちなみに1500年時点では人口4万数千であったが、1560年までにアルプス以北最大規模の都市へと成長し、八十年戦争勃発時点では人口10万を越え建造物の数も倍増。その反面貧困層も増加し、好不況の波と持続的な物価上昇のせいで未熟練労働者や荷運び人夫などが生活苦を強いられていた。
    *八十年戦争(オランダ独立戦争)勃発までの経緯は以下の通り。
    1541年にイエズス会が創設され、1545年にトリエント宗教会議が開催されて反宗教革命運動が開始。イタリア戦争終結後、スペイン国王フェリペ2世(Felipe II, 在位1556年~1598年)/イングランド王フィリップ1世(Philip I、1554年~1558年)/ポルトガル国王フィリペ1世(Filipe I、1580年~1598年)はその忠実な実践者たらんとし、異母姉であるパルマ公妃マルゲリータネーデルラント17州の執政(全州総督)に送り込んだ。ネーデルラント統制強化の一環としてカトリック強制を図った為、各地で集権化に反発する貴族やプロテスタントとの反目が生じる。15668月よりネーデルラント各地に広がった反乱は鎮静化したものの、この際のマルゲリータの対応に生温さを感じたフェリペ2世は、15678月により強硬姿勢をとるアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドを派遣してさらに対立を煽り、翌年には戦争へと発展させる事に成功したのだった。まさしくカール・シュミッツの「敵友理論」の起源。アントウェルペン/アントワープにとっても重要な収入源となっていた当時の印刷事業は、プロテスタント側からカソリックの残虐行為をで告発したジャン・クレスパン「殉教録(1554年)」や、その逆にカソリックの側からプロテスタントの残虐行為を版画入りで告発したヴェルステガン「世界残酷劇場(1587年)」を大量印刷して大儲けしながら「お互いを偏見の極みを以って抹殺しようと付け狙い合う憎悪の連鎖」を野火の様に欧州じゅうに広めていったのだった。まさしくカール・シュミットいう「政治化」の手口そのもの。

  6. 八十年戦争勃発によってアントウェルペン/アントワープはスペイン北部のビルバオアントウェルペンを結ぶ交易ルートが維持できなくなってイベリア半島との商取引が困難になったほか、スヘルデ川封鎖に苦しめられた。さらに1576年11月4日にはスペインの兵士がアントウェルペンで残忍な掠奪を遂行。これにより数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われ被害総額は200万スターリングにも及んだとされる。この事件でネーデルラントの反スペイン勢力は一時的に妥協を余儀なくされたが(ヘントの和約)、アントウェルペン/アントワープ市民の反スペイン感情は当然かえって深まった。それで1579年のユトレヒト同盟にも加わり、反スペインの姿勢を鮮明とする。しかし1583年末までに周辺地域の全てをスペインに占領され、オラニエ公ウィレム1世もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと1585年8月にスペイン側のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降服を余儀なくされる。降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民はアントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられ、そのほとんどがネーデルラント連邦共和国(オランダ)へと移住していった。その後のアントウェルペンにおける銀行業務はジェノヴァ商人統制下に置かれたが振るわず、17世紀に入ると神聖ローマ帝国もその経済の中心をハンブルグに移行。そして以降はオランダのアムステルダムが世界商業・金融の中心地になっていく。
    アントウェルペン/アントワープがここまで徹底的に敵視されたのは、外国人商人の往来によって都市内に多様性が持ち込まれ、コスモポリタン的雰囲気が醸成された裏側でユダヤ教正統派イベリア半島を追われたマラーノ(マラノス、改宗ユダヤ人)、プロテスタントなどがそれぞれ大規模なコミュニティを形成していたからだった。またその自由な空気が出版事業を大きく花咲かせたのも良くなかったのも良くなかったかもしれない。
    16世紀のアントウェルペンは、現地フラマン語の文献のみでなく、英語やフランス語の出版・輸出拠点として栄えた。のみならず、宗教的に寛容な性格のためプロテスタントの文献も多く出版され、結果として当時のネーデルラントで出版された文献のうち、実に半数以上がアントウェルペン刊だったとされている。16世紀後半で最も偉大な印刷出版業者ともいわれるクリストフ・プランタンの工房が市内に現存し、プランタン=モレトゥス博物館として当時の出版文化を伝える。また海賊版の出版拠点ともなった。中には、他の都市の業者の中にも、何らかの事情で版元を明かさず出版するときに、出版地をアントウェルペンと偽るケースも見られた。リヨンの大手ブノワ・リゴーも、「アンヴェルスのピエール・ストルー」という架空の名義で出版したことがあった。

  7. 1648年、三十年戦争講和条約であるヴェストファーレン条約(そのうちのミュンスター条約)でオランダの主権が認められると、オランダはアントウェルペンの商業活動に壊滅的な打撃を与えるため、スヘルデ川の河口を閉鎖することを要求した。これには、スペイン・ハプスブルク家の統治下にある南ネーデルラントがオランダの脅威にならないようにする狙いがあった。しかしネーデルラント南部が1795年から1814年まではフランスの統治下にあったこと、1815年から1830年まではオランダ立憲王国の統治下にあったことで、実際にはその統制は緩められていた。*1800年頃、アントウェルペンは最も停滞した時期を迎え、当時の人口は4万人以下にまで沈んだ。しかしナポレオン・ボナパルトは、アントウェルペンの戦略的重要性から、防波堤と2つのドックを建設するために港の拡張を図り、スヘルデ川にもっと大きな船舶が接岸できるように川底を掘り下げようとした。ナポレオンは、アントウェルペンの港をヨーロッパ屈指のものとすることで、ナポレオンと対立するイギリスのロンドン港に対抗し、イギリスの力を抑えようとしたのである。
    *しかし、ワーテルローの戦いで失脚したため、この構想は実現しなかった。1830年アントウェルペンはオランダからの独立を目指すベルギー反乱軍によって包囲された。ダヴィド=ヘンドリック・シャッセ将軍が統率するオランダ守備兵がアントウェルペンを防衛したが、ベルギー軍の断続的な砲撃によって打撃を受け、フランス軍によるベルギー支援もあって、シャッセは勇敢に戦ったものの降服を余儀なくされている。

    「フランダースの犬」は厨二病代表格? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

    1843年にはケルンとアントウェルペンの間が鉄道で結ばれ、近代アントウェルペンの発展に貢献。1863年にベルギーがオランダからスヘルデ川の航行自由権を買収したことも街の発展に寄与した。今日のアントウェルペン/アントワープは「北フランス最大の港町」と呼ばれる事すらあるという。

アムステルダム(Amsterdam)略史(全盛期:16世紀後半~18世紀)

  1. 13世紀に漁村として築かれた。伝説によれば、犬を連れて小さなボートに乗った2人の猟師が、アムステル川の川岸に上陸して築いたということになっている。アムステル川をせき止めた(アムステルのダム:Dam in the Amstel)というのが街の名前の由来。
    12871214日、北海からの高波がゾイデル海に流れ込み、聖ルチア祭の洪水と呼ばれる大水害を引き起こした。これによってゾイデル海は大きく拡大するとともに、北海へと開口することになり、ゾイデル海の一番奥にあるアムステルダムが海陸の接点として注目されることとなった。

  2. 1300年(または1301年)に自由都市となり、14世紀にはハンザ同盟との貿易により発展。
    15世紀までにハンザ同盟をしのいでバルト海交易の中心地に。

  3. 16世紀には当時ネーデルラント17州を支配していたスペイン王フェリペ2世やその後継者に対する反乱が起こり、八十年戦争へと発展。この間、アムステルダムは独立派に組していた。
    15858月に南ネーデルラントアントウェルペンがスペインのパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降伏すると、アントウェルペンの新教徒商人がアムステルダムへと続々と移住。アムステルダムはそれまでのバルト海交易のみならず、それまでアントウェルペンが支配していた地中海交易や新大陸、アジアからの交易をも手に入れ、これによって世界商業・金融の中心地となっていった。独立を獲得したオランダ共和国はその宗教的寛容さで知られ、スペインやポルトガルからユダヤ人が、アントウェルペンから豪商が、フランスからユグノーが安住の地を求めてアムステルダムにやって来た。フランドルからの豊かで洗練された移住者はオランダ語の基礎を作り、オランダの商業的発展の礎を築いた。

  4. 東洋航路を最初に開いたポルトガル人は東洋特産を母国のリスボンへ輸入したがこの特産物をリスボンからフランス、ネーデルランド、バルチック方面に運んだのはオランダ船であった。しかし1595年にポルトガルリスボンからオランダ船を排除したためオランダは直接東インド方面に船を派遣、翌1596年オランダ商船隊はジャヴァのバンタムに到着し東方貿易の拠点を築いた。
    「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  5. ブラジル植民地でも活躍していたユダヤ人を味方につけたのが功を奏したか、次第にポルトガルが優先的立場にあった砂糖産業に食い込んでいく。
    アントワープには1556年時点で19ヶ所の製糖所があったが、1600年段階のアムステルダムには60ヶ所の製糖所があった。オランダ領ブラジル(1630年代〜1650年代)設立の夢こそ叶わなかったが、1650年代以降はカリブ海に植民地を持つイギリスとのパートナー関係が成立。さらにバタヴィアの製糖工場が出島交易で大収益を上げる。
    「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  6. 17世紀初頭には世界で最も裕福な都市であった。アムステルダムの港は浅かったものの広く、交易の結節点ならびに商業の中心地としての魅力はその欠点を補って余りあったのである。
    1595年、アムステルダムの商人はコルネリス・ハウトマンの船団をアジアへと派遣し、船団はジャワ島から東方の物産を積んで帰国した。これによって東方貿易ブームが起きるが、あまりにも過当競争となったために、1602年に東方貿易の独占権を持ったオランダ東インド会社が設立されている。アムステルダムの港を発する商船は、北アメリカ大陸やアフリカ大陸を始め、現在のインドネシアやブラジルまで含めた広大なネットワークを築いていた。アムステルダムの貿易商はオランダ東インド会社VOC)やオランダ西インド会社WIC)の主要な地位を占めていた。これらの特許会社は後世のオランダ植民地を形成する海外権益の基礎となった。アムステルダムは欧州で最も重要な交易市場であり、世界を牽引するファイナンシャル・センターであった。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所でもあった。へーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河といった運河が同心円状に建設され、アムステルダムの運河網が形を整えていったのもこの時代である。オランダ西インド会社がニューアムステルダムに植民地を建設したのもこの時期となる。

    世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

    17世紀には、ヨーロッパをはじめ世界全体が危機的な状況にあったとされ、世界システムは収縮の局面に入った。この時期にイギリス・フランス・オランダ 三国が、トルデシリャス条約によるスペイン・ポルトガルの世界分割に挑戦するが、なかでも、まず独立直後のオランダが、世界経済のヘゲモニーを確立することになる。

    ここでの問題は、世界システムにとって、どうだったのかということ である。 何が「 危機」だったのかといえば、それはまさしく「 近代世界システム」そのものが「 危機」だったので ある。17世紀には、北西ヨーロッパを核とする「近代世界システム」すなわち、グローバルな分業体制はほとんど拡大しなくなった。エアーソン海峡 関税帳簿とセビーリャ文書がそのことを証明している。たとえば、17世紀はじめには、アメリカから流入する銀の量はたしかに減少 し た( ただし、 世紀後半のデータについてはいくぶんあやふやなところが ある)。


    国史のレヴェルでいえば、スペインやポルトガルに代わって、 オランダ、イギリス、北 フランスが、対外進出を果たし て いっ た こと は いう までも ない。 しかし、 彼ら は すでに イベリア 半島 の 両国 が 手 をつけ た場所 に展開しただけで、新たな世界が開かれた わけでもない。十七世紀に新たにこのシステムに組み込まれた地域 は、限られていたのである。

    このシステムの中核地域は、イベリア半島からアルプスの以北に移動 したとは いえ、システム全体としては東 ヨーロッパやラテンアメリカ など「 周辺」部から得られる経済的余剰、つまり中核諸国が分割 すべきパイそのものが拡大しなくなったので ある。必然的に「 中核」地域においては、パイの分け前をめぐる競争、つまり「中核」 国としての生存競争が始まった。競争の道具となったのは、ほかでも ない「 重商主義」と呼ばれる一連の保護政策であった。イギリス航海法も、コルベール時代のフランスの排他主義も、いずれもこのよう な観点からみられるべきものである。

    このような競争に際して、まず大成功を収めたのはオランダであっ た。16世紀に成立し、今日、地球全体を覆っている近代世界システムの歴史上、その中核地域のなかでも、圧倒的 に強力となって他の 諸国を睥睨するようになった国を、「ヘゲモニー国家」と呼ぶ。その 国の生産物が、他の中核諸国においても、十分な競争力をもつほどに なった国家のことである。近代世界システムの全史において、ヘゲモニー国家は三つしか存在しなかっ たと考えられる。第二次世界大戦 後 から ヴェトナム 戦争 までの アメリカ、19世紀中ごろ、ヴィクトリア女王のもとで「イギリスの平和(パクス・ブリタニカ)」を確立 した時期のイギリスのほか、17世紀中ごろのオランダがそれである。時代は、世界システム全体にとっては「危機」の時代であった が、そのなかで、独立直後のオランダが、圧倒的な経済力を確立し たのである。

    ヘゲモニー は、まず第一次産業の生産活動から始まる。17世紀のオランダは、もっぱら商業国というイメージが強いが、その実態は農業 の「黄金時代」であり、またヨーロッパ最大の漁業国でもあった。オランダは、たしかに食糧を自給することはなく、東 ヨーロッパ やイギリスからの大量の穀物輸入に頼っていたが、他方では、干拓がすすみ、付加価値の高い近郊型農業─ ─染料をはじめとする工業用原料 や野菜、花卉などの栽培に集中する─ ─を発展させたのである。北海のニシン漁を中心とする漁業は、あまりにも強力で、イギリス漁業 はまったく太刀打ちできなかった。


    戦後の日本の歴史学においては、オランダの歴史は、イギリスのそれ との対比で「近代化の失敗例」とみなされ、その失敗の原因を求める 研究が中心であった。中継貿易を中心 にした経済の仕組みがその弱点であった、といわれたものである。しかし、現実のオランダは、世界で最初のヘゲモニー国家として、イギリスにも、フランスにも、スペインにも、とうてい対抗しようのないほどの経済力を誇ったのである。

    17世紀中ごろのヨーロッパ では、工業生産でもオランダが圧倒的に 優越していた。その中心は、ライデン周辺の毛織物工業とアムステルダムに近いハーレムなどの造船業、マース河口の 蒸留酒 産業 などで あっ た。

     

    生産 面 での 他国 に対する 優越 は、世界商業の支配権につながっ た。ポルトガル 領のブラジルでも東アジアでも、オランダ人の姿が みられるようになった。政治的な支配がどのようになっていようと、 オランダ人は世界中いたるところにその存在を示すことになっ たのである。こうした世界商業の覇権は、たちまち世界の金融業における 圧倒的優位をオランダにもたらし、アムステルダムは世界の金融市場 となった。オランダの通貨が世界通貨となったのである。のちのイギリスやアメリカの例でもわかるように、世界システムのヘゲモニー は、順次、生産から商業、さらに金融の側面に及び、それが崩壊する ときも、この順に崩壊する。たとえば19世紀末のイギリスでも、生産面ではドイツやアメリカに抜かれ たにもかかわら ず、ロンドンの シティが世界金融の中心としてとどまっていたし、ヘゲモニーを喪失 した現在のアメリカにしても、なお世界の基軸通貨はドルであるのと 同じで ある。

    とすれば、オランダのヘゲモニーは、どのようにして成立したのか。一言でいえば、そこにみられるのは、螺旋形の相乗効果である。 たとえば、圧倒的に優秀な造船業を確立したことから、オランダは 漁業と商業で圧倒的に有利になった。ニシン漁に使わ れたハリングバイスと呼ばれる、船上で塩漬けの加工ができる特殊船はイギリス漁業関係者の垂涎のまとであった。しかし、それ以上に効果があっ たのが、オランダがバルト海貿易用に開発したフライト船である。この型の船は、小人数で大量の積み荷を安価に運ぶことができたため に、バルト海貿易において価格の割に重かったり体積の大きい木材などを扱う「かさばる 貿易」の経済効率を圧倒的に よくした。その結果、エアーソン海峡関税帳簿でみるかぎり、バルト海貿易では、オランダはライヴァルで あるイギリスの10倍もの船舶を動かすことができたのである。オランダの海運運賃は、イギリスの半額程度であっ たといわれている。


    しかも、このバルト海貿易こそは、近代世界システムの中核となっ た西ヨーロッパと、その「周辺」つまり従属地域となった東ヨーロッパを結ぶ幹線貿易であったわけで、世界システムそのものの生命線 であった。東ヨーロッパ は、西ヨーロッパに穀物を供給し、また重要な造船資材─ ─マスト材をはじめとする木材、ピッチ、タール、帆布 など─ ─のほとんどを供給した。したがって、オランダは、造船業が発達し、優れた船をつくることができたので、バルト海貿易 で圧勝したのだが、バルト海貿易をにぎったから造船業で優位に立つ こともできたのである。木造家屋が多く、戦争にも、貿易にも木造船 が使われた時代であってみれば、木材を含む造船資材はのちの鉄にも 匹敵する戦略物資であったのだ。この時代にアムステルダムで取引 された商品の四分の三は「 母なる貿易」と呼ばれたバルト海貿易関係のものであったといわれる。

    こうした優位は、世界商業にも反映され、16世紀末に成立した多数 の東インド会社を統合して、1602年につくられた連合東インド会社 は、イギリスのライヴァル会社をものともしなかった。資本金もケタ が違っていたが、何よりも、17世紀中ごろまでのイギリス東インド会社は、継続性の薄い、一時的な性格の強い会社でしかなかったからである。

    オランダ の、というよりアムステルダムの商業上の優越は、レヘントと呼ばれた有力ブルジョワ、つまり商人貴族の階層を生み出し、金融面での優越につながった。こうして、アムステルダムこそは、世界中の資金が 集まる場所となり、金利のもっとも低い金融市場となっ た。個々の商人はもとより、ヨーロッパ各国の政府がこの市場で資金 を借りようとしたのは当然である。とすれ ば、この金融市場をいつ でも利用できたオランダ人が、造船業や世界的な商業活動でも、植民地の鉱山やプランテーションの開発─ ─ポルトガル領ブラジルでの 砂糖プランテーションのように─ ─においても、資金面で他国の同業者よりはるかに有利な立場に立つことになったことはいうまでも ない。

    さらに、こんなこともある。世界商業と金融の中心となったアムステルダムは、必然的に情報センターともなった。安価な資金と十分 な情報からして、海上保険の掛け金率も、アムステルダムで圧倒的 に低くなり、外国船でさえ、ここで 保険を掛けるようになった。逆 にいえば、金融・保険業などの「みえ ざる 収益」の点でも、オランダは圧倒的な 力をもつようになった のである。

    とは いえ、ヘゲモニーの状態は長くは続かない。オランダ、イギリス、アメリカ合衆国の場合は、いずれ も真の意味のヘゲモニーは、半世紀とは続かなかった。ひとつの要因は、ヘゲモニー 国家では生活水準が上昇し、賃金が上がるため、生産面での競争力が低下する ことにあろ う。

    オランダにかぎらず、ヘゲモニーを確立した国 は、イデオロギー的 にも、特徴的な傾向を示す。すなわち、圧倒的な経済 力を誇るヘゲモニー国家は、必然的に自由貿易を主張するのである。この時代の オランダでは、有名な国際法学者グロティウスが「 海洋自由」論を 唱えたことは、よく知ら れていよう。圧倒的に強い経済力を誇る国 にとっては、自由貿易こそが、他の諸国を圧倒できるもっとも安上がりな方法なのである。同じことは、19世紀の「ヘゲモニー国家」イギリスにも、20世紀のアメリカについてもいえる。アメリカが自由貿易、より広くは自由主義使者であったのは、そのヘゲモニーが 確固としているあいだだけであっ たことは、ごく近年のこの国の政策をみれば 明白で ある。

    それにしても、自由主義を標榜するヘゲモニー国家の首都(中心都市)は、実際に、世界中でもっともリベラルな場所となる。したがって、そこには、故国を追われた政治的亡命者や芸術家が蝟集すること にもなる。こうしてアムステルダムが、のちのロンドンやニューヨークと同じように、亡命インテリの活動の場となり、画家をはじめ、芸術家の集まる町となっ たのも当然である。

  7. ネーデルラント連邦共和国(日本ではその中心であった州の名からオランダ共和国とも言う)はその名の通り7州の連合国家であり、連邦議会を備え共和政の形態を取っていたが、その国家組織は「世界史上もっとも奇妙で、もっとも複雑である」と言われてきた。なにしろ連邦共和国でありながら「オランダ総督(全州総督)」を君主として戴く形態であったのである。また7州の代表で構成される連邦議会が最高議決機関であり、連邦全体の行政、外交、軍事を統括したが各州はこれに従う義務はなく独立性が強かった。事実上連邦議会を動かしていたのは他の州に対し圧倒的な経済力を持つホラント州であり、その中心がアムステルダムの実権を握る大商業ブルジョアジーである都市貴族(レヘンテン)であった。ネーデルラント連邦共和国の共和政はこのホラント州の都市貴族によって支えられていたが、その一方で法的には連邦共和国の最高軍事司令官にすぎない「総督」(スタットハウダー)職は独立戦争の指導者オラニエ公ウィレム以来、オラニエ家(英語ではオレンジ家)が独占し、1681年には総督職のオラニエ家の世襲が法制化され実質的なオランダ王家となった。オラニエ家を支持したのは、中小市民や農民層であったが、海外植民地の利益を背景にした都市貴族層の勢力もその後も続き、議会共和政を主張して総督の統治を否定、二次にわたる無総督期が出現する。
    17世紀のオランダ共和国の歴史は、隣接するイギリス・フランス両国との関係で激しく動いていく。特に大きかったのは名誉革命(1688年)によってウィリアム3世イングランドとオランダの「同君連合」の君主に即位して英蘭合邦(1689年~1702年)が成立した事。これ以降、国際的に国王として認められる様になったオラニエ家は次第にフランスを見習って絶対君主制を強め、フランス革命前夜には都市貴族と武力衝突して(ルクセンブルグ公国に駐屯地を有する)プロイセンの介入を招くまでになっていた。

  8. オランダはこの時代世界でもっとも出版の自由や言論の自由、思想の自由が保障されている国であり、宗教的にも寛容であったため、ヨーロッパ各国から文化人が亡命し、オランダ、特に最大都市であるアムステルダムに居を構えた。アムステルダムにはこの当時400軒の出版業者が軒を連ね、ルネ・デカルトなどもアムステルダムに落ち着いている。こうして、アムステルダムは文化の中心となっていったのである。
    アムステルダムの人口は
    1500年には1万人を少し超えるくらいであったが、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には105,000人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している(200511日現在の人口は742,951人)。
    アムステルダムの都市計画の歴史

  9. オランダ海上帝国(17世紀~18世紀末)という表現もあるが、実は全盛期にあってもオランダの貿易額の2/3バルト海貿易、残り1/3の半分も地中海貿易であった。つまり、オランダの富の源泉はヨーロッパ域内であり、同時代においても既に指摘されていた様に海外植民地は、維持費のかさむ金食い虫か現地中継交易に組み込まれて存続するのが精一杯の存在に過ぎなかったのである。
    英蘭戦争(第一次
    1652年~1654年、第二次1665年~1667年、第三次1672年~1674年)を経て北アメリカの植民地を手放し、名誉革命1688年)による英蘭合邦(1689年~1702年)期を経て南アフリカのケープ植民地(1652年~1795年)もナポレオン戦争を巡る紛争の結果英国領となって列強としてのオランダの国際的地位は凋落していった。最期に残った牙城は東アジアにおける長崎出島を介しての日本との独占貿易権だけだったが、これも日本開国によって終焉。最終的にオランダ領東インドとオランダ領ギアナスリナム)といった植民地が残り、20世紀半ばまで保持していた。第二次世界大戦で東インドは大日本帝国の侵攻を受けて占領された(蘭印作戦)。またオランダ本国も、それに先立つ1940年にナチス・ドイツに占領された。第二次世界大戦の終結後、オランダは植民地支配を復活させようと軍隊を派遣して、インドネシア独立戦争が勃発したが、戦闘の激化に抗し切れず植民地を手放すことになった。オランダ領ギアナ1975年にスリナムとして独立。

  10. 18世紀から19世紀前半にかけては、アムステルダムの繁栄にも陰りが見えた。絶対君主化を志向するナッソー=オラニエ家と各都市を牛耳るブルジョワ貴族層の対立激化。そしてイギリスやフランスとの相次ぐ戦争。ナポレオン戦争の頃がどん底であった。しかし、1815年にオランダ連合王国が建国された頃から徐々に復興し始めた。
    *18世紀は「フランスの文化的優位」が欧州じゅうの宮廷を席巻していった時代でもあった。
    「ベルサイユのばら」と産業革命 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

    19世紀終わり頃は、2度目の黄金時代と呼ばれることもある。アムステルダム国立美術館アムステルダム中央駅、コンセルトヘボウが建てられた。同じ頃、産業革命がこの地に到達した。アムステルダム・ライン運河が開通し、アムステルダムからライン川へ直行ルートが開かれた。北海運河も開通し、北海への最短ルートを提供した。この2つのプロジェクトの完成は、欧州内陸部と外部との通商を活発にした。第一次世界大戦の少し前には市域が拡大し、新市街が拡張された。第一次大戦ではオランダは中立国であったが、アムステルダムは食糧不足と(暖房用の)燃料不足に苦しんだ。物不足から市民の暴動が起き、何人かが犠牲となった。第二次世界大戦では、1940510日にナチス・ドイツがオランダに電撃侵攻し、たった5日の戦闘で占領された。ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の友党的存在のオランダ・ナチスによる文民政権をアムステルダムに発足させ、占領政策に協力させた。戦争の最後の1か月間は通信手段が全て奪われ、食料と燃料の供給も絶たれた。多くの住民が食料を得るため農村に向かった。犬や猫、砂糖大根までもが生きるために食料とされた。アムステルダム市内のほとんどの樹木は切り倒され燃料とされた。また収容所送りになったユダヤ人が住んでいたアパートは取り壊され、木材は燃料とされた。第二次世界大戦後は復興し、再び欧州の主要都市の一つとなった。

ブリュッセル(フランス語Bruxelles、オランダ語Brussel、ドイツ語Brüssel、英語Brussels 略史

  1. 都市名は、オランダ語で「沼の村」を意味するブルークゼーレに由来するといわれる。新石器時代の紀元前2250年ごろから農耕民族が住んでいたが、やがてローマ文化をうけいれたガリア人がセンヌ渓谷の沼沢地に定住してローマ帝国の属領となり、紀元前1世紀から2世紀にかけて荘園を増やしていった。

  2. 12世紀には地理的優位を活かし、交易と交通の中継点として商業や手工業で栄えた。職人や貿易商達が事業を確立していき、貴族達が要塞や城を築いて土地の所有権を宣言したのである。*1312年と1356年にはブラバント公の特許状を得ることでさらに発展。やがて現在のベルギーのフランデレン地域とワロン地域の一部、オランダの北ブラバント州を包括していたブラバント公国の最も重要な都市へと成長。

  3. 1383年、ブラバント公国の宮廷がルーヴァンからこの地に移され、その後4世紀間にわたって変転するヨーロッパの政治の中心地として繁栄した。1430年にブルゴーニュ公国の支配下に置かれ、シャルル豪胆公の死後の1477年からは、フランシュ=コンテ、ネーデルラント諸州と共に、シャルル豪胆公の娘マリーと結婚したハプスブルク家のマクシミリアン1世の領土となった。ブリュッセルブラバント公国は、ラテン語文化圏とゲルマン語文化圏の境界であったが、ハプスブルク家の支配はスペイン領ネーデルラントにおいて、ロマンス語の衰退をもたらした。

  4. 1555年にハプスブルク家神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世が退位し、息子のフェリペ2世に統治を譲る。ブリュッセルの市民は、スペインに住むこの新しい君主に、宗教、文化、階級の違いからことごとく反発し、暴動を起こした。次第に信奉者が増えていくプロテスタントに対して、カトリックを信奉するスペイン・ハプスブルク家は厳しい弾圧をもってのぞんだ。*この宗教的対立は、聖像破壊運動を経てついにプロテスタントの反乱、宗教改革となった。1567年この地域へ派遣されたスペインのネーデルラント総督アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドは、ブリュッセルに司令部をおいて反乱を鎮圧した。彼の恐怖政治によって、エフモント伯ラモラール、ホールネ伯らがここで処刑された。

  5. 1576年、ブリュッセルはスペインの支配を脱し、勝利をおさめたネーデルラント連邦共和国に入ったが、1585年にはアレッサンドロ・ファルネーゼが指揮するスペイン軍に攻略され、再びスペイン領ネーデルラントに加えられる。1792年にはフランス革命軍によって占拠され、ナポレオン戦争が終結する1815年までフランスの支配下にあった。1815年のウィーン議定書によって、現在のベルギーとオランダを含むネーデルラント連合王国の都市となった。1830年ブリュッセルの王立モネ劇場でオペラの上演中に興奮した観客が暴動を起こし、ベルギー独立革命の引き金を引いた。革命に際しては、ブリュッセルはその中心地となり、1831年にベルギー王国の首都となった。
    *独立前後、ベルギーが工場で生産する安価な国産砂糖は英国砂糖業者を破滅に追い込みつつあった。またその鉄鋼業はあっという間にドイツ産業を圧迫する規模にまで成長する事になる。
    ベルギーワッフルは何故あの形? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  6. ベルギー革命(1830年)を契機にヨーロッパ大陸で最も早く産業革命が始まったと言われる事もあるが、その勢いを支えたのは外資だった。フランスのソシエテ・ジェネラルやオタンゲ、ドイツのシャフハウゼン、そしてグローバル展開していたロスチャイルド。1846年にはチャールズ・ホイートストンとウィリアム・クックに電信敷設を許可。1850年頃から政府は彼らから回線を買収し、鉄道に沿って回線網を拡大していき1851年には商業利用を認可している。

  7. 一方、1840年代にドイツ関税同盟加入に失敗しながら同盟の鉄関税を50%引き下げることに成功し、1850年には同盟鉄輸入量の2/3すなわち7万6千トンを供給。リエージュシャルルロワなどの石炭産出量が増加し、製鉄や機械工業が発達した。ベルギー国立銀行が設立されたのもこの年の事である。1857年にはフランスと相互に相手国法人を内国企業と原則的に対等とする協定が結ばれ、さらに同様の協定が英仏間で1862年に締結された。1865年にはラテン通貨同盟の原加盟国となり、資本の自由化が加速。露仏同盟(ビスマルクが失脚した1891年より交渉が公然化し1894年に締結)が結ばれると、各国の膨大な資本がベルギーを経由して、およそ10年間ロシアに投下され続ける事になる。

    第二次世界大戦後の1958年には盛大な万国博覧会を開催し、北大西洋条約機構欧州委員会の本部をブリュッセルへと誘致した。

ロンドン(London)略史(全盛期19世紀~1920年代)

  1. 最初にロンドンを王都と定めたのはデンマーク王クヌーズ2世(Knud 2、在位1018年~1035年)/ノルウェー王クヌート1世(Knut I、1028年/1030年~1035年)/イングランド王クヌート1世(Canute/Cnut、在位1016年~1035年)で、最初にウエストミンツァーに居を構えたのはノルマン朝を開闢した英国王ウィリアム1世(William I、在位1066年~1087年)だった。フランスから設計士を呼び寄せてウェストミンツァーを現在の様なゴシック風に改装したのは英国王ヘンリー3世(Henry III、在位1216年~1272年)の時代
    *その歴史自体は古いが、ウィリアム・シェイクスピアの活躍したテューダー朝が終わりを告げる
    1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市のままであった。中央宮廷の充実はジェントリー爵位を持たない地方地主)が地方行政を牛耳るだけでは飽き足らず王室の直臣化するのを待たねばならない。
    英国のジェントルマン資本主義 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  2. 英国海上帝国(18世紀~19世紀)の台頭はオランダ会場帝国衰退と表裏一体の関係にある。王政復古(1660年)で即位したチャールズ2世やジェームズ2世時代のイングランド太陽王ルイ14世が支配するフランスの衛星国のような存在に過ぎなかった。ところがウィリアム3世がオランダをフランスの侵略から守る為に大同盟戦争でイングランドを反フランス路線に引き込み名誉革命1688年)によって英蘭合邦を達成。新たな時代を切り拓く。18世紀に入るとイギリス(グレートブリテン王国)は常にフランスに対抗し、スペイン継承戦争1701年~1714年)やオーストリア継承戦争1740年~1748年)を経て七年戦争でカナダ、インドといったフランスの海外植民地を奪い尽くし、19世紀のナポレオン戦争で世界的な覇権を樹立する(第2百年戦争)。その出発点が英国王ウィリアム3世(在位1689年~1702年)だった事を思えば内政における権利章典の承認以上に英国に与えた影響が大きかったといえる。
    *英国議会政治の樹立は当時というよりむしろホイッグ党寡占政治が実現した「ウォルポールの平和(1721年~1742年)」に負うところが大きい。

  3. 一方でオランダにとって英蘭合邦は長期的には不利益をもたらした。イングランドとの条約でオランダ海軍はイングランドを上回らないよう制限が設けられ、共同作戦の指揮権も握られてしまったからである。以後オランダ海軍はイングランド海軍の下風に甘んじることになり、貿易や海運でもイングランドに掣肘されることになり、オランダは次第に凋落へと向かっていった。当時の英国はオランダにその力を利用されながら蔭で大海軍を建造し、1780年の戦争ではオランダを決定的に破るとともに1772アムステルダム株式取引所大暴落をきっかけに欧州の金融取引ハブの地位を奪ってしまったのだった。
    *英蘭合邦で「君主」と認められて以降、オラニエ家が次第にフランスを見習って絶対君主制を強め、都市貴族と衝突する様になっていったのも大きかった。

  4. 1605年、ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生。17世紀初頭や1665年から1666年にかけてはペストが流行して100,000人または人口の5分の1が死亡。さらに1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生して市内の家屋の約85%が焼失。建築家ロバート・フック指揮の下で再建に10年の歳月を要したが、それによってやっと「中世以来の田舎町としての足跡」を拭い去ったとも。
    1708年、クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成。ハノーヴァー朝の時代には、メイフェアを始めとする新市街が西部に形成され、テムズ川に新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。そして1762年、ジョー3世はバッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間に渡って同邸宅は拡張を続けた。

  5. 18世紀を通じてロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズが設立されている。総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された。ロンドンで生まれた子どもの74%以上は5歳未満で死亡。その一方でコーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのに伴い、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていく。また1777年にサミュエル・ジョンソンは「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるもの全てがあるから」と述べている。当時ヨーロッパ文化の中心地だった18世紀パリになくて同時代のロンドンにあった重要な要素、それは「見世物に餓えた大衆」だったとも。既に庶民の消費者化が始まっていたのである。
    *ロンドンが世界最大の都市として栄えたのは
    1831年から1925年頃にかけてとされる。 著しく高い人口密度によってコレラが大流行し、1848年には14,000人、1866年には6,000人が死亡した。1855年に首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通。首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会となってロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。ナポレオン3世統治下のパリもそうだったが、当時のロンドンを変貌させたのもまた「戦場の天使」ナイチンゲールを筆頭とする統計屋達が仕切る都市計画の推進だったのである。

  6. 第二次世界大戦時、ザ・ブリッツを始めとするドイツ空軍による空爆により、30,000人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。そして1951年、フェスティバル・オブ・ブリテンがサウス・バンクにて開催。1952年、ロンドンスモッグの対応策として大気浄化法 (1956)が掲げられ、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題は未だに残されている。また1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。

本当に自由交易圏の歴史は追跡が難しい。おそらくその主役が人物や一族ではなく、都市や国家なせいだろう。

ちなみに同じ時代を「羊毛で覆い尽くされた部分の欧州史」としてまとめてみたのがこれ。産業革命の一段目ロケット?