諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【松の廊下】【赤穂浪士】日本における中世の始まりと終わり

ところで「日本の中世」について、武家の暴力が政治を動かす様になった時点で始まり、武家社会が暴力によっては動揺しなくなった時点で終わったとする考え方がある様です。そして元禄15年(1702年)12月14日の「赤穂浪士討入事件」はまさに後者を象徴する事件だったとも。

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 Ratio04(2007年11月29日発行)「日本の中世」論 「日本の中世」像を更新する。本郷和人新田一郎本郷恵子+東島誠+榎本渉

本郷(和)時代区分を考える際に新田さんも東島さんも榎本さんも中世という枠組みでないところにだいぶ踏み込んでる訳じゃない?…まず新田さんだけど、あなたは元禄期あたりに大きな時代の変化があったと想定してるんだよね?

新田 まぁそれは取ってつけた様な話だけどね。でも一定の政治的な言葉に対して、人々がちゃんと言う事を聞くだろう、そういう予測が成立してくるのがたぶん元禄の頃だったのだろうとは思います。

本郷(和)それはさっきの責任論みたいなものとも関連してくるんじゃないの? 誰が責任を取るか、という事を決める人間が出現してくるというわけでしょう?

新田 というよりむしろ、人と人の関係がどうかという事です。どういう言葉をもってコミュニケーション、まさに情報がどの様に伝わるのか、あるいは情報はどういうフレームの中で理解されるかという事。言葉なんてものはそもそも言葉足らずに決まっているから、その不足分をどういうフレームでもって理解して、何がわかった振りができるのか。その為にはたとえば文書のやり取りにおいても、書かれてる内容だけじゃなくて、あるいはその事以上に、どういう風に文書が出されているか、文書発給のかたちだね、ある特定のかたちが用いられているという事の方が、シグナルとして非常に重要な意味を持つ。そういうものが一応日本全国に通用する様になる。というか実は話は逆で、通用する範囲こそが日本となる訳だけども、とりあえず同じ形で通用する、そうした状況に至るプロセスを考える。この「日本」という世界において、ある程度どこへいっても共通のフレームがある。そうなってくるプロセスとして中世を考えられるかもしれない。

本郷(和)そうなると起点はどこに置いておくの?

新田 そうだなぁ。起点というのは、ぐずぐずぐずぐずと古代以来少しずついろいろな通行関係の中で、お互いの間で作法というものが見出されてきている。だから中世の起点なんかないと乱暴に言ってしまう事も出来るんじゃないかとも思うんだけど、やっぱりそれも違うんじゃないか。そうではなくて、また平泉澄の名前をここで持ち出すのは危険かもしれないけれど、要するにあの人が言ってるのは、上代を仰ぎ見る視線というのが上代との距離・差異を自覚させ、中世を作るという事なんですね。

平泉澄 - Wikipedia

新田 昔あったもの、本当にあったかどうか実はわからないんだけど、その本当にあったかわからないものを、昔は良かったのにと回顧する。そこには当然勝手な解釈も加わってくるわけだが、そういうものとして世の中を見ている。「こうじゃいけない」「じゃあ、どうしよう」という形で伝統を仰ぎ見る。そういう振る舞いが、さていつ頃から始まるかという事なんですが、それは色々なレベルで、いろいろな始まり方をしてるのだと思うのです。

本郷(和)なんだか僕はすぐに末法思想とか連想したよ。
末法思想…釈迦が教えを説いて千年(もしくは五百年)は教えが正しく伝わる正法の時代、次の千年が伝わるけど十分でない像法の時代、その後の1万年を教えが衰微する末法の時代と考える。日本では1052年から末法の時代に入ると意識され、これを踏まえて救済を求める念仏などが盛んになった。

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新田 末法思想も関わりがあるかもね。平泉だったらここで保元の乱のことを考える。保元の乱を境にもう確実に変わっちゃった。保元の乱以前はこっちじゃなくてあっちだという。そうやって保元の乱そのものより、保元の乱を後ろから振り返る視線というのを重視する。
保元の乱平安時代の保元元年(1156年)、崇徳上皇後白河天皇が対立し、天皇側が上皇側に奇襲を仕掛けて勝利した戦い。上皇側には源為義天皇側には平清盛源義朝らの武士が馳せ参じ、朝廷の政権の帰趨が軍事力によって定められた。「愚管抄」はこの時から「ひしと武家の世になった」と叙述している。この戦いで後白河天皇に味方した清盛はその武功により播磨守となった。

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*3年後の平治元年(1159年)、政治を主導する信西後白河院政派(藤原信頼藤原成親・源師仲)・二条親政派(藤原経宗藤原惟方)の対立が激しくなり平治の乱に発展。信頼は源義朝を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、二条親政派の裏切りと清盛の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。この内乱における潰し合いもあって衰退した公家は「武家の暴力の制御者」としての立場を喪失。その一方で平清盛は永暦元年(1160年)、正三位参議に補任され、武士として初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となる。

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新田 だけどひょっとしたら、画期をもっと後ろに下げていく考え方も成り立つかもしれない。例えば「延喜・天暦の治」と北条泰時・義時を結びつける視線というのはどうやって出来たのか。そういうものが京都周辺の、言ってみれば知識人社会だけでなく、もっと広い範囲に渡って溢れていく。人々がそれを自他と関係を結ぶ際のフレームとして利用していく、といった動きがいつ始まるのか。

*延喜・天暦の治律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たる平安時代中期(10世紀)の第60代醍醐、その皇子の第62代村上両天皇の治世を聖代視した呼称。延喜は醍醐の、天暦は村上の元号である。当時は天皇親政が行われ、王朝政治・王朝文化の最盛期となった理想の時代として後世の人々に観念された(実際には様々な改革が展開した時期で、それらは徐々に形成されつつあった摂関政治によって支えられていたが、摂関政治の前提となる摂政・関白自体が非常設の臨時職に過ぎなかった時代でもあった)。両治世を聖代視する考えは、早くも10世紀後半には現れており、11世紀前葉~中葉ごろの貴族社会に広く浸透。当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいたので、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まったのである。後醍醐天皇も延喜・天暦期を天皇親政が行われた理想の時代と認識し、武家政治を排して建武の新政を展開した。江戸末期にも延喜・天暦の治を理想視する思想が明治維新の原動力の一つとなり、そうした考えは明治以降の皇国史観にも引き継がれた。

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北条義時鎌倉幕府第2代執権(在職1205年〜1221年)。伊豆国の在地豪族・北条時政次男源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家当主。源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化した承久3年(1221年)に後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。

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*北条 泰時鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職1224年〜1242年)。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した事で知られる。

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東島 上代をそういう風に語る方法をとれば…引っ張り出してくるのは別に上代でなくともいいのであって、現在の状況に対するネガをどこかから引っ張ってきて発言すればいいわけです。たとえば室町の禅僧が理想とした中国儒教の世界とか。

新田 たしかに論理的な可能性としてはありえるね。でも後知恵で言うならば、それは選択されなかったよね、ということになるんじゃない?

東島 そこに中厳円月の嘆きがある訳ですね‥
*中巌円月(1300年〜1375年)南北朝時代臨済宗の僧。相模国鎌倉の出身で、俗姓は土屋氏。中巌は道号で、諡号は仏種慧済禅師。年少期に鎌倉寿福寺臨済宗建長寺派)に入った後、醍醐寺に入って密教を学び、また曹洞宗の東明慧日に師事した。1325年(正中2年)中国の元に入り、1332年(元弘2年)日本に戻った。その後、万寿寺建仁寺建長寺などの住持を歴任し、臨済宗における一派を形成した。神武天皇について「呉の太伯の子孫」として「天皇中国人説」を提唱。京都を中心とする五山文学の最高峰の一人。

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新田 だからそういう意味では中世というのはどこで始まったかという問題は、今みたいな議論の立て方だと、どこの視点を据えるかということを超えて「ここ」として指し示す事はたぶん出来なくなる。

本郷(和)でも逆に言えば、その考え方は、今までと全く違うかたちで、権力者がどうしたというのではない歴史学を紡ぎ出せるという意味においてすごく魅力的だよね。人と人とのコミュニケーションということでしょう? しかもその場合の人というのは、小・中学生が学ぶ様な有名人だけでは決してない。コミュニケーションを中核に据えて、無名性というか名前のない人達の振る舞いの中から…

新田 そういった人達の生活において、何が当たり前の条件になっていたかという事でしょうね。

本郷(和)という事だよね。それが出来れば物凄く面白い。ただどうやって論証するかが難しいよね。

東島 …中世はどこまで中世なのかという事には私もずっと興味を持ってきました…近世史においても、忠臣蔵赤穂浪士というのは、吉良も大石も、要するに平和の時代の新しい武家類型なんですね。彼らの行動原理には、戦争を知ってる古い世代の武士との間に大きなギャップがある。戦争から平和へという点では、まさに元禄あたりがターニング・ポイントである訳です。文書の出し方の話でいくと、今までは1枚の文書でフリーパスでできていた商人の活動が、戦国大名としての徳川がやってきた瞬間に、一つ一つの城主のもとを訪れて一枚一枚もらわねばならないというお役所行政が始まるんですね。この徳川が駿河国のある領域でやった実験が近世の始まりなのでは、なんて思ったり。これはあくまでほんの一例ですが、中世では当たり前の支配のやり方が、ここではすでに終わっていたんだなという事を感じています。
*徳川の駿河国支配駿河国は今川氏が長く統治していたが、やがて甲斐武田氏勢力を伸張し、同家の滅亡後は徳川氏の所領となった。そして江戸幕藩体制開闢期には(楽市楽座などを通じて形成された)御用商人と藩の癒着を基盤とする各地方経済ごとの農本主義的自立が志向されたが(参勤交代履行に伴う交通整備に便乗して全国規模のネットワークを築き上げた富農や富商達の寄り合い所帯たる)株仲間の暗躍によって各藩の御用商人は元禄時代までにほぼ滅し尽くされてしまう。この辺りが西では政商の出番がなくなっていく一方でハプスブルグ帝国内などでは近代に入ってなお「(各地領主と癒着した)宮廷ユダヤ人」が権勢を振るい続けた欧州との景色の違いを生み出す事になる。ただしまぁ、明治維新後の大日本帝国における諸財閥の台頭と割拠を「西洋化=政商化」の一環として見る向きもある。株仲間もまた享保の改革(1716年〜1745年)によって合法化されて以降、「株(幕府が認可する参加権)」の既得権益化が進行。天保の改革1830年〜1843年)に至っては彼らこそ武家支配を衰退させた特権集団とする立場からスケープゴート扱いされ解散を命じられている。

榎本 …交易や対外関係、海の歴史に関して言うと、たぶん9世紀から14世紀ぐらいまで本質的に大きな変化はないと思っているんです。対外交通の時代区分としては、一つの時代としてくくれるのではないかと思います。おそらく9世紀というのが、たいへん大きな切れ目です。日本の対外関係史だけの話であれば小さい事ですが、日本と東シナ海を囲む中国、朝鮮、琉球という海の空間の歴史サイクル全体と関わってくる。それで、海の歴史を勉強したいときに、陸の歴史に引っ張られる必要があるのか、とも思ってます。鎌倉幕府の成立とか、荘園性の確立とかですね。そういうものとリンクしないといけないというふうには理解できなかったんですね…

*海の歴史…遼の歴史的和解たる澶淵の盟(1004年)に端を発する慶暦の治(1041年〜1048年)は北宋に未曾有の文化的繁栄をもたらし、科挙制度によって士大夫と呼ばれる新興官僚供給階層を生み出した。その影響は日本における平氏政権台頭(1160年代〜1185年)や朝鮮半島高麗王朝における武臣政権(무신정권(ムシンヂョングォン)1170年〜1270年)にまで連動。両者の明暗を分けたのは前者が(朝廷で実務官僚の役割を担ってきた)下級公家の取り込みや(伝統的に行政担当者の基礎教養とされてきた)有職故実の習得に躍起となって自ら官僚化の道を辿ったのに対し、後者は(門閥貴族を衰退に追い込む意図もあった)科挙制度充実に満足し、文を軽蔑して敬遠する姿勢を最後まで崩さなかった事だった。後者の価値観は(儒教を軽蔑し、仏教や仙教を尊ぶ地方豪族の価値観を反映した)高麗青磁の世界に結実するが、それに感動したのは外国では鎌倉幕府の要人達ばかり。その一方で朝鮮半島においては(武臣達が育てた筈の)新興両班階層が裏切って儒教的観点から彼らを絶対悪と決めつけ、朝鮮王朝時代の白磁無条件礼賛の時代を招く展開に。

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本郷(和)榎本さんの叙述を際立たせるには、やはり海から陸を見るという視点を貫く事ですよね。難しいだろうけど。文献資料はあまりない訳ですから。でも、それはみんな一緒だから大丈夫。このシリーズ全体が、実証だけでは何ともしがたい部分に大胆に、というか迂闊にもというか、手を出してみようという危ない企画なんだから。

ところで日本の歴史学の世界では1970年代頃までは「歴史研究の目的はマルクス主義の正しさを証明する事である」とする マルクス史観が主流でした。この次元におけるマルクス主義は、まさしく「あらゆる学問の存在意義は神学への奉仕にある」と規定したローマ教会そのもの。

マルクス史観/イデオロギーに合わせたご都合主義 【賢者の説得力】

マクグラスは、マルクスの宗教批判について、こうまとめます。「希望についてのキリスト教の教理に対するさらに持続的な批判が見られるのは、カール・マルクスの著作においてである。マルクスの主張によれば、宗教一般は現在において苦痛に耐えている人々を、死後の生の歓びを説くことによって慰めようとする。そのようにすることで、 人々は苦難を終わらせられるように現在の世界を変革するという課題から関心を失ってしまう。多くの点でマルクス主義は世俗化されたキリスト教の終末論であると見做され得る。そこでは「革命」が世俗化された「天」の対応物なのである。」

マルクス自身にも確かに希望の理念はありましたが、徐々に資本主義社会の内在的論理の解明に関心が移っていきました。マルクスの希望の理念を甦らせたのは、マルクス主義哲学者のエルンスト・ブロッホです。ブロッホの『希望の原理』は、ユルゲン・モルトマンの『希望の神学』に強い影響を与えました。モルトマンの神学的解析によって、ユダヤ教キリスト教が想定する天を180度前に倒して、地上の未来の希望としたのがマルクスの終末論であることが明らかになりました。超越性が、形而上的な上から、歴史的な未来に転換したのです。

すでにコンピューター技術の世界では1960年代から「科学発展の目的はマルクス主義の正しさを証明する事である」とするマルクス主義科学が共産圏において致命的な技術発展停滞を招いてしまっています。
*実際、共産圏においてはノーバート・ウィナーのサイバネティクス理論に「邪教」のレッテルが貼られたという。フィードバックの概念がマルクス主義と矛盾したからという。

日本のマルクス史学の世界も同様の停滞状態を迎え、1970年代に入るとその打破を試みる動きが活発化しました。

岡田英弘 - Wikipedia

1011夜『日本史の誕生』岡田英弘|松岡正剛の千夜千冊

網野善彦 - Wikipedia

87夜『日本の歴史をよみなおす』網野善彦|松岡正剛の千夜千冊

歴史学界の内外で大きな反響をよんだ『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和(1978年)』。『網野史学の越え方』に所収されている小路田泰直氏の報告「網野史学の越え方について」のなかで、そのインパクトの理由は以下のように説明されている。

  • 1970年代まで歴史学界で大きな影響力をもったマルクス主義歴史学の拘束から歴史学を解き放ったこと

  • 冷戦崩壊後への人々の予感に見事にこたえたこと。

  • 歴史の原点に原始共同体ではなく「原無縁」という名の「原近代」を措き、歴史を「原近代」の衰弱と蘇生の歴史としてとらえる見方を提示したこと

この3点のなかでも小路田氏は最後の、「原近代」としての「無縁」というアイデアに大きな意義を見出しているが、どうもこれは網野さんの発想を大きく超えるもののようだ。無縁をどうとらえていくのか、という問題に関しては、資本主義との連関から考えたりなんなりと、いろいろあるようです。

こうした流れが半世紀を経て到達した歴史観の一つが上掲の様な内容だったという次第。ヘゲモニー史より民衆心性史を重視するフランスのアナール学派の影響なども受けている様です。
アナール学派 - Wikipedia
「アナール」(派/学派)についての簡単な紹介
社会史とアナール学派

そして日本では最後に政治の世界のみがマルクス主義最後の拠点として残される事に。「科学技術的たる事も、歴史学的たる事も、さらには人間を救済する神学たる事も放棄した残骸」に一体、あと守るべき価値のある何が残っているかは別として。