諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ヒトラーとナチスは絶対悪】その認識の最大の問題点は「怖がって認識外に追い出した他者は必ず復讐に舞い戻る」恐怖?

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日本のリベラリストが執着する「ヒトラーナチスは絶対悪」論が徹底してつまらなくて役立たずなのは何故でしょう? それは元来は魅了されながらも退けるべき「」の部分がすっかり抜かれてしまっているからなのです。

落語「目黒の秋刀魚」

ある日のこと、お殿様は親戚のおよばれでお出掛けになりますと「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。なんなりとお申し付けくださいまし」というご家老の申し出に、すかさず(かつて遠乗りの途中、目黒の農家で野趣溢れる七輪での丸焼きで馳走になってからその味を忘れられなくなった)秋刀魚を注文した。

親戚は驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた。このように脂が多いものをさしあげて、もしもお体に触っては一大事と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて、だしがらの様になった秋刀魚を出した。

「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか? たしか、もっと黒く焦げておったはずじゃが・・・」

脂が抜けてぱさぱさの秋刀魚がおいしいはずがありません。

「この秋刀魚、いずれよりとりよせたのじゃ?」

日本橋魚河岸にござります」

「あっ、それはいかん。秋刀魚は目黒にかぎる」
*何度も引用しているが、この逸話って本当に「他者を巡る意識」を意識内で捕まえた先例として優秀。

そんな「抜け殻」をサンドバックにして毎日叩いて安心しているうちに「本物」は背後から淡々と忍び寄ってくるもの。というより「その習慣によって自らナチズムを招き寄せている」というのが正解。「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」の世界なのです。

千の風になって - Wikipedia

この詩の起源に関してはいくつかの説があるが、1932年、メアリー・フライ(Mary Elizabeth Frye 1905 - 2004年、アメリカ合衆国 メリーランド州 ボルティモアの主婦)が書いた最初の詩とする説が有力である。同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなり、しかし当時のドイツの反ユダヤ主義の風潮のために帰国出来なかったことが原因で落ち込んだ彼女のために、茶色の紙袋にこの作品を書いた。シュワルツコップの母の死からしばらくして、彼女の家族の友達が詩をはがきに印刷して、人々に送った。これが人々に『人伝いで』広まった最初の原因だと思われる。メアリー・フライは友や人々の癒し・追悼のためにこの詩を書き、著作権にこだわることのなかったため、人々は自分の文体や言葉で表現でき、出版などで流通する作品より広く知れ渡ることになったと思われる。この他、ネイティブ・アメリカンのことば、伝統的な民話、他の作家の作品など、様々な説があり、作品も言葉遣いが微妙に違うバージョンが存在する。

1998年、 アメリカの新聞コラムニスト、アビゲイル・ヴァン・ビューレン(Abigail Van Buren, 通称 Jeanne Phillips)が起源についての調査を行い、 コラム "Dear Abby" に書いたことにより明らかになった。2000年5月10日、CBC がTV、ラジオでこの詩に、多数のバージョンがあることを紹介した(番組名:"Poetic Journey")。アメリカ合衆国では、アメリカ同時多発テロ事件父親を亡くした11歳の少女が、1年後の追悼式で朗読したことで話題になった。

この詩を日本に紹介したのはデーブ・スペクターである。坂本九の葬儀委員長を務めていた永六輔のもとに、良い詩があるからとこの詩を持ち込んできたのがデーブ・スペクターであり、永六輔はその詩を葬式で朗読した。2006年11月福山雅治がライブ「PHOTO STAGE」で、同時多発テロの写真を上映しつつ、新井満による訳詞を朗読している。

歌詞

私のお墓の前で 泣かないでください
Do not stand at my grave and weep,

そこに私はいません 眠ってなんかいません
I am not there, I do not sleep.

千の風
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
I am in a thousand winds that blow,

秋には光になって 畑にふりそそぐ
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.

冬はダイヤのように きらめく雪になる
I am the softly falling snow.

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

I am in the morning hush,
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,

夜は星になって あなたを見守る
I am the starshine of the night.

私のお墓の前で 泣かないでください
Do not stand at my grave and weep,

そこに私はいません 死んでなんかいません
I am not there. I do not die.

千の風
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
I am in a thousand winds that blow,

千の風
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
I am in a thousand winds that blow,

あの大きな空を
吹きわたっています
I am in a thousand winds that blow.

メアリー・フライの元詩」から省略されたとされる箇所

I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room.
I am in the birds that sing,
I am in each lovely thing.

私は花を咲かせる力。
部屋に静寂をもたらす力。
そして鳥達の囀り。
つまりあらゆる美しきもの全ての一部。
*どうやら「観点が軸ズレしている」「(非キリスト教的な)汎神論としての完成度を過度に高めてしまう」といった理由で人伝に伝わる過程で省略されてしまったらしい。元詞はこうした表現全てが結語の「そうです、私は死ななかったのです(I do not die.)」に掛かっていく。

この詩、日本においては2006年の紅白歌合戦で、テノール歌手の秋川雅史がこの曲で出場したことにより一躍注目を浴びたものの「感動搾取コンテンツ」の一つとして消費され、忘れ去られたに止まりました。その基底に押さえ込まれた「(「誰からも賞賛される綺麗で美しいもの」だけではなく「汚わらしく誰からも嫌われ抜かれ捨て去られた最弱の何か」「そのおぞましさゆえに普段は目を背けられている最強の何か」をも決して自分から切り離さない)汎神論的一体感」は結局、日本人の心に届かないまま終わったのです。

*そろそろ日本人は「(時として絶対的脅威として自分の前に立ちはだかる事もある)他者へのアンビバレントな意識」をすぐ「感動搾取コンテンツ」に変貌させて安心感を得ようとする自らのヒステリックで偏執狂的性癖をちゃんと自覚すべき。だから「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」の「ありのままに(Let it go)」の真意は見落としたり「モアナと伝説の海(Moana、2016年)」を契機に海外で流行したHaka合唱の流れにはついていけなくなったりする。そもそも「♪ハイホー、ハイホー、仕事が好き」とか「♪頑張って頑張って仕事!!、頑張って頑張って遊び!!」と上から目線で茶化してきた「日本の感動搾取物」の歴史が矛盾の累積によって土台から揺らぎ、その全体が「歴史の掃き溜め」送りになりつつあるとも。

こういう側面への対処において欧米社会におけるヒトラー論は一枚上手。すなわち「ヒトラーの魅力の鍵はその小悪党性にあった」とし、シェークスピア史劇「リチャード3世(King Richard III、1591年)」の主人公と重ね、かつその先例を「太陽王ルイ14世や「皇帝」ナポレオン及びナポレオン三世に見てとるのです。
絶対王政樹立者としての「太陽王ルイ14世…日本史でいうと「室町殿」始祖足利義満(在職1368年〜1394年)やその息子たる「籤引き将軍」足利義教(在職1428年〜1441年)が果たした役割に該当。要するにどちらも「(中央集権化に抵抗する)大貴族連合(室町時代日本における守護大名集団)」の内紛に「調停者」として介入しつつ、膝下で 直臣や新興産業階層を育て様とした。

*まぁ「ナショナリズムゆえに自国史を冷静に語れない」ジレンマ自体はどの国も抱えているもので、英国人ですら「歴史上における実在のリチャード3世が(在位1483年〜 1485年)がテュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury、1471年5月4日)においてランカスター派を大砲で殲滅した虐殺者でもあり、かつ当時はそれ故に稀代の英雄王と目されていた事」については中々複雑な態度を取っている。日本でいうともう「源氏か平氏か?」とか「北朝南朝か?」とか「朝廷か幕府か?」みたいなそういう次元の話。

最近の例でいうとこういう文脈においては「ゲーム・オブ・スローンズ(Game of Thrones、原作1996年、TVドラマ化2011年〜) 」の「小鬼」ティリオン・ラニスター(Tyrion Lannister)が引き合いに出される機会が多いとも。

ピーター・ディンクレイジが演じるのは、ラニスター家の第三子ティリオン・ラニスター。ティリオンは、七王国の王妃サーセイと王の盾の騎士ジェイミーの弟です。その容姿や出産時に母親が死んだことなどから、父タイウィンや姉サーセイに憎まれていますが、兄ジェイミーは敬意をもって優しくティリオンに接します。

非常に知的で政治的策略に長け、敵には容赦のないティリオンですが、不当に扱われた者には同情し、優しく接します。

登場人物が多い『ゲーム・オブ・スローンズ』のなかでも、非常に人気のあるキャラクターです。

ディンクレイジはこのティリオン役で、第67回(2015年)エミー賞ドラマ部門助演男優賞を受賞しました。

敵には容赦ない人物なので「絶対悪」視するのは容易ですが、あまりに絶大な人気を誇るキャラなので「最後まで死なない(というよりファン離脱が怖くて殺せない)」といわれてます。こういう「人気」問題も視野に入れないとヒトラー問題やナチス問題の本質には決して到達出来なかったりするのですね。とはいえ「どうぜ振り払えない悪なら、視野内に分かりやすく配置して置いた方が助かる」なる考え方を採用したせいでシェークスピア史劇「リチャード3世(King Richard III、1591年)」における「リチャード3世の政敵」は次々と破滅させられていく訳で…まぁこの問題が解決可能な万能薬なんて地上に存在する筈がないのです。
*ティリオン・ラニスターは殺せない…まぁ「(人気がある限り物語の終焉が許されない)ジャンプ・システム」は日本固有のものでもないという話。

そもそも日本のリベラリストの理解が「黒人や小人の様なおぞましい畸形人間を映画やTVに登場させる事自体がレイシズムでありナチス」みたいな周回遅れのレベルに留まっている絶望感。映画やTV番組から黒人表現を抹消し「小人プロレス」を廃業に追いやった「間違った正義感」。あんたら、自分達のそうした大源流、ちゃんと理解してるの?

*そう、そもそも米国における「進歩主義」と「(欧州起源の諸勢力間の対立の調停を試みた)白人男性至上主義」は同源。それは「南アフリカにおける人種問題」が、漁夫の利を得て黒人が介入するまで「オランダ系先住入植者と大英帝国の後ろ盾を得てイニチアシブを乗っ取った英国系新興移民の歴史的遺恨に満ちた泥沼的対峙」を意味したのと似ている。

*というより例えばアメリカにおいてそれは、第二次世界大戦後急速に進んだ「プロテスタント陣営(イングランド人、スコットランド人、アイルランド人支配階層、ドイツ人)とカソリック陣営(アイルランド被支配階層)の歴史的不和」「(比較的裕福でインテリ的な)オーストリアユダヤ人と(比較的貧乏で反知性主義的な)東欧系ユダヤ人の祖国における対峙構造の持ち込み」といった伝統的対立軸の自壊がもたらした「白人間の国家的一体感の醸成」に刺激される形で非白人層の間にも同種の一体感を求める願望が広がっていったと考えるのが正解とも。

*実は米国において1950年代まで「白人男性至上主義=米国進歩主義」なる歴史観形成を主導してきたのは「(独ソ不可侵条約(1939年)締結を契機に共産主義と決別した)ニューヨーク知識人」を代表するリチャード・ホフスタッターだったりする。「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」の著者でもある彼は1960年代に入るとあっけなくこの思考様式の欠陥に気付いてそれを放棄。新たなる歴史観策定を試みたが、結局未完に終わっている。
*日本においても1970年代後半以降、急速に「旧左翼陣営と新左翼陣営の大同和連合」が結成され、それまでの対立図式を忘れ去りユーフォリア的一体感に浸る空気が醸成された。だが、まさにこうした状態においてこそ「(内部の人間の実存不安を高める)期待と恐怖を兼ねた外部の他者に対する意識」もまた最高峰を迎える展開に。

*そして米国においては「カソリック系保守派とプロテスタント系保守派が和合した時期が存在した」記憶自体が黒歴史化し封印される結果を迎える。その点、今日の日本における「旧左翼陣営と新左翼陣営が和合した時期が存在した記憶」はどうなっているだろうか?

 海外において「日本ではリベラル派こそナチス」なんてコンセンサスが生じるのは、そもそも日本人が、こうした全体像を俯瞰できてないせい?  まさにこういう意味合いにおいて「ナチズムはそこに眠ってなんていません。死んでなんていません(まさにあなたの中に生きているのです)」という情景が視野内に入ってない?

ちなみにここでいう「ナチス」は、日本のリベラル層が考えるような「絶対悪としてのナチス」ではなく、良い意味でも悪意味でも「あえて現実の不都合を黙殺してまで原理原則を貫こうとするドイツ的合理主義のネガティブな形での顕現」の事。例えばドイツのエンターテイメント業界には「女性三人グループを登場させる場合、そのうち一人は金髪ダイナマイトボディの脳タリンで、一人はトルコ系移民でなければならない」なんて暗黙のルールが存在する様で、今日国際的にはこうしたステレオタイプの強要もまた様々な意味合いから「ナチス」と認識されていたりするという…
*これ明らかにアファーマティブ・アクションaffirmative action差別是正措置)が却って黒人差別を正当化する口実に使われ続け、「米国大学入学者に対する人種割り当ての保証」が「アジア系学生の増大を拒絶する歴史上最低最悪の人種差別制度」と告訴される最近の人権意識展開と密接にリンクしている。要するに今や国際的に「諸勢力間の対立を強制的に調停する体制側の大権の発動」そのものがナチス視されるに至ったのである。

*ここでは我々はまさに、そもそもヒトラー登場の背景に「(ある意味、参加する全民族がそれぞれ妥協を強制され鬱屈感を高めるばかりの)オーストリアハンガリー二重帝国の多民族共存戦略に対する不満」があった事を思い出さねばならない。

*当時は「人種間の対立を調停する特権」が体制側にのみ許されていたが、今やその大権を「自集団最優先主義」に盲目的に熱狂する諸集団全てが主張する様になった。かくて「ドイツ民族の復興を標榜し、一時的とはいえ相応の規模で欧州再統一に成功した」ナチスドイツ、「カンボジア優先主義者がベトナム系市民の民族浄化を試みて返り討ちにあった」ポルポト政権、「クロアチア人やセルビア人やボシュニャク人が互いの民族浄化を試みた」ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が歴史の表舞台に登場してくる展開を迎える。そもそも「共存」も「独立(および移民の帰国)」も拒絶したら「敵対勢力の殲滅による勝利」以外の選択肢は残らない。問題の本質はあくまでかくも単純極まりないのである。

*こういう国際的に普遍的な「ナチスを巡るコンセンサス(意外と「シオニズムを侮蔑する反イスラエルユダヤ人」が重要な役割を果たしている)」と、最近米国で気勢を上げてる「アンティファ(Antifa)集団」の関係は、正直言って現段階においてはあまり良く分かってない。別途(「民主党勝利」も「共和党勝利」も望まず)2016年度米国大統領戦を引っ掻き回した「米国無政府主義(Anachist)集団」もネット上でウオッチしているが、良い意味でも悪い意味でも彼らは「自らのイデオロギーや信念を貫く事を最優先に考える」存在で、やはり連続性は希薄。彼らは何処から来て何処へ向かおうとしているのか?

どうやら問題の本質は「他者の拒絶は巡り巡って必ず自分に跳ね返ってくるが、誰もが個体としてはそれが受容可能な身体的許容限界を有しているという現実」に各人がどう向き合うべきかといった次元の話になってくる様です。それでは「(特定の権力者やシステムの大権に拠らずして)各人の多様性が相応に保証されている状態」にはどうしたら到達可能なのか? 現在問題となっているのはまさにそれ。