諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

本当は恐ろしいロリコン(Lolicon)概念③ 「米国文学のマスターピースの一つ」としての「ロリータ」

随分と昔に仕入れたの情報なのでソースも示せませんが、ナボコフ「ロリータ(Лолита - Lolita、1955年)」には「(高校の授業でしばしば題材に取り上げられる様な)米国文学のマスターピースの一つ」という側面も存在したりする様なのです。

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“I am in a dream.” - Nan Lawson

もちろん「主人公ハンバート・ハンバートが語る濃厚な少女愛」や「あどけない12歳の少女のドローレス・ヘイズ(Dolores; 愛称ロリータLolita)とその母親との爛れた三角関係」が直接アメリカ人高校生に教えられている訳ではなさそうです。

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*ただ「学校の授業で作品を知り、全文を読んで隠れファンになった女子」なら少なからず存在し、彼女達が選んだのがラナ・デル・レイだったとも。こうして米国人女性の間では様々な形で「男性側から女性側に勝手に押し付けられてきた各妄想の相互矛盾が生み出した怪物としての自分」なるセルフイメージが着実に根付く展開に。

*その結果「私は(旧ハリー・ポッターシリーズにおける)トム・リドル」「私は(「シン・ゴジラ」における)蒲田君」「私は(新ハリー・ポッターシリーズにおける)オブスキュラス」と宣言する流れまで生まれてきたという。

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*欧米の日本文化マニアは、こうした一連の流れにおいて尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」における赤樫満枝の登場を重視する向きもある。国際的には主に「最初にお嬢様笑いをしたヒロイン」としてのみ知られているが、実は「江戸時代からの毒婦文化とヤンデレヒロインのブリッジ役」「(バッドエンドを回避するシステムとしての)ループを日本近代文学史上初めて引き起こしたヒロイン」という側面も備えていたりする。あと手塚治虫リボンの騎士(1953年〜1966年)」において、どのバージョンにおいても概ね悲壮な最期しか遂げない「薄幸の悪の美少女」ヘケートとか。

そもそも本来ナボコフ「ロリータ」とは元来如何なる作品だったのでしょうか?

ナボコフ「ロリータ(Лолита - Lolita、1955年)」 - Wikipedia

作品はハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっている。ヨーロッパからアメリカに亡命した中年の大学教授である文学者ハンバート・ハンバートは、少年時代に死別した恋人アナベル・リーがいつまでも忘れられずにいる。ヴァレリアという20代後半の女性と一度結婚もしたがうまくいかなかった。
*「アナベル・リー」は間違いなく(1833年に当時まだ13歳だった従妹ヴァージニア・クレムと結婚するが、1847年に貧苦の中で結核によって彼女を失い、その2年後に当人も謎めいた死を遂げた)エドガー・アラン・ポーの遺稿に含まれていた詩に由来する。しかし興味深い事にエドガー・アラン・ポー自身は純粋な少女性愛者ではなかった。実際、若い頃の作品には自分でもその可能性を疑って苦悩していた痕跡が残されているくらいだが、「幼な妻」が単なる「年下の嫁」へと変貌していく過程を受容するにつれその不安が克服されていく。その過程が好まれているのか意外なくらいにまで女性ファンが多い。単なる人形愛者に過ぎなかったデカルトとは違うのだ?

そのアナベルの面影を見出した、あどけない12歳の少女のドローレス・ヘイズ(Dolores; 愛称ロリータLolita)に一目惚れをし、彼女に近づくために下心からその母親である未亡人と結婚する。母親が不慮の事故で死ぬと、ハンバートはロリータを騙し、アメリカ中を逃亡する。しかし、ロリータはハンバートの理想の恋人となることを断固拒否し、時間と共に成長し始めるロリータに対し、ハンバートは衰え魅力を失いつつあった。
*この母娘、シャルロット・ゲンズブールジェーン・バーキンに重ねられる事も。もっぱら「なまいきシャルロット(L'éffrontée、1985年)」や「 シャルロット・フォー・エヴァー(Charlotte For Ever、1986年)」といった「ロリコン映画」のせい。

ある日突然、ハンバートの目の前から姿を消したロリータ。その消息を追って、ハンバートは再び国中を探しまわる。3年後、ついに探し出すが、大人の女性となった彼女は若い男と結婚し、彼の子供を身ごもっていた。哀しみにくれるハンバートは、彼女の失踪を手伝い、連れ出した男の素性を知り殺害する。ハンバートは、後に逮捕され、獄中で病死し、ロリータも出産時に命を落とす。

*ちなみに最近日本において流行している「人道主義的解釈」においては「ドローレス・ヘイズが純真無垢な一方的被害者」だった事が強調される様になっている。

まず絶対に見落としてはならない基本構造が存在します。それは主人公たる「喪われた過去に囚われたインテリの中年亡命者」 が「(経年劣化によって疲弊し矛盾ばかりが残された)欧州」、「彼が勝手に幻想を押し付け、それを逆利用されて自滅に追い込まれる」ヒロインが「(若くて美しいがその分だけ荒々しくて凶暴さを隠し備えた)アメリカ」に見立てられているという辺り。
*つまり「(勝手に「若々しい新世界アメリカ」こそ未来と期待し勝手に裏切られる)ハンバート・ハンバート教授」には、例えばアルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred Victor, comte de Vigny、1797年〜1863年)や、トクヴィル(Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年〜1859年)やゴビノー伯爵(Joseph Arthur Comte de Gobineau 1816〜1882年)といった「アメリカに勝手に回帰すべき伝統を妄想した」フランス貴族主義者達の夢の残骸などを象徴する側面もあるという事。その一方でアメリカに実在する現実とは「(開拓者達が死体の山を積み上げて切り開いてきた絶対他者としての)荒野」のみであり「ハンバート・ハンバート教授を手玉にとって破滅に追い込む小悪魔ドロレス・ヘイズ」はその象徴でもあるという事。

*こうした「欧州的破滅志向」は、例えば同様にアフリカ大陸に勝手に新天地を夢見て勝手に自滅していく倦怠期のインテリ夫婦を描いた英国映画「シェルタリング・スカイ(The Sheltering Sky、1990年)」にも見て取れる。「サハラ砂漠でお茶会が開けたらなんて素敵なんでしょう!!」なるあどけない夢が現実に無残に砕かれて迎える悲壮な末路…

そして、そうした構造ゆえにこの作品は、自動車やバスによる旅行(ナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne 1804年〜1864年)の時代には駅馬車)によって「(絶対他者としての)荒野に相対してきたアメリカは一体何を築いてきたのか」確かめるロードムービー的作品群の重要な画期と認められる事になったという辺り。
*そしてアメリカ文学史上、こうした「猥雑な現実を直視する」アプローチは一貫してハードボイルド文学同様「東海岸に上陸したピューリタンこそがアメリカに偉大な文明を構築してきた」なる幻想に対する挑戦の歴史と目されてきたのである。何しろ「現実のアメリカ」に向き合う旅行者が出会うのは貧困階層や移民のコミュニティといった「WASP層があえて目を背け、存在してないと自分達に言い聞かせてきた他者達」ばかり。

*そういえばハードボイルド文学においても「外国人(主に英国人)の観点」が導入された事が読者層の引き上げに役立った側面がある。「外国人が自国について語るのを聞きたい」気持ちはアメリカ人にだってちゃんとあるのである。

こうした全体像を俯瞰した後なら、アメリカ人が以下をナボコフ「ロリータ」後継作品として認めた事実がすんなりと頭に入ってくるんじゃないでしょうか。
*上掲の様な「(ヒロインをあくまで永遠に無垢なままの一方的被害者の立場に置いておきたがる)人道的解釈」からは絶対に到達出来ない結論。そして実際の少女側からは、むしろそういうタイプこそが「妻」や「母」にも同様のステレオタイプも同時に押し付けてくる人格破綻者と認識されているという恐るべき現実…

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浅野いにお「おやすみプンプン(2007年〜2013年)」

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1950年代後半における「欧州に絶望して逃げてきた亡命者がアメリカにも絶望して自滅していく物語」から2010年代後半における「(自業自得の結果かもしれない理由で滅んでいく)旧世代ミュータントと(その影響もあって基本的人権すら否定された状態から反撃を開始した)新世代ミュータントの束の間の邂逅と擬似家族生活」へ。ここに一つの「希望と絶望を巡る絶対他者との交流サイクル」の始まりと終わりを見てとる事が出来るかもしれません。

時代によってPC(Political Correctness、政治的正しさ)が何かは移ろいでいく。しかし「事象の地平線としての絶対他者」は、社会変革の触媒とはなり得ても、その全てが完全に社会の一部として取り込まれる事はない。

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  • 体制側は、既存価値観を揺るがす新たな価値観が台頭すると、まずそれを「最後には必ず自滅していく」絶対悪認定して勧善懲悪のバランスを保とうとする。
    *例えばハリウッド映画界において長く倫理規程として君臨してきたHays Code(1930年制定、1934年〜1968年履行)も映画は「幸福で健全な結婚」を推奨する内容でなければならないと定め、同性愛や異人種間の結婚をギャングやその情婦同様に「異常で間違った存在として描き、必ず破滅に終わらさねばならない」と定めている。ただしこれを策定したのが主にユダヤ人とアイルランドカソリックのグループだった事から、当初よりプロテスタント系映画人などの間に「絶対に守るもんか。必ず抜け穴を探し続けてやる」と誓われてしまった側面も存在した。

    *その影響で(江戸川乱歩の影響で)同性愛者をしばしば作中に登場させた」横溝正史も、そうした人々を「他にも病的西壁を沢山備えた先天性悪人」として描き、物語中において確実に破滅させ続けていく。さらに「悪い種子(The Bad Seed、原作1954年、映画化1956年)」やナボコフ「ロリータ(Lolita、1955年)」の影響を受けて以降は「美少女シリアルキラー」が常連に加わった。また黒澤明監督も「言われるまでもなくヤクザは絶対に美化して描かないし、幸福な結末も迎えさせない」と誓って映画製作に邁進した一人として知られる。

    (マレーシアでは)映画に同性愛者のキャラクターが出てきてもよいが、それは同性愛者がネガティブに描写されていたり、悔い改めたりする場合だけだ。

    Gay characters can be shown in films, but only if they are portrayed negatively or repent. 

  • だが堤防崩壊は蟻の一穴から生じる。かくして(商業至上主義的目論見もあって)表舞台への台頭を許された「いかがわしい人々」 は次第に既存価値観を形骸化させ、新たな価値観の構築を促進する触媒となっていくのである。

    *こうした時代には「(商業至上主義的目論見もあって)完全に黙殺されるよりネタとしていじられた方が遥かに人道的で健全」なる過渡期的価値観が現れる。「 とんねるずのみなさんのおかげです(1989年〜1994年)」における「保毛尾田保毛男」の登場は、まさにそうした時代の落とし子だったとも。

    *そういえば同時期のハリウッド映画界にも「バッドマンの乳首」事件があった。これは「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲(BATMAN & ROBIN、1997年)」の監督ジョエル・シュマッカー(同性愛者)が、作中に「バットマン・コスチュームの乳首」を含め同性愛的暗喩を大量に持ち込んだのを当時の評論家が一斉に叩いた事件。
    ジョージ・クルーニー、酷評作「バットマン & ロビン」を笑い飛ばす | 海外ドラマ&セレブニュース TVグルーヴ

  • だが決して「(表舞台への進出の足掛かりを得た)いかがわしい人々」が「それまでまっとうだと思われてきた人々」に完全勝利する日など訪れない。勝利するのは常に「新たに設定された境界線においてまっとうとされた人々」であり、それは「新たに設定された境界線においてもいかがわしい人々が切り捨てられていくプロセス」でもあるからである。
    *同性愛者の間でエイズの被害が広がったのは「婚姻なる特定のパートナーを公的に認める公的規範外に置かれているせいで、不特定多数と関係する傾向が異性愛者より多く見られた」せいでもあった。そして「同性婚合法化」には、彼らをこういう不安定な状態から救済するという意味合いと同時に「(異性愛者が既にその現実を受容している様に)同性愛者の乱交派を改めて社会規範外に追いやる」効果も備えていたのである。

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古くは生涯革命家を続けたオーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)がこのサイクルについて触れている。「革命家は勝利の栄光と無縁である。何故なら既存体制の転覆は概ね、反体制派を狩る新たな敵の登場しか意味しないからである」。

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こうして全体像を俯瞰してみれば、ナボコフ「ロリータ」のどの箇所が学校の授業で取り上げられたか想像するのも容易。「スーパーナチュラル(Supernatural、2006年)」の熱狂的人気の一環を支えているのもこれですが、とにかくアメリカ人は「ロードムービー的なるフォーマット」が大好物なのです。


日本だと元禄時代を席巻した近松門左衛門の心中物の「道行」にこれに該当する側面が備わっているかもしれません。

吉田秋生「Lover's Kiss(1995年~1996年)」より

高校における日本史の授業「元禄文化の隆成」より

「この世の名残、夜も名残、死に行く道を例えれば…これは「曾根崎心中」の有名な一節だが、この近松門左衛門の代表作は、その悲劇性で太平の世にドップリつかっていた元禄の世の大衆に大いに受けたんだな」

人形浄瑠璃の世界では「逃避行」が始まってからの場面を「背景を描いた横断幕の素早い切り替え」で表現していた模様。そして心中物のフォーマットにおいてはミュージックビデオ同様にここが「本編」だったとも。


当時の観客は、そこに至る過程がどうあれ「(最後には二人のという悲劇に終わるのが明らかな)最後の旅」なるロマン主義的展開にこそ感動したのですね。
*そこに至る過程がどうあれ…大抵背景に「身分制社会における身分の異なる同士の結婚」といった社会矛盾が存在したが「美しく正しい事として描写したり、ハッピーエンドに終わらせる」事が当局の指導によって禁じられていた現実を乗り越える事は許されなかった。興味深い事にフランス近世文学にも共通する特徴。代表作は(犯罪を犯しながら逃避行を続け最後にはアメリカへの流刑に付されて野垂れ死ぬ)アベ・プレヴォー「マノン・レスコー(Manon Lescaut、1731年)」。また(同様に罪を重ねながらイタリア諸国を巡り歩く)サド侯爵「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え(l'Histoire de Juliette ou les Prospérités du vice、1797年〜1801年)」もこの基本フォーマットを採用している。「人生を満喫して死ぬなら、最後に訪れる悲劇的結末なんて単なる付け足しに過ぎない」なる開き直り…

*考えてみればつくしあきひとメイドインアビス(単行本2013年~、アニメ化2017年~)」も基本的に「道行物」のフォーマットに従っている。当局の目もあって人形浄瑠璃では表現を許されなかった「悲壮なだけでなく楽しめる瞬間も存在する生々しい情景」まで描けているという点ではそれ以上とも。

ただこうした伝統が現代にどういう形で継承されているかはちょっと微妙。
*なにしろキリスト教文化圏ではない日本においてすら「相対死エンド」はメジャーじゃなくなりつつある。それどころか「熱狂的に死へと一直線に向かうタナトス」みたいなパトスすら否定されつつある感も。そして「昭和元禄落語心中」の様な作品を通じて海外にちゃんとそういう展開がフィードバックされていくという…

  • 「女王蜂(1951年~1952年)」同様に美少女が「悪の遺伝子の継承者」か悩むのがメインプロットとなる横溝正史「 三つ首塔(1955年)」においては「(その鍵を握る)三つ首塔の存在の発見」から「実際の三つ首塔への到達」までが「道行=ロードムービー的展開」となる筈なのだがバッサリ省略。
    *ちなみに「三つ首塔」においては「筋金入りの悪のサイコパス系ロリータ少女」佐竹由香利が大活躍。当時の勧善懲悪感から惨殺されるも、怨霊となって蘇りさらに悪事を重ねる(しかも死体は発見されず、最後まで除霊されないまま終わる)という金田一耕助シリーズ唯一のオカルト物となっている。そもそも金田一耕助シリーズに登場する美少女は概ね被害者として惨殺されるか、犯人で壮絶な最後を遂げるのだが(尾崎紅葉が終始、赤樫満枝なるキャラクターに振り回され続け、読者に納得がいく結末を用意出来なかった様に)横溝正史もまた佐竹由香利から同様の仕打ちを受けたとも見て取れる展開。

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  • アメリカン・ニューシネマ代表作の一つ「卒業(The Graduate、1967年)」やロマン・ポランスキー監督「テス(Tess、1979年)」の様に「道行への出発」がラストシーンという作品も存在する。「悲劇」の構成要素自体は既にその時点で全て提示済みなので、後は観客の想像に任せるというスタンス?

    *ちなみに「テス」の原作であるトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」は、当時話題となっていたイタリアのロンブローゾ(Cesare Lombroso、 1835年〜1909年)が提唱した生来性犯罪人説への興味から執筆され「ヒロインは魔女として処刑されるものの、主人公はその妹と結婚し彼女の家系が「悪の遺伝子」を宿しているというそれまでの疑いはきっぱり否定する」という結末を迎える(誰もこの展開に感動出来ず、当時の評判は散々)。同時期にはタルド(Jean‐Gabriel de Tarde、1843年〜1904年5月13日)の模倣犯罪学がこれに対抗。そのコンセプトが「世界初の映像倫理規程」Hays Code(策定1930、履行1934年〜1968年)にまで影響を与える事になる。
  • ここで思い出すのが金子正次脚本映画「チ・ン・ピ・ラ(1984年)」のラストシーン。チンピラになるしか自己達成の道がなく、そして実際しがないチンピラとして死んでいく主人公達。それではあまりに救いがないので「ハワイへの脱出」を夢みさせ、最後には夢とも現実ともつかない形で「それが成功した世界」を描いて締めくくる。まさしく、上掲の様なニュアンスにおける「道行」概念再構築の試みに他ならない。ならばその続編「ハワイアン・ドリーム(Hawaiian Dream、1987年)」とは一体何だったのか? 竹内まりや「夢の続き」が残した歴史的意義とは?
    *そしてこの時代のカンブリア爆発的状況から第三世代フェミニズムやLGBTQA勢の反撃が始まる。


    *そしてこの「80年代的感性」そのものが一つの終着地点だった事実もまた見逃せない。「禁止されているから逸脱したくなる」ロマン主義最後の黄金時代だったとも。

なにせ今年は「ローガン」だけでなくハチ「砂の惑星」が発表された年でもある訳で…

まさしくこの希望も絶望も最初から存在しない放浪の情景こそが「21世紀日本だからこそ発信し得たロードムービー」なのでは? それはある意味一方では 鴨長明方丈記」や吉田兼好徒然草」の如き希望も絶望も枯れ果てた後に残った静謐なる随想の世界…