諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【羊の木】「絶対他者の承認サイクル」の最も過酷な箇所?

最近以下の投稿が検索上位にランクインしてきて驚いています。

もしかしてこの映画の影響?

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さらにはこうした追加要素も…

 実はこの投稿自体はこれから蒸し返そうと考えていた所だったので好都合。ちなみに最近の展開で改めて触れる必要を感じていたのはこの部分。

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コットン・クラブ (Cotton Club)

1920年代の禁酒法時代のニューヨークハーレム地区にあった名高い高級ナイトクラブ。  名前は黒人が奴隷労働の主体であった米国南部の綿花栽培のイメージを悪趣味に取り入れたもの。

客はすべて白人で、スタッフと演奏者は全て黒人(アフリカ系アメリカ人)。クラブの出し物は当時の黒人への偏見を反映して黒人をしばしばジャングルの土人や南部農園の黒人("darkies")として描き「ジャングル・ミュージック」を志向した。

また露出度の高い衣装で出演するコーラス・ガールの選定に際しては"tall, tan, and terrific"(すらっと高く、浅黒く、イカシテる)、つまり背の高さは5フィート6インチ以上、黒人としては明るめの肌、20歳以下であることを露骨に求めた事でも知られている。

こうした状況にもかかわらずデューク・エリントンキャブ・キャロウェイルイ・アームストロングといった一流ジャズ・ミュージシャンを次々と輩出。

  • 戦後日本のリベラル層はかつて「黒人のメディア露出はそれ自体が人種差別だから一切禁止すべきである」なる運動に邁進したが、実はそれ自体が世界史に残る規模での最悪の部類に入る人種差別的アクションだった。
    *同時進行で「身体障害者のメディア露出はそれ自体が人種差別だから一切禁止すべきである」なる運動も展開され、小人プロレスが廃止に追いやられている。こうしたアクションによって国際的に「日本のリベラル派はナチスそのもの」なる定評が確定する事に。

  • というのも「黒人や身体障害者のメディア露出」は、それが如何なる形であっても最終的には黒人や身体障害者の権利拡大運動に貢献してきたからである。
    *「黒人を絵画に描いてはいけない」なるタブーが存在しなかった為、戦国時代日本の屏風絵などには「南蛮人赤毛人が黒人従者を連れ歩く場面」がはっきりと残された。
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    一方、フランスでこのタブーが破られるのは19世紀後半に入って以降。
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    そもそもそれ以前の欧州では「フランス六月暴動(1832年)や、英国チャーチスト運動1830年代後半〜1850年代)に(主にドイツやイタリアから流入し、劣悪な労働環境から反体制急進共和主義に染まる事が多かった)多数の外国人出稼ぎ労働者が参加していた」事すら完全に黙殺されていた。実際、ドラクロワ民衆を導く自由の女神(La Liberté guidant le peuple、1830年)」でもヴィクトル・ユーゴーレ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」彼らは存在しなかった事にされている。特に「レ・ミゼラブル」で「愛国フランス人の義挙」と描かれた六月暴動は、実際には(7月革命当時、実働部隊として働いた外国人労働者中心の)反体制急進共和主義者に対する粛清という色合いが強かったから「偽善まさにここに極まれり」といった感じ。

    *要するに「ドイツ語訛り」や「イタリア語訛り」が一切フィルタリングされた「民衆の歌(Do you hear the people sing)」など完全な嘘っぱち。この運動で「赤旗」を振っていたのはまさに彼ら外国人出稼ぎ労働者達だったのであり、それがどれほどフランス民衆の心理から浮いた有様だったかはフローベール感情教育(L'Éducation sentimentale、1869年)」に冷徹に描写されている。

  • ただしあくまで忘れてはならないのは「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が展開する時、やはり流石に「(流石に当事者も残す意味を見出せなくなった)時代遅れの侮蔑表現」は次々と「差別」として切り捨てられていくという事。1930年代から1960年代にかけて国際的に広まった「同性愛は極めて不健全な存在なので、同性愛者はことごとく物語中においてギャングやその情婦の如く悲壮な最後を遂げなければならない」なるルールも、確かに同性愛のメディア露出の一助となったものの、それ以降は次第に忌避される様になっていく。この辺りの実にデリケートな展開を読み解くのも元来は歴史学者の仕事の一つの筈なのだが…

詳細をまとめるのに手間が掛かってずっと後回しにしてきましたが「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」について触れてしまった以上、言及が避けられない内容。ええ、そのうちちゃんとした形で手掛けます。手掛けますってば…