本当にもう、こちら方面の解析は全然進んでないですね…
今日、人気アニメ「天気の子」を始めて上映した。素晴らしいと思う。帆高と日菜の絆はとても強くて、最後帆高は結果を考えずに日菜を選んだ。それに、天気によって人間と自然の関係というテーマを表現した。一言で言えば、この映画は現実と非現実の絶妙なバランスを取れた。 pic.twitter.com/LMxd5cQ0s7
— CTSleo (@CTS_leo) November 1, 2019
原画の人によって日菜ちゃんの「画風」がバラつく感じ(意外と実写っぽい異化効果があって、それ自体が現れては消える彼女のミステリアスさの表現になってる)何か見覚えがあると思ったら「うる星やつら(原作1978年〜1987年、TVアニメ 1981年〜1986年)」かぁ。今から思えばそれなりに「時代を貫く錐(きり)」だった思い出が…
1981年10月14日から1986年3月19日までキティ・フィルム、フジテレビ製作(アニメ制作は前半スタジオぴえろ⇒後半107回130話目以降ディーン)でテレビアニメ化された。全218話。放送時間は水曜日19:30 - 20:00。原作1巻から29巻までの内容がテレビアニメ化されている。
序盤は視聴率こそ20%前後と好調だったが、つねに半裸の少女が登場している、登場人物が下品なことを言うのを子供がマネをする、などの理由でフジテレビのワースト番組上位の常連で番組企画者はつねに会議室で謝らされていた。最高視聴率は27.4%(第35/36回ひな祭りランちゃん登場/ランちゃんご招待)。放送初期は15分2話形式だったが、原作に追いついてしまうため、第3クールより30分1話形式へとシフトした。そのため「放送回数」と「話数」が異なっている。このシフトのもうひとつの理由として押井のギャグセンスを盛り込んだ作品が15分の枠の中に納まりきれず中途半端や唐突な印象を与えたため、これを回避するための方策でもあった。
シリーズの前半ではいつ番組が打ち切りになるかわからない状態だったため、クールの終わりごとにそれらしいエピソードが放映されている(第67話「君去りし後」、第77話「ラムちゃん主催大忘年会」、第87話「さよならの季節」、第101話「みじめ愛とさすらいの母」、第116話「終太郎不幸の朝」、第128話「スクランブル! ラムを奪回せよ!!」、第129話「死闘! あたるVS面堂軍団!!」)。
TV番組の「うる星やつら」は、始まって程なく【作監の数だけ俺なりラムがいる】になった。
— 宮尾岳 (@GAKUJIRA) November 2, 2019
今では考えられないが、ほぼ一話完結ストーリーなので「その回の中で統一」されていればお客さんも文句は言ってなかった。
作監それぞれが「俺のラムが一番だ」とでも思っていたかも…なんて時代。
森山ゆうじ、西島克彦、土器手司など、当時のTVアニメ『うる星やつら』にはアニメーター毎に異なるラムちゃんがいて、それぞれ魅力的な特徴がありましたね。ちなみに自分は「土器手ラム」が好きでした😊 pic.twitter.com/dTyEKi69Wm
— タイプ・あ~る (@hitasuraeiga) November 3, 2019
TVアニメ版
— 宮尾岳 (@GAKUJIRA) November 3, 2019
「うる星やつら」
1981〜1986
「めぞん一刻」
1986
共に80年代を代表する高橋留美子先生原作漫画のアニメ化だが、うる星やつらがこと絵においてはアニメーターの自由奔放さが容認されたのに、めぞん一刻では一転「俺なり響子さん」はぐっと控えめになる。
これはとても面白い現象だ。
思うに、うる星の5年間で皆が「高橋留美子の絵柄」をそれなりにマスターし、
— 宮尾岳 (@GAKUJIRA) November 3, 2019
めぞん一刻では「一つの響子さんで統一」が可能となった事。
あと、メンタル的に響子さんには「勝手にいじると失礼」的なものもあったのではないか?
ラムちゃんは友だちだけど、響子さんはマドンナなのだ。
どっちも見ていなかった(申し訳ない)んだけど、その後の展開を見ると、
— ちゃず (@bys06412) November 3, 2019
「高橋留美子のラムちゃん」と
「高田明美のラムちゃん」がいるよね。
響子さんはマドンナというよりお姫様という気がする。
— はくほー@むげんれんさ (@hakuhoi) November 3, 2019
島本須美さんが声をあてていたからかなぁ。
らんまや犬夜叉はまたバラけましたが、乱馬くんや犬夜叉は友だちなんですかね。
— Yoshi_せんしゃぶ!連載中 (@Yoshikun21c) November 3, 2019
そもそも「身体的成長が精神面の成熟を追い越してあたふたする」 ニンフェット(Nymphet)世代(概ね女児の成長速度が一時的に男児のそれを抜く9歳〜14歳に対応)の少女が客体として安定した表情など備えてるはずもなく「天気の子」はその辺りうまく捉えてた気がします。思い出すのが「なまいきシャルロット(L'éffrontée、1985年)」「シャルロット・フォー・エヴァー(Charlotte For Ever、1985年)」の頃のシャルロット・ゲンズブール(Charlotte Gainsbourg)。主観的にも客観的にもある種の分散(Dispersion)としてしか存在し得ないお年頃…
そういえば、今から思えばるーみっくワールドにおけるニンフェット世代の少女達って「うる星やつら」におけるジンジャー・シュガー・ペッパーの三人娘といい「めぞん一刻」における八神いぶきといい「原則として空回りしてばかりで(自分もその時期を経験済みで、それ故に心の動きが読める)年上にはコロコロといいように翻弄される」狂言回し的存在として登場する事が多かった様な…まぁ五代響子は精神が未成熟な分、相応には八神いぶきに振り回されちゃってましたが…
これの21世紀版が「荒ぶる季節の乙女どもよ(2017年〜2019年)」の本郷ひと葉? それにつけても、ひと葉ちゃんも、百子ちゃんも相応の着地点を見つけられて本当に良かった…(安全装置をそっと戻す)。
これ国際SNS上の関心空間で幾度もリアルに目撃してきたけど、マジで決闘でアシェラッドがトルフィンを翻弄し、そのトルフィンがガルムを翻弄したみたいに「わざと煽って感情的にさせて視野狭窄を引き起こす」みたいな手口まで平気で自然に繰り出してくるんですよ、年長組…彼女らに言わせれば「日本の少女漫画やアニメから学んだ」そうですが…
こうやって全体像を俯瞰してみると「天気の子」って「母親役」が概ね既に亡くなっていて(もちろん「あの花」における「じんたんの母」とか「君の名は」における「三葉の母」とか死んでも場を支配し続ける妖怪級は未登場)、唯一の「年長組」たる夏美もそこまで日菜ちゃんに「年上」として振る舞い切れていなかったからこそ(そう「年少組」は「年長組」に転がされると割と簡単に屈服して面白いほどまでに彼女らに懐いてしまうのである。そういえばるーみっくワールドでもそれ自体はたくみに回避されてた?)帆高も日菜も相応には主体的に振る舞う余地が出てきたとも。まぁ、この辺りが21世紀的人間空間の設定というか、そんな感じも。