「他者の他者性」かぁ…
私のサイトも設置当初から「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」を主題としてきましたが、2019年末より数理モデル化を志向する様になり、今はこんな感じとなってます。
円の方程式を微分したは、半径と垂直に交わる直線の傾きを求めるのと同値である。単位円上のxy座標(a,b)と中心(0,0)を結ぶ半径の傾きはで、これと垂直に交わる接辺/接面の傾きはとなる。0の場合解けないのは行列演算の場合と同様、逆数(aに対する)が存在しないから。
- まずは観測原点(Observation Origin)o(0,0,0,…)と観測限界(Observation limit)r(∞,∞,∞,…)を結びつつ、それら自体は含まない開区間(Open Interval)として観測線(Observation Origin)を設定する。まだ方角の概念が備わっていないので、その旋回可能範囲が二次元上においては観測円(Observation Circle)、三次元上においては観測球面(Observation Shere)を描く。(このアイディア自体は古く、旧投稿では「オイラーはドラマー」なる駄洒落からの発案でドラムスティックの旋回に見立て「オイラーの原始的一閃(Euler's Primitive Sweep)」と呼んでいた)。
- 円弧(Circle)とは辺長無限小()で辺数∞の正多角形、球面(Sphere)とは面積無限小()で面数∞の正多面体に他ならない。中心、すなわち観測原点(0,0,0,…)から伸ばされた垂線(Perpendicular line)=観測線は全てこれらの辺/面と直交(Orthogonal)し、それぞれが原風景(Original Landscape)としては観測原点から線型独立(Linearly Independent)=相関係数(Correlation Coefficient)0の状態で観測される。統計学上の尺度基準でいう名義尺度(Nominal Scale)に対応。
- この状態における「観測結果が得られない」は「視界に実際に何もない」場合だけでなく「(何らかの理由で)観測側が観測行為そのものを怠っている」「観測対象が観測者側の設定した観測条件を満たしていない」場合も含む。また逆に「観測結果が得られた」は「(様々な理由と様々な状態での)誤観測」を含む。
-
観測に当たっての諸条件を定める次元抽出(Dimension Extraction)の検討が十分でなかったり、不適切だったりする場合もある。それどころかそれが全く行われないまま観測が遂行される場合すらあり得るが、必ずしも「満足する観測結果が得られなかった」結果に終わるとは限らない。統計学上の尺度基準でいう順序尺度(Ordinal Scale)まではかかる評価基準の揺らぎの実在を認めざるを得ない。
- 間隔尺度(Interval scale)以上、すなわちその上位互換たる比例尺度(Proportional Scale)も含め、こうした主観的評価基準のみに頼るシステムの超越には、(金銭換算や計測器の導入といった)より機械的な客観的評価基準の導入が不可欠である。ただし順序尺度には概ね、そうした客観的評価結果をフィードバックするシステムを部分的ながら備えている。
また、かかる観測円/観測球面は以下の空環概念(Enpty Ring Concept)と密接な関係を有していたりします。
空環(Empty Ring)は、以下に述べる空和概念(Empty Sum Concept)と空積概念(Empty Product Concept)を統合した結果である。
空和概念(Empty Sum Concept)
観測原点を中心に観測線を旋回して円弧/球面状態を展開する場合。観測円/観測球面上の観測限界をいくら足し合わせても総和が変わらない(0+0+0+…=0、∞+∞+∞+…=∞)。
空積概念(Empty Product Concept)
観測限界も観測原点も点と置いた場合。2点間を結ぶ観測線の距離を何倍にしても何分の1にしても結果が変わらない()。
指数写像(Exponential Map)・対数写像(Exponential map)
上掲の2つの状態は指数写像(Exponential Map)・対数写像(Exponential map)によって往復可能であり、事実上同型として機能する。
指数写像(Exponential Map)空和状態→空積状態
対数写像(Exponential map)空積状態→空和状態
まずはここまでが認識可能範囲(Recognizable Range)内の説明。見ての通り案外隙だらけで、だから本来なら不可視(Invisible)の筈の外的存在が視界内に割り込んでくる事もあるという…この辺りの心理と数理を接続するインターフェイスとしては、古くからメラニー・クラインの始めた対象関係論(Object relations theory)を採用してきました。人間を「原則としてそれぞれ固有の認識論的制約下において情報を受け取り、反応を返す存在」と仮定するスタンスが、上掲の様な「観測という行為の厳密な数理化」と中々相性が良いのです。今から思えばそれって、コンピューターOSにおける(メインループへの割り込みによって動作する)カーネルの振る舞いに似てるからですね。
そういう立場からヴェルナー・ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus,1912年)」や「戦争と資本主義(Krieg und Kapitalismus,1912年)」、
ミシェル・フーコーの「狂気の歴史(Histoire de la folie à l'âge classique,1961年)」や「監獄の誕生―監視と処罰(Surveiller et punir, Naissance de la prison,1975年)」なんかを受容してきた次第…その基底には社会や人間の在り方を「外骨格生物とその中身」に例えるマックス・ウェーバーの「鋼鉄の檻(Gehäuse)理論」や、ヘルムート・プレスナーの「世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)論」辺りがありました。
そういえば近代ロマンチズム運動とかも「脱皮の速度が社会変遷に間に合わないと死ぬ」なる切実感の実存を前提に分析したりしてきましたね。
こうして全体像を俯瞰してみると哲学における「他者性」問題そのものはあまり直接は意識してこなかった気がします。単純に「自分対第三者」みたいに単純化する思考様式を持ってなかったせいとも。
人文学で鍛えられる能力というのは、与えられたテキストを、正確に読解する(他者の自律性)、解釈する(他者と自己の境界)、応用する(自己の主張)、自己と他者の距離感の測定能力なのだろうと思う。ふつう人はこれをごっちゃにしてしまうので、これは技術なんだろう。
— 下西 風澄 (@kazeto) 2021年9月19日
逆に言えば、人文系の訓練を受けた人間は、絶えず過剰に自己と他者の距離を測り続けるから、これは一種の病でもある。ふつう人はもっと漠然と他者と接し、曖昧に関わる。
— 下西 風澄 (@kazeto) 2021年9月19日
読むことの病。近代的な個人主義/内面化は、テキストの黙読とともに成立したというよく知られた見解の先鋭化でもあるし、過剰に近代的内面性に適応した人間は、世界を常にテキストとして読んでしまうという宿命を抱えているとも言える。
— 下西 風澄 (@kazeto) 2021年9月21日
まだまだ埋め切れてないギャップが多い…これからの課題です。