諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【さよなら2010年代】「Better Left Unsaid」は何故和訳されなかったのか?

2010年代、国際SNS上の関心空間に滞留していた私は必然的に「ウルトラ・フェミニズムVS第三世代フェミニズム」みたいな内ゲバに巻き込まれていった訳ですが(何しろ当時はどちらの勢力もTumbrを本拠地としていた)、当時重要な焦点の一つとなったのが(記憶が正しければ表現規制派が議論に持ち込んだNora GilbertBetter Left Unsaid: Victorian Novels, Hays Code Films, and the Benefits of Censorship(2013年)」だったんですね。

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  •  探偵小説に原材料を供給したのはフランソワ・ヴィドックEugène François Vidocq、1775年~1857年回想録やニューゲート監獄囚人の伝記などであったが、そこに描かれる下層階級の痴話喧嘩と暴力の世界は到底、保守的な当時の読書階層に受容される内容ではなかったので所謂「シャーロック・ホームズとそのライヴァル達」は(産業革命の一環としての出版革命を背景とする)商業的成功と引き換えに自主的に過激な表現を抑制していったのである。

  • ハリウッド映画黎明期にも同種の問題を抱えていたがヘイズ・コード(Hays Code,1934年~1968年)が制定され、製作者側も原則としてそれを遵守した事が結果として映画の大衆化に貢献したのである。

実際に読んだ事はありませんが、当時の議論を通じて「当時の実際の史料の再検討を通じてビクトリア朝時代の倫理(いわゆるVictorian Code)Hays Codeへの行き過ぎた弾劾を正す」正統派の歴史研究である事は十分伝わってきました。これに対して表現規制反対派は直接反論せず、以下の様なトピックを争点としていったのです。

  • この本の内容が正しいからといって、それによって戦後Hays Codeそのものというより、その背景にあるタルド模倣犯罪学の誤用から勝手にそれを(Hays Codeに記載のない)同性愛者や黒人の差別に結び付けていった当時のリベラルの罪(そう、当時の米国リベラルはその道徳性ゆえに同性愛者や黒人の差別を推進した側で、日本のリベラル層もそれに加担している)は軽減されない。

  • 読者に配慮しない作品は商業的成功を達成出来ない」のは今も昔も変わらないが、現在その条件を満たすのは、むしろ(既存のTVドラマの無難な展開に飽きたらなくなった視聴者が選んだ)「Breaking Bad(2008年~2013年)」や「Game of Thrones(2011年~2019年)」となるのではないか?

最近日本のネットを賑わせてる「ツイフェミ勢」にはこうした「真っ当な論争」を成立させるのに必要な教養が完全に欠如している様に見えます。

それはそれとして宝塚、2007年に「ヘイズ・コード時代」を題材とした芝居なんて講演してたんですね。ざっと粗筋を読んだ限りでは、しばしば「ヘイズ・コードの主旨を理解してそれを実践し成功に結び付けた立役者」として名前の上がるフランク・キャプラ監督のスクリュー・コメディをベースに選んだ模様…私もヘイズ・コードには一通り目を通しましたが、要するに一番大事なのは(そして大衆受けを狙える材料もまた)序文にある「ギャングや売春婦への憧れを高めるのではなく幸福な結婚を奨励せよ(その為の手段は問わん)」なる普通の正論なのに、当時から日米リベラル層はそれを読み飛ばし続けてる気が…ちなみにこの文脈だとヘイズ・コードが挙げた最大の戦果はウォルト・ディズニー白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs, 1937年)」事に表現規制反対派は最初から自覚的だったのに上掲の展開を工夫したのに対し(さらに掘り下げるとフランク・キャプラ監督映画「狂乱のアメリカ  (American Madness, 1932年)」に取材され「狂気の沙汰ほど面白い」と酔狂から「白雪姫」に投資してディズニーランド投資を最初に持ち掛けられたバンク・オブ・アメリカ経由で「ハリウッドにおいて南イタリア勢が果たしてきた役割」という切り口が現れる。「ゴッドファーザー(The Godfather, 1972年)」「タクシードライバー(Taxi Driver, 1976年)」「ロッキー(Rocky, 1976年)」に繋がっていく系譜)、表現規制派は最後までその攻め口に気づかなかったのが印象的でした。せっかく「戦える武器」が手に入っても(しかるべき教養に裏打ちされた)それを使いこなせるスキルがないんじゃしょうがない。それどころか(教養のアップデートを怠って久しい)日本のフェミニストは(一時期国際トレンドを形成したほどの)かかる武器の存在にすら気づかなかった(今でも気付いてない)という話…

当時はサイレント映画からトーキー映画への移行期でもあって「(英語がロクに喋れない)欧風妖婦(しばしば幼女)」が「はち切れんばかりの健康な肉体を備えた米国人田舎娘」に駆逐されていく経緯とかにも、こうした話が関連してきます。

ビリー・ワイルダー監督映画「サンセット大通り(Sunset Boulevard/Sunset Blvd.1950年)はこうした教養がないと読み解けません。しかもビリー・ワイルダー監督に「お熱いのがお好き(Some Like It Hot, 1959年)」における女装/同性愛描写に典型的に現れる様な「反ヘイズ・コード作家」という側面がみられ、さらには「サンセット大通り」における「ハリウッド界大御所の豪邸のプールで水死体が発見される」というエピソードが、同じく英国出身で同性愛者でもあったジェイムズ・ホエール監督James Whale, 1889年~1957年)のハリウッド自宅プールでの入水自殺に絡めて語られる事もあるというややこしさ。逆を言うと「2010年代の国際SNS上の関心空間に屯した第三世代フェミニスト集団」は、こういう話についてこれるかどうかで「味方として恃み得るか」判断してたんですね(まぁ実際のプロトコル展開を連日目の当たりにしてれば「教養不足」なんて自然に補われるのが普通で、その実例の一つが私という話。それも出来ない様な「勉強嫌い」は自然に揮(ふるい)に掛けられて行った…)。

 

最近「インテリ-インテリズム(教養とそれがもたらす手管の豊富さ)=リベラリズム」なんじゃないかと思う様になりました。

そんな感じで以下続報…