諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【車椅子乗車拒否事件】そこに二匹目の泥鰌はいなかった?

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数年前、(様々なサービスのオプション化によって運賃を下げている)格安航空会社にあえてノーアポで挑んで階段昇降機によるサポートが受けられず、タラップを自力で上がって英雄視された障害者運動家がいました。

この件に関しては二匹目の泥鰌はいなかった様です。

そもそも身障者乗客には2種類いて、交通会社はそれぞれ以下の様な異なった対応を強要されてきたのです。

  • 他人に迷惑を掛けたくないという気持ちから一切のサポートを拒み、かつ原則として健常者と同じ生活を遅れている事を誇りに思うタイプ…かえってクレームになってしまう可能性があるので、本当にそのタイプか確認する為に声掛けして違うなら対応を切り替える事はあっても直接サポートする事はない。とはいえこうした人達のトラブルがあった時のリカバリー能力は低いので、交通会社側は可能な限り見守り応対(「対応」はクレーマーを連想させサービス利用者側を萎縮させてしまったりそれ自体クレームの対象となり得るので、客商売では連絡の際にこういう言い方をする)を続けてきた。しかしながら最近のコロナ禍で乗客が激減し、それに避ける人的リソースが大幅に縮小してしまった事実は否めない。
  • 可能な限りサポートして欲しいと思ってるタイプ…交通会社側はそういうサービス利用者の為に可能な限り準備したサポートの一覧を提示し、乗客側に事前に選んでもらう形を取ってきた。その範囲では定型化も可能なので、警備会社がこれを安価に請け負う子会社を設立したりもしている(安価な給料で働く彼らは白杖者や車椅子乗客への基本対応を教わって指定された場所に指定した時間に赴くだけで、経験に基づく臨機応変性を要求される例外的対応は任されないし、専門家としてのキャリアを相応に積み重ねてない以上任し得ない)。そう、これは客商売全般に言える事だが、極めて少数の人間だけが要求してくる(費用対効果の見合わない)特別な対応ほど高くつくものはなく、かつそれによる負担増(無料でも、いや無料であればこそ尚更、その精神的負担がサービス利用者側に重くのしかかってくる)をサービス利用者全員が望んでいる訳でもない(これは障害者乗客だけでなく、妊婦や子連れ親子や老人や外国人環境客にも言える事で、かかる層がはっきり集団として声を揃える事でそれが「少数者に対する例外的対応」でない事が明らかになれば雇用需要が生じ、結果としてサービス利用者側が助かる事もあるのである)。

おそらく反体制意識に凝り固まった頭の硬い障害者活動家は、気が付くとこうした現場における(コロナ禍以降特にシビアとなった)サービス提供側とサービス利用者側の「(相互配慮に満ちた)優しい関係」から置き去りにされてしまい、誰にとっても「百害あって一理なし」の存在へと堕してしまったのです。

  • だが、かかる「相互配慮」こそが日本においては良い意味でも悪い意味でも曲者で、例えばもうかれこれ10分以上起き上がる事すら出来ないでいる急病患者が救急車を呼ぶのを拒絶したりする。
  • サービス利用者側からすればサービス提供者側に対する最大限の配慮のつもりなのかもしれないが、交通会社側の抱える事情は複雑である。昏睡状態や意識膿漏状態にあるならともかく、そうでないなら救急車を呼ぶにも当事者の意思確認が必要で、それを呼び掛け続ける為に臨機応変な対応が取れるサービス利用者側のベテランが数十分も拘束される。しかも急病人は天気の変わり目などに重なるもので、こういう場面では定型業務をこなすだけの車椅子部隊は使えないから、臨機応変な対応が取れるベテランの車椅子部隊(実に頼りないほど少数精鋭)の対応は後手後手に回り、こうした負荷の全てを救急隊員に回す事は失礼千万と承知しつつも、介護センターへの搬送が決まったなら決まったで、そこでは過重労働に疲れ果て、余裕をなくした担当医の罵詈雑言が待ち構えているのである。「ねぇ、どうして説得に失敗したの? 現状わかってるよね?」(特にコロナ禍が流行して以降、交通機関の介護センターの機能は完全にパンクしている)。
  • ああ、こういう時に限って純然たる田舎のスイスで生まれ育ったルソーが、リスボン大震災の際につけた難癖は、必ずしも間違ってはいなかったのかもしれないと感じてしまう。「疫病の流行や大災害の都度に被害が出るのは、人間が限界を超えて集住しているからで、それを可能とする国家のあり方そのものが間違っている」。ただこうしたアプローチのもたらす「過重集住の解消手段」の被害はさらに甚大である。最終局面で「ルソーの血塗られた手」と揶揄されたロベスピエールら革命委員会が辣腕を振るったフランス革命では国民の1/5の生命を犠牲にした上に産業革命導入が半世紀以上遅れて大英帝国単独派遣時代を準備し、これを模倣したポルポト政権に至っては国民の1/3の生命を犠牲にした上に(インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層の総粛清を経て)その文化レベルを分野によっては原始時代まで引き下げてしまった(特に医療関係の被害が甚大で、地方社会では「民間呪術師」まで復活)。

まさに以下の様な状況。

だからこの事件への反応も以下の様な具合に変化してしまったのです。

 他の観点

 これがその過去投稿

 

そんな感じで、以下続報…

 

ochimusha01.hatenablog.com

 そんな感じで以下続報…