諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【数学ロマン】暴走リベラリストを自滅させる「負のイプシロンデルタ論法」について。

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×「数学を超える正」○「数学を超える正しさ」

遡るとこの話ですね。

何故そうなってしまうのか。それを数理的に説明しようとすると以下の様になります。

この話ですね。

ここではヘイズコード制定に際して「幸福な結婚を奨励する(為には荒唐無稽な障壁の超越も許される)」と解して新たなロマンス・コメディのジャンルを開拓したフランク・キャプラウォルト・ディズニーの立場と「ギャングやその情婦の生涯を美化してはならない悲劇的最後を遂げるある種の英雄として称えるのはOK」と解釈して「地獄の天使(1930年)」や「暗黒街の顔役(1932年)」を成功させたハワード・ヒューズの立場を対比させました。しかし実は前者は「誰からも祝福し得る結婚などない(必ず何かの要素が切り捨てられている)」、後者は「(理想の勧善懲悪観を裏切る形で)幸福に到達するギャングやその情婦が実在するが、誰からも共感される事はない」なる「偏在的ニヒリズム=現実社会における諦念」を振り切る事に成功したからこそ商業的成功を収めた訳です。

そもそもHays Codeが制定された理由は「それまで階層ごとに統制可能だった情報が映画では万人向けに発信されてしまうので情報の大元たる制作サイドでの統制が不可欠となった」から。そして統制の主目的は「犯罪のノウハウの拡散を防ぐ(特に分別に欠ける下層階層)」「正義を疑い悪に魅惑される傾向を助長しない(特に分別に欠ける下層階層)」「健全な恋愛と結婚を奨励する(全体に対する努力目標)」といった具合だったが「結局、視聴者は視たいものしか視ない」壁に突き当たる。

かかる「標準値(平凡な日常感覚)のN倍には、必ずそれを打ち消す1/N倍が実在する(ここでは0倍と∞倍が対比され、どちらも観測対象外に置かれる。かかる観測限界が無限の彼方に存在する事は、イプシロンデルタ論法に基づき任意の観測上限/観測下限の実測値についてそれを超える想定値が示され続ける事によってのみ担保される)」なる考え方を座標軸上で示す為に「巨乳」と「貧乳」を例にとって「半径が指数尺で示される円筒座標系」なる概念を導入しました。

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半径1の単位球面の半径をy=exp(-x)で計算する事によってその表現可能範囲を0から無限の間に広げたリーマン球面概念の応用。さらにその考え方自体は以下の様な試論から出発しています。

これがまず二次元直積(互いに直交する同型評価軸の2軸)の場合。要するにy=±x直線y=±1/x反比例曲線を描くならe^θilog(θi)が円を描くのです。

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群論概念ではこうして自己同型二次元直積が取れるならN次元直積も取れると考えます。ここに「対角線の算出による無次元化」なる発想の出発点があるのですね。

この話ですね。

実際、統計学における分散の算出過程二項演算における対角線の導出過程そのもの。

線形代数はこれを(a+b)(a+b)^{n-1}の形でしか扱えません。

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そもそも統計的世界観には「安定した中心」概念自体が存在しないとも。私の第一印象は「手ブレしたビデオ画像みたい」というもの。

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この話ですね。

×みたいな話でk盛り上がってますが○みたいな話で盛り上がってますが。この辺りから考え始めた事ですね。要は解析学が前提とする「微小領域(Micro-Regions)」とは何かという話です。

現状ではあくまで直感ベースに過ぎませんが、どうやらこの領域とも関係が…

歴史的に微分積分学で扱うことのできた素朴な意味での体積(一般には多次元の体積)は、リーマン積分を用いて表され、有限加法的であった。1902年アンリ・ルベーグは彼の学位論文『積分、長さ、体積』("Intégrale, longueur, aire ") において測度の概念を確立する。これにより新たに定義された "体積" は、完全加法的であることを積極的に要求したため、極限概念との親和性が高く、そのためリーマン積分(とジョルダン測度)による場合よりも多くの集合に体積が定義可能となった。これが測度論の始まりである。

リーマン積分(青)とルベーグ積分(赤)

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積分の定義方法の違いを直感的に理解できるように、山の(海抜より上の部分の)体積を計算する例を考えよう。この山の境界ははっきりと定まっているとする(これが積分範囲である)。

  • リーマン積分による方法…ケーキを切るときのように、山を縦方向に切り分けて細分する。このとき、各パーツの底面は長方形になるようにする。次に、各パーツで最も標高が高いところを調べ、底面の面積とその標高を掛け合わせる。各パーツごとに計算したその値を足したものを、上リーマン和と呼ぶことにする。同様のことを、最も標高が低いところに対して行い、下リーマン和と呼ぶことにする。分割を細かくしていったときに、上・下のリーマン和が同じ値に収束するときに、リーマン積分可能であるといい、その極限値が山の体積になる。
  • ルベーグ積分による方法…山の等高線を地図にする。等高線にそって地図を裁断して、地図をいくつかのパーツに分解する。各パーツは面積を計算できる平面図形なので(測度が分かっているので)、パーツの面積とそのパーツの最も低い点の標高を掛け合わせる。各パーツのこの値を足したものを「ルベーグ」と呼ぶことにする。この「ルベーグ」はルベーグ積分の構成にあった、単関数の積分に相当する。等高線の間隔を半分にしていったときの「ルベーグ」の極限値が山の体積になる。

リーマン積分では長方形 [a, b] × [c, d] の面積が (b − a)(d − c) で計算できることを基礎としている。リーマン積分積分を近似するための「簡単に計算できる積分」として、長方形を並べたものを使っており、測度に関するより深い議論を必要としなかったのである。

全体像を改めて要約。

ここでいう「負のイプシロンデルタ論法」の現れ方の一つが以下。

こう考えると「負のイプシロンデルタ論法」って、以前述べた「ナチズムの本質=詐欺師の場当たり的なええとこどり」が評価軸の対消滅を通じて「絶対者=ヒトラーによる恣意的裁定が全ての独裁」へと堕していく過程そのもの。

  • フリッツ・ラング監督映画「メトロポリス(Metropolis,1926年製作/1927年公開)」の脚本家テア・フォン・ハルボウは、伝統的貴族の娘としてナチズムが「資本家と労働者」「地主と小作人」の対立を解消してくれると信じた。

  • 一方、サム・ペキンパー監督の「戦争のはらわた(Cross of Iron,1977年)」では、将校供給階層として伝統的に軍を牛耳ってきたプロシア貴族の上官と対立する「庶民英雄」の下士官が「へぇ、ヒトラー総統もそうお考えになりますかね?」とやり返す。

  • NSDAPにとっては両陣営を支持層に迎える事だけが重要で、その相対する同床異夢を真面目に解決しようとすらしなかった。しかも結果としてその対立は対消滅を起こし「ヒトラーならなんとかしてくれる」なる漠然とした期待感だけが残る寸法である。実は同時期、マルクス=レーニン主義も「人間は必ず過ちを犯す。全てを完璧に計算出来るコンピューターを設計し、全ての判断をそれに委ねるべき」と考える社会主義経済計算論争(Economic Calculation Controversy,1920年代~1930年代)に突入しており、かかる万能コンピューター待望論こそがマルクス=レーニン主義失墜後の暴走リベラルのイデオロギー、すなわちガイア理論にすがった環境テロリストや、バーバラ =ウォーカーの提唱した「家父長制の家母長制による打倒だけが人類を救済する」理念を信じるウルトラ=フェミニズムの代替物となったが、その総和を取るとやはり「全てを勝手に解決してくれる万能者到来への漠然とした期待感」だけが残る訳である。

正反対に「(ソレルが「暴力論」で言及した)フランス革命の本質=無限党争=任意の数の互いに不寛容なイデオロギー同士の果てしない潰し合い」から出発しても同様の評価軸の対消滅を通じて「絶対者=ナポレオンによる恣意的裁定が全ての独裁」へと堕すだけです。

一般にフランス革命ジャコバン派恐怖政治の「テルミドール反動(Coup d'état of 9 Thermidor,1794年)」による終焉に終わったと考えられています。スケープゴートとしてロベスピエールが全責任を負わされて処刑されましたが、要するにジャコバン派恐怖政治とは「革命戦争の戦況悪化がフランス国民全体に引き起こしたパニック状態を敵対する王党派への大量虐殺と身内の大量粛清によって強制的に鎮める劇薬」だったのであり、国民皆兵制導入によって革命戦争の戦況が安定して国民が我に返った途端に大量処刑の責任問題が生じて「処刑を命じた側と処刑を遂行した側の責任の押し付け合い」が勃発し、自明の理として人殺しに慣れた後者の側が勝っただけの話なのです。合言葉は一貫して「裁判をすすめなければならない。斧はその仕事をしなければならぬ」。これは化学者ラボアジエに死刑を判決を命じた裁判官が残した言葉ですが、その言葉を発した当事者も程なく内ゲバに敗れてギロチンの露と消えています。

  • ポール・バラス(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年〜1829年)…マルセイユトゥーロンにおける「王党派」大量虐殺の主導者
  • ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, 1759年〜1820年)…リヨンにおける「王党派」大量虐殺の主導者
  • ジャン=ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien, 1762年〜1820年)…九月虐殺(Massacres de Septembre、1792年)にも参加したボルドーにおける「ジロンド派」大量虐殺の主導者

こんな人殺しの才能しかない連中が最終的に勝ったって「ホロコーストの責任をヒトラー一人に負わせて絶滅収容所の看守が政権を奪取した」様なもので政治的安定など望めません。そこで「フランス革命の脚本家シェイエスは「反体制的マイノリティ出身であるが故にさらに容赦無くフランス国民を殺せる職業軍人(そういえばヒトラーも「長年の敵対国出身者ゆえにドイツ人を自国民より容赦無く殺せる外国人」だった)」をけしかけて彼らを追い落としますが、この職業軍人、ただの人殺しでなく中々の野心家だったので、続けてシェイエスも逆に追い落としてしまいます。

しかしこの職業軍人、ただの人殺しでなく中々の野心家だったので、続けてシェイエスも逆に追い落としてしまうのです。

こうしてナポレオン独裁は成立した訳です。

ちなみに実際、第二次世界大戦前夜の欧州にはこういう形でヒトラーとナポレオンを同一視する議論が存在し「(ナポレオンがフランス国民を大量死させた戦争を始めた様に)間もなくヒトラーもドイツ人を容赦無く大量に死なせる戦争を始めてしまうだろう」なる予測が蔓延していました。おそらく映画「ヒトラーに盗られたうさぎ」が「ヒロインの父が執筆したナポレオンの戯曲が認められた英国に移り住む」結末で終わるのは、こうした歴史的経緯も踏まえての事なのです。

フランス革命ナポレオン戦争終結までの期間に国民の1/5を死なせ、その劣化コピーともいうべきクメール=ルージュに至ってはベトナム系市民の民族浄化に着手して激怒したベトナムにあっけなく打倒されるまでの期間に国民の1/3を失っています。一方、ナチス・ドイツが何をもたらしたかというと…その一方でこうして全体像を俯瞰してみるとナチス流の「詐欺師の無分別なええとこどりにすがっての偽りの一体感からの出発」もフランス革命流の「不寛容による無限党争への没入」も最終的到達地点は「全てを勝手に解決してくれる万能者到来への漠然とした期待感」と同じ。これはもう「虎に食われるのと、ライオンに食われるのとどっちが人道的か」なる古典的命題の再来に過ぎません。そんな感じで以下続報…