ここ最近の表現規制問題の推移を傍観して思った事。実はこれってその背景で起こったより大きな変化の余震に過ぎないのかもしれません。要するに数学者が数学に基づいて構築した「古典的自由主義」に「我々は数学を超えた正義を遂行しうる」と豪語して「古典的」の烙印を押した…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月8日
「社会的自由主義」の提唱者達が、結局は「数学を超える正」を提示出来ない事が明らかとなったのです。「古典的自由主義」の数理の構造は簡単極まりなく「人類の備えるポテンシャル」を最大限引き出す為に男女差別にも身分差別にも人種差別にも反対するだけです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月8日
×「数学を超える正」○「数学を超える正しさ」
まずこの部分について社会自由主義は「我々の行使する正義の方が(古典的自由主義の提唱する)あらゆる人間のあらゆる制約からの解放より、より良い何かを生み出せる」という実績を一つも残せなかったとも考えられるという話ですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月8日
遡るとこの話ですね。
何故そうなってしまうのか。それを数理的に説明しようとすると以下の様になります。
実はこれについてTumbr上ではウルトラフェミニストと第三世代フェミニストの間に大論争がありました。主題はいわゆるビクトリアンコードとヘイズコードについて。しかしJリベラルの皆さんは、まずこの話題に必要な莫大な教養について来れないとしか思えないんですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月8日
この話ですね。
ここではヘイズコード制定に際して「幸福な結婚を奨励する(為には荒唐無稽な障壁の超越も許される)」と解して新たなロマンス・コメディのジャンルを開拓したフランク・キャプラやウォルト・ディズニーの立場と「ギャングやその情婦の生涯を美化してはならない→悲劇的最後を遂げるある種の英雄として称えるのはOK」と解釈して「地獄の天使(1930年)」や「暗黒街の顔役(1932年)」を成功させたハワード・ヒューズの立場を対比させました。しかし実は前者は「誰からも祝福し得る結婚などない(必ず何かの要素が切り捨てられている)」、後者は「(理想の勧善懲悪観を裏切る形で)幸福に到達するギャングやその情婦が実在するが、誰からも共感される事はない」なる「偏在的ニヒリズム=現実社会における諦念」を振り切る事に成功したからこそ商業的成功を収めた訳です。
そもそもHays Codeが制定された理由は「それまで階層ごとに統制可能だった情報が映画では万人向けに発信されてしまうので情報の大元たる制作サイドでの統制が不可欠となった」から。そして統制の主目的は「犯罪のノウハウの拡散を防ぐ(特に分別に欠ける下層階層)」「正義を疑い悪に魅惑される傾向を助長しない(特に分別に欠ける下層階層)」「健全な恋愛と結婚を奨励する(全体に対する努力目標)」といった具合だったが「結局、視聴者は視たいものしか視ない」壁に突き当たる。
かかる「標準値(平凡な日常感覚)のN倍には、必ずそれを打ち消す1/N倍が実在する(ここでは0倍と∞倍が対比され、どちらも観測対象外に置かれる。かかる観測限界が無限の彼方に存在する事は、イプシロンデルタ論法に基づき任意の観測上限/観測下限の実測値についてそれを超える想定値が示され続ける事によってのみ担保される)」なる考え方を座標軸上で示す為に「巨乳」と「貧乳」を例にとって「半径が指数尺で示される円筒座標系」なる概念を導入しました。
半径1の単位球面の半径をy=exp(-x)で計算する事によってその表現可能範囲を0から無限の間に広げたリーマン球面概念の応用。さらにその考え方自体は以下の様な試論から出発しています。
最近「陰謀論から脱却するには数理的精度を上げるしかない」という事を考えています。例えば異性愛と同性愛の関係について。男と女を両極とする評価軸を設定すると「男男」「男女」「女女」「女男」を通過点に一週する単位円が得られます。これがqueerの考え方ですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
これがまず二次元直積(互いに直交する同型評価軸の2軸)の場合。要するに式y=±xが直線、式y=±1/xが反比例曲線を描くなら式e^θiや式log(θi)が円を描くのです。
一方、トランスジェンダーの考え方もまた身体性と精神性の二軸で「男男」「男女」「女女」「女男」を通過点に一巡する単位円を描きます。全体像をこの互いに直行する単位円の直積と考えるなら、全体像が単位円から単位球面に拡張されます。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
群論概念ではこうして自己同型で二次元直積が取れるならN次元直積も取れると考えます。ここに「対角線の算出による無次元化」なる発想の出発点があるのですね。
この様に「トランスジェンダー問題とqueer問題が独立関係にある(つまり決して同一平面上には存在し得ない)」事を理解するだけで多くの無駄な議論が避けられそうです。さらにいうと「(対象が複数化するので2項関係では論じ切れなくなる)バイセクシャル問題」や…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
「(同一の対象を通期を通じて性対象とする展開を阻害する)ペドフィリア等」の評価軸は、この球面状分布にさらなる次元を追加していく事になるのです。何だか面倒くさくなってきましたね。そこで登場してくるのが「平均と分散」の概念です。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
この話ですね。
実際、統計学における分散の算出過程は二項演算における対角線の導出過程そのもの。
例え評価軸の数がどれほど増えようと、それぞれの分布をパーセテージ換算してその平均値を中央(単位元0)に重ねる事は可能であり、この時現れるn次元対角線が分散で、直積が取れてる以上平方積x^N次元で表されます。計算上はユークリッド距離の式を使い…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
二次元で考える時の一辺は√2/2、三次元で考える時の一片は√3/3すなわちn次元で考える時の一片は√n/nとなりますね。この方便の導入によってあらゆる物事が「(仮象としての)中心とそれからの逸脱具合として語れる様になるのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
線形代数はこれをの形でしか扱えません。
そもそも統計的世界観には「安定した中心」概念自体が存在しないとも。私の第一印象は「手ブレしたビデオ画像みたい」というもの。
ところで私は現時点でイプシロンデルタ論法を「無限の概念は、ある評価軸上の数値が示された時、必ずそれ以上の数値が示し続けられる場合にのみ成立する」なるゲームのハイスコア更新感覚でしか理解してないのですが、ここにその考え方を導入すると…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
「人間の想像力の無限は、かかるn次元分散球面について新たな評価軸や中央からの分散距離を付け加えられ続ける限りにおいて証明され続ける」という事になります。逆をいえばそれが出来なくなった途端、人間の想像力は縮退を迎え「いかなる評価軸も所詮は仮象に過ぎない」方便に耐えられなくなって…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
…虚無の境地への墜落を始めてしまうのです。例えば「肉眼上は水平に続いて見える地平線や水平線が究極的には円を構成している事」を知性で理解するには線積分の様な解析学の知識を必要としますが、それが理解出来ないからという理由でそれを除去した理論を構築しようとすると平面地球説論者に。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
現実の人間の身体性が概ね男女のそれに離散的に大別される事に拘泥し過ぎるとLGBTQA関連の最先端議論についていけなくなります。そういえば実は上掲のn次元分散球面も、実際に描画しようとするとオイラーの多角形/多面体定理に囚われて…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
平面を埋め尽くす正三角形か正方形か正六角形、あるいは三次元空間上のプラトン立体、すなわちTRPGで振るサイコロの様な正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体に正二面体(要するに表裏の2面しか持たないコイン)としてしか描けないので想像力がそれに拘泥されてしまうんですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
この話ですね。
こうした形での世界認識方法への確率論概念の導入、絶対量子論的宇宙観と無関係な筈がないのですが、両者をもっと本格的に結びつけるにはまだまだ勉強が足りない様でする。そんな感じで以下続報。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
そういえば最近のネット上における物理学界隈、「解析学と物理学の結びつきは必然?」みたいな話でk盛り上がってますが、もしかしたら関連してくる話?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月9日
×みたいな話でk盛り上がってますが○みたいな話で盛り上がってますが。この辺りから考え始めた事ですね。要は解析学が前提とする「微小領域(Micro-Regions)」とは何かという話です。
現状ではあくまで直感ベースに過ぎませんが、どうやらこの領域とも関係が…
たとえば非負で期待値有限の確率変数 X について P(X > t) って t → ∞ で 0 に収束しそうですよね。ルベーグって唱えておけばごく簡単に 1/t より早いオーダで収束することが示せたりします。
— ™ (@tmaehara) 2021年12月10日
歴史的に微分積分学で扱うことのできた素朴な意味での体積(一般には多次元の体積)は、リーマン積分を用いて表され、有限加法的であった。1902年、アンリ・ルベーグは彼の学位論文『積分、長さ、体積』("Intégrale, longueur, aire ") において測度の概念を確立する。これにより新たに定義された "体積" は、完全加法的であることを積極的に要求したため、極限概念との親和性が高く、そのためリーマン積分(とジョルダン測度)による場合よりも多くの集合に体積が定義可能となった。これが測度論の始まりである。
積分の定義方法の違いを直感的に理解できるように、山の(海抜より上の部分の)体積を計算する例を考えよう。この山の境界ははっきりと定まっているとする(これが積分範囲である)。
- リーマン積分による方法…ケーキを切るときのように、山を縦方向に切り分けて細分する。このとき、各パーツの底面は長方形になるようにする。次に、各パーツで最も標高が高いところを調べ、底面の面積とその標高を掛け合わせる。各パーツごとに計算したその値を足したものを、上リーマン和と呼ぶことにする。同様のことを、最も標高が低いところに対して行い、下リーマン和と呼ぶことにする。分割を細かくしていったときに、上・下のリーマン和が同じ値に収束するときに、リーマン積分可能であるといい、その極限値が山の体積になる。
- ルベーグ積分による方法…山の等高線を地図にする。等高線にそって地図を裁断して、地図をいくつかのパーツに分解する。各パーツは面積を計算できる平面図形なので(測度が分かっているので)、パーツの面積とそのパーツの最も低い点の標高を掛け合わせる。各パーツのこの値を足したものを「ルベーグ和」と呼ぶことにする。この「ルベーグ和」はルベーグ積分の構成にあった、単関数の積分に相当する。等高線の間隔を半分にしていったときの「ルベーグ和」の極限値が山の体積になる。
リーマン積分では長方形 [a, b] × [c, d] の面積が (b − a)(d − c) で計算できることを基礎としている。リーマン積分は積分を近似するための「簡単に計算できる積分」として、長方形を並べたものを使っており、測度に関するより深い議論を必要としなかったのである。
全体像を改めて要約。
最近、数年掛かりの試行が実って「あらゆる人間の欲求を不謹慎で切り捨てようとする」負のイプシロンデルタ論法の数理的メカニズムを言葉に出来る様になった訳ですが…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月10日
その逆元を構成する「正のイプシロンデルタ論法」が「正義の反対はまた別の正義」論と程遠い「ドラゴンカーセックスより凄い何かを思いつけない限り、それが人類の想像し得るエロティズムの極限となってしまう」なるいたたまれない考え方となる辺り、人類に信用が置けますね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月10日
というかそもそも「ドラゴンカーセックスの逆元」とは? そもそもこれがどういう評価次元で構成されていか考える事から始めないといけませんね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月10日
ここでいう「負のイプシロンデルタ論法」の現れ方の一つが以下。
私はもう『女性蔑視』がよく分からなくなってきました。主婦を奴隷や家畜と呼ぶ。萌え絵。女性の企画なのにオッサン目線と断定。ミニスカート。巨乳女性の広告は見せ方に注意せよ。女性を名誉男性と認定。女性のアイキャッチ。男に媚びていると揶揄。どれが女性蔑視で、どれが女性蔑視でないのか……。
— 神崎ゆき (@yukinoko811) 2021年12月10日
彼女らの行動こそが「性的消費」に
— 村長 (@son_tyo) 2021年12月11日
他ならないんですよね。
女性を性的に消費するというか
— もりーゆ (@minmisugi) 2021年12月11日
「女性に関わるものを殊更に性的に扱い、政治的に利用」し
そんな中で「自身の意に沿わない『女性の自由と尊厳』を一方的に消費(轢き潰)している」と思います。
草津町の件でも
— もりーゆ (@minmisugi) 2021年12月11日
真偽不明での思い込みがあったとしても
リコール動議が居住実態などにも言及していることには触れず
殊更に性的部分だけを強調し
性的眼差ししか向けず
町長批判だけに留まらず
議会は疎か、町全体まで巻き込み
あのようなパフォーマンスに走ったことは
嫌われて然るべしであろう。
めんどくさい人たちの場当たり的な「お気持ち」推し量ってたらおかしくなりますよ
— sanglier (@taki19213) 2021年12月10日
その時その時て言ってること違うんですから
こう考えると「負のイプシロンデルタ論法」って、以前述べた「ナチズムの本質=詐欺師の場当たり的なええとこどり」が評価軸の対消滅を通じて「絶対者=ヒトラーによる恣意的裁定が全ての独裁」へと堕していく過程そのもの。
- フリッツ・ラング監督映画「メトロポリス(Metropolis,1926年製作/1927年公開)」の脚本家テア・フォン・ハルボウは、伝統的貴族の娘としてナチズムが「資本家と労働者」「地主と小作人」の対立を解消してくれると信じた。
- 一方、サム・ペキンパー監督の「戦争のはらわた(Cross of Iron,1977年)」では、将校供給階層として伝統的に軍を牛耳ってきたプロシア貴族の上官と対立する「庶民英雄」の下士官が「へぇ、ヒトラー総統もそうお考えになりますかね?」とやり返す。
- NSDAPにとっては両陣営を支持層に迎える事だけが重要で、その相対する同床異夢を真面目に解決しようとすらしなかった。しかも結果としてその対立は対消滅を起こし「ヒトラーならなんとかしてくれる」なる漠然とした期待感だけが残る寸法である。実は同時期、マルクス=レーニン主義も「人間は必ず過ちを犯す。全てを完璧に計算出来るコンピューターを設計し、全ての判断をそれに委ねるべき」と考える社会主義経済計算論争(Economic Calculation Controversy,1920年代~1930年代)に突入しており、かかる万能コンピューター待望論こそがマルクス=レーニン主義失墜後の暴走リベラルのイデオロギー、すなわちガイア理論にすがった環境テロリストや、バーバラ =ウォーカーの提唱した「家父長制の家母長制による打倒だけが人類を救済する」理念を信じるウルトラ=フェミニズムの代替物となったが、その総和を取るとやはり「全てを勝手に解決してくれる万能者到来への漠然とした期待感」だけが残る訳である。
正反対に「(ソレルが「暴力論」で言及した)フランス革命の本質=無限党争=任意の数の互いに不寛容なイデオロギー同士の果てしない潰し合い」から出発しても同様の評価軸の対消滅を通じて「絶対者=ナポレオンによる恣意的裁定が全ての独裁」へと堕すだけです。
一般にフランス革命はジャコバン派恐怖政治の「テルミドール反動(Coup d'état of 9 Thermidor,1794年)」による終焉に終わったと考えられています。スケープゴートとしてロベスピエールが全責任を負わされて処刑されましたが、要するにジャコバン派恐怖政治とは「革命戦争の戦況悪化がフランス国民全体に引き起こしたパニック状態を敵対する王党派への大量虐殺と身内の大量粛清によって強制的に鎮める劇薬」だったのであり、国民皆兵制導入によって革命戦争の戦況が安定して国民が我に返った途端に大量処刑の責任問題が生じて「処刑を命じた側と処刑を遂行した側の責任の押し付け合い」が勃発し、自明の理として人殺しに慣れた後者の側が勝っただけの話なのです。合言葉は一貫して「裁判をすすめなければならない。斧はその仕事をしなければならぬ」。これは化学者ラボアジエに死刑を判決を命じた裁判官が残した言葉ですが、その言葉を発した当事者も程なく内ゲバに敗れてギロチンの露と消えています。
- ポール・バラス(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年〜1829年)…マルセイユやトゥーロンにおける「王党派」大量虐殺の主導者
- ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, 1759年〜1820年)…リヨンにおける「王党派」大量虐殺の主導者
- ジャン=ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien, 1762年〜1820年)…九月虐殺(Massacres de Septembre、1792年)にも参加したボルドーにおける「ジロンド派」大量虐殺の主導者
こんな人殺しの才能しかない連中が最終的に勝ったって「ホロコーストの責任をヒトラー一人に負わせて絶滅収容所の看守が政権を奪取した」様なもので政治的安定など望めません。そこで「フランス革命の脚本家」シェイエスは「反体制的マイノリティ出身であるが故にさらに容赦無くフランス国民を殺せる職業軍人(そういえばヒトラーも「長年の敵対国出身者ゆえにドイツ人を自国民より容赦無く殺せる外国人」だった)」をけしかけて彼らを追い落としますが、この職業軍人、ただの人殺しでなく中々の野心家だったので、続けてシェイエスも逆に追い落としてしまいます。
しかしこの職業軍人、ただの人殺しでなく中々の野心家だったので、続けてシェイエスも逆に追い落としてしまうのです。
こうしてナポレオン独裁は成立した訳です。
ちなみに実際、第二次世界大戦前夜の欧州にはこういう形でヒトラーとナポレオンを同一視する議論が存在し「(ナポレオンがフランス国民を大量死させた戦争を始めた様に)間もなくヒトラーもドイツ人を容赦無く大量に死なせる戦争を始めてしまうだろう」なる予測が蔓延していました。おそらく映画「ヒトラーに盗られたうさぎ」が「ヒロインの父が執筆したナポレオンの戯曲が認められた英国に移り住む」結末で終わるのは、こうした歴史的経緯も踏まえての事なのです。
フランス革命はナポレオン戦争終結までの期間に国民の1/5を死なせ、その劣化コピーともいうべきクメール=ルージュに至ってはベトナム系市民の民族浄化に着手して激怒したベトナムにあっけなく打倒されるまでの期間に国民の1/3を失っています。一方、ナチス・ドイツが何をもたらしたかというと…その一方でこうして全体像を俯瞰してみるとナチス流の「詐欺師の無分別なええとこどりにすがっての偽りの一体感からの出発」もフランス革命流の「不寛容による無限党争への没入」も最終的到達地点は「全てを勝手に解決してくれる万能者到来への漠然とした期待感」と同じ。これはもう「虎に食われるのと、ライオンに食われるのとどっちが人道的か」なる古典的命題の再来に過ぎません。そんな感じで以下続報…