諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【連続微小領域環】「システムの完成とは、それ自体ある種の死を意味する」?

ある意味私をずっと捉えてきたのは、タロットカードにおける「太陽」概念…そこには完成を巡る「死と再生の連鎖」過程が埋め込まれているのです。

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この投稿の出発点はこちら。

ある種の諸勢力間の均衡が契約の概念を登場させると考える「権威勾配」概念を「あらゆる権力に抵抗する自分だけが正しい」と考える「権力勾配」概念に誤読した事から日本のインテリの堕落は始まりました。それは現実の諸勢力間の均衡をあえて無視しようとするので、絶対に勝利に到達する事がありません。ナチズムの様な「ええとこどりの甘言を弄して近づいてくる詐欺師」のカモにされるのがオチ。

要するにスティーブ・ジョブズ角川春樹といった特異点

白樺派」というより「戦前日本絵画の国粋主義」の迎えた限界。それ自体がある種の原罪であり、これを内省しない限り日本のインテリは一歩も先に進めないのです。

この話ですね。

むしろ「システム運用は閉世界仮説から出発し、それが破れ続ける事で拡張され続ける。システムの完成はこのサイクルの終了を意味するが、それはある種の死への到達でもあったりする」と定式化するのが正しい?

とどのつまり「誰もが笑って暮らしている公平な平等社会」の完成は、その視野外に追い出された「平等に接するに値しない人々」への差別の完成でもある?

この問題について考察する上で今年の出発点に選んだのが「(地球平面説を生み出す様な)連続微小領域環上におけるマクロ視点とミクロ視点の分断」だったという次第。

そんな感じで以下続報…