ある意味私をずっと捉えてきたのは、タロットカードにおける「太陽」概念…そこには完成を巡る「死と再生の連鎖」過程が埋め込まれているのです。
この投稿の出発点はこちら。
なるほど「まず帰無仮説自体が有意味水準を満たさなねばならない」なる「バカの壁」が存在するんだ…https://t.co/2hmK4trOhq
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
というより「私の心に届いた良心の声は、如何なる科学的検証法より科学的に正しい」なる信念に、どうやって科学的に対抗していくかという話?https://t.co/3c49ViFqVg
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
古典的自由主義の「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。それを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」に対する「私がその他人だ。あらゆる権力は盲従するしかない」信念と重なります。https://t.co/MhNWUqIQAj
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
ある種の諸勢力間の均衡が契約の概念を登場させると考える「権威勾配」概念を「あらゆる権力に抵抗する自分だけが正しい」と考える「権力勾配」概念に誤読した事から日本のインテリの堕落は始まりました。それは現実の諸勢力間の均衡をあえて無視しようとするので、絶対に勝利に到達する事がありません。ナチズムの様な「ええとこどりの甘言を弄して近づいてくる詐欺師」のカモにされるのがオチ。
80年代リベラルは、これが究極的には「他人を害さずには生きていけない我々にも共存権が存在する」なる捕食動物の倫理に至る事にもっと自覚的だった筈ですが。その事にどれだけ自省的だったかは別として。https://t.co/CM0W32LSLO
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
要するにスティーブ・ジョブズや角川春樹といった特異点…
地獄から戻ってきた懐かしのアライさん「教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ」。https://t.co/aREdWYT9Dn
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
「白樺派」というより「戦前日本絵画の国粋主義」の迎えた限界。それ自体がある種の原罪であり、これを内省しない限り日本のインテリは一歩も先に進めないのです。
最近「左の(保守派でなく革新派)右の(アンチボルシェビキ)左(自然法主義でなく法実証主義)」なる政治的立場に落ち着きつつありますね。まぁ「ラッサールを選んだ」とはそういう事。ところでこのチェーンルールで交換法則は成立するの?https://t.co/J0a7XnGqQr
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
この話ですね。
むしろ「システム運用は閉世界仮説から出発し、それが破れ続ける事で拡張され続ける。システムの完成はこのサイクルの終了を意味するが、それはある種の死への到達でもあったりする」と定式化するのが正しい?
自然法主義、すなわち誰もが自らの良心の命令のみに忠実に振る舞うと中世の自力救済主義に陥って、結局「強い者が勝つ」結論に。「全体を俯瞰して超越的仲裁者が裁定する」法実証主義は、それへのアンチテーゼとして台頭してきたんですね。https://t.co/YYsFni40Kp
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
欧州の絶対君主や、日本の戦国大名がそれ。どちらも「中世までの紛争をまとめて無効化する」一円領主だった事が重要で、近代国家建設への橋渡し役となった訳です。「破壊の時代が終わって、創造の時代が始まる(サン=シモン)」ですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月12日
とどのつまり「誰もが笑って暮らしている公平な平等社会」の完成は、その視野外に追い出された「平等に接するに値しない人々」への差別の完成でもある?
この問題について考察する上で今年の出発点に選んだのが「(地球平面説を生み出す様な)連続微小領域環上におけるマクロ視点とミクロ視点の分断」だったという次第。
そんな感じで以下続報…