諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「社会構成要素としての社化学興亡史」?

まずこの対応概念が日本語に存在しない?

今回の投稿の発端は以下のTweet

どうしてこれが奇数系(第三世代)フェミニズムの出発点になるかというと、例えば日本のフェミニズム理論がその黎明期から取り組んできた課題だったりするからなのです。

私はこうしてトルストイ翁のいわゆる「物事の本性」を私の力の及ぶ限り透察した。そうして私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴(おおづかみ)な分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。

一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。

このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。

或一事を行う度に生活の中心がその一事に移動して焦点を作り、他の万事は縁暈(えんうん)としてそれを囲繞(いじょう)している。こうして人間性が無限無数にその中心を新しく変えて行けばこそ人間の生活が活気を帯び、機勢(はずみ)を生じ、昨日に異った意義と価値を創造して進むことが出来る。これが人間生活の堅実な状態である。

そうして人間にはこれと齟齬(そご)する病的な状態がある。即ち物を食べていながらこの事に熱中しがたくて食べている物の味を享楽することが出来ないような状態である。何事も沈滞していて中心となるまでに焦点を作らない状態である。それが人間の根本欲求と分裂している病的な状態であることは人間がその状態に満足しないのみか、それを不純、怠惰、卑怯、姑息、頽廃、堕落というような自覚を以て自ら憎悪し、自ら愧(は)じ、自ら苦くるしみ、自ら出来るだけそれを脱しようとして焦燥あせるので明かである。

今一つの病的な状態がある。しばしば無用または有害な或一事に生活の中心が集まりやすいことである。例えば女が低級な名誉心――栄誉心――を中心として常に行動するような場合は決してそれが女自身の上に真実の幸福を持ち来きたさない。かえって女自身の生活を人間の根本欲求に反して不幸に導くものである。こういう場合には人間の本務を標準としてその悪性な中心要素を批判し、それを一掃して、他の必要有益な中心要素の起伏する堅実な生活状態に就つかねばならない。

皮肉にも、フェミニズム理論におけるこの系統のアプローチは「男女なる大区分そのものの解体」を志向するが故に男性も巻き込んでくるのですね。さらにいうこの系譜はダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe,1712年~1720年)」「モル・フランダース(Moll Flanders,1722年)」や貝原益軒和俗童子(1710年)」において語られる「(男女を問わず)日記と家計簿によって毎日の自分の生活を管理出来てこそ一人前」なる(近代人の前段階としての)近世人像にまで遡ります。

ここで浮上してくる「(シングルタスクを前提とした)清姫-お七モデル」の限界を克服する為に広まったのが「二口女」「うまる会議」モデルとも。

いずれにせよこれらは全て「内政」の領域に属し、他者や社会との関係を司る「外交」領域から切り離す。どちらも複式簿記の様な手法で管理し、最終的には全体としての帳尻合わせが必要となるにせよ(個々の評価軸ごとのバランスを見る)台帳が峻別されている事が重要。で、以下からがこの意味合いにおける「交渉上手な人」との対比。

ここで急浮上してくる一つの疑問。

ここで項を改めて再出発。

古代帝制が神殿破壊と住民の強制移動によって都市国家祭政一致体制を破壊しようとしたので、これに抵抗する過程で「啓典の民」が現れた。

アイディアの大源流、ここにありですね。

1951年(昭和26年)5月3日に第2代会長に就任した戸田城聖の下で、75万世帯を目標にした「折伏大行進」という名の大規模な布教活動が行われ、日本国内での創価学会の勢力は急拡大した。しかし強引な勧誘手法は批判を呼び、社会問題化した。

これも戦後日本の急速な都市化に対応した動きという…

そんな感じで以下続報…