まずこの対応概念が日本語に存在しない?
今回の投稿の発端は以下のTweet。
個人的メモ。そうか、この一連の流れ、私がよく引用する「第三世代フェミニズム的世渡りノウハウ」の真逆のフィードバック連鎖で出来てるんだ。https://t.co/R2Gxy5C1JW
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
フェミニズム全体としての流れは「穏健過ぎてなかなか進まない(第一世代運動)」「反動で政治運動として過激化(第二世代)」「揺り戻しで個人主義回帰(第三世代)」「国際的無政府主義台頭に歩調を合わせて再びラディカル政治運動化(第四世代)」といった感じ。https://t.co/yL0iwxaJjQ
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
⓪とにかく最初に「暫定的国境線」を設定する事。実際の貴方は決して無条件に万人の理解は得られない暗い衝動を沢山抱えてるし、叶えたい理想の全てを即座に実現可能な力を備えている訳でもありません。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
そもそも貴方において、本当の意味で一貫して存在し続ける(し続けて欲しい)自分は一体どこまでですか?それを「他者(自分以外の外界全て)」にどう見せるか自分で決め、必要性や余力とも相談しながら漸進的に改善していく覚悟を決めた時、そこに初めて時間の概念が生じます。https://t.co/9GyBFALS5h
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
どうしてこれが奇数系(第三世代)フェミニズムの出発点になるかというと、例えば日本のフェミニズム理論がその黎明期から取り組んできた課題だったりするからなのです。
私はこうしてトルストイ翁のいわゆる「物事の本性」を私の力の及ぶ限り透察した。そうして私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴(おおづかみ)な分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。
一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。
このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。
或一事を行う度に生活の中心がその一事に移動して焦点を作り、他の万事は縁暈(えんうん)としてそれを囲繞(いじょう)している。こうして人間性が無限無数にその中心を新しく変えて行けばこそ人間の生活が活気を帯び、機勢(はずみ)を生じ、昨日に異った意義と価値を創造して進むことが出来る。これが人間生活の堅実な状態である。
そうして人間にはこれと齟齬(そご)する病的な状態がある。即ち物を食べていながらこの事に熱中しがたくて食べている物の味を享楽することが出来ないような状態である。何事も沈滞していて中心となるまでに焦点を作らない状態である。それが人間の根本欲求と分裂している病的な状態であることは人間がその状態に満足しないのみか、それを不純、怠惰、卑怯、姑息、頽廃、堕落というような自覚を以て自ら憎悪し、自ら愧(は)じ、自ら苦くるしみ、自ら出来るだけそれを脱しようとして焦燥あせるので明かである。
今一つの病的な状態がある。しばしば無用または有害な或一事に生活の中心が集まりやすいことである。例えば女が低級な名誉心――栄誉心――を中心として常に行動するような場合は決してそれが女自身の上に真実の幸福を持ち来きたさない。かえって女自身の生活を人間の根本欲求に反して不幸に導くものである。こういう場合には人間の本務を標準としてその悪性な中心要素を批判し、それを一掃して、他の必要有益な中心要素の起伏する堅実な生活状態に就つかねばならない。
皮肉にも、フェミニズム理論におけるこの系統のアプローチは「男女なる大区分そのものの解体」を志向するが故に男性も巻き込んでくるのですね。さらにいうこの系譜はダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe,1712年~1720年)」「モル・フランダース(Moll Flanders,1722年)」や貝原益軒「和俗童子訓(1710年)」において語られる「(男女を問わず)日記と家計簿によって毎日の自分の生活を管理出来てこそ一人前」なる(近代人の前段階としての)近世人像にまで遡ります。
ここで浮上してくる「(シングルタスクを前提とした)清姫-お七モデル」の限界を克服する為に広まったのが「二口女」「うまる会議」モデルとも。
いずれにせよこれらは全て「内政」の領域に属し、他者や社会との関係を司る「外交」領域から切り離す。どちらも複式簿記の様な手法で管理し、最終的には全体としての帳尻合わせが必要となるにせよ(個々の評価軸ごとのバランスを見る)台帳が峻別されている事が重要。で、以下からがこの意味合いにおける「交渉上手な人」との対比。
⓵「交渉上手な人」は「忍耐の限界を超えた不快に接近すると、受け入れたり許したりする能力が劣化する」事を知っているので「自分の目から交渉相手のその部分」を「交渉相手の目から自分のその部分」をとりあえず「隠す(五感に直結した生々しさを奪う)」。 pic.twitter.com/oBeAIdpe7k
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
②「交渉上手な人」は自分にも交渉相手にも「絶対譲れない部分と譲れない部分の濃淡」や「評価軸間の依存関係による揺らぎ」があるという前提で仮の全体像を描き、さりげなく探りを交えながら落としどころを探す。その緊張感は本来なら相手に未知の要素が多ければ多いほど高まる。 pic.twitter.com/9J0HHgXVkt
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
③「交渉上手な人」は、そもそも「交渉」によって何も勝ち取った事がなく、それゆえに交渉自体を「正義への裏切り」としか感じない生粋の喧嘩屋とは最初から交渉しない。逆に交渉相手からそう思われない為に全力を尽くす。 pic.twitter.com/x5aorQji8l
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
ここで急浮上してくる一つの疑問。
こうした側面において案外奇数系(第1世代/第三世代)フェミニズムと偶数系(第2世代/第4世代)フェミニズムは表裏一体の関係にあって、だから表現規制問題についてさえ、それなりの合意が成立したりもしています。https://t.co/7yyqdimE6v
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月6日
しかし「フェミニズムには2種類ある。習得に相応の修養を要するタイプと「そんなのいらない」と騙して扇動によって動員した戦力をどんどん使い捨てにしていくタイプと」なのです。後者はどちらかというと「フェミニストを剽窃した無政府主義者」。https://t.co/lXLL7xUtlC
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
そう「剽窃によるあらゆる既存の資本主義商品的価値観の否定」。ただし「既存の政治権力や資本主義的商業価値を否定する様な無政府主義運動は、弾劾対象がマジョリティとして安定した(安定し過ぎて停滞感すら感じられる)状況においてのみ面白がられる」でもあります。https://t.co/az37aHJD8n
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
いやむしろこの問題の本質は「交渉を「正義への裏切り」としか感じない生粋の喧嘩屋」側というより「ラディカル・フェミニストや無政府主義者は、一体どこからこんな昆虫軍団を召喚してるのか?」にありそうです。そんな感じで以下続報…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
こうして結局はこの話に戻ってくるという…https://t.co/ifSJNrDEEA
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
ここで項を改めて再出発。
個人的メモ。思えば「革命の世紀」と呼ばれた18世紀末~19世紀中旬までの欧州において、この様な烏合の衆は存在していませんでした。人はそれまでの伝統に従って「(それまで伝統的消費経済における消費の主体とされてきた)王侯貴族や聖職者の供給階層」…https://t.co/NDQJe9QfGY
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
「(収入制限選挙により国会を牛耳っていたりする)ブルジョワ階層」「(同朋意識で結ばれた)農奴や小作人や自作農」そして新たに加わった「民族意識」の様な単位に分かれてそれぞれの権利を追求してきたからです。https://t.co/lFl5ZhIBtS
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
⓵ところが産業革命進行によりこれが形骸化。19世紀末に「社会学」なる新学問分野が誕生したのも、こうして「人間を統合する新たな社会制度」の必要が生じたから。https://t.co/m6Pkx1giXm
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
②しかし「総力戦の時代」20世紀に実際にその役割を果たしたのは「国家資本主義同士の激突」すなわち国民の総シン・クライアント(Thin Client)化だったのでした。https://t.co/5bl4RzF1K5
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
そう、マルクス・レーニン主義の提唱する民主集中制(Democratic Centralism)も…https://t.co/pWr6ocO0f4
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
ナチスが提唱した指導者原理(Führerprinzip)も…https://t.co/RhPHGfJ0Ar
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
北朝鮮の主体思想も…https://t.co/SSnEd1BQcE
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
要するに全て「国民の総シン・クライアント(Thin Client)化」なる処方箋という点では同じだったのですと考える訳です。https://t.co/0yl6hZHuaA
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
多くの歴史観において⓵と②の間には「帝国主義時代」なる時代区分が挿入されますね。絶対王政解体に伴う下層貴族の大量没落。彼らを受容した新興産業階層の保守化…https://t.co/5WvXH5c6oQ
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
バルザック「人間喜劇」プルースト「失われた時を求めて」樋口一葉作品などが主題とした「資本主義後進国では起こらず、先進国でのみ起こった」社会変化…https://t.co/BSsdaeUrZq
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
確かに悲劇に終わった側面も。例えばプライムローズリーグ運動成功により英国保守党は地主の利権団体から保守的労働者や女性層からも支持される議会見主主義的近代政党に生まれ変わったものの、その躍進の先に待ち構えていたのはボーア戦争泥沼化だったのです。https://t.co/COBozyL7xU
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
そう、まさにホブスン「帝国主義論(1902年)」の主題。内政に行き詰まった国内政治家と本国の支援に頼りたい植民地商人の癒着が生み出した醜悪なポピュリズム。そしてこの論考こそが「帝国主義」なる概念を発祥させたのです。https://t.co/3mH1LWZGde
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
一方、大日本帝国における議会制民主制導入も、立憲政友会が主導する「我田引鉄」作戦による在地有力者層(地主=自由民権運動を士族から継承した富農富商)の懐柔成功によって比較的安定的に進められてきましたが…https://t.co/BirynKu8Ey
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
普通選挙法制定によってこの手口が通用しなくなった立憲政友会が次に選んだ手口もまた「中国進出」だったのです。https://t.co/NTV41VINyN
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
一方、アメリカや南アフリカでは太平洋戦争時の総力戦体制樹立などを契機に「白人層の分裂(南アフリカではオランダ系旧移民と英国系新移民、アメリカではプロテスタント系旧移民とカソリック系新移民)」が解消。一方で「利権から排除された外部」の蜂起を招いてしまいます。https://t.co/KY3x6vHGlg
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
この時期樹立されたディストピア・イメージとしてはレイ・ブラッドベリ「華氏451度(Fahrenheit 451,1953年)」が重要。その世界の国民はTVによる洗脳で各国ごとに同期化・画一化されており、核戦争による相互破壊をあっけなく容認して存亡の危機に立たされるのです。https://t.co/iN0eCxbDa1
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
そして、こうした総力戦体制の遂行者達が本気で恐れて弾圧したのも、滅亡に瀕した人類を救ったのも本という名の非同期スタンドアローン型デバイス。その内容は人間の脳へのダウンロードが可能で、その状態ではどんな弾圧下でも決して失われる事がありません。https://t.co/tci1m6vs3v
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
古代帝制が神殿破壊と住民の強制移動によって都市国家の祭政一致体制を破壊しようとしたので、これに抵抗する過程で「啓典の民」が現れた。
アイディアの大源流、ここにありですね。
③いずれにせよ20世紀も後半に入ると欧州諸国の復興も進み、自由主義圏の先進国中心に国際資本主義市場が台頭して順調に「国家の公共サービス化(国家資本主義の形骸化)」が進行。https://t.co/jwehMb9ryc
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
一方、不幸にも1848年革命から1世紀半以上経過してるにも関わらず資本主義体制導入が間に合ってない後進諸国では1848年革命当時同様に民族紛争が再燃する展開に。https://t.co/wI5rmxzSzm
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
こういう展開の最中、先進諸国の間に「それまで通り(国家資本主義なる)サーバ側サービスが受けられなくなったシン・クライアントが途方に暮れる」なる新たな問題が急浮上してきます。1990年代まではとりあえず新興宗教の狩場に。https://t.co/LX4KM6Ws4L
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
1951年(昭和26年)5月3日に第2代会長に就任した戸田城聖の下で、75万世帯を目標にした「折伏大行進」という名の大規模な布教活動が行われ、日本国内での創価学会の勢力は急拡大した。しかし強引な勧誘手法は批判を呼び、社会問題化した。
これも戦後日本の急速な都市化に対応した動きという…
21世紀に入るとこういった層がインターネット社会の急激な発展によって可視化してきます。相次ぐ「サーバ側サービス」停止。それを受けてそれぞれが独立した自律的に多様なスタンドアローン形態に移行する筈だったのに…https://t.co/ifSJNrDEEA
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
何故か「今や人類が普遍的に備える良心が我々に直接何をすべきか命じている。それが共有出来ない相手との対話は不要」と嘯いて場当たり的痙攣を繰り返すばかりの昆虫めいた「シン・スタンドアローン群(Thin Standalone)」が大量出現。https://t.co/lXO2ItprOH
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
新興宗教の洗脳プログラムすら届かない(その一方で場当たり的にほとんどあらゆる陰謀論を「良心の声」として受容する)シン・スタンドアローン集団(Thin Standalone Set)…https://t.co/GQT8SqjsKS
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
その登場はある意味「自由からの逃走(1941年)」著者のエーリック・フロムがコロンビア大学紛争(1968年)に際して学生運動家から腐った卵を投げつけられた時点で予言されていた様なものだったとも?https://t.co/hTC8qfMQeS
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
それでも社会学者は目前の政治闘争遂行に忙し過ぎて、今なお「来るべき未来」に目を閉ざし続けているという…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年8月7日
そんな感じで以下続報…