諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【暗黒文学論】「パウロの信仰義認問題の誤読」から始まってしまう何か?

なんだかヤバめの領域の話…え、スウェーデンボルグ聖母?

要するに出発点はプロテスタント倫理の出発点たる「パウロの信仰義認」問題…

ルターの時代、アウグスチノ会の修道士たちは、ほとんどの人より「義」であると考えられていました。彼らは注意深く、すべての神のおきてを守ろうとしました。彼らはとても厳格で、訓練された生活を送っていました。しかしルターは、「義人」であっても、救い主を信じる信仰に生きなければならないということに気が付きました。人間自身の「義」は、神の要求を満たすには全くもって不十分なのです。このことを使徒パウロはガラテヤ2:16で教会に説明しています。「しかし、 人は律法の行いによっては義と認められず、 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、 ということを知ったからこそ、 私たちもキリスト・イエスを信じたのです。 これは、 律法の行いによってではなく、 キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。 なぜなら、 律法の行いによって義と認められる者は、 ひとりもいないからです。」それでは、この義認におけるローマ・カトリック教会の役割とはどのようなものだったのでしょうか。教皇は私たちの罪を許すことができるのでしょうか。教会はその教会員に、神の義を与えることができるのでしょうか。もちろんできるわけがありません。

一方日本仏教の世界では「信仰のみでは足りない鑑真来日により律宗成立」と真逆のプロセスが進行(ある意味「戒律のみ」?)。ある意味、これが日本的科学実証主義の大源流となったのです。「まだ既存の権威主義的組織が存在しない場合、その設立を渇望する」「既に既存の権威主義的組織が存在する場合、これを否定しようとする」なるベクトル対が成立する事から「適切な権威主義的組織の必要性」なる第三評価軸推察(Conjection)されるのです(その時点では符号なし)。

  • その時点における観察者は、この方角から加えられるベクトルが究極的(Ultimate)に救済(Relief)をもたらすか、破滅(Ruin)をもたらすか峻別(Distinction)する能力を備えない。
  • しかも、ここにおける「符号判別=新たなベクトル対の検出(両端の無限性が確認されている1次元上において正反対のベクトルが検出される)」の為の観察(Observation)は、サンプル数を増大させつつ「時間経過=マルコフ過程」の影響を受ける。

話がややこしくなってまいりました。

今回の投稿の発端はこのTweet

ここに乱入。

そういう感じで以下続報…