とりあえずメモがてら
今回の投稿の発端は以下のTweet。
「なんで遊牧民さんは平和に入植してた農耕民を殺して美しい畑を破壊したのですか?」
— 神奈いです (@kana_ides) 2022年11月1日
「草だ」
「草じゃなくて」
「草だよ、草は無限じゃない。草は少ないしすぐ無くなるんだ。だから五年かけて草が戻るのを待ってたのに戻ってきたら全部ほじくられて無茶苦茶だ。俺の家畜はどうやって冬を越す?」
完全に映画「シェーン(1953年)」で農民を虐殺するライナー家の言い分と一致。https://t.co/wUrtOvdDQ8
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
シェーンで興味深いのはそれが「牧畜民と農民の抗争」に過ぎないうちは介入せず(一緒に農民として耐えるのみ)ライカー家が殺し屋を招聘した途端に正体を現してライカー家と殺し屋を始末し「私はもう留まれない」と宣言して去っていく(既に致命傷を負ってた説あり)あたり。https://t.co/svY0iPPBhA
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
それにつけても「いかなる理由があろうと殺人を美化してはならない」なるヘイズ条項を忠実になぞるかの様なキレキレの銃撃戦は「タクシードライバー(1976年)」のそれの様に今日なお色褪せない。そうジェームズ・エルロイ文学でしばしば描かれる様に本当の暴力というものは…https://t.co/W28WfO51Tv
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
ああいう風に突如始まって容赦なく生者と死者の峻別を続け、突如とし終わるものなのである。そういえば「ローガン(2017年)」でもオマージュされてましたね。https://t.co/Fo637uNqAu
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
ここから「1940年代後半~1950年代初頭の米国」を巡るさらに深い考察に突入。
興味深い考察を発見。「シェーンの執筆された時代にはホモセクシャルやレズビアンはコミュニズムと結びつけられ危険分子として排除される宿命にあった」。それでジェームズ・エルロイ「ビッグ・ノーウェア」はああいう独特の構成になった訳だ。https://t.co/EzftUb44QY
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
そしてシェーン自身は「核兵器の揶揄」。だから通常戦争(牧畜民と農民の紛争)でなく敵側が同程度の戦力(ライカー家の殺し屋雇用)を引き金に使用され、何もかも破壊し尽くしてしまう。もしかしたら割と「ジャイアント・ロボ」概念元祖?https://t.co/YXuyLmirg8
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
さらに驚くのが「シェーンはあまりに魅力的なので夫妻の夫とも妻とも三角関係が発生(危険なバイセクシャル関係)」なる指摘。要は当時のハリウッド物語文法には「世界そのものの存続危機」を扱う方法がなく、それがこういう形で現れた模様。そういえば「渚にて(1959年)」も…https://t.co/mHhuLimhMx
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
ところで前掲の「ジャイアント・ロボ」概念とは、自らの非暴力性について「偶然の拾い物や敵からの鹵獲品だからセーフ」「そいつが自らの判断で敵と相打ちになったからセーフ」と言い張る左翼的偽善主義の事。言われればシェーンも同じ物語構造で、それは…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
「原爆投下という人類史上初の大罪を犯してしまった事を自ら認めたくないアメリカ人の良識上の葛藤」の反映だったという事です。むしろ「ジャイアントロボが本当は心を持たない冷たい殺戮マシーンであった筈がない」という思いから「デビルマン」や「マジンガーZ(人の心をパイルダーオン)」が?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
さらに踏み込む…
なるほど、原作小説版シェーン(1949年)では、主人公の少年の記憶から後に銃撃戦の残酷性は削除され、シェーンの発揮した理解を超越して美しく調和した武力のパワーと慈悲」だけが残るのか。もはや「ジャイアントロボ」というより「巨神兵」?https://t.co/GkTPhPCPmt
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
すると映画版シェーン(1953年)で銃撃戦後にシェーンが少年を突き放して語る「見ろ、これが人殺しの末路だ。破壊するだけで何一つ生み出さない。お前は絶対にこっち側に来るな」なる宣言は映画オリジナル?考えてみればこのテーマ「許されざる者(1992年)」に継承されたとも。https://t.co/npYX0DQR3x
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
さらに付け加えておくなら「世界滅亡の危機接近」すら男女三角関係のよろめきとしてしか描き得なかったハリウッド物語文法、腐女子の「フォークとスプーンからだって妄想を始められる」思考法と重なってきたりする?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月1日
ここから新たなる考えが展開。
ところで以前1961年のSFマガジンを読んだ事があって、そこには「世界存続の危機すら男二人女一人の三角寺関係としか描かない」SF映画「渚にて(1959年)」への批判とリチャード・マシスン「地球最後の男(I Am Legend,1954年)」の紹介がありました。https://t.co/mKYel4yStG
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月2日
「地球最後の男(1964年)」「地球最後の男オメガマン(1971年)」登場以前…そういえば「遊星よりの物体X(The Thing from Another World,1951年)」も随分とメロドラマ要素が多い内容だったのです。https://t.co/aqSKojDti1
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月2日
全体としてはSFとホラーが未分化。ああ「原子怪獣現わる(The Beast from 20,000 Fathoms,1953年)」「大アマゾンの半魚人(Creature from the Black Lagoon,1954年)」「水爆と深海の怪物(It Came from Beneath the Sea,1955年)」…ストップモーションアニメや水中撮影の台頭期…https://t.co/wYdxjV0VVq
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月2日
この流れの延長線上として「SF/ボディ・スナッチャー(Invasion of the Body Snatchers,モノクロ1956年,カラー1978年)」や「トリフォドの日:人類SOS(カラー1961年)」は制作。そういえば前傾のSFマガジン(1961年)にも「トリフォドの日:人類SOS」の紹介ならありました。https://t.co/Ds9Zu6I5SV
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月2日
しかしともかく全体的傾向としてはハリウッド業界は限られた「カラー化予算」をビッグバジェットのスペクタクル史劇やミュージカルに集中しつつ「想定外の方向からの怪異の襲来」要素のカラー化についてはホラーを英国、SFを日本に割り振る「差別政策」を 実践したのです。https://t.co/jcq86eHDla
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年11月2日
そんな感じで以下続報…