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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「サン=シモン派」が軌道に乗せたフランス産業革命

マルクスエンゲルスからはまとめて「この世に足跡一つを残せず死んでいった、ただの空想家の引き篭もりニート」認定されてしまいましたが、実はここに述べるサン=シモン派こそが第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)時代のフランスに産業革命を根付かせた立役者。しかも、いわゆるジャポニズム(Japonisme)の国際的流行にも深く関わっています。

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「現実主義者(Realist)」サン=シモン(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)。

「(王侯貴族や聖職者でなく)産業者同盟(les indutriels)こそフランスの実体」「人間による人間の搾取から、機械による自然の活用へ」などのモットーで知られる。

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ドイツの国家学者ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein、1815年〜1890年)がその思想を「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches、1842年)」にまとめると、マルクスはその著書に学び、伊藤博文は留学して直接学んだ。マルクスやレーニンの下した結論は「サン・シモンも皇帝ナポレオン三世も自分の様な世界史上に偉大な足跡を残した偉人と違ってこの世に何一つ足跡を残さず死んでいったただの空想家の引き篭もりニート」というもので、この考え方が後世の社会主義者には継承される。その一方で伊藤博文は自分の到達した結論についてまとまった表明をする事はなかったが、当時残した日記やメモを見る限り「欧州における宗教統制の歴史はむしろ世界史における恥部に属する。決して真似てはならない」とか「国家全体を人体の如き有機体として俯瞰する思考様式」といった欧州行政学的の基礎を叩き込まれて帰国したらしい。

*その後制定された大日本帝國憲法は(今日なおしばしばワロン人とフラマン人の対立激化で機能不全に陥る)ベルギー議会内閣制や(しばしば公益を無視してまで制限選挙によって議席を独占するブルジョワ階層の既得権擁護の立場に徹っする)ドイツ議会内閣制に対抗すべく(軍人を含む)官僚の権限を強めた各国憲法の影響を強めたものとなった。実際その方針は、1990年より招聘される様になった大日本帝国議会の最初期の混迷振りを考慮に入れるとあながち間違ったものでもなかったとはいえる。実際当時の政治的混乱は凄まじく、当時の中国が日清戦争(1894年〜1895年)開始を決意した遠因の一つになったとされているくらいなのである。一部日本人は今日なお「近世も近代も知らぬ野蛮人に過ぎない日本人は国際正義実現の為にあえてこの戦争に敗北し、その全土を中国領に編入されて正しく文明化される道を選ぶべきだった(それによって全財産を差し押さえられ、皆殺しにされたとしてもあくまで自業自得に過ぎず、結果として世界史の為になった)」と主張し続けている。その展開を阻止したのが伊藤博文らの努力によって当時の日本にもたらされた欧州行政学の伝統だったのであり、むしろ日清戦争敗戦によって初めて中国人有識者達も植民地化されつつある祖国の現状に危機感を抱いてその導入を本気で検討し始め、この流れが戊戌変法(1998年)や辛亥革命(1911年〜1912年)につながっていくのだが、どうやらそうした歴史展開そのものが「アジアの尊厳を貶めた元来あってはならなかった歴史上の一時的誤りに過ぎない(今からでも修正は間に合う)」という立場らしい。

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ちなみにマルクスが全てのパトロンから見捨てられて餓死同然の最後を遂げた1883年の同時期、伊藤博文も英国王室の表敬訪問でロンドンを訪れている。もし万が一このフォン・シュタインの弟子二人の顔合わせが実現していたら、どんな会話が交わされていたか実に興味深い。マルクス伊藤博文に対しても「自分の様な世界史上に偉大な足跡を残した偉人と違ってこの世に何一つ足跡を残さず死んでいったただの空想家の引き篭もり」の烙印を押していただろうか?

鹿島茂「サン・シモンの鉄の夢 絶景、パリ万国博覧会(河出書房新社、1992年、小学館文庫、2000年)」

当初「産業の神殿」として始まった万博は時代の変遷を経て「恒久的万国博覧会=新たな消費文化のテンプレート」として近代社会全体に行き渡っていく。

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  • ともすれば1851年ロンドン万博の影に隠れがちだが、この世に存在する商品は、そのルーツをたどってゆくと、かならずといっていいほどパリ万博(1855年、1867年)に辿り着く。商取引形態の刷新、近代工業的価値観の国民への浸透、貿易価値観の転換…

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  • この流れを主導したのは「人間による人間の搾取から、機械による自然の活用へ」という産業主義的思想に基づいて機械の神を信仰し「物神の聖堂」を築き上げたサン=シモン哲学であった。特に第二回パリ万博(1867年)の影響は大きい。サクソフォン、ミシン、洗濯機、バカラグラス、既製服…グルメ、高級ブランド商品、海外パック旅行「美食の国、フランス」のイメージもまたその産物の一つ。

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  • 当初は皇帝ナポレオン三世後援を受けた「ジャポネスク運動」もまた万博会場を通じて広められた。
    「白山伯」シャルル・ド・モンブラン(Count Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc, Baron d'Ingelmunster、1833年〜1894年)
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  • 第8章にあるように「もしあと10年第二帝政が存続していたら」、後年の万国博覧会、いや、各地に現存する美術館・博物館をすら、その歴史観すら内包する「世界博物館」がパリ郊外に建設され、現在も拡大発展し続けていたであろうと推測される。
    *まさしく「啓蒙主義者達の夢の跡」といった感じ。http://imagel.navi.com/images/templates/PARIS/1004876/93833aaf73f966ba_S.jpg

産業革命が始まったのは確かに英米・スイス・ベルギーなどだったかもしれない。しかし何故かそのノウハウを移植可能なポータブル状態にまとめ上げてドイツ帝国大日本帝国を台頭させる一方で、特定の消費生活スタイルの販促までつなげたのは、あくまでフランスだったのである。

1855年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de 1855)

1855年5月15日から11月15日までフランス・パリのシャン・ド・マルス公園で開催された国際博覧会。博覧会の正式名称は「Exposition Universelle des produits de l'Agriculture, de l'Industrie et des Beaux-Arts de Paris 1855」である。34ヶ国が参加し、会期中516万人が来場した。パリにおいて初めての国際博覧会
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  • 1852年に皇帝となったナポレオン3世の統治下で開催された、この第1回パリ万国博覧会は当時のフランスにとって一大イベントであり、1851年のロンドン万国博覧会を追って、さらにはロンドンの水晶宮を上回るべく産業宮(Palais de l'Industrie)が建設された。第1回パリ万博の産業・芸術展示品は前回のロンドンでの展示品に勝るものであったとされている。

  • 公式の報告によると、会期中の来場者は516万2330人で、そのうち約420万人が産業品展示会場に入場し、約90万人が芸術展示 会場に入場した。開催に要した費用が約500万ドルだったのに対し、利益は支出のわずか1割ほどであった。会場の広さは16ヘクタールで、34ヶ国が参加した。皇帝ナポレオン三世はこの結果に極めて不満足であったと伝えられている。

  • この万国博覧会から公式にボルドーワインの格付けが始まった。

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ちなみに当時はまだ有名なパリ改造(オスマンのパリ大改造計画)は始まったばかり。

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  • 19世紀、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンが取り組んだフランス最大の都市整備事業。ジョルジュ・オスマンの名をとり、「Haussmannisation オスマニザシオン」とも呼ばれる。

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  • 19世紀半ば頃までのヨーロッパの都市では、通りに張り出した屋根からの排水が道の中央の排水溝に流れ落ちるようになっていた。大都市では敷石で舗装がなされていたが、パリでも豚が放し飼いにされている状態だった。住民は日々出る生ゴミや汚物を通りに投げ捨てるため、道の窪みや溝にはそれらがたまり、河川には動物の糞・廃棄物・汚物などが流れ込み、水が汚染された。市民はそれらの川の水を飲料水などに使用したため、生活環境・都市衛生は極めて劣悪だった。

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  • オスマンは1853年から1870年まで17年にわたってセーヌ県知事を務め、ナポレオン3世の構想に沿って大規模な都市改造を企てた。改造では非衛生的なパリに光と風を入れることを主目的として幅員の広い大通りが設置されるとともに道路網の整備が行われた。また街区の内側に中庭を設けて緑化を行い開放的で衛生的な街を整備した。それを実現するためにスクラップアンドビルドという手法が取り入れ、計画地にある建物を強制的に取り壊した。都市整備により経済を活性化するとともに、当時、しばしば騒乱のもととなっていたスラムを排除するものでもあった。これは産業革命後の経済界の要請にも沿うものであった。

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パリ改造は近代都市計画・建築活動に大きな影響を与え、近代都市のモデルとして見なされた。ただしそこには「18世紀末から19世紀前半にかけて繰り返されてきた市街地占拠デモの再発を防ぐ」という意図も込められていた為に反体制派からは「時代を絶対王政時代に巻き戻そうとする因循姑息派」のレッテルをはられてしまう。かくしてマルクスの提唱したサン・シモンも皇帝ナポレオン三世もこの世に何一つ足跡を残さず死んでいったただの空想家の引き篭もりに過ぎなかった」なる言説がますます確固たる地盤を築いて定着していく事になる。彼らの歴史観では、当時全フランス人を代表する形で遂行された唯一の実体ある正義は「パリ・コミューン(仏: Commune de Paris、英: Paris Commune)」だけだった事になっている。

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1867年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1867, Expo 1867、1867年)

1867年4月1日から11月3日までフランスのパリで開催された国際博覧会である。42ヶ国が参加し、会期中1500万人が来場した。フランス啓蒙主義の精神を継承したサン=シモン哲学に基づく「フランスを世界の中心と見据えた世界中の物産の総覧」という展示コンセプトで有名。

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  • 日本が初めて参加した国際博覧会であり、江戸幕府薩摩藩佐賀藩がそれぞれ出展した。幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣された。

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  • 薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成した。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となった。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章制作を開始したが、結局幕府は倒れ、幻となった(葵勲章)。

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  • 一方、薩摩藩は、幕府が財政的に逼迫しており、幕府軍の出展目的の1つとしてあげられていたヨーロッパ諸国からの金員の借り入れを阻止する為に、あえて藩として出展する形を採ったのである。 薩摩藩は、博覧会中にヨーロッパ諸国に対して、幕府側に金員の貸し付けを断るように水面下で調整し、結果として幕府への貸し付けはことごとく断られる結果となった。

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  • 薩摩藩が、なぜ博覧会に出展するほどの財力をなしていたかというと、当時の山川港にて、幕府に隠れて密貿易を実施していたからであった。 山川港は、水深50m以上の火山湖から港湾化された良港であり、当時の貧弱な湾岸工事でも、大型船を受け入れることができたことは好都合であった。

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  • 薩摩藩の国際的な感覚と交易は、藩士らが故島津斉彬の考えを引き継いだものであった。奇しくも日英戦争を経験することになった薩摩藩長州藩が、後に開国へ協力することになるわけである。

ちなみにその場で行われた日本軽業師の興行はそれ自体は極めて好評だったものの、BGMとして奏でられた音楽は全く不評だった。こうした経験の蓄積が明治時代以降の音楽教育徹底西洋化につながっていく。

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渋沢栄一幕臣として徳川幕府側の訪欧視察団の随員の一人として加わっていた。その時一番強烈に印象に残ったのは「ベルギー国王から直接鋼鉄の売り込みを掛けられた事」だという。ある意味フランスにおける「鋼鉄の夢」の背後ではベルギー王国が暗躍していたのだった。

1878年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1878, Expo 1878)

1878年5月20日から11月10日までフランスのパリで開催された国際博覧会普仏戦争からのフランスの復興を祝って開催され、36ヶ国が参加し会期中に1616万人が来場した。

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  • ドイツ帝国はこの博覧会に招待されなかった唯一の大国となった。

  • トロカデロ庭園を囲むようにシャイヨー宮が建設され、その対岸のシャン・ド・マルス公園には巨大なパビリオンが建てられた。アレキサンダーグラハム・ベルの電話機や、トーマス・エジソンの蓄音機や自動車が出品されるなど、当時の各国の発明品が所狭しと並べられたが、一方で植民地から連れてこられた「原住民」たちを展示する「ネグロ村」が設けられている。

  • パリの美術界でジャポニスムが沸き起こっていた時期に重なり、日本からの出品は前回に引き続き印象派絵画に影響を与えた。

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その一方で英国人の間では「フランス革命100周年の前祝い」なるコンセプトそのものに拒絶感を示す人が少なくなかったといわれている。「フランス人の妄想の世界ではフランス革命ナポレオン戦争もフランス側が圧勝に終わった事になっているのだ」といった手厳しい論調さえ見受けられたという。

考えてみれば当時実際にロンドンで「ただの空想家の引き篭もりニート」として暮らしていたのはむしろマルクスの方でした。
引きこもりニート列伝その10 マルクス

もしかして彼の目には、世界そのものが「自分から引き籠った空想家ニート」と映っていたとか? ただ実は「科学者独裁主義」を掲げて袂を分かった弟子のオーギュスト・コントにも、あまり人の事は言えない側面はあったりして。

社会科学発達の歴史の闇は、あくまで深いのです…