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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史① ジュール・ヴェルヌ「地底旅行」の食卓

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改めて「産業革命に伴う流通革命や生活革命によって全国規模で新たに食べられる様になった食品が民族的自尊心を伴う国民食に成長していく場合がある現象」について。

  • 流通革命蒸気機関車や汽船、とりわけ冷蔵技術の導入によって卵や牛乳や畜肉や魚介類といった生鮮食品が比較的原形に近い形で(すなわち干物や漬物にされない形で)その供給量と供給範囲を飛躍的に増大させる事。

    *英国人作家ウィーダの手になる児童文学「フランダースの犬(A Dog of Flanders、1872年)」においてネロ少年とパトラッシュを自殺に追い込むのもこれ。(おそらく17世紀後半辺りから本格化した交通インフラ整備を背景とする)伝統的な牛乳配給網が、国際規模の産業の地方進出によって駆逐されていった景色の一環。日本においても戦後の電気冷蔵庫の家庭への普及が「氷屋」を駆逐した。

    *そして今日なお「南米産生肉の恐怖」は世界中を脅かし続けている。そういえば回転寿司の定番「サーモン握り」も原材料はほとんどチリ産という。

    畜産の情報−海外トピックス 南米:鶏肉輸出が大幅に増加(アルゼンチン)−2009年6月

    2008年と2000年を比べると数量では10倍以上、金額では30倍以上の伸びとなっている。特に、生鮮肉(丸どり、パーツの合計)は、大幅な増加(2008年は数量で同80倍の13万5千トン、金額で同90倍の2億1千万ドル(207億9千万円))となっている。

  • 生活革命…庶民の旺盛な消費活動が「大量生産維持に不可欠な大規模需要」として近代経済に組み込まれる様になって「国民生活の平準化」が進む事。「養殖によって庶民も安価で鰻が食べられる様になる」「前近代は貴族しか馬車に乗れなかったが、近代においては辻馬車や乗合馬車が普及し(貴族は豪華な自家用馬車で対抗)、現代では上流階層(High Society)の一員でなくとも自家用車が持てる様になる」といった歴史的展開を指す。

    ナチスに恣意的援用をされて評判が地に落ちた「ゴビノー伯爵の人種論」だが、実際に調べてみると、案外「こうした平準化の行き着く先は憧憬の対象の消失ではないか?」と心配してるのが重要だったりする。

    *要するに、突き詰めれば突き詰めるほどニーチェ哲学における「距離のパトス(Pathos der Distanz)」問題が表面化してくるという悪循環…

    ニーチェの用語。彼によれば人間類型は,強さと弱さ,偉大と卑小,高貴と低劣などに応じて2分されるが,前者が後者に身を引下げるのではなく,あくまでも後者に距離をおき,わが身を保持しようとするパトスのこと。人類の向上もこれによってのみ期すことができるとされ,したがって同情をきびしく退ける貴族主義的思想が展開されることになる。 

比較対象が必要な様です。

ジュール・ヴェルヌ「地底旅行(Voyage au centre de la terre、1864年)」

(1863年のハンブルグにて)何というご馳走だろう! パセリ入りのスープ。ナツメグとスイバで味付けしたハムのオムレツ。梅(プラム)のコンポート(砂糖煮)を添えた子牛の背(腰)肉。それにデザートとして、小海老のコンポート。これら全てにモーゼルの上等な葡萄酒が添えられているのである。 

さて、字面通り「御馳走」と思えないのは果たして気のせいなんでしょうか?

パセリ(parsley、Petroselinum crispum)

セリ科の1種の二年草。野菜として食用にされる。和名はオランダゼリ(和蘭芹)。フランス語名はペルシ (persil)、漢名は香芹(こうきん、拼音: xiāngqín シアンチン)。品種改良によって葉が縮れているものがよく使われ、カーリーパセリ (curly parsley) 、またはモスカール種とも呼ばれる。イタリアンパセリ(学名:P. neapolitanum、プレーンリーブド種とも呼ぶ)は同属別種。中国パセリ(コリアンダー、学名:Coriandrum sativum)は同科別属。地中海沿岸原産。草丈は15–25cmで、さわやかな香りを持ち、鮮やかな緑色をしている。散形花序に5cm程度の花をつける。

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  • 栄養価は極めて高く、ビタミンA (βカロチン)、ビタミンB1ビタミンB2、ビタミンC など多くのビタミンを含み、カルシウム、マグネシウム、鉄などのミネラルも野菜の中でも屈指である。他にも食物繊維葉緑素カリウムなども含み、これら栄養素の含有量は、野菜の中でもトップクラスである。

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  • 古代ローマ時代より料理に用いられており、世界で最も使われているハーブの1つでもある。地質や気候への適応性に優れ、栽培が容易なため世界各地で栽培されているが、乾燥には弱い。なお葉が縮れているものは人間の品種改良によって生み出されたものであり、自然界では不利になる形質である。
    *フランス宮廷料理の世界においては17世紀後半以降「(それまでの高価な輸入香辛料に代わる)注目に値する調味料」に変貌したとされる。

  • 日本では主に葉を料理の付け合わせや飾り(デコレーション)として使われるが、他にもそのまま食用としたり、ブーケガルニなどにして香りづけに用いたり、におい消し、飲用など多種多様の形で利用されている。また日本国内の新聞社が、結婚適齢期を過ぎ去った女性に対して、「誰も手をつけずに残ったもの」という意味を込め、「パセリ」と呼ぶことがある、という自説を掲載したことがある。

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  • また精油成分を多く含むハーブの1つでもある。油分を中和する働きがあるとされているが、分解はされずそのまま吸収される。堕胎効果を持つアピオールを多く含むため、中世では堕胎薬の原料とされた。通常摂取される量では問題ないが、薬効を期待して過剰に摂取したり精油を摂取することは危険とされ、特に妊娠中と授乳中の女性は避けるべきとされる。ドイツのコミッションEでは腎臓結石の治療薬として承認されている。米国ではGRAS (一般に安全と見なされた物質) に認定されている。

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根パセリ(Parsley Root)も根菜としてヨーロッパでは広く流通している。太った根は近縁種であるニンジンに似た外観だが、爽やかな独特の風味がある。ユダヤ料理で特に用いられる。

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スイバ(Rumex acetosa)

タデ科多年草。葉を噛むと酸味があるのがこの名前の由来とも。またスカンポ、スカンボなどの別名もある。茎を折るとポコッと音が鳴り、食べると酸味があることから。

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  • 日本では野生のものの新芽を山菜として春先にイタドリ同様に食べるが、ヨーロッパでは古くから葉菜として利用され、野菜としての栽培品種はソレルやオゼイユと呼ばれる。

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  • 利用法は主にスープの実、サラダ、肉料理の副菜や付け合わせで、スイバを単体で調理するだけでなく、ホウレンソウやその他の葉菜類と混ぜて用いることもある。例えばフランス料理ではポタージュ、オムレツ、ベニエ、ピュレ、料理に添えるソース、アイルランド料理ではスイバのパイ、ギリシア料理では煮込み料理やピタ(ブレク風のパイ)、ブルガリア料理ではチョルバ、ルーマニア料理ではサルマーレ、ウクライナ料理ではスイバのボルシチ、ロシア料理では緑のシチーの素材として好んで用いられる。

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  • また古代エジプトでは、食用のほかに薬草としても使われた。古代ギリシャ・ローマでも利尿作用がある薬草として、特に胆石を下す効用があるとして利用された。この葉のハーブティーは、昔より解熱効果があるとして知られている。現在でも、うがい薬、火傷の手当などに使われている。

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シュウ酸を多く含むので、大量に食べると中毒の恐れがある。

ナツメグ(nutmeg、学名:Myristica fragrans) - Wikipedia

ニクズク科の常緑高木の一種、またはその種子中の仁から作られる香辛料。ナッツメッグ、ナットメグとも。和名はニクズク(肉荳蔲)。

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  • 19世紀までは、古代の人々はナツメグの存在を知らなかった、という説が一般的だったが、20世紀に古代エジプトの副葬品の中にニクズクのかけらが発見された。しかし、他の文明でもこれといった痕跡はなく、一般に利用されてはいなかったと見られている。

  • 6世紀にアラビア人によってコンスタンティノープルに「インドのくるみ(nux indica)」という産物が伝来していた記録があり、それがナツメグを指すという説もあるが、ビンロウジやココヤシの実の可能性もあり確定はできていない。

  • ナツメグが記録に現れ始めるのは10世紀頃の事で、地理学者マスウーディーによってマレー諸島東部の産品として報告され、11世紀初め頃にはアラビア哲学者イブン・スィーナーによって医学的な考察がなされている。ヨーロッパで記録に現れ始めるのは12世紀末頃からだが、当時はナツメグよりメースの需要の方が高く、イギリスではメース約500グラムに羊3頭分の価値があった。

  • モルッカ諸島の貿易権を最初に握ったのはポルトガル人で、16世紀を通じてナツメグ取引きの中心はリスボンだった。

  • 次いでオランダがその支配権を奪い、17世紀からはオランダがナツメグを独占した。オランダは独占維持のために、ニッケイやチョウジと同様に管理下以外の島々の木を切り倒して回る徹底した制限政策をとった。

  • 1768年、フランスの植物学者ピエール・ポワブルは密かにナツメグの苗をモーリシャス諸島に移植し、オランダの独占を打破した。

  • 18世紀末から19世紀初頭にモルッカ諸島の支配権がイギリスに移った時、マレー半島への移植が試みられたが、結果的に失敗に終わった。

  • 1816年にオランダに支配権が戻り制限政策が1862年まで続けられた。

  • ナツメグの栽培が自由化されたのは1864年の事である。

 独特の甘い芳香があり、ハンバーグやミートローフなどの挽き肉料理や魚料理の臭みを消すために用いられることが多い。またクッキーやケーキなどの焼き菓子にも用いられる。

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種子は肉荳蔲(ニクズク)という生薬名で、収斂、止瀉、健胃作用がある。東洋医学では、気管支炎、リウマチ、胃腸炎などの薬として処方されている。

 オムレツ(omelette)- Wikipedia

玉子を割って溶き、塩・胡椒などで味付けをし、バターや油をひいたフライパンで手早く焼いた代表的な卵料理。多くは木の葉型で中央が丸く盛り上がった形をしている。食材も作り方も非常に単純で、家庭でも簡単に、かつ短時間で作る事が出来る。このため、特に朝食のメニューとしてたいへん親しまれ、世界中どこの国でも普遍的に作られている。
*多くの状況証拠が「国際的に卵料理の方が牛乳料理より先に広まった」事を暗喩しているが、歴史史料による裏付けは十分に為されていない。鶏は牛より飼うのがやさしいから近郊農家などの複収入源に向いている?

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ただし海外の omelette または omelet と日本のオムレツは概念が多少違い、海外では溶き玉子を加熱して固める料理全般を指す。そのため日本の卵焼きや中華料理のかに玉など、日本でオムレツとは別料理とみなされる料理も海外では omelette と呼ばれている。

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  • 具材を何も入れずに卵液に味付けしただけのものは、プレーンオムレツと呼ばれる。基本のプレーンオムレツは①一人前2個か3個の卵を割り、塩胡椒を混ぜて攪拌するバターをフライパンに落として熱して溶かし、卵液を注ぐ②攪拌し、固まってきたら半月形に形を整えて、皿に盛る。焦がすことなく仕上がりを美しく、ふんわりとした仕上がりを得るためには、フライパンの使い方、バターの量、火加減の調節などの基本的な調理作業に高い技術が必要となるため、プロの調理人がこれら基本技術の習得のためにオムレツを焼くという事も多い。美しく仕上げるには、フライパンに焼きついたら終わりであるため、テフロン加工もしくは念入りに油ならしした鉄フライパンを使う。フライパンの手入れも技術の一部となる。ただ焼け具合など仕上がりの状態を均一にするのに、多少の熟練を必要とする料理であるため、主に外食チェーン店向けの業務用オムレツも市販されており、業務用のレアオムレツも市販されている。作りたてを食べるのが美味であり、また具の好みもあるので、高級ホテルの朝食ではシェフが客の好みに合わせて焼いてくれるサービスをする例も少なくない。

    🍧🍵 いただきます! 🍡🍰

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  • ここからさまざまな具を加えたり、各種ソースや餡をかけるものなど非常に多くの派生形がある。中にハム、ひき肉、チーズ、玉ねぎなど野菜やミックスベジタブルを入れて焼いたり、混ぜて焼いたりすることもある。また中心部が固まりきらない状態のものはレアオムレツと呼ばれる。

    🍧🍵 いただきます! 🍡🍰

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  • 仕上がりにはトマトケチャップをはじめ、レストランではドミグラスソース、ホワイトソース、和風ソース、カレーソースなど、独自に工夫したソースをかけて出す例も見られる。また具を、オムライスの様に包むのも定番である。オムレツの中身としてチキンライスを入れたものは「オムライス」と呼ばれる。同様に焼きそばを入れたものは「オム焼きそば」あるいは「オムそば」と呼ばれる。これらは、いずれも日本で考案された料理である。

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  • スパニッシュオムレツ(スペイン風オムレツ)は、鉄鍋などにたっぷりの具と卵を入れて、ひっくり返すことなく、じっくりと焼き上げた卵焼きであり、切り分けて出すもので、オムレツと付いても見かけは異なる。また、ケチャップやソースをかけて食べることはほとんどない。

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  • 中華料理では、カニ肉や筍・シイタケなどの具を加えて甘酢あんをかけたかに玉など多くの中華風定番オムレツ料理がある。鍋料理の具のひとつとして、卵を薄く焼いた皮で挽肉などを包んだ「蛋餃子」(タンジャオズ、dànjiǎozi)という餃子の一種があるが、ミニサイズのオムレツと見ることもできる。

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  • フランスのモン・サン=ミシェルでは、卵をホイップクリームのように泡立て、甘くふんわりと焼き上げることで知られるオムレツ「スフレリーヌ」が名物となっている。「ラ・メール・プラール(プラールおばさん)」などの店が名店として日本にも進出している。

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似通った名前の菓子として、オムレツケーキがある。オムレツに類似した形状のスポンジケーキ生地に、クリームや果実を挟んだ菓子である。丸ごと1本のバナナを挟むスタイルがよく知られるほか、塩キャラメルの味を効かせたものなど多岐にわたる。上述のモン・サン=ミシェルにおいても、名物のオムレツにちなんでこれを店頭で扱う例がみられる。

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コンポート(compote、砂糖煮)…国際貿易港ハンブルグは(オランダの事実上の独立という展開を受けて)17世紀より「神聖ローマ帝国の経済的中心地」として栄えてきた。その過程で輸入香辛料だけでなく、砂糖も大々的に扱ってきたのである。

1672年 ハンブルクにコーヒーハウスが作られた。

1750年 ハンブルクに350ヶ所の製糖所が造られる。同年のイングランドにも100ヶ所の製糖所があった。

「子牛の背(腰)肉」…要するにフィレ肉の事。まぁその評価自体は不動だが、現代人は(腐りやすいので冷蔵設備が普及するまで低評価だった)霜降り肉やマグロのトロなども楽しむ様になった。
*そもそも鉄道によって交易が盛んになる以前は(食材の種類の少なさもあって)裕福な金融業者の家でさえ日常生活はかなりつつましやかなものだった。ロスチャイルド家でも牛フィレは元旦のみ、まれにタラが出る以外は毎日鶏肉だったという。

モーゼル(Mosel) ワイン

そのラベルに、Mosel-Saar-Ruwerとも表記されるワイン。

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モーゼル河は全長550kmだが、ルクセンブルグとの国境沿いを流れ、コブレンツ市でラインに合流するまで蛇行に蛇行を繰り返し、延々と約245kmの旅をする。直線距離にすれば140km程度だから、いかにその蛇行が大きいかが分かる。北に向かって流れるモーゼル河のこの大きな蛇行があちこちで東西に流れる部分をつくる。従って、真南を向く傾斜面が多く出現する。しかも、ザール川、ルーヴァー川を始めとして、10を越える支流が流れ込むから、その川沿いは、著名なワイン村がひしめく名醸地である。栽培総面積は8,800ha。主としてRieslingが栽培されている。

一般にモーゼルワインの味は,ラインガウが「優雅な貴婦人」に例えられるのに対し、愛くるしい澄刺とした「山の娘」と言われ、一語で言えば「冴えた酸味」。言い換えれば、歯切れの良い酸味の良さが特徴である。しかし、モーゼルは南北に長い地域だから、総てに言える事ではない。モーゼル川の上流部と下流部は、その地形と土壌の違いによって、この味筋からはやや離れている。

モーゼル地方の文化の中心には古都トリーア(Trier)が存在する。大小のワインケラー、ワインショップ、国立ワイン学校、ワイン博物館などを擁し、盛大なワインフェスティバルが開催される。2000年の歴史を持ち、ローマの遺跡が点在する(総合慈善協会は、そのワイン倉にローマ帝国軍団の本部地下倉庫跡を利用している)。アルプス以北最大のローマの都市で、8万人の人口を誇ったが、再びその数を回復したのはつい最近のことである。ドイツに最初に司教座が置かれたのもこの地で(皇帝コンスタンティヌス時代)、後世には、強大な権力を持つ領主司教(選定候)がこの地方を治めた。「資本論」を著したカール・マルクスは、このトリーア生まれである。

ここで思い出すべきは、ボルドー・ワインの格付けが始まったのが(1852年のクーデターで皇帝となったナポレオン三世が肝入りで開催した)1855年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de 1855)以降だという事。
*今日ではなんとなく国際的に「ドイツ・ワインはフランス・ワインに劣る」みたいなイメージが広まっているが、その発端にはそうした「フランス・ナショナリズムに立脚し、かつ実益も兼ねた宣伝戦略」が存在し、ジュール・ベルヌは比較的そういう動きに批判的だったと考えられている。いやそれ以前に「フランス・ワインの高級ブランド化戦略」が効力を発する以前だからこういう表現になったとも。

さらに話をややこしくするのは「シャンパンの歴史は元来、フランス革命後の南ドイツ人の活躍を抜きには語れない」という恐るべき事実。
*「(フランス産業革命開始を半世紀以上遅らせた)革命政府による産業インフラの徹底破壊」は、それに付け込む形でベルギー人やドイツ人のフランス大進出を招いたのである。

フランス革命期と前後して、ドイツの商人らが次々にガストアルバイターとしてフランスへ渡った。商才に長け、複数の言語を駆使することができた彼らは、輸出に積極的なメゾンでは重宝され、やがて自らメゾンを立ち上げる人物が現れるようになる。シャンパン・メゾンにドイツ系が多いのはそのためだ。

例えば、ギュータースロー近郊出身のフロレンツ=ルートヴィヒ・ハイドジーク(Heidsieck)の姓はフランス風に読むとエドシック。1777年にランスに居を定め、1785年にシャンパン・メゾンを設立した。現存する3つのメゾン「パイパー・エドシック」「シャルル・エドシック」そして「エドシック・モノポール」の基礎を築いたのが彼だ。

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ルヴァンゲン出身のヨーゼフ=ヤコブ・ボリンガー(Bollinger)の姓はフランス語読みでボランジェ。彼は1829年に二人の仲間とともにアイ村にメゾン「ボランジェ」を設立した。

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共にアーヘン出身のヴィルヘルム・ドイツ(Deutz)とペーター=ヨゼフ=フベルト・ゲルダーマン(Geldermann)の二人は、「ボランジェ」で働いた後、1838年に同じくアイ村にメゾン「ドゥーツ&ジェルダーマン」を創業。現在は2社に分かれ「ドゥーツ」はアイ村で、「ゲルダーマン」はドイツのブライザッハ市でそれぞれ営業している。

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シャンパンの帝王とも呼ばれる「クリュッグKrug)」も、マインツ出身のヨハン=ヨゼフ・クルッグが1843年に創業したシャンパンメゾンだ。このほか、G.H.マム(Mumm)も、ケルンを拠点とするワイン商、ムム家が興したメゾンである。

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当時は、ランスに在住していた米国領事が「ドイツ人が関わらないシャンパンメゾンはほとんど存在しなかった」と述べているほど大勢のドイツ人がシャンパーニュで働いていた。そのうちの幾人かはフランスに帰化し、幾人かはやがて母国ドイツに戻って、ゼクトの発展に寄与することになる。
*最近、原作亜樹直・作画オキモト・シュウの「神の雫( 2004年〜2014年)」続編「マリアージュ神の雫 最終章〜(2015年〜)」が「シャンパン尽くし編」だったが、こういうドイツ色が綺麗に払拭されていた。フランス文学坂口安吾が「かくも深き愛憎を日本人如きなど到底知り得ぬ」と断言した欧州ナショナリズムの世界を垣間見た気がしてならない。

ところで「モーゼル」は実は「モーゼル地方で生産される銃」ではありません。

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ヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)とモーゼル武器工房

19世紀から20世紀初めにかけてドイツ南部を統治した王国。ヴァイマル共和政下でのシュトゥットガルト近辺はヴュルツブルク自由国民国であった。第二次世界大戦後、旧王国領は旧バーデン大公国領のバーデン州と合併してバーデン=ヴュルテンベルク州となった。

王国はネッカー川とマイン川に挟まれている。

  • ナポレオン戦争中の1802年、まだ公爵であったフリードリヒ1世がヘヒンゲンのカウラ夫人をして大貿易商会を組織させた。1803年にヴュルテンベルク公は選帝侯となった。1806年に帝国が崩壊すると公国はヴュルテンベルク王国へと昇格した。この際、教会領など多数の小領邦を併合して、シュヴァーベン地方の大部分と南フランケン地方の一部を支配下に収めた。

  • 1815年に王国はドイツ連邦へ加盟した。1817年に王立銀行の一部が再興された。このときすでにカウラ一族はロスチャイルドと姻戚関係をもっていた。カウラ夫人の息子Veit Kaulla (1764-1811) はゴールドシュミット・ファミリーと結婚している。カウラ一族の大貿易商会がつくったシュトゥットガルト支店は新生王立銀行の共同設立者であり、カウラ一族は1915年まで新生王立銀行の経営権を握っていた。

  • 1848年革命が起きた数年間に、王国の経済がロスチャイルドをはじめとするフランクフルト資本に頼りきっている状況を打破すべく、発券銀行の設立が延々と議論された。ハイルブロンに駐在するベルギー総領事のザイボルトから推進的な干渉を受けたり、堅物の下院議員モリッツがしつこく反対したりした。そして結局、ヴュルテンベルク発券銀行はできなかった。

  • 王国の経済は南北戦争で非常な活況を呈したが、普墺戦争で敗退し南ドイツ連邦側に属した。このころデルテンバッハという一族は、王族とロスチャイルド家の間に家系図を占めて閨閥を成していた。デルテンバッハ一族は閨閥の力で、本社を失ったカルフの繊維産業を再構築した(IHC)。デルテンバッハ商会はロスチャイルドの金融仲介で発行された有価証券を優先して引受けることができた。1871年に王国はドイツ帝国に編入され、1918年のドイツ革命まで存続した。1922年、新生王立銀行はヴュルテンベルク手形交換所組合銀行となり、1924年ドイツ銀行へ吸収された。

ワルサー社と並ぶドイツの老舗マウザー(Mauser)は、1872年にマウザー兄弟が設立した銃器メーカーである。ボルトアクションライフルの設計で現代に多大な影響を残した。

  • 1811年、ヴュルテンベルク王国のフリードリヒ1世が、ネッカー川河畔のオベルンドルフの修道院に、王立ライフル工場 (Königliche Württenbergische Gewehrfabrik) を建造した。この王立ライフル工場で、フランツ・マウザーと、息子の兄ヴィルヘルムと弟パウル(ペーター・パウル)のマウザー兄弟は職工として働いていた。

  • 1867年にマウザー兄弟は、ボルト・アクション銃の新しい閉鎖機構を発明し、1868年、特許をアメリカで取得した。アメリカのレミントン社のサミュエル・ノリスが契約をし、レミントンモーゼル銃を量産した。ノリスは引き続き、ライフルM1878をプロイセン王国の制式銃とする契約を取り付けた。当初は、製造は王立ライフル工場で、マウザーは部品下請けの立場だったが、王立工場の製造能力が追いつかず、マウザーでも製造となった。

  • 1872年(1873年とも)、兄弟はマウザー社を設立し、1874年、王立ライフル工場を買い取った。

  • 1877年の露土戦争で連発式ライフルのウィンチェスターが大戦果を挙げたのを受け、1884年、マウザーも連発式のM71/84を製造した。これを基本設計とした銃が、世界各国で採用され、連発式ライフルの市場を制覇した。

  • 1878年から拳銃の生産を開始したが、初期のモデルのリボルバー「ジグザグ」はヒットしなかった。

  • 1889年、ドイツ武器弾薬製造社 (Deutsche Waffen- und Munitionsfabriken A.G.; DWM) に買収された。

  • 1896年には、自動拳銃C96(ブルームハンドル)を開発した。C96はポツダムでドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が試射したエピソードで知られるが、制式採用はされなかった。民間向けでは、ウィンストン・チャーチルが軍籍時代に私物銃として使ったことでも知られる。

  • 1898年、ライフルモデル98を発売した。このモデルは多くの派生モデルを生み、ロングセラーとなった。

  • 2つの世界大戦では、第一次世界大戦のゲヴェーア98、第二次世界大戦カラビナー98kなど各種の銃が制式採用された。戦間期には、自動車などの民生品も製造した。第二次世界大戦では、戦火による直接の被害は少なかったが、占領中にフランス軍による略奪と破壊で、大きな被害を受けた。

  • 1945年、一度解体されたが、1956年に再建された。なお、この間の1949年に退社したエトムント・ヘッケラーとテオドア・コッホが、1950年にヘッケラー&コッホを設立した。

  • 1995年(ラインメタルの公式年表による。買収は段階的になされたので異なる年を挙げる資料もある)、ラインメタル・ベルリン(現 ラインメタル)に買収され子会社のマウザー製作オベルンドルフ武器システム社 (Mauser-Werke Oberndorf Waffensysteme GmbH) となった。その後は艦砲用機関砲などの重火器が主力製品となる。

  • 1999年、民生用の狩猟銃・スポーツ銃部門がマウザー狩猟武器社 (Mauser Jagdwaffen GmbH) に分社され、2000年にSIGアームズ(現 SIG SAUER)に買収された。

  • 2004年、マウザー製作オベルンドルフ武器システム社はラインメタル武器弾薬社 (Rheinmetall Waffe Munition GmbH) に吸収され、マウザー兄弟が設立したマウザー社は消滅した。

「Mauser」を「モーゼル」と表記する事は、モーゼル川 (Mosel) 及びその流域で作られるワインと混同する為、注意が必要である。「Mauser」の日本の銃砲関係者での表記・読み方「モーゼル」「マウゼル」は、おそらくは明治陸軍造兵界での訳出を踏襲している。この「er」の読み方については、/r/を常に[r]で発音し語末や音節末でも母音化しない舞台ドイツ語発音に基づいている。航空界、及び戦後防衛産業界では、実際に話されている発音に近い「マウザー」、或は嘗ての正式社名であるマウザー・ヴェルケ(ヴェルケ (Werke) は「製造所」の意味)が使われる事が多い。戦中の例としてはMG151航空機関砲が「マウザー砲」や「マ式」と呼ばれている事が有名だろう。
*映画「シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム(Sherlock Holmes: A Game of Shadows、2011年)」に登場する「モリアーティ教授の武器工房」がハイルブロンに存在するのもこうしたイメージに立脚している。
モーゼル M712/M713:シャーロック・ホームズ シャドウ・ゲームに登場する銃 - Mrs. hudson's Diary - シャーロック・ホームズ in MB-Support

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要するにハンブルグの「市民社会」は、フランドル地方(オランダ・ベルギー)やフランスやスイスやイタリアの市民社会と経済的に結ばれた「南ドイツ商圏」の一部として繁栄していたのです。

*ただし「ドイツ語圏の市民社会」には、残念ながらフランスの様に貴族主義者と第三身分至上主義者が同じ歴史的事実を共有しながら「二つのフランス史観」を構築する様な動き、イングランドやオランダやスイスの様に「国際交流を通じて市民社会が等質化していく動き」までは観られなかった。そして近代に入るとライン川流域に「ヘル・イム・ハウゼ(Herr im Hause)」をモットーとする「工業領主」が次々と台頭。彼らはどちらかというとブルジョワというより封建領主精神の継承者だったのである。

ヘッセン州(Land Hessen)の歴史

ドイツに16ある連邦州のひとつ。州都は、州南西部に位置するヴィースバーデン。経済の中心都市は州南部に位置するフランクフルト。グリム兄弟の生地ハーナウを起点として北へ、グリム童話ゆかりの地を結ぶドイツ・メルヘン街道や、木組み建築の町、アルスフェルトなどの観光地がある。

今日、ヘッセン州となっている地域の大部分は、中世のはじめはフランク王国東フランク王国の下で、フランケン大公の統治する領域の一部であった。

  • カッセル(Kassel、1926年までは Cassel が公式表記)は、古代ローマ時代にはカステッルム・カットルム(Castellum Cattorum)と呼ばれた。これは「カッティの城」を意味し、ゲルマン人の一派でカッセル一帯に居住していたカッティ族 (Chatti) に由来する。最初の文献記録は 913年のドイツ王コンラート1世の文書。ただし当初は「都市」とは呼ばれなかった。現在の行政管区庁舎の場所には砦があり、その保護下で集落が発達したものの、その規模が小さかったことは「グラーベン」の街並み(グラーベン=堀)からも推測できる。かつてのフランケンの王宮(Chasssella というその名が都市名の由来となった)は1150年頃にフランケンのヘッセンガウの伯、すなわちグーデンスベルク伯(またはマーデン伯)の居城として増築された。

  • フルダ川沿いに位置し、テューリンゲン州バイエルン州の州境に近いフルダ(Fulda、約65キロ北東にアイゼナハ、85キロ南西にフランクフルト・アム・マイン、85キロ南にヴュルツブルクが位置する)は、744年に聖ボニファティウスがベネディクト会の修道院を建て、これが街の起源となった。

フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)は、794年2月22日にカール大帝レーゲンスブルクの聖エンメラム修道院に宛てた文書に初めて記述される。この文書にはラテン語で次のように書かれている: "… actum super fluvium Moin in loco nuncupante Franconofurd"、すなわち「マイン川の畔にフランクフルトと名付けられた村がある」。ドームヒューゲルの集落が新石器時代から継続的に存続している事は証明済。おそらく後にローマの軍事基地となり、メロヴィング朝時代にはフランク王国の王宮所在地となった。843年にもしばしば東フランク王国の最も重要な王の居城に選ばれ、帝国会議の開催地となった。そして1220年には帝国自由都市の認可を受ける。

  • 文献に現れる最初期のドームヒューゲル入植地の呼称はFranconofurd(古高ドイツ語)または Francorum vadus(ラテン語)でどちらもフランク人の徒渉地を意味する。おそらく、現在のアルテ・ブリュッケのやや上流側の川底に岩があり浅瀬になっていたために、通常の水位の状態であれば、現在よりはかなり川幅があったと思われるマイン川を歩いて渡ることができた。ローマ時代になるとこうした徒渉地に戦略的意味はなかったが、マインツからゲルマニア領内を通る街道は、マイン川河口域の湿地を迂回してドームヒューゲルを通っていた。そしてローマ人撤退後の260年頃、ドームヒューゲルはアレマン人に占領される。さらに530年頃、フランク人がアレマン人に替わってマイン川下流域の覇権を掌握。おそらく新しい領主は、この徒渉地を重要な交易路として利用しので交易相手がこの徒渉地を「フランケンフルト」と呼ぶ様になった。

  • 年代記作者のティートマール・フォン・メルゼブルク『年代記(VII, 75)』は、1014年から1017年に、カール大帝によるこの街の創設に関する現在まで知られている伝説を記述しているが、それは(一説によればヴァイキングの発端となった)ザクセン併合(Sachsenkriege、772年〜804年)と関連している。「信頼できる人々から聞いたことを今から私が物語ろう。ピピン王の王子カール大帝の治世に、あなたがたの先祖と我々の祖先(ザクセン人)との間で戦争が起こった。この戦いでフランク人は我々の祖先によって打ち負かされた。彼らが不案内な徒渉地を通ってマイン川を渡らねばならなくなった時、彼らの前を一頭の雌シカが川を渡り、神の温情をもって渡るべき道を示した。彼らはシカに続いて川を渡り、陽気な気分で安全な岸にたどり着いた。これ以後、この村はフランクフルトと呼ばれるようになった。」。もちろん実際には、カール大帝ザクセン族とマイン地域で戦ったことはない。また、勝利した王によって捕らえられたザクセン族の定住地であるとする誤ったフランクフルト=ザクセンハウゼンの名前の成立史についても、単なる伝説である。これらは、おそらく794年に北ドイツで蜂起したザクセン族鎮圧のための遠征直前に立ち寄った史実が、口承によって様々な話と混じり合った事に由来すると思われる。

  • フランクフルトの名前と創設に関する他の伝説は現在ではあまり知られていない。それは特に近世初期にフランクフルトの重要性を神秘的に高めるために利用された話である。人文主義者のヨハンネス・トリテミウスは、15世紀にフランクフルトの同意語として「ヘレノポリス」という地名を用いた。この地名は、18世紀まで他の人文主義者によって時折使われていた。この地名の由来は明らかではない。ヘレノポリスは、プリアモスの息子でトロイアから逃走したヘレノスがこの地を居と定め創設した街であるという。別の著者は、コンスタンティン大帝の母ヘレナに由来するとも記述している。このトリテミウスの神話は、フランクフルトの名前の由来も明らかにしている。それによれば、紀元130年頃 Hogier 公 Francus が古いヘレノポリスの街を再興し、自らの名前にちなんでFrankenfurt と名付けたという。

  • 元来の名前 Franconofurd は中世に Frankenfort または Frankinfort、近世に Franckfort および Franckfurth と変化した。そして遅くとも19世紀の初めには、Frankfurt という表記が確定。名前に添えられた「アム・マイン」は「マイン川沿いの~」を意味しており、同名の別都市との区別のため最も古くは14世紀からしばしば付けられるようになった。日常的には、オーデル川沿いのフランクフルトと混同する恐れがない限りは「フランクフルト」と短縮される。また、Frankfurt/Main あるいは Frankfurt a. M. 表記方法もしばしば見られ、鉄道関係では Frankfurt (Main) という表記も残っている。さらに FfMなどの略号も用いられる。

一方、記録上最初にフランクフルトにユダヤ人の存在が確認されるのは1150年頃である。

  • 13世紀中には神聖ローマ帝国ユダヤ人は「王庫の従属民」たる法的地位を確立し、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在となった。ユダヤ人は皇帝の保護を受ける代わりに皇帝にユダヤ人税(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。ユダヤ人は皇帝の収入の大きな部分を占める重要な「私有財産」だったが、王庫の金が尽きるとしばしばユダヤ人税徴税権が担保・抵当に出された。フランクフルト・ユダヤ人への徴税権も皇帝カール4世が1372年にフランクフルト市に売却している。

  • フランクフルト・ユダヤ人はゲットーが創設されるまでは、市内の聖バルトロメウス大聖堂の南にあるマイン河畔にある地区(ここにはザクセンハウゼン地区に通じる橋がかかる)に固まって暮らしていた。このユダヤ人街は後に作られるゲットーと異なり、ユダヤ人たちが自ら形成し(ここで暮らす義務はなかった)、また非ユダヤ人の市民もユダヤ人街で一緒に暮らしていた。

  • 1241年5月、原因はよく分かっていないが、ユダヤ人街がキリスト教徒の襲撃・虐殺を受け、フランクフルト・ユダヤ人は一度壊滅。1255年頃にユダヤ人が再びフランクフルトに集まってきて、大聖堂南のユダヤ人街を再建した。1288年にはユダヤ人団体(ゲマインデ)の名称が証書に現れる。1311年の市民台帳にはユダヤ人も記載されている。ユダヤ人には長期滞在と居住の自由、生業が保障されていたが、市政への参加は認められなかった。

フランクフルトと隣接するオッフェンバッハ・アム・マイン (Offenbach am Main)について最初に言及したのは977年の皇帝オットー2世がフランクフルト・アム・マインのザルヴァートール教会(後の聖堂)に宛てた寄贈証明書である。それまで30のヴィルトフーベ(農場と農家または地主の屋敷からなる小集落)で構成されるこの領域はマインガウの一部であり、周辺の森はドライアイヒの御狩場に属していた。オッフェンバッハには 。中世から1819年までオッフェンバッハはビーバーマルクの一部であった。

  • 市内の発掘調査で、石器時代の出土品が発見されている。しかし、石器時代の入植地とフランク人のそれとの間に連続性があるか否かは結論が出ていない。

  • おそらく561年のフランク王国分裂後に建設された。地名の起源は未だに明らかでない。- bach で終わる語尾は、この時代の典型的な地名の付け方である。前半部は一説には Ovo という人名に関連していると言われる。一方、オットー・フォルガーは 1860年の「オッフェンバッハ自然文化財協会第一報告」の中で、Ave = Aue(川や池沿いの湿った草地)であり、Auenbach が地名の起源であると唱えた。Often(=オーブン。この付近にローマ時代の石灰焼成場があったと推定されている)や、"offenen" Bach(開けた土地の小川)に由来するという説は、地名研究の分野では可能性が低いとされる。いずれにせよ6世紀から7世紀にかけて最も古い集落の南にヴァルト通りに沿ってフランク人の墓地が設けられた。

  • ローマ時代には現在の市域内をローマ街道が通っていた。この街道はオッフェンバッハを通り抜け(ベルナルト通り)、おそらくビュルゲルやミュールハイム・アム・マインを経由してシュタインハイムに通じていた。ビーバー市区やビュルゲル市区にもローマ時代の痕跡は遺されており、市域内を通る2本のローマ街道はビーバー近郊で交差していた。当時この地域は、ゲルマニア・スペリオル属州の Civitas Auderiensium に属していた。

  • 20世紀になって合併したルンペンハイム、ビュルゲル、ビーバーについてそれぞれ770年、791年、790年に最初の記録が遺されている。

  • その後も時代とともにその所有者を替えた。最初の所有者はハーゲン=ミュンツェンベルク家で、彼らはドライアイヒの帝国代官として官僚時代から所領を引き継いできた。ミュンツェンベルク家断絶後、1255年にファルケンシュタイン家がマイン川沿いの村を相続。1372年にはファルケンシュタイン伯フィリップによって、1000グルデンの借金の担保としてフランクフルト市に質入れされた。トリーア大司教ヴェルナー3世フォン・ファルケンシュタインはオッフェンバッハ領主として1400年頃にマイン川の畔に城館を建設し、硬貨を発行。フランクフルトはこれを挑発と感じて抵抗している。

  • ちなみにラインラント=プファルツ州のトリーア(Trier)に司教座が設置されたのは4世紀。中世になるとトリーア大司教(Erzbischof von Trier)はコブレンツなどライン川沿いにも領地を持つ様になり、同じラインラント=プファルツ州側に位置するマインツ大司教ノルトライン=ヴェストファーレン州に位置するケルン大司教と並んで神聖ローマ帝国の有力聖界諸侯となった。

一方、8世紀から9世紀頃にフランク人によって建設されたダルムシュタットの文献初出は11世紀になってから。13世紀中頃に水城が築かれ、1330年に都市権を獲得して市場が開かれる様になり、これ以降、重要な交易路たるベルクシュトラーセ北端に位置する都市として急速に繁栄。

  • 神聖ローマ帝国の時代の1222年にテューリンゲン方伯領の一部となる。1247年にテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが嗣子なく死去すると、後継をめぐり甥のマイセン辺境伯ハインリヒ3世と姪のゾフィー・フォン・ブラバントとの間で戦争となるが、1264年、方伯領西部のヘッセン地方を分離し、ゾフィーの息子ハインリヒがヘッセン方伯に、ハインリヒ3世がテューリンゲン方伯を継ぐことで決着。

カッセルは現在の意味での「都市」として初めて記録されたのは1189年。

  • 1239年にテューリンゲン方伯ヘルマン2世が都市権を更新し、1277年以降は新たに創設されたヘッセン方伯のハインリヒ1世の主城となる。そしてこれ以後、この街の歴史はヘッセンの統治者の歴史と緊密に結びついていく。

1348年から1349年にかけてヨーロッパは人口の三分の一が死亡する史上最大規模の黒死病に襲われ、ユダヤ人の死亡率が低かったことなどから「ユダヤ人が井戸に毒をまいた」というデマがヨーロッパ中に急速に広まり、ヨーロッパ、特に神聖ローマ帝国(ドイツ)においてユダヤ人虐殺が吹き荒れた。

  • フランクフルトでも黒死病の伝染が始まるとともに、鞭打苦行者の集団がマイン川上流から現れ、フランクフルト市内のユダヤ人街を襲撃した。フランクフルト市民が彼らを撃退したが、結局ユダヤ人街は放火され、虐殺され、フランクフルト・ユダヤ人は再び壊滅した。

  • 1360年より再度ユダヤ人がフランクフルトへ移住することが認められ、大聖堂南のユダヤ人街やユダヤ人団体が再建された。しかし黒死病後のユダヤ人の立場は完全に悪化。ユダヤ人はもはや市民台帳に記載されなくなり、別の台帳に記載され、様々な制限を課せられるようになっていく。

1356年の金印勅書は、フランクフルトを恒久的なローマ王の選挙開催地と定めたが、実はそれ以前の1147年からすでにほとんどの王の選挙がこの街で行われている。1562年からは皇帝の戴冠も、1792年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世の戴冠に至るまでフランクフルトで挙行され続けた。

  • 14世紀、トリーア大司教となったルクセンブルク家のバルドゥインが、兄ハインリヒ7世とその孫カール4世の皇帝選出に関わって影響力を拡大。そのカール4世の金印勅書で、トリーア大司教マインツ大司教と並んで7人の選帝侯の一人に指定された。

  • ヘッセン方伯ハインリヒ1世は1277年にカッセルに居を定め、1292年には帝国諸侯の地位を獲得。その後、徐々に南方へ領土を拡張し、15世紀に多くの都市を領土に加える。1476年に獲得したダルムシュタットは時都市権安堵と引き替えに方伯の借金を押しつけられ経済状況が悪化。またこの頃から市参事会と市民階級の間に齟齬が生じ、都市行政機能の二重化が進行。

15世紀中旬は、ドイツだけでなくヨーロッパ・キリスト教社会全体に危機感が漂う時代だった。神聖ローマ帝国は地方諸権力が成長して弱体化し、恒常的な財政危機に悩まされる。教皇権や教会が失墜し、ボヘミアではフス派が蜂起する。東地中海ではイスラム教国オスマン帝国コンスタンティノープルを陥落させ、ヨーロッパ侵略の機会を狙っている。フランクフルトはじめドイツの諸都市では対イスラム十字軍結成の資金の名目で免罪符が盛んに売られ、黒死病流行以来の反ユダヤ主義の高まりが見られ、そしてフランクフルト・ゲットーが創設される事になる。

  • 1434年9月のバーゼル公会議において1215年の第4ラテラン公会議の決議を復活させるとの決議がなされ、これによりユダヤ人はキリスト教会からできるだけ離れた場所へ隔離されることになった。多くの都市でユダヤ人の追放措置が取られたが、商取引の町であるフランクフルトにおいてはユダヤ人の経済力がどうしても不可欠であったので、結局市内にユダヤ人を押し込める隔離地区を作る方向で話が進む。

  • 1460年7月10日にフランフルト市参事会はユーデンガッセ(ゲットー)建設を最終的に決定した。その根拠は「大聖堂の側にユダヤ人が住むことにより、異教的悪影響を大聖堂に与えるため」などとされた。

  • ゲットー建設の決定は直ちにユダヤ人団体に通達され、7月末から建設工事が開始されて1463年まで続いた。フランクフルトの旧市街地の壁と新市街地の壁の間に挟まれて存在する割れ目のような区域にゲットーは作られた。ここはまばらにしか家屋はなく、他の市民から切り離されていたが市場には比較的近かったのである。ゲットーの建物はシナゴーグのみが石造りで他はすべて木造住居であった。。ゲットーの中の建物はフランクフルト市の所有であり、ユダヤ人はそこを借りることができるのみである。賃貸料は従来のユダヤ人税に加算されて取られた。ゲットーの南北と中間部分の3つに門があり、祝祭日と夜間には門は閉ざされた。門はフランクフルト市民により管理されたが、ユダヤ人側の代表者にも門の鍵を持つ事が許され、緊急時には助けを求めにいくことができた。1463年にフランクフルト市の財政の悪化からゲットーの工事は中止され、残りの工事はユダヤ人が自らの財産を支出して行った。

  • フランクフルトのユダヤ人は15世紀末までは11世帯から18世帯、人数にしてわずか100人から150人程度である。これが16世紀以降に伸びてきて、16世紀後半には2000人程になっていた。17世紀初頭には2700人ほどになり、18世紀初頭には3000人程のユダヤ人が暮らしていた。これは自然増というより移民による増加であり、近隣地域から商取引の中心地フランクフルトで商売をしようと集まってくる者、あるいは住んでいた場所を追放されて流れ着いてきた者だった。フランクフルト市参事会も市の収入の大きな部分を占めるユダヤ人税の増加を見込めるので経済力のあるユダヤ人であれば移民を認めていた。

  • 人口が少なかった頃のゲットーはそれほど悲惨な場所ではなかったが、数が増加してくるともともと狭かったゲットーは明らかな過密状態になり、下水溝として用いられている濠の糞尿の清掃が追いつかなくなり、悪臭と疫病が流行る不衛生な場所と化していった。ゲットーの近くで暮らすキリスト教市民からもたびたび苦情が寄せられ、「不潔なユダヤ人」という悪印象が市民に広まっていく。やがてフランクフルト・ゲットーユダヤ人たちはゲットーを「新エジプト」と呼ぶようになった。「旧約聖書」時代(紀元前13世紀頃)、モーセに率いられてエジプトを脱出するまで、ユダヤ人がエジプトで捕囚になっていたことをフランクフルトのゲットーに当てはめたのである。

ヘッセン方伯の最盛期はフィリップ(寛大伯)の時代であった。彼はドイツの宗教改革においてプロテスタントを支持し、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒと共にシュマルカルデン同盟の指導者となり、神聖ローマ皇帝カール5世と戦った(シュマルカルデン戦争)。1547年に敗れて幽閉されるが、1552年に釈放、1555年のアウクスブルクの和議でプロテスタントが認められる事となる。
*こうした歴史展開の結果、やがてヘッセン地方に大量のユグノー流入してくる。グリム兄弟が童話を集めたのも主にユグノーで、かくして「シャルル・ペローの童話」が「ドイツ地方に古くから伝わる伝承」へと変貌する。

フランクフルト出身のユダヤ人財閥であるゴールドシュミット・ファミリーは、フェットミルヒの反乱(1614年)以降フランクフルトを離れ、18世紀まで戻ることはなかった。

  • ゴールドシュミット・ファミリー(Goldschmidt family)…その起源を14世紀まで遡る金融業の著名な門閥。もともとはフランクフルト州のユダヤ系ドイツ人の家系であった。東インド会社のゴールドスミッド家と混同されやすい。マインツ司教区のビショフスハイム家と特に関係が深かった。ビショフサイム・ゴールドシュミット&Cie銀行は共同で管理され、1863年にオランダ貯蓄信用銀行との最終的に合併している。近年ではゴールドスミス・ファミリーとしてロスチャイルド・ファミリーとの関係も深まっている。ビショフサイム家も同様で、ロスチャイルド家と姻戚関係がある。なお、ビショフサイム家はカモンド家とも姻戚関係がある。カモンド家はイスタンブールに起こり、1863年オスマン帝国に帝国銀行ができるまで御用銀行家であった。1870年にはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世世襲会計係を創設。この家は二度の大戦により断絶したが、ビショフサイム家・ゴールドシュミット家・ロスチャイルド家は健在である。

  • フェットミルヒの反乱(1614年)…フランクフルト参事会は門閥市民に牛耳られていたので、門閥市民と下層中層市民との間には常に対立があった。そしてシュマルカルデン戦争に参加して莫大な借金を負ったフランクフルト市は、1576年に増税を行ったが、その課税システムは上流市民に有利なもので下層市民の生活はますます厳しくなるものだった。

  • オーストリア大公マティアスの皇帝への選挙と戴冠式を契機に参事会と市民の関係は険悪になった。参事会だけでは収拾できなくなり、参事会は皇帝マティアスに助力を求める。1612年にマティアスの検察使のマインツ大司教ヨハン・シュヴァイクハルト・フォン・クロンベルクとヘッセンダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世が代理をフランクフルトに派遣して参事会と市民の間に協定を結ばせて和解させたが、結局この協定は守られず、両者の決裂は続いた。

  • 1614年5月に市民側のリーダーヴィンツェンツ・フェットミルヒは反乱を起こして参事会員や検察使代理を監禁。反乱市民は1614年8月29日には暫定参事会を発足させた。反乱市民たちの中でも特に生活苦に喘いでいた急進派は、反乱の最中の1614年8月22日午後5時から翌日の午前6時ぐらいにかけてゲットーへなだれ込んで略奪を遂行した。彼らの言い分によると「ユダヤ人は参事会と結び付き、低利で都市金庫から融資を受け、それを市民に高利で貸し付けている」ためだった。指導者の命令によりユダヤ人殺害は行われなかったが、ユダヤ人の財産が大量に彼らに略奪されてしまった。この略奪の間、ゲットーユダヤ人たちは隣接するユダヤ人墓地に避難した。さらに8月23日にはユダヤ人たちはマイン川から船出してフランクフルト市を去って近隣の村に四散した。ユダヤ人は一年近くフランクフルトから離れることとなった。

  • 皇帝マティアスはフェットミルヒらに帝国迫害罪を宣告した。フランクフルトはマインツ大司教軍とヘッセンダルムシュタット方伯軍に包囲され、1614年12月9日にフェットミルヒは逮捕された。フェットミルヒら反乱指導者は処刑され、反乱に加担したとみなされた2000人以上の市民にも罰金刑が課せられた。

  • ユダヤ人たちはちょうどフェットミルヒが処刑された1616年2月28日にフランクフルト・ゲットーに帰還。ユダヤ人達は楽隊とともに祝いながら帰還した。さらに皇帝の勅命によりユダヤ人の被った損害の賠償金としてキリスト教市民は17万5919フィレンツェ・フロリンの支払いを命じられた。ユダヤ人達はこれに感謝し、ゲットーの門に皇帝の鷲印と「ローマ皇帝陛下と神聖ローマ帝国の保護の下に」という銘刻を施した。フランクフルト・ユダヤ人団体はゲットーを追われた日と帰還の日を「プーリーム・フェットミルヒの日」として祝日にするようになった。

  • 1775年にアメリカ独立戦争が起きると、ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世はイギリスと傭兵提供契約を締結し、ヘッセン兵17,000が戦場へ送られてイギリス陸軍の主力となる。1803年にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世は選帝侯の地位を獲得し、以後「ヘッセン選帝侯」(クールヘッセン、Kurhessen)を称するが、1806年に帝国が解散したため、1度もその権限を行使することはなかった。

  • 18世紀後半、マインツ司教区に(フランクフルトへと舞い戻った)ゴールドシュミット・ファミリー(Goldschmidt family)と関係が深いビショフサイム家が台頭する。

激動の時代が始まった。ナポレオンの登場、リュネヴィルの和約(1801年)、帝国代表者会議主要決議(Reichsdeputationshauptschluss、1803年)、神聖ローマ帝国解体(1806年)…

  • 1801年のリュネヴィルの和約でトリーアはフランス領となり、皇帝選挙権を失った。

  • 1803年にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世が選帝侯となった直後、1806年にナポレオン軍がカッセルを占領。1807年から1813年までの間、新たに創設されたヴェストファーレン王国の首都とされ、ナポレオンの弟ジェロームが宮廷を置いた。ナポレオンが没落しヴェストファーレン王国が消滅すると、領土を回復したヴィルヘルムが神聖ローマ帝国消滅後にも関わらず「ヘッセン選帝侯」の称号を用い続け「ヘッセン選帝侯国」の国号でドイツ連邦に加盟。

  • ヘッセン選帝侯の周囲には、オッフェンバッハ・アム・マイン (Offenbach am Main) 出身のヴォルフ・ブライデンバッハ(Wolf Breidenbach、1751年〜1829年)の様な宮廷ユダヤ人がいた。

  • 一方、ヘッセンダルムシュタット方伯は帝国代表者会議主要決議(1803年)とナポレオンの支持に基づいて多くの領土を獲得して1806年にヘッセン大公を称する様になり、ライン同盟に加盟。ナポレオン没落後はさらにマインツとヴォルムスを獲得してドイツ連邦に加盟した。初代大公ルートヴィヒ1世の下、ダルムシュタットは再び急速に発展。またルートヴィヒ1世は二院制の議会を創設したが、1848年にこれがプロイセンをモデルとする三級選挙法の導入へとつながっていく。

  • ヘッセンダルムシュタット方伯の周囲には、フランクフルト出身でロスチャイルドの祖となるマイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild 1744年〜1812年)の様な宮廷ユダヤ人がいた。

  • 神聖ローマ帝国が解体された1806年、フランクフルトは領主司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクの支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよびアシャッフェンブルクとともにライン同盟内で独立領邦を形成した。1810年にダールベルクはレーゲンスブルクバイエルン公に割譲し、これと交換にハーナウとフルダを獲得。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から1813年までの短期間ではあるがフランクフルト大公国を創設した。ナポレオン体制の崩壊により、フランクフルトは1813年12月14日に戦勝連合国によってフリードリヒ・マクシミリアン・フォン・グリュンダーローデの支配下に置かれた。ウィーン会議バイエルン王国はフランクフルトの併合を目論んだが、1815年6月8日に会議はフランクフルトをドイツ連邦内の自由都市とすることを決定。これによりフランクフルトはハンブルクブレーメンリューベックと並ぶ 4つの自由都市の一つとなった。この伝統的な都市自由権は近代に至るまで存続。ドイツ連邦の連邦議会はフランクフルトで開催された。

  • 1848年、ドイツで3月革命が起こると招集された国民議会はフランクフルトのパウルス教会で開催された。

  • 19世紀にはフルダにほど近いグレーベナウ (Grebenau)がヘッセンで最もユダヤ人の人口比率が高い都市となった。

そして普墺戦争(1866年)が新たな転機となる。

  • ヘッセン諸侯はどちらもオーストリア側についたが敗れ、ヘッセン選帝侯国はハノーファー王国、フランクフルト自由都市、ナッサウ公国と共にプロイセン王国に併合され、ヘッセン=ナッサウ州となった。一方ヘッセンダルムシュタットは領土の一部をプロイセンに割譲することで存続を許され、その後1870年に北ドイツ連邦に加盟(マイン川以北のみ)。1871年にドイツ帝国を構成する邦の1つとなった(ヘッセンダルムシュタット大公)。最後のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒは、第一次世界大戦前夜の激動期にあっても政治的野心に乏しい人物で、むしろ芸術に逃避し、マチルダの丘に芸術家コロニーを創設してユーゲントシュティール運動を奨励。

  • フランクフルトの公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセンとの連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課される。10月2日プロイセンに併合され、この都市の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。1868年にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布く。1871年、普仏戦争はフランクフルト講和条約をもって公式に終結

  • プロイセン国王(後のドイツ皇帝)ヴィルヘルム1世や宰相ビスマルクの周囲には、若い頃にロスチャイルド財閥と決別したゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー(Gerson von Bleichröder、1822年〜1893年)の様な宮廷ユダヤ人がいた。

  • プロイセンによるフランクフルト併合は、市の急速な人口増加を伴う工業都市への発展にとって有利であった。1877年から1910年までの間に何段階にもわたって周辺の町村を合併し、その面積を 70 km2 から 135 km2 に拡大。これにより20世紀の初めには、短い期間ではあったが、ドイツで最も広い都市となった。急速な人口増加に伴い市は公的なインフラストラクチャーを整備していく。多くの学校やマイン川の橋、上水道、下水道、近代的な職業消防隊、屠殺場および食肉加工場、マルクトハレ、路面電車、駅、港など…その後の工業化はまず、ボッケンハイム区や、マインツァー・ラントシュトラーセあるいはザクセンハウゼン・ラントシュトラーセといった街道沿いで進行し、1909年から1912年に工業地域を伴う東港が整備されている。新たに開発されたこの工業地区の面積は、19世紀末時点でのマインツ側北岸の全市域面積に匹敵するほど広大なものとなった。フランクフルトの伝統的産業たる鋳造や金属加工あるいは活字鋳造や印刷業の他、化学工場、1891年の国際電子博覧会以降は電子産業もこの街に進出。1914年にはフランクフルト市民の寄附によって総合大学も創設。

さらに二つの世界大戦が大きな爪痕を残す。

  • 第一次世界大戦の終わり近くの1918年にドイツ革命が発生、ヘッセンダルムシュタットは共和政へ移行したが、ライン川以西の領土は1930年までフランス軍の占領下に置かれた。

  • フランクフルトは、第一次世界大戦による破壊を免れたが、プロイセンに属すヘッセンバイエルンとの国境にあたるその立地のために、食料品や日用品の不足に苦しめられた。1918年の11月革命の際には暴動が起き、時には市街戦が行われる状況が1919年末まで続いた。

  • 1920年代にフランクフルトは文化的隆盛を迎える。特に演劇や、近代的キッチンの祖型として国際的に名高いフランクフルトキッチンを含む都市計画新フランクフルトプログラムがその代表である。1925年にヴァルトシュタディオンで第1回国際労働者オリンピックが開催された。

国家社会主義の時代には、11,134人のユダヤ人がフランクフルトから追放され、殺害された。第二次世界大戦では、連合国によるフランクフルト空襲によって市域の約 70 % が、アルトシュタットおよびインネンシュタットはほぼ完全に破壊された。これにより、密集した中世の街並みは1944年までに失われ、1950年代の復興において古い街並みが復元されることはなかった。アルトシュタットの多くの部分には、この時代に建設された簡潔で近代的な合目的建造物や合理的道路配置が今日も遺っている。

  • ダルムシュタットでも1930年代以降、国家社会主義が急速に力をつけた。1938年の水晶の夜にはシナゴーグに火が付けられ、多くのユダヤ人商店が襲撃されている。第二次世界大戦では、1944年9月11日から12日にかけて「大火の夜」と呼ばれる激しい爆撃とそれに伴う火災によって、11,500人の死者を出す甚大な被害を受けた。1945年3月25日、アメリカ軍がこの街を占領し、ダルムシュタットにおける戦争は終結した。戦後の復興では、瓦礫の山と化したこの街を速く立ち直らせるため、装飾を排した実用本位の建築物を建設。それでも城館や市庁舎、国立博物館といった重要な歴史建築は再建された。多くの研究機関が設置され、1977年に「学術都市」の呼称を獲得した。

  • 1938年11月7日の夕方、カッセルのシナゴーグをはじめとするユダヤ教施設が破壊された。これは「水晶の夜」としてドイツの歴史に刻まれる事件の2日前のことであった。そして第二次世界大戦の進行に伴い、何度もの空爆が市街地の大部分を破壊し、これにより数多くの人命が奪われる。この街は1943年10月22日最も激しい大空襲を経験した。この夜 1万人以上が亡くなり、家屋の 80 % が破壊された。カッセル、特に木組み建築が数多く遺っていた旧市街地域はイギリス軍のモラル空爆攻撃作戦の中で、焼夷弾爆撃の目標とされていた。狙い定めた焼夷弾攻撃によって火事になった木造建築は火災旋風を引き起こした。それはドレスデンハンブルクプフォルツハイムダルムシュタットで起こったことと同じであった。1949年、カッセルはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の新しい首都に立候補したが成功しなかった。カッセルの他にボン、フランクフルト・アム・マインシュトゥットガルトが立候補したからである。4つの候補都市を検討した委員会が国会に提出した最終報告書に記されたカッセルが落選した主な理由は、東西国境地域に直接面しているその立地にあった。カッセルは1953年に連邦労働裁判所、連邦社会裁判所の所在地となった。1955年の連邦園芸博覧会のサイドプログラムとして、アーノルト・ボーデによってドクメンタが開催された。これ以後この催しは、国際的に最も重要な現代芸術展の一つに発展した。

  • 1945年初頭には連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)がベルサイユ宮殿から移動しフランクフルトに司令部を置いた。終戦後アメリカ合衆国の軍事政府はこの街を本拠地とした。その後、フランクフルトにトリゾーン(米英仏管理地域)の統治機関が置かれた。1949年5月10日、連邦の首都を定める選挙でフランクフルトは、コンラート・アデナウアーが推すボンに敗れたが、フランクフルトには既に国会議事堂が建てられていた。この建物は現在ヘッセン放送が使用している。

  • 第二次世界大戦後、再びライン川以西はフランス占領地域となった。ヘッセンの残りは、アメリカの占領地域となり、1945年9月に、ヘッセン=ナッサウ州とヘッセンダルムシュタットを併せて“大ヘッセン”を創設、1946年12月4日にヘッセン州に改称した。ライン川以西は、1946年8月30日にラインラント=プファルツ州の一部となった。

そして戦後フランクフルトは経済の中心地となり、1998年に欧州中央銀行の所在地となる。

 こうした歴史的展開を俯瞰すると「どうして近代ドイツは、大日本帝国の様に前近代の足跡を払拭出来なかったか」が浮かび上がってきます。

  • ライシャワー「日本史(Japan The Story of a Nation, 1978)」は、江戸幕藩体制下における「各藩の相互模倣による制度等質化」の進行が「大政奉還(1867年)」「王政復古の大号令(1868年)」「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」といった矢継ぎ早の旧体制解体を準備したとする。しかしもし戦国時代に「キリシタン大名領」「仏教大名領」「一向衆共和国」「法華衆共和国」などによる分国体制が樹立し、そのまま固定してしまったとしたら、こういう歴史展開は可能だったろうか? まさにその状態に陥ってしまったのが「アウグスブルクの宗教和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)以降、急速に領邦国家化が進行した神聖ローマ帝国」だったのである。
    *ちなみに「各藩の相互模倣による制度等質化」が進行したのは、参勤交代対応で交通インフラ整備が整備されて農民が逃散しやすくなった為(失政あらばすかさずお取り潰しを狙う幕府の監視もあって)「善政」とまではいわないものの、せめて「他国並」の統治が御家存続に不可欠となったせいとも考えられている。ここで逆に諸侯が中央政権にグイグイ迫って「農民を逃がさない権利」をひたすら強化し続けた結果生まれたのが帝政ロシア農奴制、「(白人労働者と違って)黒人奴隷はどんなに過酷に扱っても逃げない」という「新発見」に支えられて繁榮したのが、いわゆる「太平洋三角貿易」という位置付けになる。

  • また戦国時代には各戦国武将が(楽市楽座を通じて選別した)御用商人と癒着した自給自足経済を樹立したが、これが元禄時代に至るまでに株仲間(参勤交代対応で交通インフラ整備が整備された結果構築された全国規模の富農・富商のネットワーク)に根絶やしにされてしまう。ドイツ語圏におけるユダヤ人迫害問題の大源流は概ね「領主と癒着した金融ユダヤ人や宮廷ユダヤ人に対する領民の憎悪鬱積」に端を発するが、こうした歴史展開のせいで日本においては同種の感情が形成される契機そのものが原則として存在しなかったのだった。
    *「領主と癒着した金融ユダヤ人や宮廷ユダヤ人に対する領民の憎悪鬱積」…その実態は見た目ほど単純ではなく、例えば贅沢と浪費を咎められた領主のスケープゴートにされたケース、商売敵たるロンバルティア商人のネガティブ・キャンペーンが背景にあったケースなども発見されている。

ただし、こうして全体像を客観的に俯瞰した場合に浮かび上がってくる歴史と「当時を実際に生きていた人間が思い浮かべてきた歴史」はしばしば異なります。特に18世紀末以降はナショナリズム問題の台頭や、産業革命が引き起こすパラダイムシフトなども考慮に入れなければならなくなるので、なおさらの事。 

  • そもそもジュール・ヴェルヌ「地底旅行(Voyage au centre de la terre、1864年)」は19世紀後半の欧米を席巻していた「探検ナショナリズム」を背景に成立している。主人公一行はアイスランドに向かうが、当時のこの国もそうした熱狂に満ちていた。
    *ちなみに出世作となった前作「気球に乗って五週間(Cinq semaines en ballon、1863年)」においてもアフリカ探検をテーマに選んでいる。

  • 地底探検用の非常食として「(6ケ月分の)乾パンと濃縮肉」という表現が出てくる。乾パンは古代ローマ時代から使用されてきた携帯口糧(軍用ビスケット)だが「濃縮肉」とは一体何か? 缶詰が普及した契機は一般に米国の南北戦争(1961年〜1965年)における保存食としての大量生産と戦後の大量放出のあったとされる。この時代のフランスには、まだその波が及んでいなかったらしい。

「缶詰」に勝てなかった 「濃縮肉」の短過ぎる黄金期

「地底旅行」に登場する保存食「濃縮肉」の正体自体はあくまで不明だが、おそらく以下の様な歴史と無関係ではない。

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ビーフエキス…原料に牛を用い、加熱煮出しあるいは酵素によりタンパク質を分解してアミノ酸やペプチドといった旨味だけを抽出して濃縮した天然旨味調味料。牛を原料にしているので牛由来の風味とコクがしっかりと残る。

https://mynuttydubai.files.wordpress.com/2014/09/blog-bovmar-580x435.jpg

1847年 ドイツの科学者リービッヒ男爵(Justus Freiherr von Liebig, 1803年〜1873年)が濃縮ビーフエキス (リービッヒの肉エキス)を開発。この人物は1865年に肉エキスを抽出する会社を設立し、1867年には育児用ミルクを作成した。肉エキスは後に栄養学的にはあまり意味がないことが明らかになったが、嗜好品として商業的には大成功し、食品加工産業の先駆となる。以降「栄養価に富んだ安価なエキスの大量生産」が産業トレンドに。
ユストゥス・フォン・リービッヒ - Wikipedia

1880年 英国において現在でも販売されているBOVRILが凝縮ビーフエキスの商品名として商品登録される。そのままお湯に溶かして飲んだり、スープや煮込み料理の調味料として使われてきた。

1886年 1872年に父親の工場の経営を引き継いだスイス人のジュリアス・マギー(Julius Maggi、1846年〜1912年)が、レンズ豆のタンパク質を分解した液体調味料(マギーソース)を発明。労働者の家族の栄養摂取量を増加させる事を企図しての事業で、たちまち食品生産業のパイオニアの一人に加わる。当初はタンパク質の豊富な豆系食品として販売されたが、1886年にはこれをベースにした即席スープを発表。1897年には、スイス国境付近のドイツの町ジンゲンにて、Maggi GmbH社が設立された。
Julius Maggi - Wikipedia

1889年 ボブリル社の濃縮ビーフエキスが発売。

1902年 マーマイトフードエキストラクト社の濃縮酵母エキスが発売。

要するにその短過ぎる黄金期の歴史は決して無駄となった訳ではなく、今日の「固形ブイヨン(スープの素)」の前史となったのである。こうした流れが日本にまで到達するのは戦後「固形コンソメ・スープ」が普及して以降となる。

不思議と以降に「濃縮肉」なる表現は登場せず、実際の地底探検中の食事シーンでは「(当時はありふれた食材だった)干し肉(および現地調達が可能となった「魚の干物」)」が登場するのみ。
*「迂闊に噛むと固過ぎて歯が折れる」乾パンとセットでの登場で「火が使える様になって料理のバリエーションが増えた」なる表現を鑑みると調味料として使われていた可能性も?

冒頭の設問に戻ります。「モーゼルワインの格付け問題」はともかく「パセリ入りのスープ。ナツメグとスイバで味付けしたハムのオムレツ。梅(プラム)のコンポート(砂糖煮)を添えた子牛の背(腰)肉。それにデザートとして、小海老のコンポート」なる食事が現代人の感覚からあまり美味しそうに感じないのは以下の理由。

  • ナツメグや砂糖といった「歴史的交易中心地ゆえに惜しみなく使える食材」にまつわるスノビズムが理解出来ないから。
    *西部開拓時代のアメリカを舞台とする「大草原の小さな家(Little house on the Prairie)」にもトマトに砂糖を掛けて食べる場面が出てくる。17世紀フランスの料理革命が「輸入香辛料スノビズム」の克服を目指した様に、当時は「砂糖スノビズム」なるものも確実に存在した。こうした流れに逆らう事から「産業報国運動」は始まるのである。しかもそうした動きは概ね単なるナショナリズムの発動ではなく「(ナショナリズムの仮面を被った)国民国家に対する市民社会自治権拡大運動」なんて側面を有しているのが興味深い。

  • 現代人の感覚では食材が(近所で採れる)雑草や保存食中心で(冒頭に掲げた流通革命や生活革命によって庶民の口にも入る様になった)新鮮な野菜や生鮮食品が欠如しているせい。
    *過去の投稿で「生鮮食品ナショナリズム」や「朝食ナショナリズム」と指摘した感情がこれ。距離のパトス(Pathos der Distanz)はスノビズムを生み出すが「流通革命と生活革命がもたらす平準化」は、その範囲外の国々に対するある種の精神的優位感をもたらすのである。

 まぁ「ナショナリズムそのもの」というより、スポーツ同様「ナショナリズムの素」って感じですが、これが案外馬鹿に出来ないのです。

  • 岩倉使節団(明治4年(1871年12月23日)〜明治6年(1873年9月13日))に参加した大久保利光には、日本と欧米のあまりの発展差に衝撃を受け、ホテルの一室で一晩中「おい、今から本当に追いつけるのか日本人!! もう滅亡は決まってるんじゃないのか、日本人!!」などと泣き喚き続けたという逸話がある。
    *こうした絶望感を抜きにして木戸孝允をして「貴様は独裁者として君臨する事か、利光!!」と叫ばせた内務省の設立、士族反乱に対する容赦なき鎮圧は説明不可能とも。
    岩倉使節団 - Wikipedia

  • ジュール・ベルヌは皇帝ナポレオン三世による「上からの産業革命導入」に反感を持っていた一方で、英国やドイツを舞台に展開する発明と産業化の競争に「産業革命の本来あるべき姿」を見ていた側面が見てとれる。
    *ゴビノー伯爵にも同様の傾向が見てとれるが、彼は貴族主義者として「距離のパトスの適切な形での温存」に最終解決策を見出した。ジュール・ベルヌのスタンスは真逆。被圧迫民族解放の擁護者でもあり、ネモ船長をはじめ「虐げられた民族」と「下からの産業革命」を結びつけた作品も残している。
    ネモ船長 (Captaine Nemo)- Wikipedia

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 要するに、大杉栄いうところの「心理的個人主義と社会的個人主義の交わるところに立ち現れる近代的個人主義」と上掲の様なナショナリズム問題は一体どう重なってくるのかが問題となるのですね。

 大杉栄「近代個人主義の諸相(1915年11月)」

  • 社会的個人主義は元来、国民や市民に対して「(人類の進化の可能性を少しでも広げる為の)多様性」を求めるばかりで「人間は原則としてどう生きるべきか」については一切のビジョンを持ち合わせていない。

    啓蒙思想によるキリスト教教理の変質

    寛容(トレランス)という言葉が用いられるようになるが、言葉の意味が従来とは違って来ている。すなわち、この言葉は本来苦痛を忍ぶことを意味し、迫害される側で使うものであった。それが権力を持つ側のものとして語られるようになる。権力を持つ者にとっては、異質的な信仰は問題にしなければ苦にならない。つまり、これは緩くしておくこと(ラティテュード)、無関心(インディファレンス)にほかならない。

  • 心理的個人主義は元来「自らの内なる声に忠実に従う事」を最優先課題と考える。やはり「人間は原則としてどう生きるべきかについては一切のビジョンを持ち合わせていない(というか、そういう決めつけ自体を徹底して嫌う)。

    大杉栄「僕は精神が好きだ(1918年2月)」

    僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭いやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。

    精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。

    この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。

    社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。

    僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。

    思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

    与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

    巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

    しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

    雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

    私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。

どう考えたって、両者がただ単純に交わった程度でどうにかなる話じゃないんですね。ただ試行錯誤の結果「情報の蓄積」だけは着実に進んでいます。今ならもう少しマシな答えが出せるんじゃないでしょうか? そしてそこで改めて「国民国家市民社会の二重性」を背景にナショナリズムとの関係を問われる事になるんじゃないでしょうか?

さて、私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか…