諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

北方ルネサンスとは何であったのか

 

ルネサンスとは何であったのか―塩野七生ルネサンス著作集1

ここに北方ルネサンス(アルプス以北の北ヨーロッパの美術運動を意味すると同時に、イタリア以外での全ヨーロッパのルネサンス運動の意味もある)にも触れるべき」なんて指摘もあったけど、それはホイジンガ「中世の秋(1919年)」で描かれた様な完全な別世界に足を踏み入れる事を意味する。

 

ホイジンガ (著), 堀越 孝一 (翻訳) 中世の秋

連続性ならば一応ある。実はフランドル地方ロンバルディア地方には「11世紀以降、イングランドから輸入した羊毛を加工する毛織物産業によって経済繁栄の最初の基礎を築いた点は同じ」という共通点が存在するからである。ただしフランドル芸術家の顧客が伝統的にブルゴーニュ公国(843年〜1477年)と縁深い王侯貴族や教会関係者中心だったのに対し(ミラノを中心とする)北伊や(フィレンツェを中心とする)中伊の芸術家の伝統的顧客は教皇庁を中心とする教会関係者やコムーネの権力者(Podestà/Signoria)やイタリア傭兵隊長達(Condottiere/Condottieri)だった。顧客が変われば当然、彼らを喜ばせる象徴体系も異なる。その意味においてトゥルネー、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルといったフランドル都市においてヴェネツィアルネサンス伝来以前から始まった所謂「初期フランドル派」を単純に「北欧ルネサンス」の枠組みに収めてしまって良いものか。その一方でヴェネツィア起源のキャンバス画が瞬く間に伝わったという事はフランドルとヴェネツィアの商業的関係の深さを暗喩している。

  1.  14世紀に入ると、シャンパーニュ伯であったルイ10世(在位1314年~1316年)がフランス王に即位し、シャンパーニュは国王領となる(1314年)。この頃から、国家財政の悪化につれて税金が高騰するとともに(北海に1274年にジェノヴァガレー船が姿を見せ,1277年にジェノヴァ商人スピノラ家がフランドルのズウィン湾に到達した)イタリア商人が羅針盤を手に入れてフランドルやイングランドまで直行する様になるとシャンパーニュの大市は国際市場としての役割を終え、以降フランスは意地でもフランドルを獲得を目指すしかなくなっていくのである。*とはいえフランスはそれ以前に「金拍車の戦い(1302年7月11日)」でフランドル都市住民連合に大敗を喫しており、そう簡単に手出し出来る相手ではなかったのである。

  2. フランドル伯は親フランスだが都市市民は親イングランド。この地域のそうした特殊性は、百年戦争(1337年〜1453年)開始の遠因の一つともなった。開戦後もフランドル公国はしばしばイングランド側に与している。そこで1342年にブルゴーニュ公に封ぜられたフランス国王シャルル5世(在位1364年~1380年)の弟フィリップ豪胆公が1384年にフランドル女伯マルグリットと結婚。以降フランドル伯領をも支配する様になった。
    *しかし昨日の味方は今日の敵。むしろその経済的立場上イングランド側の味方として振る舞う事が次第に多くなっていきフランス王権側を苛立たせる事に。

  3. ところでヴェネツィア共和国フランドル行きガレー船を定期便として運行する様になったのは1330年代以降。15世紀末までヴェネツィア商業において重要な比率を占め続ける事に。
    *とはいえヴェネツィアイタリア・ルネサンスの成果の商業化(携帯可能な小型本、観光の目玉ととなる壮麗なオペラ、土産物に最適なキャンバス画」に本気で取り組む様になるのはオスマン公国にレパント交易独占を破られた1480年以降である。逆を言えば、それまでルネサンスは原則としてイタリアの地域芸術に留まっていたに過ぎず、だからその恩恵が全く届いていなかったドイツ人の目にはローマ教会腐敗の一環としか映っておらず、それで宗教革命が勃発しイタリアに乗り込んだランツクネヒト(南ドイツで徴募されスイス槍兵を手本に編成された傭兵隊)が嬉々としてローマ略奪(Sacco di Roma、1527年)を敢行したとも。

  4. 百年戦争によってフランスとイングランドの国境が定まった後、イングランドは大貴族が互いに潰し合う薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)の時代に、フランスは王室と「フランスの公益地方分権を伝統によって保証されてきた諸侯連合の既得権益」死守を誓い合った大貴族連合が対峙する公益同盟戦争(1465年〜1477年)の時代へとそれぞれ突入。この時公益同盟の盟主として名を馳せたブルゴーニュ公シャルル猪突公のヒステリックで奇矯な振る舞いについてはヨハン・ホイジンガ「中世の秋(1919年)」に詳しい。彼がナンシーの戦い(1477年)で戦死すると、その娘娘マリーがせめてもの腹いせで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚。ネーデルラントハプスブルク家の手に渡り、次いでスペイン領となる。
    *一方、フランス王室が国内統合に成功して内患を断った事は(フランス王家のイタリア進出に始まりハプスブルグ家の最終勝利に終わる)イタリア戦争(1494年~1559年)開始の遠因の一つとなった。

  5. 1492年以降の定期便運行の乱れからフランドル行きガレー船が採算に合わなくなってきたのは明白。最も危機的状況にあった1508年から1516年にかけては全く派遣されてないし,1516年から1533年にかけては僅か6回の航海記録しかなく、さらには1533年のそれが最終便となってしまう。ポルトガルの葡萄酒が、マディラとブラジルの砂糖が、ローマの明礬が「東地中海と北西ヨーロッパを結ぶ商品仲介者として利潤を上げる」ヴェネツィア(およびジェノヴァ)の既存貿易を破壊した結果であったとされる。
    ヴェネツィアはこの方面でも「イタリア・ルネサンスの成果の商業化」によって生計を立てるしかなかなくなったのだった。だがこの地域には既にブルゴーニュ公国全盛期より私邸を飾る肖像画や教会を装飾する板絵の伝統が根付いていた。しかしその事によって両者は違和感なく融合を達成したとも。

  6. ヴェネツィアレパント交易独占に煮湯を飲まされてきたイタリア商人の血と金も注ぎ込まれた西回り航路開拓。これを契機として大航海時代が始まり、欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移したが、この展開を最も良く象徴するのがイングランドの羊毛輸出国から毛織物輸出国への変遷、そしてユグノーの台頭とされる。
    *同時期、イタリアの手工業は関税によって手工業者の既得権益を守ろうとする偏狭な姿勢もあって国際的競争力を喪失したとされる。

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  7. フランドル出身のスペイン国王カルロス1世(Carlos I、在位1516年~1556年)/神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V、在位1519年〜1556年)は、しばしばパリでも豪遊した当時有数の文化人の一人でもあったからフランドル統治で齟齬をきたす事もなかった。しかしその息子であるスペイン国王フェリペ2世(Felipe II, 在位1556年~1598年)/イングランド王フィリップ1世(Philip I、1554年~1558年)/ポルトガル国王フィリペ1世(Filipe I、1580年~1598年)は、1541年にイエズス会が創設され、1545年にトリエント宗教会議が開催されて始まった反宗教革命運動にすっかり魅入られてしまい、八十年戦争(蘭Tachtigjarige Oorlog,1568年~1609年,1621年~1648年)を引き起こした挙句の果てに欧州経済の中心地ネーデルランド17州のうち9州(現在のオランダに該当する地域)を独立させてしまう展開に。そしてオランダのアムステルダムが以降、欧州経済の中心となっていった事で、それから排除されたスペインの没落を決定付けたのだった。
    *17世紀後半のフランス絶対王政はその軍事攻略を試み続けたが、やがて名誉革命(Glorious Revolution、1688年〜1689年)によって英蘭同君連合が成立して挫折。だがそれはオランダにとって没落開始を意味する危険な賭けでもあったのだった。

よく「ルネサンス期イタリアは文化的先進国ではあったが、政治的後進国でもあったのだ」と言われるけど、こうして全体像を俯瞰してみる限りは案外そうでもない。

  • 15世紀末に始まるフランス侵攻に危機感を覚え、教皇アレクサンデル6世(Alexander VI, 在位1492年〜1503年)の息子チェーザレ・ボルジア(イタリア語Cesare Borgia 、スペイン語César Borgia(セサル・ボルヒア)またはCésar Borja(セサル・ボルハ)、バレンシア語Cèsar Borja、1475年〜1507年)が教皇領回復遠征(1500年〜1503年)を皮切りにイタリア統一に乗り出した時点では、百年戦争(1337年〜1453年)によって国境を定め薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)や公益同盟戦争(1465年〜1477年)によって中央集権体制を固めたイングランドやフランスに追いつける可能性がまだ皆無にはなっていなかった。
    その意味において「1503年の疫病流行によってアレクサンデル6世が亡くなり、チェーザレ・ボルジアも重態に陥るという番狂わせさえなかったら、あるいは追いつけていたかも」という塩野七生のスタンスは正しい。その一方でイングランドもフランスも神聖ローマ帝国も「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」とし「何しろイタリア人(及びルネサンスの薫陶を受けたヨーロッパ人全て)は個人にしか感動しない」いう立場に立ったスイスの文化史学者ブルクハルトがチェザーレ・ボルジアに関しては「こんな冷酷な悪魔を人類は決して認めない」と個人的誹謗中傷に終始する気持ちも分からないではない。スイス人にとってイタリアは政治的分裂状態にあるからこそスイスの大国に対する緩衝地帯として役立つという訳である。

  • そしてある意味、戦国時代日本(1467年/1493年〜1587年/1590年/1591年)もまた結構「全部入り」だった。応仁の乱(1467年〜1477年)を契機に全国で「中世秩序=職の体系(土地利用権益の多重支配)」を破壊する一円領主化が始まる。美濃を攻め取って上洛を果たした尾張君主織田信長熱田神宮を本拠地とする交易網を押さえ、内陸商業では観音寺城に依る江北六角氏、国際貿易では堺衆や一ノ谷城に依る越前朝倉氏を競合相手とした)の天下一統事業の前に立ちはだかったのは甲斐武田氏(残存守護大名勢力の代表格。中央進出の野心を持たなかった越後上杉氏や関東後北条氏と合わせ神聖ローマ帝国に相当?)に、比叡山一向宗といった宗教勢力ローマ教皇国やプロテスタント勢力に相当?)、根来衆雑賀衆や伊賀衆や甲賀衆といった僻地に割拠する地侍連合(スイスやフランドルに相当?)。そもそも応仁の乱によって京都が灰燼に帰すと、脱出した文化人達を一円領主化した地方大名達が喜んで迎え、持是院妙椿時代の美濃革手城、六角定頼時代の朽木谷や観音寺城、越前朝倉氏時代の越前一乗谷/土岐末三代時代の美濃大桑城、大内義隆時代の周防長門今川義元時代の駿河などが次々と小京都として栄えた(コンスタンティノープル陥落(1453年)に続いた東ローマ帝国有識者達と現地書籍の流入に相当?)。実際の日本史はたまたま織田信長が絶対君主として完成する以前に討たれ、事業を継承して全国検地を成し遂げた豊臣家も最終勝者とはならず、中央主権化を急ぐのを嫌った徳川家康が江戸幕藩体制を創出した訳だが、むしろ欧州では反宗教革命に着手した神聖ローマ帝国ローマ教皇庁といった守旧派勢力が一時期強盛となり、その徹底的に不寛容な態度が逆に中世以来引き摺ってきたあらゆる矛盾を噴出させる事になって三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg、1618年〜1648年)を引き起こす。司馬遼太郎応仁の乱について「乱というより革命意識のない一種の生物学的な発熱と脱皮現象だったのではないか」と指摘しているが、まさにそれ。この過程で脱落したスペインは中世に逆戻りし、イタリアは先進地帯から脱落し、オランダに河口を有するライン川の上流に位置するドイツが欧州史の一環に足を踏み入れてくる。この側面に限ってはどの地域が特に秀でていたという訳でもない。
    *逆に当時の日本になかったのはコンスタンティノープル陥落を受けてのローディの和(Treaty of Lodi、1454年)。当時のイタリアの五大国、すなわちフィレンツェ共和国(メディチ家)、ミラノ公国スフォルツァ家)、ヴェネツィア共和国ローマ教皇国、ナポリ王国が戦争停止を申し合わせ、それがミラノ公国ナポリ王国が継承問題で揺れた15世紀末まで続いたのである。こうした継承問題に付け込む形でフランス国王が侵攻してきたのがイタリア戦争の始まりとなった訳だが、この頃よりボローニャ大学やパドブァ大学において解剖学の流行が始まり、「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」とする新アリストテレス哲学が台頭し、これが実証主義科学の起源となったのもまた欧州固有の展開であった。ただその効能が当時すぐに現れたとは言い難い。

  • こうして日本史と突き合わせてみると、欧州史における際立って不幸な存在が浮かび上がってくる。すなわち宗教革命勃発に素早く呼応してドイツ農民戦争(独: Deutscher Bauernkrieg, 英: German Peasants' War、1524年〜1525年)を起こしながらルター派に見捨てられた失望からカソリックに戻り、反宗教革命全盛期にスペイン発祥の狂信的なエスノセントリズム(異文化嫌い)に基づくカソリック原理主義イエズス会士から叩き込まれ、以降はユダヤ人を原則として領内から排除してきたのに、ナポレオン敗戦の事後処理たるウィーン会議(ドイツ語: Wiener Kongress、英語: Congress of Vienna、1814年〜1815年)で近隣のユダヤ人集住地帯を押し付けられたので反ユダヤ人感情がぶり返し、普墺戦争(独: Deutscher Krieg、1866年)でハプスブルグ家側について大敗を喫して重い賠償金を背負わされて以降は(ただでさえプロイセン王統ホーエンツォレルン家よりバイエルン王統ヴィッテルスバッハ家の方が家格が上なのに負けっぱなしなのに鬱憤が溜まっていたので)ユダヤ人とプロテスタントの自由を保障する事で栄えてきたプロイセンへの逆恨みがさらに強まり、第一次世界大戦におけるドイツ敗戦を受けたバイエルン・レーテ共和国建国騒動(1919年)でも迂闊に「プロイセンから派遣されてきたユダヤ人の共産主義者」の口車に乗ったばかりに壮絶な殺し合いに巻き込まれたバイエルン王国の臣民達がそれ。トゥーレ協会 (Thule-Gesellschaft、1918年〜1937年)がこの地で興り、それから分離する形でNSDAP国家社会主義ドイツ労働者党)が成立したのは決して偶然ではなかった。
    もちろん政権を獲得したナチスは既に「スパイとしてNSDAPに送り込まれたオーストリア人のヒトラーがそれを乗っ取り、外交官や植民地商人の子弟やドイツ既存社会における負け組といったアウトサイダー集団を集め(ワイマール政権からも極左集団からも粛清を宣言されていた)資本家階層や正規軍や中産階層の支持を取り付けて勝利した政党」へと変貌を遂げていたし、これがどうして第二次世界大戦(1939年〜1945年)遂行過程でさらに「ヒトラーただ一人を絶対的指導者として仰ぐ(ユダヤ人大量虐殺を機械的緻密さで遂行した)独裁政権」へと変貌を遂げたかはまた別問題。ただドイツ農民戦争でもバイエルン・レーテ共和国建国騒動でもバイエルン人は外部事情に操られるまま敵味方に分かれて殺し遭わされ、それで経験した壮絶な精神的荒廃が前者の場合はローマ略奪(Sacco di Roma、1527年)、後者の場合はフライコール(Freikorps,、ドイツ義勇軍)暴走という形で爆発した事実は注目に値する。当時のドイツ人有識者マルクスの上部構造/下部構造理論を独自の方向に発展させて「下部構造が上部構造を決定する」なるテーゼにまとめあげていたのだが、そうした彼らの目にはこうした展開こそが「下部構造」として映っていたのである。

まぁそういう日本も米騒動(1818年)の頃までは「この混乱を利用して薩長幕府を倒す‼︎」をスローガンに蜂起する元士族団体がいたというのだから、あまり人の事は言えない。

それにおそらく「どうしてナチス・ドイツは気付くとヒトラーただ一人を絶対的指導者として仰ぐ独裁政権に変貌してしまったのか?」という問いは「どうして(伝統的社団連合が貴族連合残党に対抗すべく一斉に形式上国王を推戴したのが始まりの)フランス絶対王政は、気付くと本当にフランス国王のみを権威の源泉とする独裁体制に変貌してしまったのか?」という問いに結びつく。「人間は人間にしか感動しない」としたルネサンス的結論と、「(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統に起源を有する)権威主義から、人間はそう簡単に脱却出来ない」としたフランス人による革命期(1789年〜1799年)から第二帝政期(1852年〜1870年)にかけての自国史要約の間に横たわる闇は案外深いのである。