諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ファシズムへの対抗手段」としてのマルチチュード論

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以前の投稿でも少しは触れたましたが、後のユーロコミュニズムの祖グラムシ(Antonio Gramsci、1891年〜1937年)ですら恐れた「ファシズムの説得力」の源泉って本当に一体何だったのでしょうか。

おそらく数千年前から「なんとなく日本人」であり続けてきた「大和民族」には想像を絶する世界。ドイツやイタリアの様に新興国ゆえに「国民統合問題」に直面した国家のみが最重要課題として直面した問題点。そう言ったものが想定される訳で、逆をいえば以下のような運動を展開する立場からすれば「不倶戴天の仇敵」に他なりません。

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 結城庄司「アイヌ宣言(1980年)」

大自然を主体とする「原始共産制」によるアイヌ=人間の思想とは何であるのかと言えば、共同体による人間生活によって発展する、搾取のない社会である。これらの精神文化が滅亡した時、さらに人間が人間を管理し、自然界を支配でき得るような幻想にとりつかれて、人間主体的なエゴの支配思想が蔓延してしまった時に、人類は滅亡するのである。

物質文明が栄えることは、本来は人間というものは無である、つまり素裸であるということへの恐怖感から出発した思いであって無意識の肯定でもある。

私有制の価値観は物質文明に支配されている。

だが、原始共産制を起源とする共同体の価値観は、自然そのものから与えられるすべてを課題にし、精神的なものとして受け入れるのである。

人間解放とは有限的な私有制度を否定することから始めねばならない。

本来ならば大自然のどこの大地にコタン(人間社会)を創造しようと、それ自体拘束されるものではなかった。

それなのに私有制のもとに天皇一族はアイヌモシリ(大地)に侵略して、自然そのものを占領したのである。

アイヌという人間そのものをも私有化する思想が「皇民化」であろう。

「もうアイヌもシャモもないではないか。」
「今更アイヌアイヌと騒ぐこともないだろう。」
「眠っている子を起こすようなことはしないでくれ。」

ずいぶんと聞かされた言葉である。
“眠っている子”、、つまりアイヌを指して言うのだが、アイヌははたして眠っていたのであろうか?
眠るにも、寝る場所すらなかったのではないのか?
食物をも取り上げられ、腹が減って眠られなかったのではないのか?
「もうアイヌもシャモもないではないか?」、とはもっとも同和政策や融和主義を代表する言葉なのだ。

この考えはヤマトの思想である。そして「皇民化」する思想を代弁している。つまりアイヌ同化政策の中で眠ってきた、と決めつけて言っているのと同じである。

このような融和主義者の意識こそ、誇りある人間としてのアイヌ文化、歴史を抹殺して来た者の言葉である。だがアイヌを眠るどころか、眠る時間も与えないで奴隷として酷使してきたのはいったいどこの誰なのか?

アイヌ民族は独立しなければならない。アイヌ民族の独立、、それは幻想ではないのか?などと傍観者たちは、「独立」という言葉に続いて一度は驚いて見せる。さらに幻想と思うのである。そして薄笑いを浮かべるその顔には、敵意がある。

同化、融和主義とは民族のすべての歴史的な権利や文化、己の存在すらも捨てることになる。そして支配者階級の文明の中に消え去ることになる。アイヌ自身が民族の誇りを捨てて、同化し、融和してしまうことは、ヤマト民族の思想を受け入れたことに結果としてなるのである。

この時、やはりアイヌ民族は自然ばかり相手にしてきた文明に遅れた人間であった、元辺境に住むまれな“原始人”であったと、様々に言ってきたアイヌ研究の御用学者を喜ばしてはならない。

客体としての研究材料としてしか取り扱ってこなかったアイヌ研究を、実証させてはならないのである。 

  • 最近は新左翼運動の流れを汲んで「アイヌ民族琉球民族を同じ日本人として扱おうとする先天性のレイシストファシストナチス大和民族の偽善を決して許してはいけない。彼らを殲滅し尽くす(全財産を奪い尽くし、全員を強姦し尽くし、全員を殺し尽くす)復讐を達成してこそ初めて国際正義から歓喜の賞賛を得られる」と扇動してる人達までいる。もちろん全体から見ればごく少数だが、不思議と海外への影響力は想像以上に大きく、海外ネットにおいて「邪悪なだけの日本人の中で唯一の良心派勢力」と絶賛される事もしばしばである。
    *ただしメディアでまでは取り上げられる事はなく、巧妙な情報統制が見て取れる。

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  • その影響を受けて韓国ネット上では「ユダヤ人は先天的ナチスたるドイツ人からホロコーストを受ける前に、ドイツ人をこそホロコーストで殲滅すべきだった。国際正義は温情主義を決して認めない」と確信する集団と「イスラム教徒こそ今や温情主義を決して認めない国際正義の代表者となった。国際正義はイスラム教徒が一刻も早くユダヤ人を殲滅し尽くす(全財産を奪い尽くし、全員を強姦し尽くし、全員を殺し尽くす)復讐の達成を要求していると確信する集団と、「貴様らは発想の根幹から間違ってるから全員死に絶えるべき。イスラム教徒は黒人や東南アジア人同様に一刻も早く歴史上から抹殺すべき劣等民族であり、国際正義が求めるのはただそれだけなのであると確信する集団が執拗な内ゲバを繰り返している。もちろん全体から見ればごく少数で、そういう現状を知るのも韓国内や、そこでのこうした主張が出回っている英語圏だけに限られている。

  • まぁ「日本人は世界史上に登場した唯一無二の絶対悪であり、これを殲滅し尽くす(全財産を奪い尽くし、全員を強姦し尽くし、全員を殺し尽くす)事によってのみ韓民族は国際正義より永遠に賞賛され続ける存在に昇格する」なる確信なら共有している集団の間ですら(というか、そういう確信を共有している集団だからこそ)こんな殺し合いも笑って容認してしまうのが彼らの平和主義。調停者の仮面を被ってどさくさに紛れて全権を掌握するにも都合が良いので積極的に肯定されていて(実際「アメリカ帝国主義は黒人とインディアンとエスキモーが白人を皆殺しにするまで、決して信用してはならない」なる発言には日本からも絶賛が寄せられた)「ソ連共産党中国共産党が絶対正義として君臨出来なかったのは粛清に当たっての覚悟が足りなかったから。俺達ならもっと国際正義に忠実に振舞ってみせる」と豪語する人々(資金面で背後に北朝鮮中国共産党の意向を受けた朝鮮族の影がちらつくのはご愛嬌)には、日本人ばかりか一般の反日韓国人すらドン引き。いやむしろ「蠱毒効果」で、そういう連中ばかりが残ったとさえいえる?

    *韓国左派の「日本人や黒人や東南アジア人を同じ人間と認める方がレイシズム」発言に対して、KKKの様な白人優越主義団体のメンバーがふざけて「確かに国際正義はアジア人同士が殺しあってその数を一人でも減らす事をを望んでいる」とコメントすると「名誉白人として認められた韓国人は、国際正義を実現すべく世界が永久戦犯として処罰を望んでいる日本人に対して(普段、黒人や東南アジア人やイスラム教徒にそうしている良いに)もっと適切に対処する生得的権利がある」と翻訳される地獄絵図。そして、こうした開明的韓国人すら嫌ってる韓国人の暗黒面について「余所者は全て劣等者で何をしても良心が痛まない韓国人の田舎根性を否定してはいけません。これぞ人間の本質。多様性保全の一環として尊ばねばならないのです」と擁護する向きが日本国内には確実に存在する。

こうした人々の準拠する国際正義は「ファシズムやナチズムが復権を遂げたら、国民の過半数を絶滅収容所送りにするより甚大な被害が生じる」と声高に主張するのが通例です。その割に「本当のファシズムやナチズムはどういうものだったのか」意外と知られていないのがアジアの実情。それでは果たしてオリジナルはどういう内容だったのでしょうか?

どうだろう、実際のファシズムが世間の通念とはまったくちがうのがわか……ったりはしない。世間的なファシズム理解とそんなにちがうわけじゃない、というより世間的なイメージよりもっとひどいかも。

豆知識だが、本書の第1章を書いたのはムッソリーニではなく、ジョヴァンニ・ジェンティーレという哲学者かなんかとのこと。また、これを英訳したのがだれなのかは不明。ファシスト党の公式刊行物として出たもの。

内容的にはとても楽しい。短いしスラスラ読めるよ。いまの政治家の公式発言(だけでなく、評論家たちの駄文)でも、民主主義とか人権とかにリップサービスするのがアレだし、もっとモガモガ要領を得ない言い方をするのが基本なので、ここまで平然とすべて否定されるとかえって新鮮な面もある。たぶん、当時人気を博したのもそういう部分があるんじゃないかな。

まず本文に目を通す以前に、20世紀初頭の欧州においては以下の様な景色が日常的に展開していた事を念頭に置かねばなりません。

  • イタリアでは、日増しに激化する共産主義者の革命運動に危機感を募らせた資本家や地主階級が「戦闘的ファッショ(ムッソリーニが1919年に設立)」に莫大な資金を提供し、軍部や警察もその運動を容認する様になった事が躍進の契機となった。
    *ドイツでもナチスは(ワイマール政権と極左勢力の双方から「殲滅対象」に指定され風前の灯状態にあった)資本家階層や中小ブルジョワ階層の支持を取り付ける事で躍進を果たしている。

  • ドイツでは「ブルジョワが独裁する資本主義社会」への失望ばかりか「第一次世界大戦(1914年〜1918年)を擁護した(1905年にベルンシュタインが始めた)修正主義運動」及び「ボルシェビキ独裁に決着したロシア革命」への失望感が漂っていた。
    *実はワイマール政権中枢はドイツの第一次世界大戦参戦を支持した社会民主主義政党でソ連共産党コミンテルンから「社会ファシズム(Sozialfaschismus)」の烙印を押され、抹殺命令まで出されていた。それでワイマール政権中枢側はフライコール(Freikorps:ドイツ義勇軍)を招聘して(ソ連コミンテルンに協力者認定を受けた)極左勢力を徹底虐殺している。

  • またドイツでは、どんなに経済環境が悪化しても「資本家とブルジョワ階層の殲滅にさえ成功したら全て良くなる」と繰り返すばかりの教条的共産主義者への嫌悪感が(彼らを狩る)在野の自警団への支援金を急増させていた。
    *この恩恵はフライコール(Freikorps:ドイツ義勇軍)の様な右翼だけでなく、ドイツをレーテ(Räte/Rat、労兵評議会)の割拠する無政府状態に追いやろうとしていた極左勢力も受けていた。その結果、イタリア同様に両者の衝突は膨大な犠牲を出す事に。

ムッソリーニによるローマ進軍(1922年)も、正規軍の数倍の規模を誇る「義勇軍」の武力を背景としたヒトラーの政権奪取(1932年)も、こうした当時の状況の産物だったのですね。

ファシズム:そのドクトリンと制度(Fascism: Doctrine and Institutions、1935年)

ファシストのシンボルとしての「リクトルの杖」

ファシズムとは、ただの法律制定者でも制度創設者でもない。教育者であり精神的な生活のプロモーターなのだ。それは生の形のみならず、その内容までも作り替えようとする—人間、その人格、その運命を。この狙いを実現するため、ファシズムは規律を強制して権威を使い、魂に入り込んで圧倒的説得力で支配する。だからこそファシズムはそのエンブレムとしてリクトルの杖 (ファスケス) を選んだのだ。それは一体性と強さと正義のシンボルなのだから。

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*リクトル(Lictor)古代ローマにおける役職の1つ。インペリウム(Imperium、古代ローマにおいてローマ法によって承認された全面的な命令権)を有する要人の護衛を主な任務として、共和政ローマから帝政ローマまでの長きにわたり存在した。

  • もともとは、エトルリアの伝統からローマに取り入れられたと考えられている。プレブス(plebs、平民。パトリキ(Patricii、貴族)の対語)階級の屈強な者から選ばれることになっていたが、ほとんどのローマの歴史において解放奴隷が勤めることが多かった。ローマ市民権を有しなければリクトルにはなれなかった。

  • 特権として兵役が免除されるほか、給料は帝政初期において600セステルシスで、これはローマ軍兵士の給料の3分の2程度だった。「プリムス・リクトル(筆頭リクトル)」と呼ばれるリーダーを筆頭として、常に集団で行動した。通常は要人の個人的な選択で選ばれるが、たまにくじ引きで選ばれることもあった。

  • インペリウムの行くところ全てにつき従った。武器の携帯が禁じられるポメリウム内ではファスケス(木の棒の束)を飾った杖を所持し、ポメリウム外ではそこに斧の装飾が追加された。この斧は処罰の権限の象徴である。また、独裁官のリクトルのみポメリウム内でも斧つきファスケスの携帯を許された。

  • 要人の前で、一定の規則にしたがって隊列を作った。下命あるときにそなえ、要人本人のすぐ前に陣取るのが「プリムス・リクトル」である。人ごみの中では要人のために人を掻き分け、道を作った。要人は自由都市を訪れる際か、より高位の要人と会談する際にのみ、リクトルの随伴を免ずることができた。

公職によって従えるリクトルの数は、異なった。独裁官24人 (ただしポメリウム内では12人。スッラのみは内外構わず24人従えた)、執政官12人、前執政官 11人、騎兵長官6名、法務官6人(ただしポメリウム内では2人)、前法務官5人、上級按察官2人、ウェスタの巫女1人(式典を催す際にのみ)。

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*ファスケス(fasces)…「束」を意味するラテン語の名詞ファスキス (fascis) の複数形。通常は斧の周りに木の束を結びつけたものを指す。古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトルが捧げ持った権威の標章。20世紀にファシズムの語源ともなった。日本語では儀鉞(ぎえつ)や権標、木の棒を束ねていることから束桿(そっかん)などと訳される。

  • 斧の周囲に十数本から数十本の棒を配し、皮の紐で束ねたもの。王政後期にエトルリアからもたらされたものとされ、王の権威の象徴であった。共和政に移ると王の権限に由来するインペリウムの象徴とされ、インペリウムを保持する高位公職者である独裁官、執政官、法務官などの周囲にファスケスを持つリクトルは配された。

  • ファスケスの意味するところは、権力と求心力の象徴としての斧、その周囲に団結する人々であるといわれる。刑罰のための斧と鞭が「懲罰権」を象徴するとの説もあるが、実際に戦闘や処刑に使うことを目的とするものではなく、専ら権威をあらわすために用いられた。共和政期に入ってからは原則として、ローマの市内 (市内と外部を隔てるポメリウムの内側) では斧は取り外され、棒の束として使用された。またコンスルの葬儀の際にはファスケスは逆さまで捧げ持たれた。

  • ローマ以降、ファスケスのデザインは力や正義、結束や団結、共和制などの象徴として、各国の政府や団体に用いられた。特に20世紀にファシズムの語源ともなり、そのシンボルとしても使用された。

現在でもアメリカ合衆国下院本会議場、リンカーン記念館の装飾やリンカーン像、フランス領事団が用いる紋章、エクアドルの国章などに用いられている。

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*欧州をファシズムやナチズムが席巻していく時代、アメリカ人だけはその種のプロパガンダに強度の耐性を発揮して見せた。それは南北戦争(American Civil War, 1861年〜1865年)の時代にリンカーン大統領(Abraham Lincoln、在位1861年〜1865年)が準備し、金鍍金時代(1865年〜1893年)における自由放任主義の弊害への反省が生んだ進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)における原動力として同種の熱狂を経験済みだったからかもしれない。

「国家こそ全ての根幹である」

国家の外にはどんな個人も集団(政党、文化協会、経済連合、社会階級)もない 。だからファシズムは、国家(これは階級を単一の経済的倫理的な現実へと融合させる)内部の一体性を認めず、歴史を階級闘争以外のものとしては見ない社会主義に反対する。またファシズムは階級の武器としての労働組合主義にも反対である。だが国家の軌道の中に収まる限り、ファシズム社会主義労働組合主義の台頭をもたらした真のニーズを認識するし、国家の一体性の中でバラバラの利害が調整され調和化される、ギルド制度や協調組合制度の中で、しかるべき配慮をそれらに与えるのだ。

いくつかの利害をもとにグループ化されることで、個人は階級を形成する。いくつかの経済活動によって組織化されると、個人は労働組合を形成する。だがまず何よりも、かれらは国家を形成する。これは単なる人数の問題ではなく、多数派を形成する個人の集合などではない。ファシズムはしたがって、国民をその多数派と同一視し、最大数の水準にまで引きずり下ろす形態の民主主義には反対である。だがそれは、国民というものを量より質の観点から—本来そうあるべきなのだ—観念として捉えた場合には最も純粋な民主主義形態となる。その観念は最も倫理的で一貫性を持ち、真実であるがために最強であり、それが少数派、いやそれどころか一人の意識と意志として人々の中に表現され、果ては大衆の意識と意志の中に自らを表現し、民族的に自然と歴史的条件により国民として融合された集団全体に表現され、まったく同じ発展と精神的陣形の路線に沿って、一つの意識と一つの意志として進むようになるのだ 。人種でもなく、地理的に規定された地域でもなく、歴史的に永続化する人々。観念で統合され、生きる意志、力への意志、自意識と人格を与えられたマルチチュードだ。

国家に体現される限り、この高次の人格は国民となる。国家を生み出すのは国民ではない。これは古びてしまった自然主義的な観念であり、国民政府を支持する 19 世紀的な宣伝の基盤となったものだ。むしろ国家のほうが国民を創り出し、自分たちの道徳的一体性に気がつかされた人々に対して意志力、つまりは真の生を与えるのだ。

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*インテリ=ブルジョワ階層のエリート独裁志向(公私混同を通じて私欲を満たそうとする、公益に反しても既得権益を手放さない、人を犠牲にして自分だけ助かろうとする。しかもそういった悪行を巧みな弁舌と細工で隠そうとする)に対する一般大衆の嫌悪感に訴えかける立場ながら、それを主張する人間もインテリ=ブルジョワ階層出身で、目指しているのが衆愚政治という辺りが要注意。

*そしてこれはマルクスというよりヘーゲル? ヘーゲルの主張の主題は復古王政期(1815年〜1848年)における絶対王政(すなわち「国王と教会の権威に担保された、領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」)の再評価、およびビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)的小市民(私的享楽を追求する一方で、外交の様な個人の手にあまる分野は軍人や官僚に丸投げし、彼らの指示には全人格的に従う)への迎合だったが、その起源をさらに遡ると「国家こそが政治や経済の主体である」と断言した18世紀のナポリ政治経済学に行き着く。17世紀重商主義と18世紀官房学(mercantilism、貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することにより、国富を増すことを目指す経済思想や経済政策の総称。Sir Josiah Child, 1st Baronet (1630 – 22 June 1699) )の狭間で重要な役割を果たしたこういう理念もまたイタリア起源だったのは極めて興味深い。

*17世紀重金主義(mercantilism)…貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することによって国富を増す事を目指す経済思想や経済政策の総称。英国におけるチャイルド(Sir Josiah Child, 1st Baronet、1630年〜1699年)やクロムウェル卿(Oliver Cromwell、1599年〜1658年)、フランスにおけるルイ14世の財務総監コルベール(Jean-Baptiste Colbert, 1619年〜1683年)などが著名。前者は英国経済の植民地貿易依存率を引き上げ(砂糖王や煙草貴族を生み出し)自由放任主義の着想に至る。大英帝国はさらにメシュエン条約(英語: Methuen Treaty、 ポルトガル語: Tratado de Methuen、1703年)によってポルトガルを経済的従属下に置き、ブラジルのゴールド・ラッシュ利権も手中に収める事に成功して次第に農本主義的発想より脱却していく。一方後者はユグノー階層との一時的妥協を生んだがやがて政治的に破綻。それにもかかわらずフランス植民地の砂糖産業などは英国のそれを脅かし続けたが、フランス革命政府の奴隷解放容認政策によって破綻。むしろこれを契機に19世紀に入るとベルギーやチェコや北フランスなどにおけるビーツ(砂糖大根)栽培業者と製糖業界が躍進して英国砂糖業界に引導を渡したが、あくまで全てが農本主義的発想の枠内で進行したのが当時の大陸型資本主義の限界であったとも。しかし何故か「農本主義的発想の残存」は製鋼業や鉄道産業を軸とする第二次産業革命で有利に働き、ベルギーやチェコを大陸有数の工業地帯に発展させる事になる。人間万事塞翁之馬?

*官房学(独: Kameralwissenschaft)あるいはカメラリズム(独: Kameralismus, 英: Cameralism)…17世紀から18世紀にかけてドイツ語圏(神聖ローマ帝国領内)で発展した学問。「重商主義ドイツ版」といわれる事もある。今日の行政学(警察学)、経済学・財政学にほぼ相当する内容をもつが、実際にはそれよりもはるかに広範な経世論・政策論的領域を対象分野とした。そもそも官吏養成大学として設立されたハレ大学とフランクフルト大学に1727年、官房学の講座が設置たのを画期として前期と後期に大別される。前期においては領邦君主に対する個別具体的・実践的な献策としての著作が中心であり、また「公共の福祉」の根拠を王権神授説あるいは神学に求める事に主眼が置かれた為に理論的体系性には乏しく財政学・経済学などとの混同がしばしば見られる。この時期の官房学者としては(官房学の先駆者とされる)ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ(Veit Ludwig von Seckendorff, 1626年〜1692年)やJ.J.ベッヒャー(J. J. Becher, 1635年〜1682年)が有名。後期においては、大学での「官房学」講座設置を背景に盛んになったことから、官僚養成講座のための教科書として執筆された著作が多くなった。内容も総合的・体系的な理論を備えたものへと発展し、財政学や経済政策から区別された「ポリツァイ学(警察学、Polizeiwissenschaft)」の創始を目指している。また自然法哲学啓蒙思想ナポリ政治経済学などの影響が及んだことにより「君主を拘束する法」観念の形成も見られ、もはや君主の財政的利益の為だけでなくひたすら国家目的としての福祉の実現に直接的に奉仕する行政学としての側面を強めていった。この時期の学者としてはヨハン・ハインリヒ・ゴットロープ・ユスティ(Johann Heinrich Gottlob Justi, 1717年 - 1771年)およびヨーゼフ・フォン・ゾネンフェルス(Joseph von Sonnenfels, 1732年 - 1817年)らが有名。しかしこうして18世紀に全盛期を迎えた官房学は、臣民生活に対する国家権力の後見的な監護を前提に構築されていたこともあって、19世紀以降ドイツにおける市民革命の本格化にともない衰退に向かった。すなわち1806年に神聖ローマ帝国が名実ともに崩壊して以降、ドイツの各領邦で憲法闘争が進展し絶対君主制が終焉し立憲君主制への移行が進んだのを背景に、官房学の学問における優越的地位は「法律による行政の原理」を唱えるドイツ公法学に取って代わられ、その土壌から国家学・財政学・経済政策学・行政学などが分化していったのである。その一方で普仏戦争(1870年〜1871年)におけるプロイセンの輝かしい勝利とそれに続いたドイツ帝国建国の栄誉はこの学問に帰せられる事が多く、当時のドイツ帝国における著名な公法学者・国家学者を外国人教授として招聘した明治時代の日本や、その成功を詳細に分析してあやかろうとしたアメリカに強い影響を残す事となった。特に江戸幕藩体制下において孟子性善説に反対した荀子の「孫卿新書32篇12巻」や元代の張養浩が著した「牧民忠告」の影響を朝鮮王朝経由で色濃く受け、その延長線上に内務省の「牧民官思想」が生じた日本に残した爪痕は大きい。

法家 - Wikipedia
性悪説 - Wikipedia
日々の記憶: 牧民の思想

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*まさしくヘルムート・プレスナー言うところの「遅れてきた国民」そのもの。とはいえ新興国家故に国民統合面で難を抱え、こうした極端な思想に走ったドイツやイタリアをアメリカは超越的に嗤える立場にはなかった。そうした国々からの移民や亡命者を大量に受容していたからである。
移民(アメリカ)

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以前からファシズムやナチズムが独特の「マチズモ(machismo、男性優位主義)」と不可分の関係に陥るのか疑問だったのですが、日本でいうと「源氏物語(11世紀成立)」に登場する「牛車を引く仕丁や随伴する舎人」や、後世における武家奉公人の様な「権威を笠に着た破落戸(ただし儀礼遂行に不可欠な実践教養があったり「男道実践者」として揺るぎない統率力を備えていたりして引っ張りだこ)」の様な前近代的身分制の実質上の立役者にスポットライトが当たる様です。
*日本においては反権力の立場から人前で平気で脛や太腿や尻を剥き出しにしたのは男性だったが、古代ギリシャ世界においては(支配階層の間では男女同園意識が強かった)スパルタの女性だったりする。

【Wikipedia】舎人(とねり/しゃじん)

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皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職。

  • ヤマト王権時代には既に存在した名代の一つであり、「トネ」(刀禰、刀祢、利根、刀根、登根、戸根などとも)に起源を同じくする。大王の身の回りの世話を受け持つ舎人は、古くは川や船など水運に関わる従事を指したと考えられ、このことは「トネ」に由来する地名が河川や港浦を中心に分布することから示唆される。これに「人」を表す「リ」が付き「トネリ」として一般化し、靱負(ゆげい)、采女(うねめ)、膳夫(かしわで)と並んで、大王の側近を意味した。なおこの語の用法は『古事記』にしか見られない。本居宣長は『古事記伝』の中で、「とのはべり(殿侍)」という語が変化して「とねり(舎人)」という語が発生したと推測しているが、殿は平安期以降に一般化した貴人への敬称で、律令以前から存在していた舎人には当てはまらない。

  • やがて氏姓が始まると、東国を中心に国造などにこのトネを冠した「等禰直」「舎人直」などの人名としても見え始め、さらにはこうした大王の側近や有力な世襲豪族には御名入部(みないりべ)である「舎人部」(舎人に近侍する下級役人)を持ちはじめ、舎人直 ― 舎人 ― 舎人部 という階層関係がみられた。これらの舎人は天皇に貢進もされ、新たに舎人として近侍した。

  • 天武天皇の673年(白鳳2年)に大舎人寮に仕官希望者を配属させる制度を定めて本格的整備が始まるが、新たに八色の姓が置かれても天皇に近い有力貴族を表す「舎人」の語は残り、律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人)・中宮舎人(同400人)などが設置された。原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。大舎人・東宮舎人・中宮舎人の不足分は六位以下の位子からも補われた。この他にも兵衛なども舎人と同じような性格を有した他、令外官的な舎人も存在した。この他に公的な舎人を支給されない皇族や貴族の私的な舎人として帳内・資人が設置され、その家政機関に従事した。

  • 舎人の職務そのものは宿直や護衛、その他の雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んだ。律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、支配階層の再生産装置として機能した。また、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。朝廷にとって、国内支配階層の各層から舎人を集めることは、その影響力を各方面に及ぼす上で有利に働いた。こうした律令の支配が地方へも及んだことは、出雲国風土記で意宇郡に舎人郷(現;島根県安来市)の地名が見られることからも類推される。

平安時代に入ると、舎人の志望者が減少して、本来舎人になれない外位や白丁の子弟からも不足分を補うようになった。また、舎人の身分を悪用して違法行為を行うものも現れ、制度そのものの衰退につながり、「舎人」は使われなくなっていったと考えられる。
*「源氏物語」では仲の悪い貴婦人の従者同士の同士の喧嘩で負けた側の牛車が破壊される。単純な男尊女卑問題に還元する訳にもいかない。

武家奉公人 - Wikipedia

【Wikipedia】口入屋/手配師

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日本では人材斡旋を業とする者を手配師と呼ぶ。古くは請負師ともいい、手段や業態が適法であるか否かに関わらず手数料を取って人材を周旋する者一般を指して用いられた。労働者派遣法や職業安定法による業法規制が一般化した現在では、労働者派遣法による規制に従って営業する者を労働者派遣事業者、職業安定法による規制に従って営業する者を人材紹介業者(有料職業紹介事業者)といい、手配師の語は、無許可または非合法な手段を用いて人材を斡旋する者、人材斡旋を行うもののうち伝統的に手配師と呼ばれてきた特定の業態にて営業する者等に限られる傾向にある。請負師といった場合はより意味が限定的となり、一部の建築業等に見られるように、顧客から仕事を請け負い、自らは労働や作業をすることなく、必要な人材(職人)や材料を手配し、かかった手間賃や材料費に利益を上乗せして稼ぐ者のことも指す。

  • 相互扶助や互助活動としての普請である「結い」は、無償の労働提供であるが、社会構造が多様化や拡大するにつれ物々交換が、金銭と言う労働対価の証によって行われるようになったことと相俟って、経済活動が活発になった。それとともに天下普請のような大規模公共工事は、不特定多数の一時的な相互扶助としての社会活動を生み、狭い地域の自普請ではないが故に人と人の繋がりが無いため、手配師という業態が形成された。

  • 戦国時代には「寄親寄子」という主従関係があり、武将と地方豪族の間で取り交わされ編成された軍事組織である。「徒手空拳である者」は誰かをより所とし、守り立てて貰う。「たよられた者」は組織を形成し磐石な基盤の上に立つという互助関係でもある。この主従関係は江戸時代には庶民にまで広がり、都市部に出稼ぎや職を求める者の身元引受人となり、人宿(下宿、たこ部屋のような住まい)を提供し仕事を斡旋するといった口入屋と職を求める者の関係になり、同様に寄親寄子と呼ばれた。また徒弟制度における「親方子方」(兄弟弟子)といった雇用関係や様々な職業などの互助組織の中でも主従関係が結ばれ「親分子分」(兄弟分)といった。これらの主従関係では仕事の手配は習慣的であり親方・親分の中からも手配師となる者も表れた。

  • 経済活動の多様化や拡大により、貧富の格差が地域や環境により発生し、その均整化を計るのは自然の流れであり「雇用促進や困窮者救済」、「搾取や人身売買」といった両面性を持ち合わせている。

  • 沖仲仕を父に持つ作家火野葦平の著書『青春の岐路』には「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」とある。

手配師と呼ばれる人々や組織が多く出来始めたのは江戸時代に入ってからである。背景としては参勤交代や多くの武家屋敷が城下町に出来たことや天下普請としての社会基盤の整備が始まり、公共事業が生活困窮者の救済措置として機能していた。商業の発展による港湾荷役の増加や都市部に郊外や地方から家督を継げない者や仕事を求めて多数の人口流入があり、男性の比率が高かったことなどがある。

  • 参勤交代の大名行列の人員は全てがお抱えの奉公人では賄えず槍持ちなどを口入屋を通して臨時雇用していた。また、武家屋敷も参勤交代時、多数の奉公人が必要になり口入屋には高賃金と下士扱いの身分のステータスを求め町人や庶民が殺到した。

  • 町奉行管轄の町では火事と人口増加に伴い慢性的な家屋不足であり普請が盛んに行われ町鳶、町大工の権威が強くなっていった。そこで大工より自由な時間(雨天時とび職としても町火消しとしても暇であった)があるとび職が祭りの顔役としての外交的役割と相まって普請の営業をする様になり、手配師と呼ばれた。

  • 人口増加に伴う土地不足、都市部は扇状地に多くあり慢性的な河川の氾濫による治水の必要性や河川、港湾荷役の施設不足、これらをいっきに解決する手段が埋め立て(河川の護岸も含む)であった。そしてこの一大事業に伴う経済効果と人手不足が沖仲仕野帳場仕事の手配師の隆盛を手伝ったといえる。また埋立地はそのままでは利用できず、自重沈下を待つ必要があった。しかし幕府はただこれを待つのではなく桜を植え近隣での花火の打ち上げを奨励し遊郭を造り、人の流入を図りその土地の締め固めを行った。そして男性偏向の不安定な都市構造の治安維持を遊郭を造ることにより図り、その数は増加の一途をたどった。そのため多くの口入屋や置屋ができ、それが人買いや女衒という手配師が日本全国に暗躍する、きっかけとなった。

  • 近代、近年でも「ああ野麦峠」や「蟹工船」などに代表される悲劇(当時はそのような就労状況でも恵まれた方であり「悲劇」は無知による偏見もしくは階級闘争史観に基づくプロパガンダとの意見もある)や債務者の返済手段としての遠洋漁業の従事(現在では年収の低下により皆無)など人買い(人身売買)や手配師の存在が暗示される。歴史的な背景として日本による統治地域からの人の流入が継続的にあり生活基盤の無いことや言葉の不自由などからおのずと同胞の先人者にたより、仕事の斡旋を専業とする者多くいた。現在でも中国、韓国人出稼ぎ労働者や在日日系ブラジル人社会でも不法就労、犯罪等の関連によりその存在が知られる。(但し慈善活動として同胞を助けるため無償で行う者もいる)。

日本においては、こうした前近代的な就職斡旋状況(あるいは人材派遣業界)からの脱却こそが近代化であった。1872年10月に東京府が雇用請宿規則を公布し、その他の府県にも類似の規則が広がっていく。その後、明治中期から公益職業紹介業が生まれ、大正初期には公立の公益職業紹介所が生まれていった。そして1921年に職業紹介法、1925年には営利職業紹介事業取締規則が制定される。

 「渡り中間」という言葉もあるくらい「忠義道」とは無縁の層が大半で、非合法社会との縁も浅からぬ感じでしたが、そえゆえにかえって「ファンタジーとしての忠義道」が大衆レベルで広まったとも。こうした展開は欧州騎士道の世界でも見受けられましたし、兵士供給階層としてフランス革命以降の時代に複雑怪奇な政治的影響力を発揮し続けたサン・キュロット層(浮浪小作人)にその最後の残滓を感じる事も出来ます。日本の場合は明治維新や文明開化があって「それ以前の時代」と「それ以降の時代」に相応の「意識上の障壁」が成立しましたが…あれ? 欧州の場合はどうなってるの?
*そして20世紀に入って「札付き」の南イタリア人などが大量流入する様になるとアメリカも巻き添えに…

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 そして21世紀に入ると、マルクスの「上部構造論(我々が個人主義の拠り所としている自由意志は、その実社会的同調圧力に型抜きされた体制側にとって都合の良い既製品に過ぎない、とする立場)」を(本来はそれによって論破しようとした)ヘーゲルの論法を逆手にとったこうした論法を、さらに逆手にとった新たなマルチチュード(革命的大衆)理論が台頭してくるのです。

1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊

マルチチュード(Multitude)

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マキャベリによって最初に使用され、その後スピノザが用いた政治概念。最近では、パドヴァの革命家一族出身のアントニオ・ネグリと米国比較文化史学者のマイケル・ハートの帝国論を契機として再び注目を集めている。マルティテュード、ムルチチュードとも。ラテン語 では“多数”や“民衆”などの意味を持つ概念である。 「多数性」「多性」「群衆性」などの訳語もあてられる。

  • 政治哲学者で元パドヴァ大学政治社会科学研究所教授であるアントニオ・ネグリデューク大学文学部准教授であるマイケル・ハートは、共著「帝国(Empire、2000年)」および「マルチチュード帝国時代の戦争と民主主義(Multitude: War and Democracy in the Age of Empire、2004年)」において地球規模による民主主義を実現する可能性として「国境を越えるネットワーク上の権力」という概念を提唱した。

  • ネグリによればこれは近代以降に登場した超大国の覇権によるグローバルな世界秩序である帝国主義に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家の国民や企業を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けられる。

  • また、いわゆる19世紀以降の社会主義に代表される革命に見られた多様性と差異性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合されたひとつの勢力でありながら多様性を失わない、かつ同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在としている。

*要するにここでは「移民が移民先国家を崩壊に追い込む事で達成される真の意味での国際協調時代」が予言されている。ただしこの枠組においては、欧州のムスリム移民をサラフィー・ジハード主義(Salafi jihadism)一色で染めあげようとしているイスラム過激派もまたファシズムやナチズム同様に「旧世代の役立たずイデオロギー」として排除されるのが興味深い。すると、カタルーニャ独立運動に反対してるスペインの急進左派ポデモスの立場は?

ochimusha01.hatenablog.com

そもそもの発想の起源はヘレニズム時代のコスモポリタン精神?

その是非はともかくとして「どこまでも権威主義から脱却しきれず、勝とうが負けようが最後の一人になるまで内ゲバで殺し合うしか能のない「旧」左翼」とは一線を課す方向への進化が見て取れますね。