科学の発展に関する悲観主義はジュール・ヴェルヌ「二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle、1861年)」まで遡るとされますが、産業革命が万能視される当時の世相のせいで、この時代には発刊自体が不可能でした。
ジュール・ヴェルヌ「二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle、1861年)」はパリのみ、 テア・フォン・ハルボウ脚本・フリッツ・ラング監督映画「メトロポリス(Metropolis、1926年)」はメトロポリスのみを舞台とする物語であって主権国家との関係には一切言及がない。後者には支配的権力者フレーダーセンが別の都市と交易を行う場面もあるが、そこから想起されるのはせいぜい崩壊した世界帝国か世界経済網くらい。
一方、オルダス・ハクスリーは「すばらしい新世界(Brave New World、 1932年)」において「最終戦争後に建設された世界帝国」を「島(Island、1962年)」では「東洋文明と西洋文明の接点に生まれた理想郷的孤島」を描くが、前者におけるディストピア設定が、後者ではそのままユートピア設定として流用されている。まさしく主観の問題というアプローチ。特に、ここでその一環として挙げられた「慎重な計画に基づく効果を計算され尽くしたドラッグ投与」なる概念はヒッピー世代に大きな影響を与える。
科学>自分のデビュー作の読切や初連載作の『Clock Clock』ではその辺のこと言わせてるんだけど、まあ当時の若くてむき出しのセリフとかなんで、いろいろ恥ずかしい(笑)。
— 森田崇 @怪盗ルパン伝アバンチュリエ『813〈上〉』紙書籍版&Kindle版発売中❗️ (@TAK_MORITA) 2021年9月4日
同時に、あの勢いのまま『進撃の巨人』みたいに突っ走りたかったなとも思いますw
僕はルブラン先生と同じくらいアシモフ先生も好きなんだけど、アシモフ先生の『鋼鉄都市』シリーズのイライジャ・ベイリの、「土に帰るのはいい。だがそれは他の惑星の土だ!」というセリフが大好きで。やっぱり科学や発展や開拓は肯定的に見たいな。
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『スタートレック』も、根底に楽観的な未来像と科学肯定があるのが大好き。もちろん警鐘を鳴らす話もたくさんある上で。
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きゃー、むき出しの台詞が恥ずかしい(笑)。
— 森田崇 @怪盗ルパン伝アバンチュリエ『813〈上〉』紙書籍版&Kindle版発売中❗️ (@TAK_MORITA) 2021年9月4日
恥ずかしいながらも見せちゃうw
こういうこと描いておりましたw
だからもう、『Dr.STONE』とか嬉しくてたまらないですねw
この頃からアルセーヌ・ルパンの時代と絡ませてるのもミソw(タイムスリップ物) pic.twitter.com/aE2YjDAnvy
しかしこれ2000年頃の作品だけど、ネットもまだまだだしスマホもタブレットもないし、音声認識も二足歩行ロボットもAIも電子マネーもまだまだだったし、宇宙開発もイマイチに見えたし、停滞して見えてましたね〜。
— 森田崇 @怪盗ルパン伝アバンチュリエ『813〈上〉』紙書籍版&Kindle版発売中❗️ (@TAK_MORITA) 2021年9月4日
今はずいぶん空気が変わったんじゃなかろか。
人はやっぱり発展を求めますね! https://t.co/RxVwMUDxxa
あと余談だけど、このレベッカの時代は第一次大戦後なので、もう科学戦の恐怖とか大きく語られ出してるんで、彼女のこの台詞は今見るとあり得ないな(⌒-⌒; )💦 https://t.co/RxVwMUDxxa
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現在の我々が知る「悲観主義的SF」には、主に第一次世界大戦のそれを嚆矢とする「総力戦」概念の産物という側面もあったりします。
突如「(戦争遂行機械としての)主権国家と(それに動員される)個人の関係」なる概念が割り込んでくる訳ですね。
冷戦の影響下執筆されたレイ・ブラッドベリ「華氏451度(Fahrenheit 451、1953年)」や「高い城の男(The Man in the High Castle、1962年)」は主権国家陣営同士の対立を背景に「警官や軍人による思想統制社会が人間から思考力を奪っていく有様」を描く。特に前者は読書の禁止とTV視聴の強要でこの流れを加速する設定で知られるが、その一方で主権国家運営におけるコンピューターの役割はそれほど強調されない。弾道計算機や空港予約システムといった形で実用化が進行したせいで、当時の低脳過ぎる機器を「国土全体を管理下に置く主体」としてイメージするのが困難になってきたせいかもしれない。
一方、ロバート・A・ハインライン「月は無慈悲な夜の女王(The Moon Is a Harsh Mistress、1965年〜1966年)」には、政府所有物ながら月の住民に同情する様になり彼らの反乱を的確にサポートし、全てが終わると自分で自分を消し去る人工知能が登場。
「全ての政治的判断をコンピューターに委ねるべき」といった他力本願な思考様式はむしろ共産主義圏において力を持った。米国の科学的管理法(Scientific Management)に由来する確固とした数理イメージを得たからこそ成立し得た思考様式といえよう。
ウラジーミル・レーニンは1913年の時点で科学的管理法理論について「同じ長さの労働日のなかで以前より三倍以上の労働力を労働者から絞りとろうとする」試みとして全面否定。しかし、翌1914年にはテイラーの理論を「プロレタリアートが社会的生産のいっさいを掌握し、労働者自身による、あらゆる社会的労働の適切な配分と合理化を目的とする委員会を定める時期を用意するものであった」と評価し、1918年にはその後の革命の成功に不可欠なものと考えるに至る。
そう、チャップリンが映画「Modern Times(1936年)」で描いたアレ…
しかし皮肉にも「(出力の演算過程へのフィードバックを重視する)サイバネティック理論は全くマルクス=レーニン主義にそぐわない」なる思想統制のせいで1960年代以降の共産圏におけるコンピューター開発は完全なる停滞状態に陥ってしまう。こういう時代にスタワニム・レムやストロガツキ兄弟は「自分と全く似てない絶対他者との邂逅に打ちのめされる人間」を描く文学を発表したのだった。
一方、ヒッピーの間で「(政府の事業や商品マーケティングなどに使われる)TV放映網やメインフレームは人間の尊厳を犯す絶対悪」という考え方が広まり始める。その一方でパソコンが登場すると、それを「自由の戦士が体制を倒す道具」と考える様になっていく。
こうした複雑怪奇な展開を想像力の赴くままにコラージュしたのが所謂「TV系サイバーパンク運動」だった訳である。全体的にディストピア的だが執筆陣の多くが実際のインターネット技術の進歩についていけず1990年代のうちに(長らく敵対関係にあったハイファンタジー勢と併せ)すっかり淘汰されてしまう。
ところで昭和25年(1950年)段階の空想上のコンピューター(機械脳髄)はまだパンチカードや磁気テープを読み書きしないのである!! その代わり全体的に蒸気機関酩酊て発電所めいた「高電圧制御用非金属製円錐(正式名称不明)」がニョキニョキと生えてる…
#これがデジタル庁だ
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2021年9月3日
手塚治虫先生はこれを昭和25年の大阪で夢想していた! pic.twitter.com/HlthHyVltH
とりあえずメモがてら…