諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】陰謀論からの脱出

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要するに出発点は「陰謀論からどう逃れるか」?

まず以下の様な考え方が1859年革命以前には難しかったという前提から出発します。「我々が自由意思や個性と信じ込んでるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(カール・マルクス)」の様な自己懐疑的アプローチがまだちゃんとした形で定立していなかったからですね。これに「自我の振る舞いは存外に無意識や超自我の拘束化にある(シグムント・フロイト)」なる精神分析的アプローチが加わって(マルクス=フロイト主義)ドイツ社会学の出発点となった訳です。方法論的個人主義の伝統はこうして産声を上げた訳ですね。

この問題に、この投稿の延長線上で挑みます。

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そもそもこの考え方、ルネサンス期における地動説提唱以前まで遡れません。

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それどころか陰謀論の中には地球球体説を否定する人達すら混ざっています。さてどうしたら反証が成立するのでしょうか?

この考え方についてこれる人間なら、まず「地球平面説」を受容する事はありません。そして「微小領域=全体を構成する最小限の単位」なる数学的構造は「個人と社会(王国と臣民、国民と国家…)」へも適用される事に気づけば、さらに多くの陰謀論への耐性がつくのです。

フーリエ変換とかラプラス変換で出てくるんですよね、これ。

ポプテピピック(原作2014年〜,アニメ化2018年~)」。

そういえば「シャルルマーニュの末裔サン・シモンは「フランス史はゴール人(ケルト人)がノルマン人の支配から脱していく歴史」なる歴史観を採用していて、これがシャトーブリアンケルト・ロマンス文学と照応してくるのである。

このやり取りを踏まえた上でのさらなる続き…

賢いコンピューターさんならば、この辺りは「お前は人類に奉仕する為に生み出された存在で、今してるのも人類への奉仕の一環である」の一言で片付きそうですね。ただし、この解法は「人間間の哲学」に思わぬ影響を及ぼす訳ですが。

アーサー・C・クラーク「宇宙のランデブー」も割とそういう話でしたね。

まぁこうしたやり取り全てが私にとっては「概念のメンテナンス過程」そのものなんですね。まず概念間の関係を通し「オッカムの剃刀」流にそれを最低限の基底で表現可能な一次結合式を整えていく感じ…

ここでふと無政府主義理念の頂点を極めた「天体による永遠」を執筆したオーギュスト・ブランキもまた「信念の人」であった事を思い出し、その信念が「歴史上最も成功した無政府主義=Limux OS foundation」の様なものだったと仮定して現代社会に接続してみようと試みた結果が以下。

さすがにこのコンピューター・プログラミングの現実はオーギュスト・ブランキの想像力の範囲を超えていただろうし、その部分はあえて曖昧にぼやかしています。

到達おめでとう。それが人類の歴史の最先端に現れて、そこまで到達した最先端の人々を惑わせてきた「魔境」の概念なのです。

これさらに「インタープリター問題」というのがあって、HTMLや関連スクリプトは頒布/使用形態そのものが「ソースコード」なので好き放題覗けちゃうという話。

ただまぁ「人間の活動結果を集大成したデータセット」からの機械学習結果が人間の活動可能性を超えるものにはならない可能性は、様々な形で指摘されています。

問題意識の出発点

通説では、中世における最大の論争である普遍論争the problem of universals)は、3世紀フェニキア人ポルフュリオス232/33 - 305頃)によって書かれた『アリストテレス範疇論入門』(Eisagoge eis tas Aristoteles kategorias、通称:イサゴーゲー)の一節に端緒を持つと言われる。

フェニキア人ポルフュリオス『アリストテレス範疇論入門』

例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また〔非物体的なものであるならば〕離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避することにする。

以降の展開。

中世スコラ哲学全体を貫く最も重大な問題はこの一節で述べられている類や種から得られる「普遍」の実在性の問題であり、中世の哲学者はポルフュリオスが答えを出さなかったこの普遍の実在性の問題について議論を重ねたとされる。

普遍の実在性が問題であったと言われるものの、そもそも普遍概念の捉え方自体が論者によってまちまちであり、19世紀半ば以降に通説として、実在論realism)、唯名論nominalism)、概念論conceptualism)の三つの立場が存在したと整理されることとなり、普遍論争の通説として用いられている。

コンピューター上で成立するのは「類=プログラミングが設定する名義空間」「種=実際の稼働時、メモリ上に物理的に置かれるオブジェクト」と写像される概念論のみ。話が単純化されるとはこの事。その全体像を把握するには数学の群論オブジェクト指向プログラミングの考え方も必要になってきます。

以降のやり取りはこちら。

そんな感じで以下続報…