要するに出発点は「陰謀論からどう逃れるか」?
まず以下の様な考え方が1859年革命以前には難しかったという前提から出発します。「我々が自由意思や個性と信じ込んでるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(カール・マルクス)」の様な自己懐疑的アプローチがまだちゃんとした形で定立していなかったからですね。これに「自我の振る舞いは存外に無意識や超自我の拘束化にある(シグムント・フロイト)」なる精神分析的アプローチが加わって(マルクス=フロイト主義)ドイツ社会学の出発点となった訳です。方法論的個人主義の伝統はこうして産声を上げた訳ですね。
僕、バイアスって思考の慣性力と横からの圧力みたいなもんで、途中まであってるけど途中から外れる、みたいなことが起こるんじゃあないかって思うんすよね。いきなり認知エラーが起こるっていうより、ちょっとずつ気づかないうちに進路をずらされてく感じ?
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月3日
部分的にあってたりするから他の人と認識をすり合わせて合ってるよな?って思ってても意外と他のところで結構大きくずれてたりとか。なのでそこにどういう力学があってどこからずらされるのか?っていうのは把握する必要があんじゃね?って思う。そんでそれもう500年前にそういうのあるよね俺ら?って
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月3日
言ってたのがベーコンおじさんなんだけど。っていうわけで認知バイアス(イドラってもいうらしいです)を引き起こすものには大きく分けて4つの種類がありますってことだけ覚えて帰って下さい。ってマックでベーコンが言ってた。月見バーガーじゃないです。https://t.co/CRPgbrpbF2
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月3日
そんでこれ思ったけどこの辺をマスターすると最後に「イドラのイドラ」っていうラスボスがでてくるんじゃね?ってちょっと思っちゃった。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月3日
ディープフェイクのイドラ…! https://t.co/xu9hI8Uxp4
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
この問題に、この投稿の延長線上で挑みます。
「円関数e^iθは無限回帰を否定する(ネイピア数が無理数なのでその近似精度に応じてしか回転数が保証されない」なる基本数理の恐ろしさ。そう、かつて正しかった事の全てがそうやってゆっくりと変わっていくのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月3日
でも永劫回帰の末にまた僕らは同じところに戻ってくるんでしょう…?おいらは戻ってこれるのかなあ。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月3日
天文学だと「恒星を回る惑星や、惑星を回る衛星は、究極的には近付きつつあるか、離れつつあるか、あるいは振動(近づいたり離れたりを繰り返している)している」と考えます。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
そもそもこの考え方、ルネサンス期における地動説提唱以前まで遡れません。
それどころか陰謀論者の中には地球球体説を否定する人達すら混ざっています。さてどうしたら反証が成立するのでしょうか?
この考え方についてこれる人間なら、まず「地球平面説」を受容する事はありません。そして「微小領域=全体を構成する最小限の単位」なる数学的構造は「個人と社会(王国と臣民、国民と国家…)」へも適用される事に気づけば、さらに多くの陰謀論への耐性がつくのです。
統計学だと「確率ベクトルのマルコフ連鎖」すなわち分散の無限直積。マルコフ連鎖とは要は「サイコロを振って出目を確定させていく過程」なので、過去の奇跡なら確定的に算出出来るし、未来の可能性もある程度までは予想出来るのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
つまり「永劫回帰」の概念はもはや人間の想像力の中にしか残ってないのですね。それは人類にとって絶望でもあり、かつ希望でもある…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
ただ一応数学には「符号が正の方向の上限が+∞、負の方向の下限が-∞の円状分布」という考え方も出てきます。さてこの円の半径は?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
あー神がサイコロ振らない話だ!!!
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
何しろ「分散は単なる誤差ではない」という考え方が発見されたの自体、20世紀に入ってからですからね。意外と新しい考え方だったりします。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
永劫回帰って、宇宙の有限数の原子が好き勝手に動いた結果、ものすごい確率を全部網羅したところで一番最初の位置にみんな戻ってきて、そこからまたやり直しになるっていう考え方すよね…?僕なんか勘違いしてる…?
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
ビリヤード台の玉がぶつかりあって台の角にもぶつかって跳ね返って、ずっとそれを繰り返した結果、無限大回の試行の末同じ場所に戻ってくる、みたいな?
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
例えばニーチェの永劫回帰に該当する数学的概念は2種類あって、その1個目は統計学における棄無検定における「有意味な値が何も検出出来ない状態」。全てはこれからの逸脱に始まり、それへの回帰によって終わるとも考えられますが、ちとニヒルですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
僕、マツキさんの言うことの中で数学とかの難しい単語は検索してもちゃんとわかったかどうか付け焼き刃なので全然自信ないからトンカチなこと言ってたらごめんなさい。でもニーチェはニヒルすよね!わかる。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
もう一つは、例えばあらゆる生命や社会はこの「無」の状態を逸脱しつつ一定期間相応の安定状態を保つので、その一部分たる微小領域ながら、全体変化に影響を与える自分について考えるという立場。まぁここまでくるとニーチェというより1980年代以降のティモシー・リアリーですが。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
サイバーパンク〜!!!
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
僕、アニメのポプテピピックのラストでアペイロンスポーンによるデコヒーレンスザナドゥで未来が変わる話のとこすごい好きなんすよ!!!
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
なにゆってるか全然わかんないとこが!!!
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
「ポプテピピック(原作2014年〜,アニメ化2018年~)」。
まぁ、言うなれば「攻殻機動隊」で消えゆく人形使いが「それでも何か残す」感じの永劫回帰ですね。実はニーチェ自身は永劫回帰についてあんまり語ってないので、そこまで視野に入れてたかは分かりません。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
ですよね…
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
むしろ永劫回帰は「一揆主義」のオーギュスト・ブランキさんの拠り所だったのが重要で、この系譜がテロリズムの肯定につながっていくんですね。さらに上掲の「統計的無常性」を受容したイタリアの未来派は、産業革命の精神が既存の人間意識を全くの別物に改造すると考えました。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
正反対に見えて同じ系統のニヒリズム。むしろ「それでも残る何か」を模索する立場が「永劫回帰」志向に分類されそうです。まさしくマンハイムいうところの「保守主義的思考」とか、エンルスト・ユンガーの魔術的(英雄的)リアリズムの世界。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
そういえば「シャルルマーニュの末裔」サン・シモンは「フランス史はゴール人(ケルト人)がノルマン人の支配から脱していく歴史」なる歴史観を採用していて、これがシャトーブリアンのケルト・ロマンス文学と照応してくるのである。
あっえっそれはテロを起こしてなんか変化させれば未来が変わるんちゃうん。的な…?でもそれもすでに予定されてたことだったら…?とかは考えなかったのかな。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
というより「如何なる行動にも、特定の意義はない=なら暴れて目立った方が勝ち」といいう考え方が「一揆主義」でテロリズムの正当化となる訳です。ほとんど迷惑系YouTuberの論理ですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
でも科学実験中の科学者も「神様、どうか有意の結果をお与え下さい」とか祈るし、どちらかも本質的には同じ魔物だったりする次第。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
ひとのよわさかな…
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
あれ、これはもう「統計学的虚無」の概念が樹立して以降の考え方。もしかしたら地動説が常識として広まった世界で「天動説に従った考え方」が再体験不可能になった様に、ニーチェやオーギュスト・ブランキの永劫回帰概念も現代では再体験不可能になっちゃった?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月4日
知恵の実はかじっちゃったらもう楽園には戻れないんすね…
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月4日
似た様な投稿を昨年末にもしたので参考まで。https://t.co/5hvkCGWVmA
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月5日
このやり取りを踏まえた上でのさらなる続き…
とりあえず「コンピューターは、その前の電気回路発明にまで遡っても20世紀にしか辿れない」。「その仕組みが全部明らかになってる」辺りでもう、哲学問題の大半が単純化されますよね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月5日
養老孟司さんが「人間は自分の体の中にある仕組み以上のものは作れない。コンピュータも人間の脳の模倣に過ぎない」って言ってたの思い出しました。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月5日
未来はわかんないけど、いまのところコンピュータは僕ら人類の体の一部でしかないんじゃあないでしょうか…僕らはそういう人工物を使ってテクノロジーでもって概念を拡大していくアンドロイドであるっていう感じに考えてました。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月5日
ハサミがつぶらな瞳で「僕いま何を切らされてるんです?」って言ってきたら「うっせえないいから切れよ。」って言っちゃうかもしんない…
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月5日
賢いコンピューターさんならば、この辺りは「お前は人類に奉仕する為に生み出された存在で、今してるのも人類への奉仕の一環である」の一言で片付きそうですね。ただし、この解法は「人間間の哲学」に思わぬ影響を及ぼす訳ですが。
そういえば「タイタンの妖女」って、逆に僕らの全人生をレターオープナーに使われたっていう話だったんだな…?って今ちょっと思いました。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月5日
アーサー・C・クラーク「宇宙のランデブー」も割とそういう話でしたね。
お、沢山の問題提起がきましたね。それなりの時間をかけて一つ一つ検討していきたいと思います。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
あれっほんとですか!?僕、マツキさんの言うこと半分もわかってない予感はしてて、「そういう意味じゃあないんだよ若造が…」って思われてると思った…
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
僕、わけがわかってない自覚はあって、でも遠慮しててもなんもわかんないしなって思ってあえて図々しくやってるところあるんで基本態度が無礼なんですけど、マツキさんとか鳥山さんとかそういう図々しい僕にちゃんと正面から向き合ってくれて感謝してます。あざす!!!
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
いやいや、そもそも昨年末に思いついたばかりの考え方なので、まだまだバグだらけ。こちらこそよろしくお願いします。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
まぁこうしたやり取り全てが私にとっては「概念のメンテナンス過程」そのものなんですね。まず概念間の関係を通し「オッカムの剃刀」流にそれを最低限の基底で表現可能な一次結合式を整えていく感じ…
①まず大前提。私の「コンピューターの側から人間を創造主として俯瞰する」アプローチの大源流は、ある意味デカルトの機械論です。彼は神の創造したこの世界は、以降は原則として自立し自動運行していると考えました。そして「物の世界」と「物自体の世界」を峻別するカントの観念論同様…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
この境界線の壁は、こちらの側からは超えられないと考えたのです。デカルトもカントも実際には無神論者どころか「信念の人」だったのが興味深いところで、むしろ彼らはその制約をあえて受容する事こそが神の概念に近づく第一歩だと考えたのですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
ここでふと無政府主義理念の頂点を極めた「天体による永遠」を執筆したオーギュスト・ブランキもまた「信念の人」であった事を思い出し、その信念が「歴史上最も成功した無政府主義=Limux OS foundation」の様なものだったと仮定して現代社会に接続してみようと試みた結果が以下。
ここではあえて啓蒙主義時代の理神論における「神のこの世界への介入は以降も続いているか?」という話題には踏み込みません。コンピュータ・システムの運用を考えても、それをコンピュータ側から知る手段がないのは明らかなので。そう不具合があって止まったシステムは…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
修正を受けてからの再開後、もうその記憶を残していないのです。まぁ多次元宇宙物でもこういう状況は良く出てきますよね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
さすがにこのコンピューター・プログラミングの現実はオーギュスト・ブランキの想像力の範囲を超えていただろうし、その部分はあえて曖昧にぼやかしています。
で、養老孟司さんの「人間は自らより複雑なシステムは作れない」論は1980年代まで優勢だった第二世代人工知能までの考え方で、1990年代にIBMが純粋数理だけで構築したチェス・マシーン「ビッグブルー」を発表した時点で時代遅れになってしまいました。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
ただ「0と1の間の数値の移動で刺激を検知する」ニューロン・コンピューティングの概念だけは第三世代人工知能にも継承され、現在の「機械学習」ブームがある訳です。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
そうなんすか!僕、いまでもコンピュータの仕組みはヒトの脳のロジックを模倣してるんだと思ってた…!もうまったく違う動きをしてるんすか…?別の生き物って感じ?
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
もはや「人工知能=人間の知性の模倣」と考えなくなっただけで、根底にある数理はそれほど変わらないかもしれません。むしろ「その辺り気にせず、ガンガン数学的合理性が追求される様になった」という辺りがパラダイムシフトだったのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
この件では私自身「第二世代人工知能の理念を信じて裏切られ、現在ゼロから自分の知識を再構成中」という有様なので、あまり大口は叩けません。「第二次人工知能ブーム」で検索すると、本当に山ほど死体の山が見つかりますよ。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
なんだっけえっとバカの壁で、「人間が人間の構造以上のものを作れないのは、自分の体の中にあるもの以上を理解することができないからだ」って言ってて、確かにそれは越えるの無理じゃんなって思ったんですけど違うんや…?
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
もしそうならそのパラダイムをシフトしちゃった人類、かしこすぎひんですか!!!うわーロマン…!
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
どうしよう俺らが神じゃないすか…あがる…瞳孔開いてきた…
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
到達おめでとう。それが人類の歴史の最先端に現れて、そこまで到達した最先端の人々を惑わせてきた「魔境」の概念なのです。
でも確かに真円を僕らは見たことがないのに真円っていう概念を理解できる話とか、僕らの体の中に真円があるわけないよな…ブラックホールもダークマターも僕らの体の中にあるはずがない。なのに理解してる。多分。そっかやっぱ僕らは僕らの中にないことも理解できるのか?いやでもあったらどうしよう。
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
「馬鹿の壁」…ここで思い出すべきはヘヴィサイドさんの「人は消化の原理を知らずとも、食事し消化する」あたりかと。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
「俺らが神?」うんうん、プログラミングする様になると、時々はそういう万能感を感じる瞬間もあります。まぁそれ以外の時間は暴走に次ぐ暴走で、アルゴリズム理解の極限は試行錯誤の連続で、例え動いても何で動いたのかその瞬間には分からなかったりするという。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
もしかしたら、この世界の神による創造もこんな感じ?(今でもこっそりデバッグ中)とか、「深淵を覗く時、深淵の側も等しくお前を見返す」で、プログラム側が死んだ魚の様な目で「我々はこうやって造られてるのか」と呟く様を想像したりとか。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
だとすると僕らの科学が発達するのって、僕らの上位概念としてのプログラマにしてみたら「ソース覗くんじゃねえよやめろ」っていうような…?でも見えるようにできてんじゃん!っていう… | ミズーリ州知事「ウェブページのソース表示はハッキング」。 https://t.co/uFsJTHtTsE
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
これさらに「インタープリター問題」というのがあって、HTMLや関連スクリプトは頒布/使用形態そのものが「元ソースコード」なので好き放題覗けちゃうという話。
人類「神!チャック開いてるよ!!!」
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
神「バベルの塔壊したろ」
ただまぁ「人間の活動結果を集大成したデータセット」からの機械学習結果が人間の活動可能性を超えるものにはならない可能性は、様々な形で指摘されています。
さらに付け加えるとプログラムは設計図、つまり生物でいうと遺伝子の様なもので、実際にメモリ上に置かれるのは(もはや改変不能な)オブジェクトで、役割を終えたら(参照数が0になったら)消される運命。中世の実念論も、こう考えると既に解決済みとも。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
問題意識の出発点
通説では、中世における最大の論争である普遍論争(the problem of universals)は、3世紀にフェニキア人ポルフュリオス(232/33 - 305頃)によって書かれた『アリストテレス範疇論入門』(Eisagoge eis tas Aristoteles kategorias、通称:イサゴーゲー)の一節に端緒を持つと言われる。
例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また〔非物体的なものであるならば〕離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避することにする。
以降の展開。
中世スコラ哲学全体を貫く最も重大な問題はこの一節で述べられている類や種から得られる「普遍」の実在性の問題であり、中世の哲学者はポルフュリオスが答えを出さなかったこの普遍の実在性の問題について議論を重ねたとされる。
普遍の実在性が問題であったと言われるものの、そもそも普遍概念の捉え方自体が論者によってまちまちであり、19世紀半ば以降に通説として、実在論(realism)、唯名論(nominalism)、概念論(conceptualism)の三つの立場が存在したと整理されることとなり、普遍論争の通説として用いられている。
コンピューター上で成立するのは「類=プログラミングが設定する名義空間」「種=実際の稼働時、メモリ上に物理的に置かれるオブジェクト」と写像される概念論のみ。話が単純化されるとはこの事。その全体像を把握するには数学の群論やオブジェクト指向プログラミングの考え方も必要になってきます。
「ソース覗くんじゃねぇ」。禁じられれば、ますます好奇心が高まるのが人間というものですが、なかなか「叡智を増進」とはいかない様です。それに得られる知識は大抵数式や化学式の姿をしてるという。シャンブロー「やっと私の本来の言葉でお話し出来ますわ」…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
本来の姿とおはなししたい!!!
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
やっぱプログラムって僕らの構造そのままではないですか…?いや僕らがプログラムを模された存在…?
— 耕造 construction (@constructuralis) 2022年1月6日
「僕らもプログラム?」…それ、まさに劇場版アニメ「楽園追放(2014年)」に影響を与えたグレッグ・イーガン「順列都市(1994年)」の世界観。「ソードアートオンライン(2001年〜)に影響を与えたJ.P.ホーガン「仮想空間計画(1995年)」と並ぶ…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
「主人公が倦怠期の中年夫婦でなければもっと売れてた筈の、設定だけは秀逸なハードSF」となります。一応、相応の商業的成果は収めたものの、マイケル・クライトン「ジェラシックパーク(1990年)」「ディスクロージャー(1994年)」もやはり主人公が倦怠期の中年夫婦でした。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月6日
以降のやり取りはこちら。
そんな感じで以下続報…