諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代民主制とコスモポリタン精神の起源

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幾つものパラダイムシフトを経た後の後世の価値観で過去の歴史を裁こうとすると、大抵ロクな事になりません。その代表例は「古代ギリシャ・ローマ文明はせっかく民主主義から出発しながら帝政に堕落したので必然的に滅んだ」という考え方。

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 ①そもそも「市民集団同士の直接拮抗が恒常化して絶対権力への盲目的服従欲が完全に視野外に去った(つまり「領主が領土と領民を全人格的に代表する権威主義的体制」からの完全脱却が成立した)」歴史的段階というのは「名誉革命(Glorious Revolution、1688年〜1689年)」以降の英国における「ホイッグ党トーリー党の対峙状態」出現以前まで遡れないとされている。

  • ローマ教皇庁によるイタリア統一の試み、およびそれと時期的に重なる部分もあるフランスとイングランドローマ教皇庁影響圏からの離脱を前史として見る向きもある。

  • さらに視界を広げて「宗教がその信者の全人格的代表権を喪失していく時代」を見てとる向きもあるが、科学実証主義の影響力増大は科学万能主義(Scientism)の暴走をも伴ったのであり、話はそう単純でもなかったりする。しかもこの問題が一応の決着を見たのは20世紀も末に入ってから。

    *ここでは「カソリック普遍史観はスコットランド啓蒙主義経由でマルクスレーニン主義史観に継承されソ連自壊(1991年12月)によって一応の結末を見た」と考える。この時期に最終的パラダイムシフトを引き起こしたのはインターネットの登場だったとも。そう、ルネサンス展開が一連の印刷技術革命と表裏一体の関係を保ちながら進行した様に。

    *「結局は誤謬しか犯さない人間は、万能のコンピューター計算に全てを委ねその主体性を一切放棄すべし」なる極論が「全てを捨てて森に還ろう」なる極論への飛躍を果たしていく20世紀後半の過渡期には「人類史を完全監視下に置いてきた宇宙の真の管理人が絶望している」とか「元来人類は全てを平和裏に裁定する女神信仰に導かれていた」とか「森はそれ自体が巨大な万能コンピューター」とかといったアンチヒューマニズムに基づく共同幻想が次々と量産された。逆に21世紀とは、それからさらに脱却を果たしていく時代なのかもしれない。

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②日本の場合、大政奉還(1867年11月9日)と戊辰戦争(1868年〜1869年)を完遂した政治的勢力のうち幾つかがその後も直接対話を拒絶し続ける。その結果、明治天皇(在位1867年〜 1912年)は政治を回す為に「直接対話を拒絶する)一方の言い分を聞き出して相手側に伝え、その結果得られた答えをフィードバックする」電話交換手の役割を担わされた。実は国際的にはこうした調停役に徹する態度こそが元来の王権の在り方とされ、中世から続いてきた身分制秩序の崩壊期に一時的にそうした原点への回帰を余儀なくされる歴史的段階を「絶対王政(absolute monarchism)」という。
絶対王政/絶対主義

カウツキー(1854~1938 ドイツのマルクス主義者で社会民主党で活躍した)が提唱した階級バランス(均衡)論は、なぜこの時期に絶対王政が出現したか、という問いへの回答として納得のいく説明と捉えられ、現在も一定の収まりの良い説明として行われることもある。身近なところでは山川出版社の世界史B用語集(2013)では、「国王は、没落しつつある封建貴族階層と、力をつけつつあった市民階層のバランスに乗り、官僚制と常備軍を整えて強力に国家統一を進めた。この絶対王政は、中世の身分・社会秩序(中間団体)を維持したまま集権化を進めたことなどから、封建国家の最終段階であり、他方で、国王に主権を集中して一定の領域を一元的に支配する主権国家を形成したことから、近代国家の初期の段階とみなすことができる」としている。

  • フランスではフロンドの乱(La Fronde 1648年〜1653年)が内紛によって自壊した事によって「貴族大連合による統治」の可能性が絶たれ、フランス王室に絶対王政履行のチャンスが回ってきた。逆にルブリン合同(1569年)後のポーランド=リトワニア共和国では貴族大連合側が勝利して「黄金の自由(ラテン語Aurea Libertas、ポーランド語Złota Wolność)」と呼ばれる貴族議会制民主主義体制が樹立される。どちらも不幸な結末を迎えたが、逆をいえば伝統的身分秩序崩壊の危機(見方を変えれば「国民国家到来の靴音」)を体制再建によって回避し、数百年に渡る執行猶予期間を得たが、それを次の展開に生かせなかっただけとも。この考え方は帝政ローマにも当てはまりそうである。
    リトアニア/リトアニア=ポーランド王国
    *まぁそれを言うならイングランドにおける「ジェントリー民主制」も他人事ではなくなってくる。トーリー党が収入制限のない全国民投票に勝利する保守党へと大化けしたのは、あくまで19世紀も第4四半期に入ってからなのだから。

  • 明治政府には華族を中核として「日本のジェントリー階層」を育成する構想なども秘かに練っていた様だが、大日本帝国のあまりにも早回し過ぎる展開には到底追いつかなかった。なにしろ大正デモクラシーの嚆矢とされる第3次桂内閣(1912年〜1913年)倒閣運動では、大正天皇大正天皇詔書を盾に全ての無理を押し通そうとした桂太郎総理大臣が国会議事堂を囲む群衆に「陛下の詔書に頼る形でしか強気になれない卑怯者が、陛下の藩屏の代表者を自称するな」などと詰り倒されて辞職を余儀なくされてしまう。実際の政治的流れとしては米騒動(1918年)鎮圧時の不手際を口実としての寺内内閣(1916年〜1918年)更迭やそれを受けての「平民宰相」原徹内閣(1918年〜1921年)の組閣、第二次護憲運動の標的とされわずか5ヶ月しかもたなかった「最後の超然内閣」清浦内閣(1924年)の総辞職、1928年日本において治安維持法制定とセットで履行されたアジア初の男子普通選挙衆議院第16回総選挙)などの方が重視されるが、とにかく大正天皇(在位1912年〜1926年)の御代には早くも「国主が(直接対話を拒む)政治集団同士の調停役として君臨する」システム自体が機能しなくなっていた。
    *そもそも国主の個人的資質が政治的安定に直結する「絶対王政」なる時代は歴史上「過渡期の点」としてしか存在しない方が普通なのかもしれない。実際、フランス史でもそれが本来の形で機能したのは太陽王ルイ14世(在位1643年〜1715年)の御代だけだったとされる事が多いし、ドイツ史においてもせいぜいドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich、1871年〜1918年)とその関連が論じられるくらい。(議会制民主主義成立の前提となる)国家なる枠内での政治集団の直接対決が常態化すると、たちまち形骸化してしまうのが世の常なのだった。いずれにせよ今日では「王政さえ倒せば勝手に共和制が始まる」なんて楽観論はすっかり過去のものになってしまったとはいえそうである。

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③こうした生々しい民主主義の現実と比較した場合、「古代ギリシャの民主制」なるもの、むしろポーランド・リトワニア共和国の「貴族民主主義」、アパルトヘイト期の南アフリカ、現在のイスラエルにおける「政治的平等」の観念に近い。要するにそれは「軍務負担の平等」を担う支配者側の特権という位置付けで、その力は外敵ばかりか(人権が主張可能な範囲を著しく制限され、反逆の機会を虎視眈々と狙う)被支配民への威圧にも向けられていたのだった。

中学校社会 歴史/古代のギリシャ文明とローマ文明 - Wikibooks

都市国家(ポリス)のうちの一つであるアテネでは、18歳以上の男子の市民による直接民主政治(デモクラチア)が行われた。 いっぽう、ギリシャには、奴隷が多くいた。奴隷は、民主政治には参加できなかった。奴隷は人口の3分の1もいた。民主政治に参加できたのは、市民や兵士などの特権階級だけであった。スパルタなどの、他のポリスでも、似たような市民や兵士という特権階級による民主政治が行われた。

  • ここでは「ギリシャでは商工業が発達して、平民や兵士の力が強くなった」とされるが、実はアケメネス朝ペルシャの覇権が及んだアナトリア半島からの亡命者受容(市民権付与によって誘致)によって(それまでコリントス中心にオリエントとの交易で栄えてきた)ドーリア交易圏を圧倒する工業的・商業的発展を遂げたアテナイでは、当然の反動として(それまでのアテナイに支配階層として君臨してきた)現地農場主と(海商に依存する)新興産業集団の対立が激化。ソロンの理想を継承して最初に両者の「調停」に成功したのは僭主ペイシス卜ラ卜ス(名門門閥貴族出身)だったが、双方の代表者を粛清する独裁体制が長続きする筈もなくシステム整備が進みペリクリスの時代に一つの頂点を迎える。(ペイシス卜ラ卜スの時代に整備された)ラウリオン銀山の産銀に頼った地中海東部の通貨支配や軍曹充実もあってサラミスの海戦(紀元前480年)にこそ勝利したが、それは無産階層たる無数の漕ぎ手の身分引き上げにも繋がった。かくして(レパント交易の覇者であり続ける為に身分を超えた団結感の維持が不可欠となった中世ヴェネツイアにおいて無礼講のカーニヴァルが栄えた様に)アテナイでも(ブドウ栽培を伝えた文化英雄にして航海の神たるデュオニュソスを祀る)ディオニューシア祭が栄え、後世に名を残すギリシャ悲劇もそこで上演されたが、実際に後世に伝えられたデュオニュソスを讃える演目といえばエウリピデスの「バッコスの信女(Bacchae)」くらいで(貴族と平民の結婚が奨励されたヴェネツィア共和国ほど)両階層の融和が上手く進んでいなかった様が見て取れるのである。
    サラミスの海戦
    古代における地下空間の開発と利用
    アテナイ人の国制

  • ましてや以降のアテナイデロス同盟(紀元前478年〜紀元前404年)の軍資金横領によって栄える。「アテナイ的貴族民主主義」がその刃を敵国アケメネス朝ペルシャというより隷属下の同盟国に向けて恫喝した時代。そして、こうした展開への不満から始まったペロポネソス戦争(紀元前431年~404年)に敗れ、あっけなくその最盛期を終焉させてしまう。こうした転落期に数々のギリシャ悲劇の傑作を残したエウリピデスやソポクレスの主題は「女達よ戦争の苦難を耐え忍べ」「恨むなら(敵国コリントスが崇める)アプロディテを恨め」「(敵国たるコリントスやスパルタが半神英雄として崇める)ヘラクレスは(アテナイ人が半神英雄として崇めるテセウスほど立派な人格者じゃない(同じく敵国たるボイオティアの英雄も大概だ)」「民主主義はやっぱり駄目だった。テセウスの様な英雄王こそ待望される」といった具合。ニーチェは心から素直に「アテナイ的貴族民主主義」の無邪気なまでの礼賛を続けたアイスキュロスこそギリシャ悲劇黄金期の体現者とみなし、次第に敗色が濃くなるペロポネソス戦争の最中、それでも厳しい検閲を潜り抜ける形で「人間」を描き続けようとしたエウリピデスを全面否定したが、むしろ当時のアテナイ人はアイスキュロスをこそ「黒歴史」と考えていた様で、その思いはプラトンの哲人王待望論や、アレキサンダー大王の家庭教師を引き受けたアリストテレスの心境へと継承されていく。
    デロス同盟
    ペロポネソス戦争

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    ペリクレスを理想視する「政治的市民」とプラトン「詩人追放論」

    古代アテナイに軍事民主主義の全盛期を顕現させた政治家ペリクレス(紀元前495年?〜紀元前429年)はその名演説でも知られる。

    • 「貧しいことは恥ずべきことではない。しかし、その貧しさから脱しようと努めず、安住することこそ恥ずべきことであるとアテナイ人は考える」

    • アテナイの住民は富を追求する。しかしそれは可能性を保持するためであって、愚かしくも虚栄に酔いしれるためではない」

    • アテナイの住民は私的利益を尊重するが、それは公的利益への関心を高めるためでもある。なぜなら私益追求を目的として培われた能力であっても、公的な活動に応用可能であるからだ」

    • アテナイでは政治に関心を持たない者は市民として意味を持たないものとされる」

    実際には対ペルシア防衛機関として設立されたデロス同盟の同盟基金パルテノン神殿などの公共工事に公然と横流ししてアテナイ市民の懐を潤しつつこれを言ってる。それを原因としてペロポネソス戦争(431年〜404年)が勃発して敗戦と同時にアテナイ全盛期が終わる事を思えば格調高さも半減である。
    デロス同盟の同盟基金…最初はデロス島で第三者が管理していたが、やがてアテナイに移されアテナイ人が管理する様に。

    • 特に最期のがいけない。サルトルの「アンガージュマン(Engagement)」論の様な「市民は何でも政治に結びつけて政争に持ち込んでこそ、その責務を果たす」みたいな粗雑な理論としばしば結びつけて語られてきたからである。
      マンハイムは「進歩主義は平等を目指せるのは(基準のはっきりした)政治と経済の分野だけである(後は放っておくしかない)という立場に立つ」としたが、歴史の何処かの時点でバリエーションとして「人類の平等を達成するには全てを経済化して政治課題に掲げるしかない」みたいな逆転の発想が生じた感がある。
    • こうした考え方とプラトン「国家」の中で語られる「詩人追放論(「神々が姦淫したり、「詩人が称揚するのは人間が酒を飲んだり、悪巧みする様な不道徳な物語ばかりで、こういう話は可能な限り語られるべきではない、ホメーロスはじめ、多くの詩人を我々はポリスから追い払わなければならない」とする極論)」の組み合わせがまた最悪に近い。

    • 「詩人追放論」の背景にあるのは「美には真に正しい一つだけの正解が必ずある」とするイデア論であり、だから「政治性や寓意性や神話性を備えた美の方がそうでない美より正解に近い」とか「正解に近い美術様式だけが尊ばれなければならない」なんて極論に行き着いてしまうのである。

    科学的マルクス主義も、明らかに同種の強迫概念を含む。ホイジンガ「中世の秋」に登場する「全ての体験にキリスト教学的解釈を求める中世的知識人」を連想させる。

  • また上掲の文書に「スパルタは鎖国的な政策をとり、ほかのポリスとの貿易を禁止したので商工業はあまり発達しなかった」とあるが、それは実際の歴史の半分。「スパルタの貴族的民主主義は、なまじペロポネソス戦争に勝利してその経済的繁栄を継承した結果、一瞬で瓦解した」という肝心の部分を省いている。それまでなまじ外側と内側の敵に備えた「政治的(経済的)平等」を絶対的大義としてきたせいで、貨幣市場経済流入によって貧富格差が生じると、たちまち伝統的国制が瓦解してしまったのだった。それ以降もスパルタがドーリア交易圏の盟主として君臨し続けられたのは、ただ単に実際の経済的中心だったコリントスが陸に睨みを効かせる傀儡としてその存在を利用し続けたからに過ぎない。ちなみにそのコリントス共和制ローマに対して徹底抗戦を続け、紀元前146年の焼き打ちによって一旦跡形もなく消滅。ただし紀元前44年に暗殺される直前のユリウス・カエサルが復興し、ローマの解放奴隷が大量入植してギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が住民として混住する交易中心地として復興を果たす。キリスト教受容が早かったのも、そうしたコスモポリタン都市的雰囲気故だったとも。
    ラケダイモン人の国制
    *「貧富格差拡大による伝統的国制の瓦解」…それ自体は元老院制のローマや貴族民主主義制のポーランド・リトワニア共和国の末期にも見られた現象だったが、後者にはさらなる恐るべき続きがあった。第二次世界大戦期(1939年〜1945年)にナチス・ドイツが当該地域を占領下に置くと、伝統的にポーランド・リトワニア貴族から「中間管理職」として領民の不満のガス抜きに利用されてきたユダヤ人の大量虐殺がドイツ本国の何倍もの規模で荒れ狂ったのである。ウクライナやロシアにおけるポグロムユダヤ人迫害)にも同様の図式が存在した。

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  • ギリシャ文明辺境部で成立したマケドニアは、こうしたポリス群と違って最初か(アリストテレスが「当時のギリシャ人が到着し得る最良の結論」とした)王政で、領域国家を安定して営む技術も相応には有していた。しかしアレキサンダー大王の東方遠征(紀元前334年〜紀元前323年)以降はオリエント全体にギリシャ人の建てた諸都市が薄く分布する状態となり、両文明がそれなりに融和するまでに数百年を要した。これがヘレニズム時代(紀元前334年~紀元前30年)で、プトレマイオス朝エジプトのアレクサンドリアにあった研究機関ムセイオンを中心とする自然科学の発展(エラトステネス・アリスタルコス・アルキメデス・エウクレイデス(ユークリッド)などを輩出)、ストア派エピクロス派の様な自制心を重んじる修身哲学、ガンダーラ仏像や華厳経の様な東西融合文化がそこから生み出された。
    *ちなみに今日ではギリシャ芸術代表と目されているミロのヴィーナス、ラオコーン、サモトラケのニケといった写実的でありながら人間美や精神性を持った大理石彫刻が生み出されたのもこの時代。それは(様々な形での文化衝突を引き起こしながらオリエント全域に伝わった)ギリシャ人の「神の照覧を妨げない為に全裸で運動する習慣」と不可分に語れない。
    アレクサンドロス/その東方遠征
    ヘレニズム

    *しかもその遺産はパルティア(紀元前247年頃〜228年)やササン朝ペルシャ226年〜651年)経由でイスラム帝国に伝えられ、欧州はこちら経由でその果実を最初に獲得する事になる。所謂「12世紀ルネサンス」はそうやって勃興した。
    パルティア
    ササン朝ペルシア
    12世紀ルネサンス
    *ちなみに「ヘレニズム時代」なる時代区分を最初に提唱したのは、それをプロイセン王国中心のドイツ統合イデオロギーに結びつけようとしたドイツ人歴史学者ヨハン・グスタフ・ドロイゼン(Johann Gustav Bernhard Droysen、1808年〜1884年)の歴史学、「12世紀ルネサンス」なる概念の起源はウィルソン大統領の政治顧問にしてアメリカ初の欧州中世歴史学者チャールズ・ホーマー・ハスキンズ(Charles Homer Haskins 1870年-1937年)のスイス人文化史学者ブルクハルトのルネサンス論への反証に由来する。アーノルド・J・トインビー「ヘレニズム 一つの文明の歴史(Hellenism、1961年)」はこうした過程で(オリエントの精緻な官僚制に裏付けられた皇帝崇拝理念と巧みに融合した)古代ギリシャ文明の英雄崇拝的側面(人間にしか熱狂出来ない人間中心主義(Humanism))のみが抽出される事になり、それがヒトラー台頭につながったと指摘する。

④一方、共和制ローマを滅ぼしたのは、その領土拡大主義とされる。伝統あるローマ名家出身者で構成される元老院が超越的に君臨し続けるには、当時のローマはあまりにもイタリア半島外に広がりすぎてしまった。そこで各属州の支配者の頂点に皇帝が君臨する帝政への移行を余儀なくされたというのである。
*既にポエニ戦争段階で「カルタゴを滅ぼせば元老院も滅ぶ」という意見が提出されていたが、元老院では「カルタゴ滅ぶべし(Carthago delenda est)」という意見の方が勝ってしまったのだった。ちなみに後者の末裔は概ね帝政への移行期に悲惨な最期を遂げている。
カルタゴ滅ぶべし - Wikipedia

http://www.lets-bible.com/roman_empire/img/02/02b.jpg

*その一方で「グラックス兄弟の改革(紀元前2世紀後半)」は後のフランス革命期(1789年〜1794年)、「バブーフの陰謀(1897年)」などを企んだネオ・ジャコバン派によって理想視され、共産主義思想に原型を与える事になった。その過程で「複数の政治集団による駆け引きの場」という要素が抜け落ち「一党独裁」が大義とされていく。
グラックス兄弟の改革

まぁ、現代の民主主義との比較は到底無理。イングランド、フランス、ドイツの王侯貴族は古代ギリシャ・ローマ文明に強い憧憬心を抱いていましたが、実践倫理としての影響はセネカ経由で知ったエピクロス哲学やストア哲学までしか遡れないとも。

それもこれも16世紀以降、ローマ教会と距離を置くようになった英国やフランスの宮廷が貴族子弟に(カソリック教学への対抗上)セネカ哲学などを叩き込んだせいと考えられています。

*要するにここで鍵となるのは「古代ギリシャ・ローマ文明は欧州文明にどう継承されたのか」という話。

聖書写本

現在発見され保管されている新約聖書の写本は25000点前後にも及ぶ(そのうち56000点前後がギリシャ語版とその断片)。そのうち最古のグループは紀元1世紀初頭から3世紀にかけて。中にはオリジナル執筆から40年〜60年しか経ていないものも。これがどれほど破格な事かは、他の古文書と比較しても明らか。

  • ジュリアス・シーザーガリア戦記(Commentarii de Bello Gallico、紀元前1世紀)」…現存する10件の写本のうち最古のものでもオリジナル執筆より1000年後(要するに10世紀?)

  • プリニウス「博物誌(Naturalis Historia、1世紀)」現存する7件の写本のうち最古のものでもオリジナル執筆より750年後(要するに9世紀?)

  • トゥキュディデス「戦史(History of the Peloponnesian War、紀元前5世紀)」現存する8件の写本のうち最古のものでもオリジナル執筆より1300年後(要するに8世紀?)

  • ヘロドトス「歴史(historiai、紀元前5世紀)」現存する8件の写本のうち最古のものでもオリジナル執筆より1350年後(要するに9世紀?)

  • プラトンの著作(紀元前5世紀〜紀元前4世紀)現存する7件の写本のうち最古のものでもオリジナル執筆より1300年後(要するに8世紀〜9世紀?)

  • タキトゥスの歴史書(1世紀)」現存する20件の写本のうち最古のものでもオリジナル執筆より1000年後(11世紀?)

さらに神学者F.F.ブルースはこう述べる。

  • 写本が二番目に良く保存されている古典文学はホメロスイーリアス(Iliad、紀元前8世紀成立。紀元前6世紀後半のアテナイで文字化され、紀元前2世紀のアレキサンドリアでほぼ今日の形に編纂された)」で643件発見されているが、新約聖書写本の相違点が20000行のうち40行未満(全体の1%未満、そのうち最大11行について2世紀から3世紀にかけて教会が再配列した可能性が指摘されている)なのと比べると、15600行のうち764行(全体の5%)の真偽が問われている。

  • 紀元1600年代にウィリアム・シェイクスピアが執筆した37の戯曲の原本はどれも見つかっていない。 

これだけ内容の完全性が保たれている古代写本は他にない。
*大元のユダヤ教の影響とも。

そういえばもう一つ気になる単語が出てきました。

コスモポリタニズム(cosmopolitanism)

全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義・世界主義とも呼ばれる。コスモポリタニズムに賛同する人々をコスモポリタン(訳語は地球市民)と呼ぶ。

  • 古代ギリシャディオゲネスが初めて唱えた。その背景にはポリスの衰退により「ポリス中心主義」が廃れたこととアレクサンドロス3世(大王)の世界帝国構想があった。
    ディオゲネス
    犬儒派について

  • その後のストア哲学では禁欲とともにコスモポリタニズムを挙げて人間の理性に沿った生き方を説いた。
    世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
    *「アレクサンドリアの世界帝国によってギリシャ都市文化は中央アジアまで広まり、共通ギリシャ語(コイネー)が東地中海の広い地域で使用さ れ、 ギリシャとオリエントという当時の西洋の二大文明が融合してヘレニズム文化が生まれた。この文化的土壌の中でスパルタ人やアテネ人、ペルシャ人、テーバイ 人などと別れていた人類はだんだんと混淆し始める。こうして東地中海・オリエントにおいてコスモポリタンな世界ができあがってくる。「コスモ ポリタン」と言ってしまえば聞こえはいいが、実際は混沌と混乱の世界である。そこでストア派のゼノンらは、ポリス(都市国家)のそれぞれの慣習法(ノモス)に従うよ りも、世界的な自然法であるロゴス(理性)によって定められた世界共通の法に従って生きるのた方が良い、という思想を唱えた。これが系統立て られた世界市民(コスモポリテース)の思想の端緒である。自分 の国に他者である異国人が増えてきた。そして彼らが自分の国の慣習法に従わない。そこで「ならば彼らを追い出そう、迫害しよう」と発想になるのではな く、今までのその国だけで通用してきた慣習法をやめて、普遍的な自然法に解決の道を 見出す、という発想だ。ストア派のロゴスの考えはこの世界が一体化しつつあったヘレニズムという時代 が求めていた思想であるといえる」
  • 近代ではカントが穏健なコスモポリタニズム的思想を打ち出した。
    世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo

    *「カントは「永遠平和のために」の中で「自然の意図のようなものがないか、 を調べるしかなくなるのである。人間という被造物が、固有の計画を推進していないとしても、ある自然の意図にしたがった歴史というものを考えることはできないだろうか」と問題提起している。そして自然の意図に従うならば、人類の理性は永遠平和を希求している。その永遠平和を達成するために国際的な平和連合を設立しなければならないと主張している。なぜなら人間の素質を人間が発展させて利用するには、発展のための仕事を人間ひとりひとりの個人では なく、人類という世界的な次元で行う他はない。というのは人間という生物の寿命が自分の素質を理解するには短か過ぎるので、個人が途中まで行った理性の仕事を人類が共有して何世代にも渡って継承し、完成させていかなければ理性は発展してはいかないと考えたからだ。ストア派のように世界的で普遍的な理性があるから全人類はそれに従わなければならない、とするのではなく、人間の中にある素質をお互いに発展させ合うために国際的な国家の連合体を作ろうとしたのだった。これはカントの、人間が互いを人格としてとらえて扱うことで互いの人格を目的として高めあっていくという「目的の王国」と近い思想なのかもしれない」

    *ここからジョン・スチュアート・ミルが「自由論(1859年)」で展開した「国家権力に対する諸個人の自由は、他人に実害を与える場合のみしか妨げられるべきではない。なぜならば文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないからである」までは一直線とも。

  • コスモポリタニズムの発展的・急進的形態として世界国家構想が挙げられる。これは「人種・言語の差を乗り越えた世界平和には全ての国家を統合した世界国家を建設すべきである」という考え方に立って主張されたものである。現在においてこの構想に似た理想を掲げている組織はEUだが、EUはあくまでヨーロッパ圏内の統合を目指すものとされており、世界国家或いは世界政府を志向するものではない。
    世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo

    *「歴史上の世界市民コスモポリタン)は「郷土を喪失した人間」であった。中には望んでそうなった者もいるが、多くの コスモポリタンは自分の望まぬ理由や、やむにやまれぬ事情によりコスモポリタンとなっている。なるほど「私は世界市民です」という言葉に人は何かしら憧れを抱かざるをえない。その憧れはその人が負っているだろう世界と言うものの広大さとその自由さ、そして自足できる逞しさに由来する。しかし実際はコス モポリタンとは祖国や都市、共同体、暖かい囲炉裏を失った悲しさや寂しさを胸内に秘めた人間のことであった。国家や共同体、家族の中でぬくぬくと育った人 間が望んでなるような生き方ではなかったのだ…(逆に)シェイクスピアの劇の舞台はどこであったのだろうか? デンマークヴェニスヴェローナスコットランドアテネ、ローマそのほとんどがイングランドでは無かった。それでも彼は 英文学 を代表する作家である。小説や物語 の題材がたとえコスモポリタンなものや外国のものであってもその作家が優れた作家であれば、小説はその記述言語の共同体の特徴を出す、というのがボルヘスの主張である。村上春樹の小説は日本が主な 舞台だが、日本を際立たせるもの(寿司、富士山、桜、芸者、着物)はほとんど出てこない。彼が題材にするのはアメリカ連合州の音楽や文化、小説であり、彼の本は世界の多くの国で読まれている。しかしだからといって村上春樹コスモポリタンな作家とは思えない。彼はあくまでも日本的過ぎるくらいに日本的な作家である。コスモポリ タンな小説というのは真に土着的な文学なのである。

    シェイクスピアは史劇の世界では思いっ切り当時のイングランド人の愛国史観に迎合したので、心を自由に遊ばせるには国外を舞台に選ばざるを得なかったとも。そして最終的には土着的な田園喜劇の世界に到着する。

    *日本文学についてはむしろ「瓶詰地獄(1928年)」「死後の恋(1928年)」といった夢野久作幻想小説、「聖アレキセイ寺院の惨劇(1933年)」「失楽園殺人事件(1934年)」「黒死館殺人事件(1934年〜1935)」といった小栗虫太郎(1901年〜1946年)の衒学的推理小説や秘境での冒険を描いた「人外魔境シリーズ」を異国情緒あふれる日本的コスモポリタニズム小説として挙げるべきなのかもしれない。軍国主義台頭を背景に当時の日本文学青年達は「自分たちの見知った日本の消失」にある種のメランコリズムを覚えていたとも。当時の幻想範囲は大日本帝国帝国主義的展開の拘束下にあったが、その反動か戦後は中東や中央アジアや南米などに向かう。宮崎駿風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」。五十嵐大介「魔女(2003年〜2005年)」「海獣の子供(2006年〜2011年)」。そういえば「海外脱出した新左翼運動家が国際謀略の世界において日本人を代表して戦う」船戸与一のハードボイルド小説の舞台もまた南米・中東・アフリカなどだった。

  • 第二次世界大戦後のアメリカ合衆国グローバリズムを掲げて世界各国に政治的・軍事的に介入をしており、事実上世界政治に最も実行力を持つ政府である。しかし伝統的にはモンロー主義に代表される内向き・地域主義志向が強く、第一次世界大戦モンロー主義から脱却した後も孤立主義的行動をしばしば採っている。それに対し、過去最もコスモポリタニズムを指向した国家はソビエト連邦といわれる。ロシア革命を起こしたボリシェヴィキは、ロシア革命を世界革命の発端として考えていた。しかし、ソ連が期待していた西欧諸国での革命は起こらず、ソ連スターリンが実権を握った後は一国社会主義に傾き、コスモポリタニズム的な世界革命論を唱えたトロツキーは追放された。
    *トロッキズムは1930年代にアメリカ共産党に加盟した「ニューヨーク知識人」経由でネオコン(Neoconservatism、新保守主義)に継承され、1970年代から独自の発展をして主に共和党政権時のタカ派外交政策姿勢に非常に大きな影響を与えたとも考えられている。
  • 帝国主義もある意味では世界国家を目指す動きであるともいえる。帝国主義はしばしば普遍的理想を掲げるが、その統合のやり方が「世界の人々を同胞として捉える」のではなく、特定(当該国)の国家や民族が絶対的優位に立ち、自国は他国をも膝下に統べる資格があると唱える統合であるため、通常コスモポリタニズムとは呼ばない。

    *「中華王朝の文明観」や「フランス中心主義」もこれにカウントされる?

しばしば誤解されるが、アナキズムと同一ではない。アナキズムが政府を否定する考え方なのに対し、コスモポリタニズムは国家や政府の存在を肯定している。
*要するに(国家存続に汲々とする帝国主義は、究極的には移民流入による国家解体を防ぎ切れないとする)ネグリマルチチュード論はコスモポリタニズムではない?

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 そういえば高橋留美子うる星やつら(1978年〜1987年)」に「食べたいと願ったものが何でも転送されてくる鍋」が登場する回がありました。ただし複数の人間が一斉に違った食べ物を思い浮かべるので何度やっても壮絶な闇鍋にしかならず、誰も何も食べられない…藤子不二雄「どらえもん(原作1969年〜1996年)」に類話がありそうでないのは、この問題に無理矢理決着をつけようとすると「独裁スイッチ」より恐ろしい結論にしか到達しえなかったからかもしれません。曰く「みんなが一斉に同じものだけ願う様になればいい」、曰く「変な事を考える奴をどんどん除去していけばよい」…このジレンマもまた1980年代の置き土産の一つとも。