諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

英国のジェントルマン資本主義

そもそもマルクスはロンドンに住んで「下部構造(生産手段)が上部構造(支配階層)を規定する」「欧州で最初に革命が起こるのはイギリスである」と断言しながらイギリスにおける下部構造と上部階層の変遷をちっとも分析してない。

それではその間、上部構造の方はどう変遷してきたのだろうか。

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なんとジェントルマン(Gentleman)階層のみ。それが英国だ?

 英国における産業開発の特徴は伝統的に「新しい産業は常に新しい人脈が手掛けてきた」点にある。その一方で経済的に成功すると叙勲されれたり政略結婚で絡め取られたりして、たちまちジェントリー仲間に加えられてしまうから階級的矛盾が発生する余地がない。「保守主義の父」エドマンド・バーク(Edmund Burke、1729年〜1797年)も「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中で「フランスで革命が起こったのは、成功したブルジョワを貴族に引き上げず放置しておいたからだ」と断言している。

そう、まさしくジェーン・オスティン(Jane Austen 1775年〜1817年)の田園小説やトマス・ハーディ(Thomas Hardy OM, 1840年〜1928年)「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」の世界。これらの作品ではランティエ(Rentier、地税生活者)たるジェントルマンは狩猟大会や舞踏会ばかり開催してるイメージがあるが、それには裏があって「よからぬ大陸思想への感染者の炙り出し」が密かに遂行されているという(実際に本編中にそういう描写が出てくる)。

そしてジェントルマン階層淑女の金科玉条に相当すると思われる「ジェーン・オスティンのラブコメ三原則」はダーウィンの「性淘汰(Sex Selection)」理論そのままの引き写しだったりする。

その一方で英国ロマン主義におけるタナトス(Thanatos=死への誘惑)は「アラビアのロレンス」や「ギリシャ独立戦争に参加したバイロン卿」を自殺行為に追い込んだが、自殺に追い込まれた例をとっさに思いつけなかったりもする。

それではジェントルマンとは何ぞや?

ジェントルマン (Gentleman)

地主貴族を核とするイギリスの名望家。16世紀から20世紀初頭にかけての実質的なイギリスの支配階級であった。イギリス近代におけるエリートであると同時に名士として尊敬を集める存在であり、独自のコミュニティを背景に政治や社会に大きな影響力をもった。 

世襲爵位を有する少数の貴族(17世紀には200家足らず、19世紀初頭で500家ほど)と、身分上は庶民である大地主層ジェントリ(17世紀で2万家程度)を中核とし、経済活動の活発化に伴って興隆した中流階級を随時取り込む形でその境界を広げながら支配体制の温存を図ってきた(17世紀で全人口の5%程度)。

疑似ジェントルマン…本来は不労所得者である地主貴族層(つまり貴族とジェントリ)を指す言葉であったが、時代を経るにつれて、地主以外の上位中産階級に属する職業にも「ジェントルマン」とみなされるものが出てきた。かれらは大学教育等のしかるべき教育や専門的訓練を必要とするプロフェッション(専門職)と呼ばれる職種の従事者で、高級官吏、政治家、将校、医師(内科医)、法律家(弁護士)、国教会聖職者、貿易商などがこれに含まれる。こうした職種に就く人にはジェントルマン階層出身者で家督を継げない二男坊・三男坊が多く、かれらは大地主になれずともジェントルマンとしての面目を保とうとしたのである。本来のジェントルマンとそうでない人々の間のグレーゾーンに位置する為に疑似ジェントルマンと呼ばれる事もある。

これらには建前上、自己の利益のため(だけ)に労働するのではない、あるいは社会のために奉仕する職業と考えられていたという共通点がある。

形容詞としての「ジェントルマン」…「家柄」や「出自」とともに身につけた「教養」や「徳性」(道徳性)といった要素がジェントルマンの条件とされたため、「紳士的な」人物に対しての形容として用いられることもある。

その語源

"gentle"はラテン語の"gentilis"に由来する。"gentilis"はもともと「同じゲンス(氏族:gens)に属する」という意味で、これから派生したフランス語の gentil と英語の gentle は「優しい」「親切」といった意味で使われるが、古くは「高貴な」という意味の形容詞として使われた。

つまり"gentleman"とは本来「高貴な人物」「家柄のよい人」といった意味合いで使われる言葉で、ジェントリの同義語として使われることもあれば、貴族とジェントリの総称として扱われることもある。

その歴史

ワット・タイラーの乱(Wat Tyler's Rebellion、1381年)の指導者の一人であるジョン・ボール神父は「アダムが耕し、イブが紡いだ頃、誰がジェントルマンだったのか?(When Adam delved and Eve span, Who was then the gentleman?)」と叫んでいる。14世紀段階では「gentleman=領主」だったのである。
思考停止こそ歴史的悲劇の源泉(18世紀) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

貴族とジェントリは両者とも16世紀前半にはすでにジェントルマンとして認識されており、上級と下級のジェントルマンという区分がなされていた。

テューダー朝以前のジェントリは貴族の私的な封建家臣団を形成することが多く、貴族とジェントリの間には大きな格差が存在したが、薔薇戦争による疲弊で貴族が勢力を大きく減じた事、テューダー朝期にジェントリ層が積極的に登用されたことによって格差が確実に縮小。そもそも両者は生活スタイルや文化の点で近く、称号と貴族院議席以外に特権上の差もなかったため、通婚が進み、単一の地主貴族層を形成した。
*「薔薇戦争」後に「諸藩」より「旗本」が重視される様になった感じ?

*実はチューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王1485年〜1603年、アイルランド王1541年〜1603年)がジェントリー階層を大量抜擢したのも経済状態悪化のせいとする立場がある。スペインとの和平が成立してしまったので私掠行為で稼げなくなり、薔薇戦争後に取り潰した王侯貴族や宗教革命を口実に修道院から没収した土地を切り売りする事でしのいだとする説。とはいえ逆に「ジェントリー階層に売り渡す土地を確保する為にせっせと没収を続けた」という考え方もあるのでこの辺りは微妙。フランスでも都市の大商人などが君主に献金などを行う見返りに貴族の称号を下賜されて法服貴族(Noblesse de robe)となり(ポーレット税を支払うことによって世襲可能であり、実際1789年にはほとんどの法服貴族が自身の地位を相続によって得ていた)、売官制に基づいて高等法院(Parlement)などを牛耳っていたが彼らの忠誠心は英国のジェントリー階層や日本の庶民ほど当てにできなかった。どうしてこの違いが生じたのかが興味深い。

また本来ジェントルマンは土地に立脚した不労所得者であったが、16世紀中頃には国教会聖職者、高級官僚、士官などといった一部職業がジェントルマン的な職業と認められている。これらの職業は社会あるいは国王と王国に奉仕するものと考えられ、また、土地や財産を相続することのできない、地主の次男・三男が生きるために就いた職業でもあった。これらの職は人脈や経済力、大学教育などが職を得る際に必要であったため、ジェントルマン階層出身者と富裕な市民階層以外には就くことが難しかったのである。

イギリスの「貴族制」の最大の特徴は上層部(爵位貴族)への接近が閉ざされていたのに対し、土地を購入することによって下層部(ジェントリ)となる途が開かれていたことにある。商業革命などの結果、経済活動が活発になり、中流階級の中から突出した富裕者が出るようになると、彼らは経済的な成功に加え社会的な名誉を欲するようになり、土地を購入することでジェントルマンの仲間入りを果たそうとした。貿易商人や銀行家などは本人は働かないという点でジェントルマンに生活スタイルが近かったため、比較的容易にジェントルマンとして迎え入れられた。その後、イギリス帝国の拡大とともに富裕な中流階級も増大するが、彼らも同様に土地購入、ジェントリ化という途を望む。

他の西ヨーロッパ諸国では政治エリートとしての貴族が衰退していったが、勃興する中流階級上層部を体制内に取り込み続けるイギリスでは、ジェントルマンによる支配体制が20世紀まで温存されることとなった。


ジェントルマンも働かなければならないほど貧しくなればジェントルマンではなくなる。次男や三男には常にこの危惧があったが、彼らの受け皿となり、ジェントルマン支配の安全弁となったのが植民地であった。彼らは植民地に行って現地の高級官僚になるか、農園の経営か貿易で成功するかということによってジェントルマンの地位を確保した。またジェントルマンでない若者も、野心を持って植民地に渡り成功してジェントルマンになると言う途があった。

「砂糖王」と「煙草貴族」は何が違った? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

その教育

 上層中流階級のジェントルマン化が進むにつれ、ジェントルマンと非ジェントルマンの境界条件も変化した。土地や不労所得者という要素は必要条件から、むしろある種の理想像といえる位置づけになり、ジェントルマンをジェントルマンたらしめる決定的な要素は教育となる。その結果、ジェントルマンとして必要な下地はパブリックスクールからオックスブリッジに至る教育課程で培われると考えられる様になった。

ジェントルマンの美徳として教養を重視する立場は16世紀まで遡ることができるが、これは15世紀末にイタリアから輸入された人文主義の影響もあり、ジェントリが武芸に秀で伝統的権威を持っていた貴族に対抗する上で教養が必要になったためである。

トマス・エリオットは『為政者の書』を著し、ギリシア・ローマ的な西洋古典教養を備え、地方行政を担うことのできる人物を理想のジェントルマンとして描いている。その後、中央集権化が進むにつれ、ジェントルマンは地方行政のみならず、中央の宮廷においても重視されるようになるが、そのような情勢の変化に合わせて、求められるジェントルマン像も変化した。1561年に翻訳されたバルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』は、古典教養に加え、音楽、詩、舞踏、作法、礼節などさらに広い領域における知識と素養を求めている。

このような「必須科目」は家庭教師から教わるのみならず、オックスブリッジでも習得された。両大学は中世では聖職者の人材育成の場としての性格をもっていたが、ヘンリー8世エリザベス1世によって、教会の勢力を削いで宮廷に人材を供給するべく古代ギリシャ。ローマ時代の古典研究の重視に方針転換された。

養成機関としての役割自体は残るが、オックスブリッジから宮廷へ、というルートが確立されたことによって、聖俗両方の上部構造が両大学出身者によって占められることとなり、社会の上層に広がるジェントルマンの共同体が形成された。大学教育によるジェントルマンの選別という方法は新参者を共同体から排除する働きをした一方で、新参者本人はジェントルマンと認められなくとも、子や孫の代でのジェントルマン化に途を拓くものであった。
*まさしくハリー・ポッター・シリーズの世界?

特に、イギリス帝国の拡大に伴い、新規に中流階級出身のジェントルマンが増えた19世紀には、土地の取得に代わるジェントルマン化の方法として活用された。

ジェントルマン資本主義(gentlemanly capitalism、金融サーヴィスへの移行)

地主貴族以外のジェントルマンが増加しても依然として土地はジェントルマンにとって重要な要素であり続けた。土地に立脚した生活がジェントルマンとしての理想であったこともあるが、ナポレオン戦争以後、穀物法によって穀物価格は高値で維持され、土地からの収益が温存されていたためでもある。

19世紀半ばに穀物法が廃止された。

①イギリスでは中世末期から穀物の輸入を規制する法律があったが、1815年ナポレオン戦争終結の際、地主が優勢だった議会は戦後も穀価を高く維持するため、国内価格が1クォーター80シリングに達するまで外国産小麦の輸入を禁止する穀物法を定めた(その後、穀価の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められる。

②1819年8月には、マンチェスターのセント・ピーター広場で穀物法の撤廃と議会改革をもとめる人々が市当局に殺害された「ピータールーの虐殺」が勃発。この街は次第に「(西インド諸島の砂糖農園関係者を含む)関税庇護を求める守旧派地主層」と対立する政治改革運動の中心になっていく。それに連想する形で公的教育機関の発展もみられた。

マンチェスターでコブデン、ブライトらが1839年反穀物法同盟を組織してからは産業資本家層が中心となって激しい運動を展開。1846年にはピール内閣により穀物法廃止が行われた。
*産業資本家が穀物法に反対した背景としては、当時、工場労働者の賃金は最低限の生活費が基準になっており、穀物価格の高騰は賃金水準の上昇を意味していた事が挙げられる。特に当時のイギリスにおいては長期に渡る保護貿易の結果として大陸に比べ穀物価格が高くなっており、安価な穀物の供給により賃金の引き下げを狙う産業資本家と単純に安価なパンを求める労働者は、穀物法廃止という点について利害の一致をみていた。

穀物法廃止は航海法撤廃とともに保護貿易から自由貿易主義への転換点であり、かつては地主貴族に対する産業資本家の輝かしい勝利であるとされたが、南部地主貴族・金融サーヴィス資本の北部産業資本に対する一貫した優位という見地が一般化した現在では、一定の勝利である事は疑いないものの、むしろ独立した階級として勢力を形成しつつあった労働者階級の取り込みを図ったものでもあると考えられている。産業革命の進展は一方ではスラムなどの深刻な都市問題を引き起こし労働者達の怒りは頂点に達していた。ドイツのフリードリヒ・エンゲルスが「イギリスにおける労働者階級の状態」を著したのも、この街に2年ほど滞留した経験に基づいたものである。

それでもなおイギリス農業は農業技術の進歩とともに「黄金期」と呼ばれる空前の繁栄期を迎える。輸送手段の遅れからロシアや東欧が地主支配体制への直接的な打撃となる事はなかったからである。しかし水面下では、現実的な影響はなくとも穀物法廃止に不安を覚えたジェントルマンたちは少しずつ金融サーヴィスへ重心を移し始めていた。

その後、続く農業生産の増加から穀物価格は低下を始め、農業分野での利益率の低下から、金融サーヴィスに新たな財源を求めるジェントルマンはますます増加した。これらの新たな富の源泉となった分野は「ジェントルマン資本主義」と呼ばれる。具体的にはシティを中心とした銀行・証券などの金融資本、公式・非公式を問わず帝国内での人・モノの移動を支える流通分野、および未だ危険の残っていた帝国内での経済活動の安全を担保する保険分野などである。これらはイギリス帝国の拡大に伴って発展し、19世紀末には土地に代わるジェントルマンの主要な財源となった。

「ウォーラーステインの世界システム論」とマクニールの「世界システム」論の狭間 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

ジェントルマンの現在

イギリスは今でも身分制度が残存している国であり、20世紀末まで爵位貴族は身分制度の名残である貴族院の議員資格を有していたが、20世紀末の議院改革で世襲族議員は大幅に減数された。

社会階層としてのジェントルマンを構成したのは上流階級(アッパークラス)および上層中流階級(アッパーミドルクラス)であったが、2013年に行われたBBCのイギリス階級調査(英語版)では、上位6%を占める経済的・社会的富裕層はエリート (Elite class) という新たな分類に入れられた。

世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

奴隷貿易の利潤が、工業化には向かわず、土地投資に向かったという批判もある。「 地主=ジェントルマン」を至上とした、当時のイギリス社会に特徴的な権威の体系から して、当然予想されることである。しかし、まさしく、P・ケインとA・G・ホプキンズがいうように、イギリス資本主義は地主と金融業者を軸とする「ジェントルマン資本主義」そのものであったことも事実なのだから、それが資本主義の発展に寄与せず、むしろ阻害要因であったというのは当たっていない。
思考停止こそ歴史的悲劇の源泉(18世紀) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

 

ジェントルマン資本主義の帝国(池田信夫Blog)

P.J. ケイン (著), A.G. ホプキンズ (著)ジェントルマン資本主義の帝国
本書の推計によれば、1860~79年のイギリスの非農業部門のGDPのうち製造業は36.7%で、金融が32.5%、商業が23.5%だった。この比率は19世紀を通じてほとんど変わらず、20世紀には製造業の比率は10%台まで低下した。「産業資本主義」を製造業の比重がサービス業より高い資本主義と定義すれば、イギリスは一度も産業資本主義だったことはなく、その主役は大地主や銀行家などのジェントルマンだった。

教科書では「インドから輸入した綿花をイギリスで綿織物に加工して輸出した」と教えるが、これも逆である。綿織物はインドからの輸入品で、イギリスはその中継貿易で利益を上げた。18世紀なかばには輸出額の40%がインド産の綿織物であり、イギリス経済を支えたのは、インドから輸入した綿織物を西アフリカで奴隷と交換して北米に輸出する奴隷貿易だった。

イギリスで一貫して主要な産業だったのは、金融と商業である。特に国際的な貿易や投資は早くから発達し、19世紀初めには所得収支の黒字が貿易赤字を上回り、1851~75年には貿易収支が5100万ポンドの赤字だったのに対して、海運収支が3500万ポンド、海外投資収入が2600万ポンドの黒字だった。イギリスは日本より200年前に、貿易立国を卒業したのだ。

このように投資収入(所得収支)がメインになると、国益にとって重要なのはポンドの価値を維持することだ。しかし第1次大戦後、基軸通貨の地位をドルに奪われ、1930年代の大恐慌でポンドは最終的に基軸通貨の地位を失った。ポンドの下落とともに、イギリス経済は没落した

テューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王統1485年〜1603年、アイルランド王統1541年〜1603年)はジェントルマン階層形成期に大きな役割を果たし、ステュアート朝(Stuart dynasty/Stewart dynasty、スコットランド王統1371年〜1714年、イングランド王統1603年〜1707年、グレートブリテン王統1707年〜1714年)への抵抗運動を準備した。

そういえばジェントリーは第一次囲い込み(16世紀)の主導者層であり、ホイッグ党(Whig Party)設立時の主要メンバーでもあった(ライバルのトーリー党(Tory Party)は旧貴族中心)。

そして第二次囲い込み(18世紀)がこの流れを加速させる。

1603年のエリザベス1世の死去によりテューダー家の血統が絶え、ステュアート朝時代(第一次:1603-49。第二次:1660-1714)を迎える。イギリスは17世紀末においても大半が農村人口で占められていたが、西ヨーロッパの基本農法であった三圃制は、イングランド東部のノーフォーク州において新たな農法にとって変わることとなった。第2代チャールズ=タウンゼンド子爵(1674-1738。子爵位1687-1738)の尽力によって普及に成功したと言われる。

ノーフォーク農法と名付けられたこの農法は、三圃制にみられた休耕地の時期がなく、4年収期で同一耕地に大麦→クローバー→小麦→根菜のカブの順に輪作するやり方である。クローバーとカブは牧草として家畜の飼料となった。

三圃制では冬季に牧草や穀物などの家畜飼料が不足すると家畜の飼育が困難となり、冬ごしらえとして家畜を屠殺する必要がある上、休耕地を放牧に使用し、その糞尿で肥料を蓄えて地味の維持につとめていた。一方のノーフォーク農法では土地を休める休耕地の必要性がないことと、牧草が不足する冬季において、冬の寒さに強いカブを飼料として栽培することで、1年を通じての飼育と穀物生産が可能となり、18世紀には生産量が激増した。これによってタウンゼンド子爵は"カブのタウンゼンド"と言われるようになった。ちなみにタウンゼンド子爵の孫のチャールズ=タウンゼンド(祖父と同名。1725-67)はアメリカ独立問題で財務大臣を任され、タウンゼンド諸法令を発した人物でも知られている。

18世紀、ステュアート朝が断絶し、ハノーヴァー朝時代(1714-1901)が到来した。三圃制からノーフォーク農法にとって代わった農業の大革新は、人口激増をもたらし、さらなる食料増産に向けて次の段階に移った。折しも18世紀の半ばはイギリスで興った産業革命期への突入もあり、人口激増に乗じて穀物も大量に消費されたため、穀物価格が高騰した。こうした状況から、ノーフォーク農法を奨励した議会と政府が、合法的に農地の囲い込みを認めたのである。合法的に行われることとなった囲い込みは、第一次囲い込みと同様、地主階級や富農を中心に開放耕地を柵や生け垣で囲んだ(第二次囲い込み。第二次エンクロージャー)。第一次囲い込みを凌ぐ広範囲で行われたが、第一次囲い込みは牧羊のために労働力が不必要となったため、多くの小作農民が離村する危機的状況を生み出したのに対し、今回の囲い込みはあくまでも食料増産による耕作目的のため労働力は必要であり、放牧に使う共有地などがなくなって生活の変質を遂げた農民は存在したものの、失職者や失地農は第一次ほど発生しなかったとされている。

これにより、ジェントリら地主階級が大土地を所有する形態となり、農村共同体を形成したヨーマンの三圃制経営は衰退していくと同時に、ヨーマン上層部はジェントリ階級やマニュファクチュア経営者に昇格する一方で、下層部は失地身分となって賃金労働者となっていき、階級が両極分解していった。耕地を独占した地主階層の大規模化、農業に携わる労働者の賃金労働者化に加え、そして農地を借りて食料生産経営を行う経営者、つまり資本家階層が生まれる、新しい農村社会に移行することになる。こうして、地主から土地を借りた資本家が労働者を雇い入れて農業生産を行う構図は農業における資本主義化にほかならない。

イギリス東部のノーフォークで始まったこの一連の農業の改良は農業革命と呼ばれ、食料生産が飛躍的に伸び、人口増加と経済成長を支えた。労働者階級の増加によって、農業だけでなく諸産業も発展を遂げ、歴史的な工業化、つまり産業革命がさらに促進されることとなる。

 「現在でも、産業や金融で成功した英国人の理想のゴールは、地方に土地を取得してカントリージェントルマンになること」という辺りが痺れる。

英国のジェントルマンについて

オランダでは各都市を牛耳りながら(次第に絶対王政性を強めていく)ナッソー=オラニエ家に対抗したブルジョワ貴族層が経済的繁栄の鍵を握ったが、イギリスではジェントルマン階層がこの役割を担ったとも。

そして、最近話題の…

ピューリタン・ジェントリー論

ただしマンチェスター出身の資産家がどう振る舞うかは不明?

もしかしたらこれ、江戸幕藩体制が見事に運営に失敗した「旗本制度」の成功例だったんじゃないですかね?

こういう側面において英国史と日本史の比較は興味深い?