この世には鳥類にパケットを運ばせる通信プロトコルが存在する様です
鳥類キャリアによるIP(IP over Avian Carriers, IPoAC、RFC 1149、1990年)
2001年にノルウェーのLinuxユーザーグループでこの規格が実際に実装され、約5km離れた通信先に 9つのパケット(つまりは鳩)を送信する実験が行われた。結果は1時間〜1時間半位の間に4羽のみ帰ってきたため「損失率55%、応答時間 3000秒〜6000秒以上であり、実際の通信には耐えられない」と結論づけている。
*ただしこの事は様々な要因における伝書鳩帰還率の低下とも深く関与してくる。本プロトコルによる実装かは不明だが、2009年9月9日、南アフリカのIT企業は伝書鳩によるデータ伝送を行った。結果、生後11ヶ月の鳩Winstonは80km先の地点へ4GBのデータを転送するのに2時間6分57秒を要した(データを取り出す時間を含む)。この間、インターネットを経由した通信はその4%を転送するにとどまったという。
テクノロジーは常に特権を独占する少数の人々からはじまります。そしてその中で、それを大衆にまで行き渡らせる人が巨万の富を掴むのです。それでは「伝書鳩プロトコル」は一体何を生み出してきたのでしょうか?
クリストファー・スタイナー「アルゴリズムが世界を支配する」より
第1部「伝書鳩」
それは何千年も前から中国やギリシャやインドなど世界中で通信手段として使われてきた。ローマ人は敵の情報交換を阻止する為に伝書鳩を見つけ次第攻撃する鷹を飼う様になったが、すると相手は囮の伝書鳩に偽情報を持たせる様になった。
- フランス革命で断頭台の露と消えた王妃マリー・アントワネットは、投獄中に1羽の鳩に希望を託し、外部の王党派と連絡を取り合っていたと言われる。一説によると、その鳩は雪のような純白鳩で、王妃は「La Naige(ラ・ネージュ。雪)」と呼び、慈しんでいたという。
- 1800年代に入っても状況は変わらない。1815年段階で既に世界でも有数の素封家だったネイサン・ロスチャイルドとその兄弟達もこの分野に精通し、ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリ・フランクフルトのそれぞれで銀行業を営みながら、暗号化したメッセージを持たせた伝書鳩を用いて競争相手の「馬を使った急使ネットワーク」より高速に情報交換を行っていた。
- 1815年といえば欧州がナポレオンの復位に動揺した年でもある。そして6月18日にはフランス軍と英国・オランダ・プロイセン連合軍がワーテルローの戦いで激突。ロンドンの債権トレーディングフロアでは、トレーダー達が虎視眈眈を戦果のニュースを待っていた。英国側が敗れれば政府の足元がぐらつく懸念から債権価格が下がると予測されており、またとはないビジネス・チャンスの到来。そしてロスチャイルドの伝書鳩ネットワークはナポレオン敗北の情報を24時間も早く、すなわち英国政府も含めたロンドンの誰よりも逸早く入手していたのである。
- しかしながらトレーディング・フロアの柱の前にある定位置についたロスチャイルドは、取引が始まると沈鬱な顔で債権を売り始め、それを目にした他のトレーダー達は彼が英国側敗北の報に接したと信じ込む。マーケットは売りが殺到して暴落(その時点でもうロスチャイルドだけは売るのをやめていた)。売りが売りを呼ぶ混乱の最中、ロスチャイルドの指示を受けた何十人ものトレーダー達がこっそり買いに転じる。翌日ワーテルローの戦いでの英国勝利のニュースが伝わると(ロスチャイルドが密かに買い集めた)債権の価格が急騰。その富をさらに増やす結果となったのだった。
- 近代になって報道機関が発達すると通信用に使われた。例えば、1850年に創業されたロイターも最初は伝書鳩を主な通信手段としている。
*19世紀初頭にドイツのゲッティンゲンで育ち叔父の銀行で事務員として働きながら金融の手ほどきを受けたイスラエル・ビーア・ヨザファトがロンドンに移住。当時欧州に広がり始めていた電信網の終端で伝書鳩を沢山飼うアイディアを思いつき、ブリュッセルとアーヘンを結ぶ120キロの間を結んでパリ証券取引所の終値を伝えるビジネスに着手し、その情報伝達速度が馬や鉄道を使った連絡網を上回っていたので大成功を収める。より多くの都市に電報が普及するにつれ、「Follow The Cable」をモットーにそれを使って価格を伝達するロイターも情報配信のグローバル企業へと発展。こうしたサービスを行う企業が増えるにつれ大金持ちとそれ以外の人々が得る情報量の格差は次第に縮まっていく。
- 日露戦争(1904年〜1905年)中、旅順要塞のロシア軍では日本軍の包囲網をかいくぐるために伝書鳩を使って外部と連絡を取っていた。これに対抗して日本軍では、宮中に保存されていた鷹狩り用のタカを動員しようとしたが、本格的に駆り出す前に旅順要塞が陥落した。
- 第一次世界大戦(1914年〜1918年)におけるヴェルダンの戦い(1916年2月21日〜12月19日)では、ドイツ軍に包囲されたフランスの一要塞守備隊が、救援を要請する伝書鳩を放つ(結局支援は間に合わず降伏・開城)。鳩はフランス軍の本営にたどり着くも衰弱しきっており、そのまま死亡。“殉職”としてレジオンドヌール勲章叙勲。
- 第二次世界大戦当時のイギリス軍は、約50万羽の軍用鳩を飼っていたという。第二次大戦中は伝書鳩が広く使われたため、ドイツ軍は対抗手段として、タカを使って伝書鳩を襲わせた。
- 現場の写真(フィルム)の最速の通信手段が伝書鳩だった時代は1960年代後半に電送写真が発達・普及するまで続いた。
現代ではレース鳩と呼称も変り、世界各地で行われる鳩レースいう形で愛好されている。
日本には、カワラバトが飛鳥時代にはもう渡来していた。
- 伝書鳩としては江戸時代に輸入されたことが記録として残っている。この伝書鳩は京阪神地方で商業用の連絡に使われた。1783年に大阪の相場師・相屋又八が投機目的で堂島の米相場の情報を伝えるために伝書鳩を使ったのを咎められ、幕府に処罰された。
- 明治時代に入ると、軍事用として伝書鳩が本格的に様々な系統の品種が輸入され、飼育されていった。大正時代には、南部利淳伯爵がベルギー外遊中に日本公使館を通じて当時の優秀なレース鳩を直接導入された話は、つとに有名。南部系は現在もレースで活躍しつづけている。レース鳩は、このように長期にわたって優秀な血が脈々と受け継がれ、改良が続けられている。
*戦前に日本に導入された系統を鳩界では在来系と呼称するが、南部系は在来系の一つ。他に「今西系」「勢山系」「松風系」「ときわ系」「渡海系」「津軽系」「白雪系」「広島系」…等々、連綿と受け継がれ飛んでいる在来系は枚挙に暇がない。
*移動目標に向かって伝書鳩を送ることは出来ない。従って船舶から陸上へ向かって鳩を飛ばすことは出来ても、陸上から船舶へ向かって飛ばすことは出来ない。ただし特殊な例として「往復鳩」と、戦時中の日本軍の「移動鳩」の存在があげられる。「往復鳩」は、文字通り2つの地点の鳩舎を往復するもの。寝場所とエサ場の棲み分けによって現在でも訓練できる。一方「移動鳩」は、一般にはあまり知られていない。これは、戦場において、移動式の鳩舎を探して、そこへ鳩が帰ってくるもの。放鳩後に原隊が移動しても、訓練された軍用移動鳩は、移動先の鳩舎(車輌)へ帰巣することができた。移動鳩の実録や訓練法等は、古い書籍でのみ垣間見ることができるが、現在ではその高度な技術やノウハウの殆どが失われてしまった。
これを受けて昭和時代に入ると、民間でも報道用・趣味として飼育することが増えていった。東京有楽町に集まる新聞社本社には、各社とも屋上に鳩舎が設置された。
- 1929年5月、昭和天皇が八丈島に行幸した際、随行した日本電報通信社(現在の電通)の記者である藤原某は記事を書いて鳩に付けると東京の本社へ飛ばしている。しかし、風が強く6羽のうち5羽が戻ってきてしまった。藤原は郵便局へ行くと電報を本社に打つ。本社に送られた「ハトハマツノウエニアリ(鳩は松の上に在り)」という電報を見た編集長の中根栄は「電報で送稿しろ」と激怒したが、藤原は酒を飲んで宿で寝ていたという。
- 第二次世界大戦中は、食糧難・軍用に献納されるなどで民間の飼育者は一時的に激減。
戦後になると飼鳩が若年層の間でブームとなった。1950年に日本鳩レース協会が設立されたのに続き、1954年には日本伝書鳩協会が創立される。
- 岩田孝七・誠三兄弟(マドラス (企業)の経営者一族)は岩田輸入系を確立するなど、戦後日本の伝書鳩の系統の発展に大きな足跡を残した。中でも源鳩777号×619号は黄金のカップルと呼ばれ、現在でも銘鳩の誉れが高い。
- 1964年の東京オリンピックの開会式での放鳩行事の影響もあり、1969年ピーク時の年間脚環登録羽数は400万羽弱に達した。その後、飯森広一の漫画「レース鳩0777(1978年〜1980年)」等の影響で一時的なブームも起こったが、現在は漸減傾向にある。
- また新型インフルエンザ発生地域におけるレース自粛といった新しい問題も起きており、日本の飼鳩環境はますます厳しくなっている。
- 21世紀に入り、脚環に電子チップを内蔵して帰還を自動的に記録する自動入舎システムが普及したため、子供の頃にハトを飼っていた団塊の世代がリタイア後にレース鳩の飼育を再開し、鳩レースを楽しむのが小ブームとなった。
2010年以降は情報IT関連の新しい試みとして、レース鳩にマイクロSD(合計2TB程度)等の超小型メモリーチップを運ばせたり(200km程度の短距離で所要時間約2時間)、GPSユニットやCCDカメラ等を取り付け、より詳細な生態や飛行コースを追跡する実験も行われている。
様々な事件をきっかけとして磁場と鳩の帰巣能力の関係に関する実験が始まり、真相に迫りつつある。
- 1988年6月にフランスから英国へ向けて行われた国際伝書鳩レースは、たまたま強い磁気嵐が起きている日に行われてしまったので、放たれた5000羽の鳩のうち2日後のレース終了までにゴールに到着したのはわずか5%程度、ほぼ全滅という悲惨な結果が記録された。
- 日本でも1970年代を境に鳩レースの平均帰還率は明らかな低下傾向をたどり、数千羽規模の登録レースでも最終レースを待たず全滅することが、各地で頻発している。
- イギリスでも、帰還率は5割を切っている。
原因の探求がなされ、謎の一部が解明されつつある。
この3つが有力視されている。
18世紀末から19世紀半ばにかけて主にフランスで使用されていた視覚による通信機、およびその通信機を用いた通信網である。望遠鏡を用い、腕木のあらわす文字コードや制御コードを読み取ってバケツリレー式に情報を伝達した。
フランス式の腕木通信に触発され、欧米各国ではそれぞれの形式の通信機が用いられた。現在では、これら各種通信機を用いたシステム全体を"optical telegraphy"と呼ぶ。
その呼称
使用されていた当時はテレグラフ(telegraph)と呼ばれており、意味はギリシャ語のテレ・グラーフェン(遠くに書くこと)という言葉に由来している。
テレグラフとはクロード・シャップの腕木通信を指す固有名詞だったが、後に一般名詞化して電信を表すようになった。現代で使用されているセマフォア(semaphore )という単語はテレグラフの類似品として作られた視覚通信機の固有名詞だったものが広まり、これのコピーがイギリスで広まり、セマフォア(semaphore )という英単語が定着した。
そこからさらに鉄道の信号機の名称となり、これが視覚通信機の名称となったことから来ている。セマフォアという名前は長い歴史の中で名称が二重三重に流転した結果であり、実際に稼動していた当時の名称はテレグラフである。
日本語の表記では、semaphore を「セマフォア」と音写するが、かつて大日本帝国海軍が「セマホア」と表記しており、後代においても「セマホア」と表記されることがある。
その歴史
1793年、フランスでクロード・シャップによって発明された。
- シャップは機構開発に当たり、腕木機構の複雑な動作を可能とするために天才的な時計師、アブラアム=ルイ・ブレゲの協力を得ている。
- 原理は大型の手旗信号とも言える方式で、腕木と呼ばれる数メートルの3本の棒を組み合わせた構造物をロープ操作で動かし、この腕木を別の基地局から望遠鏡を用いて確認することで情報を伝達した。夜間には腕木の端部や関節部に灯りをともして信号を送ることも試みられたという。
- 原始的な方式ながらも伝達速度は意外に速く、一分間に80km以上の速度で信号伝達された。また、腕木の組み合わせによってそれ以前から存在した手旗信号よりも精密かつ多彩なパターンの信号を送信できるため、短い文書を送れるだけの通信能力があり、基地局整備によって数百km先まで情報伝達することができた。シャップの考案した1799年以降の改良型では腕木だけで92パターンの動作を示すことができ、理論上は2つの符号を送ることでその二乗、8,464パターンを形容できた。しかもブレゲの着想により、腕木を操作する信号手手元の操作レバーと、塔屋上の腕木は相似形で、てことロープの動きで自在な操作ができた。
シャップの提案に対し、当初はその有効性に疑念が抱かれたが、1793年7月にパリ近郊3地点25kmの間で実施された公開試験では28語を11分で伝送して可能性の高さを示した。
- これを受けてフランス革命期に政治家としても活躍した軍人・科学者のラザール・カルノーの後押しで通信網整備が開始され、ほどなく軍事上の価値を認められて急速な整備が開始される。
- フランス革命期からナポレオン時代にかけ、フランス国内で総延長600kmが整備された。ナポレオンも腕木通信の活用に熱心で、国内を中心とする幹線通信網の整備に取り組んだ。この結果、1819年の記録によれば、フランス国内を縦断する551kmのルート(パリ・ブレスト間)を通じ、8分間で情報伝達することを可能にしたという。
- フランスでは政府の公用通信業務のほか、余裕があれば民間からの通信需要にも応えており、通信料金は極めて高価であったが、特に迅速性の求められる相場情報伝送などにしばしば活用された。
利便性が注目され、最盛期には世界中で総延長1万4,000kmにも達した。フランスではナポレオン以降の復古王政期間にも幹線ルートの通信網の延長が進み、1846年から1847年にかけての最終的ピーク時においてフランス国内だけで腕木通信網延長は4,081kmに到達っしている。
- シャップ式でない腕木信号装置やその類型であるシャッター式の信号装置も諸国で考案されて実用に供された。
- 王政復古期が時代背景となるアレクサンドル・デュマの伝奇小説「モンテ・クリスト伯」の中では、策謀をもくろむ主人公が腕木通信の通信塔を訪れ、通信士を買収して捏造情報を送信させるシーンがある。
- フランス通信社の創業者であるシャルル=ルイ・アヴァスは腕木通信のメッセージを解読してどこよりも早い新聞の速報記事を出すことでフランス通信社を発展させた。どのような手段で解読していたのかは謎のままであるが、何らかの手段で解読表を入手したと言われている。
近代的な電気通信網が発明されるまでは、情報伝送量、通信速度と通信可能距離の3点において、最も優れた通信手段といえた。
- その一方で要員を常駐させねばならないこと、悪天候時は使用できないことなどの欠点があり、より迅速性と確実性に富んだ、モールス信号を利用した有線電信の登場により、1840年代以降は先進国から急速に衰退。
- 1880年代にスウェーデンの離島で運用されていたのが最後の使用例とされている。
ちなみに遠方から視認できる腕木を用いて情報を伝送する方式は、後に鉄道の腕木式信号機へと応用されている。
ナポレオンとの関係
1799年11月、ブリュメールのクーデターで腕木通信網の全線へナポレオン・ボナパルトのメッセージが流された。
1801年、リュネヴィルの和約のためにフランス東部の都市リュネヴィルへの通信回線の増設を命令した。クロード・シャップはこれを二週間で完成させ、ナポレオンは現地の全権大使との連絡網を活用した。
1805年、ナポレオンがイタリアを支配するようになるとリヨン-ヴェネツィア間の通信網が整備される。アルプス山脈を越える工事は難航し、何度もナポレオンから催促を受けながら二年余りを費やして完成する。
ナポレオンがエルバ島を脱出し、フランスへ上陸するとその行動が腕木通信で即日パリへ通報された。
「旗振り通信」が独自発展した日本における不採用
欧米では一定の発達を見せた腕木通信システムであったが、日本で導入されることはなかった。
- 日本では江戸時代中期から米相場などの情報を伝えるために、大型手旗信号の一種である「旗振り通信」が存在しており、1745年時点で少なくとも実用に供されていたことが確認されている。一説には大阪-和歌山間を最速3分、大阪-広島間を27分(別の文献では40分足らず)で伝達できたとされる。
江戸時代中期、全国の米価の基準であった大坂の米相場をいち早く他の地域に伝達するため、さらに地方の相場を大坂に伝えるために考案された。気色見(けしきみ)、米相場早移(こめそうばはやうつし)、遠見(とおみ)ともいう。昼間は旗、夜間は松明(松明を用いる方法を「火振り」という)や提灯(都市近郊)が用いられた。
- 起源は紀伊国屋文左衛門が江戸で米相場を伝達するために色のついた旗を用いたことにあるといわれており、旗振り通信が初めて登場した文献は1743年(寛保3年)の戯曲『大門口鎧襲』とされている。
- 従来米相場の伝達には飛脚(米飛脚)・挙手信号・狼煙などが利用されており、江戸幕府は米飛脚を保護するため旗振り通信禁止の触れ書きを出した。ただし禁止令は摂津国、河内国、播磨国の3国に対してのみ言い渡されたものであったため、堂島から飛脚を住吉街道を通って和泉国松屋新田まで走らせ、そこから大和国十三峠、山城国乙訓郡大原野(小塩山)、比叡山、大津へ抜けるルートを使って情報伝達が行われた。
- 1865年(慶応元年9月)、イギリス・フランス・オランダの軍艦が兵庫沖に現れた際に旗振り通信によって速報がされたのをきっかけに禁止令は解かれた。以降旗振り通信は盛んに行われ、明治には政府公認の仕事となり、相場師、めがね屋などと呼ばれた。
- 1893年(明治26年)3月に大阪に電話が開通すると次第に電話にとって代わられ、大気汚染によって旗の視認が困難になったこともあり、1918年(大正7年)に完全に廃れた。
熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられ、旗振り場の間隔を3里(12km)とした場合、通信速度は時速720kmということになる。大阪から和歌山まで十三峠経由で3分、天保山経由で6分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できたといわれている。江戸までは箱根を超える際に飛脚を用いて1時間40分前後または8時間であった。
*なお、1981年(昭和56年)に大阪・岡山間で行われた実験では2時間を要している。これについて柴田昭彦は視界の悪さにより中継点の数が増えていることを割り引いても、当時の相場師がすぐれた技能を有していたことがうかがえると述べている。- だが、ヨーロッパの通信技術導入が始まった幕末から明治維新期には、すでに欧州の腕木通信システムは前時代の技術となっており、日本は腕木通信を飛び越して電信を導入することになった。
日本で初めて電信による通信が成功したのは、ペリー(マシュー・カルブレイス・ペリー)が2度目に来日した1854年。当時のアメリカ大統領ミラード・フィルモアから幕府に贈られた「エンボッシング・モールス電信機」によるものだ。
- このエンボッシング・モールス電信機は、送信側でモールス信号を打つと、受信側の紙テープにエンボス(凹凸)で記録されるという仕組み。以前のモールス電信機は、受信した信号を人間が記録していたが、エンボッシング・モールス電信機ではこれが自動で行えるようになった。
- 日本での公開実験は、約1.6kmの電線を敷設して横浜で実施。最初の公開実験では、「YEDO」(江戸)と「YOKOHAMA」(横浜)という文字が送信された。公開実験は、ペリーが幕府に贈った4分の1サイズの蒸気機関車とともに行われ、多くの人が集まった。日本の電信史に名を残すペリーのエンボッシング・モールス電信機は、1997年に国の重要文化財に指定され、現在は逓信総合博物館の所蔵である。
明治維新後、明治政府は電信の重要性を認識。1869年にイギリスから通信技師を招いて、横浜燈台役所と横浜裁判所に日本で初めての電信回線を開通させた。ここではモールス信号ではなく、「ブレゲ指字電信機」と呼ばれる電信機を採用している。
- ブレゲ指字電信機とは、時計のような形をした電信機で、送信したい文字に針を合わせると、受信側でも同じ文字を指してメッセージを送信するという仕組みだ。モールス信号は文字と信号を覚える必要があったが、ブレゲ指字電信機はその必要がなく誰でも扱うことができた。しかし、ブレゲ指字電信機には、1分間に5~6文字程度しか送れない、通信線の敷設に多額な費用がかかるなどの欠点があった。そのため、多くの文字を送ることができ、通信線の敷設費用が安いモールス信号へと置き換わっていった。
その後の日本の電信の発展はめざましく、1871年にはロシア極東部のウラジオストクから長崎に陸揚げされた海底ケーブルを用いた国際電信が開通した。
- この国際回線は、シベリア経由でヨーロッパまでつながっており、大西洋を渡り北米との電信も可能とした。
- また、東京と横浜、大阪と神戸の2つだけだった国内回線も急ピッチで工事が進められ、1873年には東京と長崎を結ぶ回線が開通。東京と外国との電信が可能となった。その後も、東京から東北、北海道方面にも回線が敷設されており、1875年には札幌まで開通。これにより、北海道から東京を経て、九州までつながる電信網ができあがった。
- さらに1880年頃には、日本の大都市を結ぶ電信網が完成。1879年の記録では、有料の「官報」の取り扱いは9万通、無料の「事務報」などが8万通だったのに対して、企業や個人が利用する「私報」は148万通にも達した。1890年頃には、全国の県庁所在地を網羅するほどに電信網は広がった。
- なお、電信が始まった3年後の1872年、新橋と横浜の間で日本で初めての鉄道が開通し、電信と同じように日本中に広がっていった。
こうして全国に広がっていった電信網に関して、福沢諭吉は1885年に「電信あれば即日に世界の消息を聞くべし」という言葉を残している。当時は外国から多くの物資や文化が日本に輸入され、変革の時代を迎えていた。これら情報や物資が集まるのは東京だけであり、ほかの地域にいると時代に取り残されてしまう考えがあった。しかし、福沢諭吉は、「電信があれば、世界中の情報がすぐに手に入る」として、これを否定したというわけだ。
*同様の感慨を産業革命導入期のアメリカ詩人ホイットマン(Walter Whitman、1819年〜1892年)も述べており、当時の詩では日々拡大を続ける電信網が「世界中を絡め取る蜘蛛の糸」と表現されている。- また初期の電信・電話通信のコスト高を嫌った民間の相場通信需要も、伝統的な旗振り通信で十分に充足されており、固定設備設置・維持の手間が掛かる腕木通信は用いられなかった。
結局、日本の視覚通信手段は、長距離電報・電話の通信料金が下がって需要がそちらに移行した1914年-1918年頃まで、旗振り通信のみに留まったのである。
第二部「伝書鳩から電信に」
電送技術の研究は18世紀から盛んとなった。
- 1746年 フランスの科学者ジャン・アントワン・ノレーが200人以上の修道士に円周約1マイル(1.6km)の輪を作らせ、鉄線で繋いだライデン瓶電池からの放電を全員がほぼ同時に感じた実験
- 1753年 スコット誌(Scots Magazine)に掲載された「一文字ごとに電線を割り当てメッセージを送る静電気電信」の提案
- 1800年 実験用直流を生み出すアレッサンドロ・ボルタのボルタ電池の発明。
19世紀に入ると研究速度が加速した。
- 1804年 カタルーニャ出身の博学者/科学者 Francisco Salva Campillo の手になる電気化学式電信機設計
- 1809年 ドイツ人物理学者サミュエル・トマス・フォン・ソンメリング(Samuel Thomas von Soemmering)の手になる改良・実験
ここまでは複数(最大35本)の電線を使い、それぞれの電線がラテン文字や数字に対応する方式だった。
- 1816年 Francis Ronaldsの手になる8マイル(13km)の電信システム構築。数字と文字が並んだダイヤルを送受信機として使用した最初期の一例。
- 1835年 ジョセフ・ヘンリーによるリレー回路発明。そして同年より開業の始まったドイツ鉄道沿いに電信用電線の敷設が開始された。これには当時ゲッティンゲン大学教授だった数学者/天文学者/物理学者ガウスも関与している。
- 1836年~1844年 モールス&ヴェイル式電信装置の発明とワシントンD.C.-ボルチモア間の実験的電信線敷設。
これより電信網の実用化が始まり、その後20年に渡る普及過程でオペレーターがモールス符号を直接聞き取る方式は次第に読み取った信号を自動的に文字列化して印刷するテレプリンター方式へと進化していく。
- 南北戦争(1861年~1864年)開始後の1861年10月24日、米国で初の大陸横断電信システムが開通。北アメリカ大陸をまたいで、アメリカ東部のネットワークがカリフォルニアの小規模なネットワークに接続した。直接結ばれたのはオハマとカーソンシティ。ソルトレイクシティ経由であった。
*オマハ(Omaha)…ゴールドラッシュの頃から交易拠点として栄え、ユニオン・パシフィック鉄道(大陸横断鉄道、工事期間1862年~1869年)開通後はその東の起点として発達してきた。
*カーソンシティ(Carson City)…南北戦争中に準州から昇格したネバダ州の州都。
*ソルトレイクシティ…はモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)が拓いた町として知られる。1830年にジョセフ・スミス・ジュニアによって設立されたこの宗教は(独自のキリスト教系宗教観や一夫多妻制の容認といった)その教義の特殊性や急激な拡大により度々周囲との衝突を余儀なくされてきた。1831年にミズーリ州ジャクソン郡インディペンデンスを拠点とするが抗争により追放される。続いてミズーリ州ファー・ウエストやイリノイ州ナヴーへの入植を試みるも失敗。1844年、初代教祖ジョゼフ・スミス・ジュニアが暴徒の襲撃を受け死亡するとブリガム・ヤングに率いられたら1派はフロンティアを求めモルモン開拓者として西方に移動を開始した。1847年7月24日、グレートソルト湖南東の砂漠にヤングは都市を築くことを宣言。周辺は山岳や荒野、塩湖に囲まれた苛酷な環境であったが、1848年の人口は5000人、翌年8000人と増加し、さらにゴールドラッシュの中継地点となった事で急発展を開始した。その後も駅馬車や大陸横断鉄道の要所として成長を続けたが、モルモン教を巡る混乱と議論がユタ戦争(1857年、連邦政府が事実上独立を目指す教団への圧力として、1850年にソルトレイク周辺をユタ準州に昇格させて国としての管理を主張する一方、軍隊を派遣した結果発生した内乱)やユタ準州の昇格問題(1850年9月9日〜1896年1月4日)などに影を落とし続ける。1869年にはカリフォルニア州と東部から同時に鉄道が伸びてきたが、準州を支配しているモルモン教徒がかえってこれを警戒したのはそうした混乱のせいである。最初の大陸横断鉄道を開通させるプロモントリー・サミットでの黄金の犬釘を打つ儀式も、グレートソルト湖盆地の外界から侵入されることを心配した準州役人達はボイコットしてのけた。その一方で彼らは20世紀に入るとギャング達が砂漠のド真ん中にラスベガスという巨大都市が現出するのを手助けするのである。ちなみに第二次世界大戦中に太平洋岸の諸都市で強制収容キャンプに移住させられた日系人を戦後積極的に受け入れたことから、現在でもアメリカにおいて日系人の比率が高い都市の一つとなっている。
- 1866年7月27日、大西洋横断電信ケーブルの恒久的敷設に成功。しかし海底ケーブルによるグローバル経済の進展は、金なる決済手段の流動性を極度に高める一方で、その他の金融資産およびモノとサービスが流動性と交換性を失わせたとする意見もある。同時期における銀の増産と価格の下落もこの問題を加速させた。
*日本では「欧米における金銀格差は、もうそれ以前から決定的に開き始めていた」という意見が多くを占めるだろう。まさしく佐藤雅美「大君の通貨(1984年)」の世界。日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce、1858年)から始まった「日本の金(小判)を欧米の銀で買う」外国商人の為替投機。これに対抗すべく通貨の金含有量を減らした結果、幕末の物価は3倍以上に跳ね上がった(石油パニックの時ですら2倍)。経済に詳しくなかった井伊直弼がアメリカ公使ハリスやイギリス公使オールコックに付け込まれた結果発生じた悲劇。そして幕府を財政破綻で崩壊させた井伊直弼はその報いを桜田門外の変(1860年)という形で受ける事になる。
*銀の増産は、従来から続いてきた鉱山探索の賜物たる新鉱山発見、および電解精錬の成果だった。技術面においては、何よりまず独仏資本の入り乱れたロレーヌ等での浚渫技術の向上が大きい。そして電解精錬技術の発展により絶対量の増え続ける雑多な鉱石から銀を得られるようになった事がこの動きに拍車を掛けた。こうした技術革新が複合し、金銀比価は大昔のアイザック・ニュートンには想像だに出来なかった規模まで開いてしまう。とはいえ本当に価格差が著しくなるのは1891年よりの数年。ただし1850年7月25日にドイツ=オーストリア電信連合が設立されて20年も経つと、その兆候が早くも察知されていたとする意見もある。実際、それまで緩やかであった銀価格の下落が1876年だけ一段階段を踏み外したようになっている。
*いずれにせよ1871年に建国されたドイツ帝国は、普仏戦争(1870年〜1871年)によって獲得した50億フランの賠償金を使ってロンドン市場等から金塊を調達。そして1871年7月の鋳造法と1873年の鋳貨法で金本位制を採用した。1872年12月にデンマークも、1873年にスウェーデンも、金本位制を採用してスカンディナヴィア通貨同盟を結んでいる。1875年にはノルウェーもこれに参加した。同年にはオランダが、1877年にはフィンランドが、それぞれ金本位制を採用。フランスもパリ・コミューンをドイツと鎮圧してから戦後復興の為にモルガン資本を注入され、事実上は1873年から、正式には1878年から、金本位制となっていた。海の向こうでアメリカも1873年の貨幣法により金本位制が採用されている。
*一方、現地鉱山の産出する銀の売上げ単価が下落した南米では事業縮小が相次いだ。鉱業合理化が遅れ、金を退蔵したまま銀本位制に留まって貿易銀の流通を長く許したアジア各国はもまた鋳貨全体における競争での敗北を余儀なくされ、それで国内金融制度の整備が遅れ、金利が高止まりし続ける。日本でさえ金本位制の採用は1897年の貨幣法を待たねばならなかったのである。その結果、オリエンタル・バンクといった外国銀行で銀価格下落による会計上の損失が生じたが、香港上海銀行は金と銀を別々に会計処理したので被害を免れた。この時期のイギリスでは夥しい数の銀行が淘汰されている(個人銀行の場合1875年の236行から1900年81行にまで激減)。これにともないアジア各国および産業の資金調達元が絞られていく。
砂糖産業やゴールドラッシュ同様、当時の鉄道建設ラッシュに勝者などいない。しかし鉄道網の発達は(それに沿って敷設される)電信網の拡大と連動していたのであった。
- 米国では南北戦争後の短期的な戦後不況(1865年~1867年)の後に投資ブームが発生。主として米国外の投資家によるもので、とりわけ米国西部の公有地への鉄道敷設に対して投資が集中した。ベクテル等が敷設の報酬として公有地を譲り受けたのに便乗を図ったのである。実際、格安の水・材木・魚・鉱物資源が供給されたことで1878年から1879年頃にかけてネイティブ・アメリカンの居住地への(当該地域住人に対するジェノサイドを伴いながらの)米国西部鉄道の再建設・拡張・財務再建が活発し米国鉄道市場は高騰。
*ベクテル(Bechtel Corporation ; Bechtel Group)…アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本拠を置き石油コンビナート、発電所、ダム、空港、港湾などの建設を請け負う世界最大級の多国籍総合建設会社。
*そして1869年には大陸横断鉄道が開通し、アメリカの東海岸と西海岸が結ばれた。開通より少し前の1865年頃(南北戦争の時代でもある)には、アメリカではすでに約56,000kmの鉄道網があったという記述も見られる。
もちろん、鉄道の延伸は市場や産業の拡大へと繋がり、欲深い鉄道会社のオーナー達が1880年代から1890年代にかけて上流階級社会を艷やかに飾った。米国の鉄道建設事業は1867年から1873年にかけてその敷設距離を50%増加させる一方、大不況時代(1873年〜1896年)到来直前の数年間には米国の設備投資の20%が鉄道に投下されていた。しかし1873年から1878年にかけては米国の鉄道敷設距離はほとんどと言って良いほど増加せず、1877年には最初の全国的な鉄道大ストライキに直面する事になる。
*欲深い鉄道会社のオーナー達が1880年代から1890年代にかけて上流階級社会を艷やかに飾った…こうした発展はごく僅かな富裕層にのみ富を集中的にもたらす一方、「大不況時代」が到来した1873年と「金鍍金時代(Gilded Age)」を終焉に追い込む暴落のあった1893年には過酷なまでの「勝ち組」と「負け組」の峻別が進む。
- 1882年のパリ証券取引所における株価暴落によって、フランスは恐慌に突入し「19世紀のどの国よりも長くそして深い痛手」を受けた。フランスのユニオン・ジェネラル銀行が1882年に破綻してしまい、イングランド銀行から300万ポンドを引き出す展開となったが、その事が連鎖的にフランス証券取引所における株価崩壊を引き起こしてしまったのである。そしてフランスの国民純生産(NNP)は、1882年から1892年にかけて10年間にわたり減少し続ける。
*その結果、外国人投資頼みだったオーストリア=ハンガリー二重帝国などの鉄道建築ラッシュが終焉を迎える事に。
そして電信網は次第にそのインフラを電話網に明け渡していく。
それは当初、聾者の代用発声装置として研究が始まった。そもそも「喋る自動人形(単数形Automaton、複数形Automata)」が発想の原点であり、ここにサイバネティック技術の原風景を見る向きもある。
- アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell 、1847年〜1922年)はスコットランド生まれの科学者、発明家、工学者。祖父、父、兄弟は弁論術とスピーチに関連した仕事をし母と妻は聾だったが、この家庭環境がベルのライフワークに深い影響を与える事になる。
- 1863年、彼の父はアレックの科学への関心を育てるため、ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの業績に基づいてチャールズ・ホイートストンが開発したオートマタを見せに連れ出した。このオートマタは人間の声を真似てしゃべる機械だった。ベルはこの機械に魅了され、ケンペレンのドイツ語の著作を手に入れて苦労して翻訳し、兄メルヴィルとともにオートマタの頭部を作りはじめた。父はそれらに大いに関心を寄せ、2人に資金提供を約束し、成功したら大きな褒美をやろうと言って発破をかけた。兄がオートマタの喉と喉頭を作り、アレックはより困難な本物そっくりの頭蓋骨の製作に取り組んだ。努力の結果、人間そっくりの「しゃべる」頭部が完成した(ただし、しゃべることができるのはほんの数語である)。唇の動きを微妙に調整し、鞴で空気を気管に送り込むと、はっきりと「ママ (Mama)」と発音し、その発明を見に来た近所の人々を驚かせた。
- その結果に好奇心をそそられたアレックは、一家の飼っていたスカイ・テリア "Trouve" を使った動物実験を行った。彼はその犬に継続的に吠え方、唇の使い方などを教えこみ、犬は "Ow ah oo ga ma ma" としゃべる(うなる)ようになった。訪問者は犬が "How are you grandma?"(おばあさん、ごきげんいかが?)としゃべったことを信じられなかった。多くはアレックのいたずら好きの性質を知っていたが、ベルは彼らが「しゃべる犬」を目にしていることを納得させた。この音声に関する最初の実験から、アレックは音叉を使っての共鳴など音響伝達について真剣に研究するようになる。
- 19歳のときそれまでの研究成果を論文にまとめ、父の同僚だった言語学者アレクサンダー・ジョン・エリスに送った(エリスは後に『ピグマリオン』のヒギンズ博士のモデルとなった)。エリスはすぐに、同様の実験は既にドイツで行われているという返事を出し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの著作 The Sensations of Tone as a Physiological Basis for the Theory of Music をアレックに貸している。
- ヘルムホルツが既に音叉を工夫することで母音を生成するという研究をしていたことを知って狼狽したアレックは、そのドイツ人科学者の著作を熟読した。そこで彼はドイツ語の理解不足からある誤解をし、その誤解がその後の音声信号伝送の業績の土台となった。当時を振り返ってベルは「その主題についてよく知らない私は、母音を電気的手段で生成できるなら子音も生成できるだろうし、文をしゃべらせることもできると推測した」と述べ、「私はヘルムホルツがそこまで実施したのだと思った…そしてそれは私が電気について無知だったための失敗だった。それは貴重な失敗だった…もし当時の私がドイツ語を読めたなら、私は決して実験を始めなかったかもしれない」と述べている。
- 1871年当時は猩紅熱の後遺症で聾者教育が深刻な問題となっており、ベルは"harmonic telegraph" と名付けたものの実験に打ち込んだ。彼の意匠の根底にある概念は、1つの導線で複数のメッセージをそれぞれ異なるピッチで送るというものだが、そのための送信機と受信機が新たに必要だった。将来に確信がないまま彼はロンドンに戻って研究を完成させることも考えたが、結局ボストンに戻って教師をすることにした。父の紹介で Clarke School for the Deaf の校長ガーディナー・グリーン・ハバードが彼の開業を支援することになった。1872年10月、ボストンで視話法を教える学校 "School of Vocal Physiology and Mechanics of Speech" を開校。多くの若い聾者の注目を集め、開校当初に30人が入学した。後に、当時まだ幼かった有名なヘレン・ケラーと知り合っている。1887年、ベルはケラーに家庭教師アン・サリヴァンを紹介している。後年ケラーはベルについて「隔離され隔絶された非人間的な静けさ」に風穴を開けてくれた人と評した。
*ベルも含めた当時の影響力のある人々の一部には、聴覚障害を克服すべきものとする見方があり、金と時間をかけ聾者に話し方を教え手話を使わずに済むようにすることで、それまで閉ざされていた広い世界への道が拓けると信じていた。しかし、当時の学校ではしゃべることを強制的に訓練するために、手話ができないように手を後ろで縛るといった虐待も行われていた。ベルは手話教育に反対していたため、聾文化に肯定的な人々はベルを否定的に評価することがある。- 1873年、ボストン大学で発声生理学と弁論術の教授になる。このころ、ボストンとブラントフォードを行ったり来たりという生活で、夏はブラントフォードの家で過ごした。音響に関する研究を続け、音符を伝送する方法や音声を発する方法を捜していたが、実験に十分な時間をあてることは難しかった。日中は夕方まで講義などで費やされるので、寄宿舎の部屋にレンタルした設備をそろえて夜遅くまで次々と実験する生活を送った。研究成果を奪われることを恐れ、ノートと実験装置を盗まれないよう施錠するのに大変苦労している。ベルは特製のテーブルにノートや実験装置を納め、ロックカバーの中に隠した。悪いことに、彼はひどい頭痛に悩まされるようになり、健康状態が悪化した。1873年秋にボストンに戻ったとき、ベルは音響に関する実験に専念するという重大な決断をした。
- ボストンでの収入をあきらめると決めたベルは、生まれつき聾の16歳のジョージ・サンダースと15歳のメイベル・ハバードという2人の生徒だけを雇った。その後の実験で2人は重要な役割を演じることとなる。ジョージの父トーマス・サンダースはセイラム近郊の屋敷をベルに提供し、そこでジョージの祖母も住み、実験室も設えた。実際に支援を申し出たのはジョージの母で、1872年にジョージと看護婦をベルの寄宿舎の側に引っ越させているが、トーマス・サンダースがその背後にいたことは明白である。合意によりベルと生徒達はそこで一緒に働くことになった。メイベルは利発で魅力的な娘であり、10歳年下だったがベルの愛情の標的となった。彼女は5歳の誕生日を迎えたころに猩紅熱で聴力を失い、読唇術を学んだ。
*Eberはメイベルがニューヨークで「5歳の誕生日の直前に」猩紅熱にかかったと主張。Towardはこの件の詳細な時系列を提供しており、猩紅熱にかかったのは1863年1月、ニューヨークに到着した後のことで、5歳の誕生日から5週間ほど後のこととしている。メイベルが聾者となった時期は、彼女がその時点でしゃべれたのか、それとも聾者となってからしゃべることを一から学んだのかという議論で重要となる。メイベルの父ガーディナー・グリーン・ハバードはベルの支援者で友人であり、メイベルがベルの側にいることを望んだ。- 1874年、harmonic telegraph に関する研究は、ボストンの研究施設(賃貸)とカナダの実家で新たな段階に入った。同年夏、ブラントフォードにてフォノトグラフを使った実験を行った。フォノトグラフはススを塗布したガラスに音の波形を描くペンのような装置である。そこからベルは音波と同じ波形の電流を生成できるかもしれないと考えた。ベルはまた、ハープのようにそれぞれ異なる周波数に調律された複数の金属リードを使って、脈打つ電流を音に戻すことができるのではないかと考えたが、これらのアイデアを実証するための試作は全く行わなかった。
*ブラントフォードは『テレフォン・シティ』を自称しており、1874年に電話が生まれた場所として知られている。- そのころ電信(電報)が盛んに使われるようになり、ウエスタンユニオン会長ウィリアム・オートンは「商業の神経系」と称した。オートンはコストのかかる新たな電信線の敷設を避けるため、発明家のトーマス・エジソンとイライシャ・グレイに1本の導線で複数の電信メッセージを伝送する方法を研究させていた。ベルが複数の高さの音を1本の導線で伝送する方法に取り組んでいることをガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースに伝えると、2人の裕福な後援者はベルの実験を財政的に支援しはじめた。特許に関してはハバードの紹介した弁理士アンソニー・ポロックが面倒を見ることになった。
- ハバードの支援は十分ではなく、ベルは研究の傍ら教職を続けなければならなかった。金に困ったベルは雇っていたトーマス・ワトソンに金を借りたことさえある。ベル電話会社(およびAT&T)の前身となった Bell Patent Association はハバードとサンダースとベルが結成したものだが、後に収益の約10%をワトソンに与えることにした。これは、最初の電話機を試作したことにベルがワトソンに借金していたことと給料の代替とするという意味があった。
- 1875年3月、ベルとポロックはスミソニアン協会会長を務めていた有名な科学者ジョセフ・ヘンリーを訪ね、ベルの考えている複数の金属リードを備えた装置で電信線を使って音声を送受信するというアイデアについて意見を求めた。ヘンリーはベルが「偉大な発明の萌芽」を持っていると答えた。ベルがそれを実現するのに必要な知識がないと述べるとヘンリーは「では、それを獲得しないさい」と応じた。これに勇気付けられたベルは実験を繰り返したが、必要な実験器具を作れず、試作品も作れずにいた。しかしベルはそれ以前の1874年に電気や機械に熟達したトーマス・A・ワトソンと出会っていた。
- サンダースとハバードの金銭的支援により、ベルはトーマス・ワトソンを助手として雇うことができ、2人は1875年6月2日に acoustic telegraphy の実験を行った。そのときワトソンは偶然金属リードの1本を引き抜いてしまい、受信側にいたベルがその金属リードの倍音を聞いた。倍音は音声の伝送に必要である。このことからベルは複数のリードは不要であり、1つのリードでよいと気付いた。これにより、明瞭な音声は伝えられないが、何らかの音だけは伝送できる電話のようなものができた。
- 1875年、ベルは acoustic telegraph を開発し、その特許申請書を書いた。アメリカでの収益は後援者であるガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースと分配することで合意し、Bell Patent Association の協定を成立させる。これが幾多の変遷を経て「ベル・システム」を完成させたAT&T (American Telephone and Telegraph Company) へつながっていく。そこでベルはオンタリオ州の知人 George Brown に頼んでイギリスでも特許を出願し、イギリスで特許が受理された後にアメリカで特許申請するよう弁護士に指示した(イギリスは他の国で以前に特許を取得した発明には特許を与えない方針だったため)。
- 一方、イライシャ・グレイも同様の用途の実験を行っており、水を媒体として音声を電流に変換する方法を考えていた。1876年2月14日、グレイは水を媒体とする設計の電話について特許予告記載をワシントン特許局に申請した。同じ日の朝、ベルの弁護士もワシントン特許局にベルの「電信の改良」(Improvment in Telegraphy) の特許出願書を提出している。どちらが特許局に先に現れたのかについては議論があり、後にグレイはベルの特許の無効を訴えることになった。2月14日にはベルはボストンにおり、2月26日までワシントンD.C.を訪れていない。
- ベルの特許(特許番号 174,465)は米国特許商標庁によって1876年3月3日に認可され3月7日に公告された。ベルの特許の請求範囲は「声などの音に伴う空気の振動の波形に似せた電気の波を起こすことにより…声などの音を電信のように伝送する手段および機構」だった。
- 1876年3月10日、特許公告の3日後、電話の実験に成功。グレイの設計と似たような液体送信機を使っていた。音を受けた膜が振動し、その振動で水中の針を振動させ、回路内の電気抵抗を変化させる仕組みである。最初の言葉は「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」 ("Mr. Watson! Come here; I want to see you!") である。ワトソンは隣の部屋の受信機でそれらの言葉をはっきりと聞いた。
- ベルはグレイの電話の設計を盗んだとして訴えられた(そして今もそう考えている人々がいる)が、ベルがグレイの液体送信機の設計を使ったのは特許取得後でしかも概念実証としての科学的実験でだけであり、「明瞭な声」を電気的に伝送可能であることを示すためだった。それ以降ベルは電磁式の電話の改良に集中し、グレイの液体送信機をデモンストレーションや商用に使ったことはない。
- ベルの特許が発効する以前、審査官は電気抵抗を変化させるという電話の仕組みについて優先順位問題を提起した。審査官はベルに、請求範囲にあるのと同様の仕組みがグレイの予告記載にもあることを告げている。ベルは、彼が特許申請書で示している可変抵抗デバイスは水ではなく水銀であると指摘した。ベルは約1年前の1875年2月25日に水銀を使った特許を出願しており、イライシャ・グレイが水を使ったデバイスを申請するずっと前のことだった。しかもグレイは予告記載を撤回し、ベルの発明が先だったということに異議を申し立てなかったので、審査官は1876年3月3日にベルの特許を認可したのだった。グレイも確かに独自に可変抵抗を使った電話を発明したが、最初にそれを文書化したのはベルであり、最初に電話の実験を成功させたのもベルである。
- 特許審査官 Zenas Fisk Wilber は後に法廷で、ベルの弁護士のマーセラス・ベイリーとは南北戦争で一緒に戦った仲で、ベイリーに借金していたことを証言した。また、Baileyにグレイの特許予告記載を見せたと証言している。また、後にベルがワシントンD.C.の特許局を訪れた際にグレイの予告記載を見せ、ベルから100ドルを受け取ったと証言した。ベルは一般論として特許について議論しただけだと主張したが、グレイへの手紙では何らかの技術的詳細をそこから学んだと認めている。ベルは審査官に金を払ったことはないと宣誓証言で否定している。
そして電話の実用化が始まる。
- ブラントフォードで実験を続け、ベルは実動する電話機を自宅に持ち込んだ。1876年8月3日、ブラントフォードと約8km離れた電信局から、準備完了したことを知らせる電報を送った。証人として見物人を集めた状態で、ささやき声のような応答が返ってきた。次の夜、ブラントフォードからベル家までの約6kmを電信線やフェンスに沿わせたり、トンネルをくぐったりして電話線を即席にひいて、家族や客を驚かせた。これらの実験で、電話が長距離でも作動することをはっきりと証明した。
- 1876年の電話の実験成功の直後に、東京音楽学校の校長となる伊沢修二と留学生仲間であるのちの司法大臣金子堅太郎が電話を使って会話をしており、日本語が世界で2番目に電話を通して通話された言語になった。1877年には電話機を日本へ輸出している。
- ベルとパートナーのハバードとサンダースは、その特許をウエスタンユニオンに10万ドルで売ることを申し出ているが、ウエスタンユニオン社長は電話を玩具以外の何物でもないと考えており、買い取らなかった。2年後彼は友人に2500万ドルでも安売りだと考えるだろうと話している。そのころには特許を売ることはもう考えていない。出資者は百万長者となりベルも借金を返し終わると100万ドルの財産を築くようになった。
- この新発明を紹介すべく、ベルは一連の公開デモンストレーションと講演を科学界や大衆向けに行った。1876年のフィラデルフィアでの万国博覧会で電話を公開して国際的注目を集めた。この万博には海外からも大勢の客が訪れており、その中にブラジル皇帝ペドロ2世もいた。また、スコットランドの有名な科学者ウィリアム・トムソン卿にも個人的にデモンストレーションを見せ、ヴィクトリア女王にはワイト島のオズボーン・ハウスに招待され、観衆の前で電話を披露した。女王はそのデモンストレーションを "most extraordinary"(最も並外れている)と評した。そのようにして、この革命的機器の普及の土台を築いていった。
- 1877年、ベル電話会社を創業。同社の技術者は電話に様々な改良を施していき、電話機は史上最も成功した製品の1つになった。1879年、ベル電話会社はエジソンのカーボンマイクの特許をウエスタンユニオンから買い取った。これによってさらに長距離の通話が可能になり、受話器に向かって叫ぶ必要がなくなった。
- 1877年4月27日、トーマス・エジソンが、研究員に開発させた炭素式マイクロフォンを特許申請。またベルの会社はエジソンの炭素式のマイクロフォンに似たものの特許を2週間前に取得していた技術者のエミール・ベルリナーを雇い入れた事からダウド裁判と呼ばれる特許紛争が発生。その結果、1879年、ウェスタン・ユニオンが所有するエジソンの炭素式マイクロフォン、グレイの液体抵抗型マイクロフォンの米国特許と電話事業とをベル電話会社(現在のAT&T)に譲渡し、ウェスタン・ユニオンは電話事業に進出しないこと、ベル電話会社は電信事業に進出しないことと電話事業の利益の20%を17年間ウェスタン・ユニオンに支払うことで和解が成立、この結果、アメリカの電話事業、俗にいう「ベル・システム」における特許下の独占時代が始まっていく。
- 1878年にはアメリカ各地で電話会社が148社開業。1886年にはアメリカで15万台、1900年には80万台の電話が使われていた。
- 1915年1月、世界初の大陸間横断通話を行った。ニューヨークのAT&T本社のベルとサンフランシスコのトーマス・ワトソンによる通話である。ニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じている。
- 1876年10月9日、アレクサンダー・グラハム・ベルとトーマス・A・ワトソンは、ケンブリッジとボストン間2マイルに張った電話線を通して電話で話をした。これが世界初の電話線を通した通話である。昨日(1915年1月25日)の午後、同じ2人がニューヨークとサンフランシスコ間3,400マイルを隔てて電話で会話した。電話の発明者ベル博士はニューヨークに、かつての助手ワトソン氏は大陸のもう一方の端にいた。彼らは38年前のときよりも明瞭に互いの声を聞くことができた。
- アメリカ合衆国から初めての輸出先として日本に2台の電話機が送られたのが、1877年。翌年には日本製のベル式の1号電話機が完成し、1883年 には工部省電信局長石井忠亮が国営電話事業の必要性を強く訴え建議書を政府に提出し、1890年には東京と横浜を結ぶ電話サービスが開始した。そして1926年から1979年にかけて自動化(ダイヤル式)が進行していく。
その一方でベルは光通信原理の発明者でもある。その事によって「現在実現可能な技術に専念するのが最良の技術者である」とする実用主義者のテーゼは複雑なジレンマを抱え込む事になった。
- ベルは助手のチャールズ・サムナー・テインターと共同でフォトフォン(Photophone)と名付けた無線電話も発明している。光のビームを使って音や声を伝送するものである通信方式であった。
- 1880年6月21日、電波による音声通信が成功する19年前に、ベルの助手が発したメッセージを約213メートル離れた地点のベルが受信に成功している。
- ベルはフォトフォンの原理が自身最大の発明だと考えており、「電話よりも重大な発明」だと記している。実際それは明らかに1980年代より普及の始まった光通信システムの先駆けだったが、その主要特許が発効したのは1880年12月であり、その原理が広く使われる前に失効していたのだった。
*ちなみに光ファイバーケーブル実用化の歴史においてもベル研究所は重要な役割を果たしている。
光ファイバー - Wikipediaその一方で念願のヴォコーダー(vocoder)の発明までは至らなかった。
- もともとのヴォコーダーは音声通信での音声圧縮技術として生まれたもので、アメリカのベル研究所のホーマー・ダッドリー(Homer Dudley)によって1928年に基本的なアイデアが発案された。当時の電信用大陸間横断ケーブルが伝送可能な周波数帯域はせいぜい100Hz程度で、3000~4000Hzの帯域を持つ音声を直接送ることができず、音声をより狭い帯域で送るために考え出された。
- 人間の声は、音源である声帯の音の特性や有声・無声の区別と、咽喉と口腔、鼻腔、舌、歯、唇などの調音機構の共鳴による周波数選択特性でモデル化できる。音声波形はかなり速い振動成分を含むが、調音機構などの動きはそれと比べると比較的緩やかであり、それらを適切にパラメータ化することができれば、必要な帯域を大幅に減らすことができる。
- ダッドリーはこの考え方を元に、音声の周波数スペクトルを複数のチャネルに分けバンドパスフィルタで分析して、声帯の音の基本周期(ピッチ)や有声・無声の区別と共に送り、受信側で音声を合成するチャネルヴォコーダーを1939年に発表した。 また、音声を合成する部分と鍵盤とを組み合わせ、鍵盤演奏型のスピーチシンセサイザーであるヴォーダー(voder)として1939年のニューヨーク・ワールドフェアで一般公開した。 チャネルヴォコーダーは、当時の技術水準では大掛かりな装置となってしまい、また音声の品質が悪く機械的な声になってしまうため、民間で使われることはなかったが、第二次世界大戦中の1943年、チャーチル首相とルーズベルト大統領の秘密会談用の秘話通信システム SIGSALY として実用された。チャネルヴォコーダーはその後デジタル信号処理の技術進歩により、線形予測符号化方式(LPC)やCELP符号化方式などに発展した。
- 音楽の分野では、通信の分野とは反対に、チャネルヴォコーダー特有の機械的な音質(ロボットボイス)を活かし新しい楽器やエフェクターとして利用するために開発が行われた。それ以前から小型のスピーカをのどに取り付けてヴォコーダーのようなエフェクトを実現する Sonovox があり、1940年代には映画やコマーシャルなどで使用されていた。 ヴォコーダーの利用はそれより遅く1960年代以降で、最初はごく一部の電子音楽スタジオでのみ利用された。ミュンヘンのシーメンス電子音楽スタジオ(Siemens-Studio für Elektronische Musik)はその一つで、軍事用に使われていた通信用ヴォコーダーを音楽用に改造し利用していた。 半導体技術を用いたヴォコーダーの最初の例はロバート・モーグによるもので、1968年にバッファロー大学の電子音楽スタジオ用に作成された。
- 音楽用ヴォコーダーが一般に使用されるようになったのは、機械が小型化され普通の音楽スタジオやライブで他の機器と一緒に使用できるようになった1970年代後半で、初期のものとしてはEMS Vocoder や Sennheiser VSM201、Bode Model 7702 などが知られている。 国内でも1970年代末にコルグ VC-10 やローランド VP-330 が発売された。
- 「アニメーションを芸術の域まで高める」事を志向し「ファンタジア(Fantasia、1940年)」において専用音響システムまで開発してしまった(この専用音響システムを受注したオーディオ・メーカーこそが、後に大手パソコン・メーカーとしてその名を轟かせる事になる)ヒューレット・パッカード社)ウォルト・ディズニー・カンパニーは、アナハイムのディズニーランドにおいて1972年に初演されたされたエレクトリカルパレード(Electrical Parade、電球や光ファイバー、発光ダイオードなどを用いて装飾したフロートに乗った出演者が踊りやパフォーマンスを行いながら進む、夜間のパレード)にヴォコーダーを投入。
*イベントプロデューサーを務めたボブ・ジャニが制作を手掛け、基本となるテーマソングはガーション・キングスレイとジャン=ジャック・ペリーによるユニット「ペリー&キングスレイ」が1967年に発表した「バロック・ホウダウン(Baroque Hoedown)」である。パレード採用にあたって、当初はジム・クリステンセンとポール・ビーバーによってアレンジされたものが使用されたが、1977年にドン・ドーシーとジャック・ワグナーによる再アレンジが行われ、カリフォルニアでは2009年頃まで使用された。また、2001年に東京で「ドリームライツ」としてリニューアルして復活した際、テーマソングがグレゴリー・スミスによって大幅にアレンジされている。カリフォルニアでも2009年からこのバージョンが使用され、2010年にマジック・キングダムへ移行されてからも使用され続けている。
*とはいえ「完璧無垢の明るさ」は陰として「完璧無垢の暗さ」も生む。ラナ・レル・デイ(Lana Del Rey)の「ロリータ(Lolita)」のPVは「ファンタジア(Fantasia、1940年)」の田園交響曲や武内直子「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」に提示された「搾取の対象として容認される少女達の性」に鋭いスポットライトを投げかける。考えてみればその範囲を「搾取の対象として容認される少年少女達の性」にまで拡大したのが庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン(Neon Genesis EVANGELION、TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」であり「Love&POP(1998年)」だったのかもしれない。- 坂本龍一がデビューアルバム「千のナイフ(Thousand Knives、1978年)」に投入したのを皮切りにイエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra、1978年〜1983年)もライブステージでの挨拶をボコーダーボイスで行っている。幾つかのライブ盤で確認できる。
*「千のナイフ(Thousand Knives)」…ベルギーの詩人アンリ・ミショーがメスカリン体験を記述した書物『みじめな奇蹟』の冒頭の一節からとられた。ちなみにヴォコーダーが読み上げてるのは毛沢東の詩「久有凌雲志重上井岡山/千里来尋故里/菖貌変新顔/到處鶯歌燕舞/更有澱澱流水/高路入雲端/過了黄洋界/険處不須看/風雷動 族旗飛 是人寧/三十八年遂去 弾指一瞬間/可上九天撹月 可下五際捉鼈/談笑凱歌遂/世上無難事只要肯登欅」で、スターリニズムと新左翼運動が歴史的和解を果たした当時の左翼運動の状況が背景にある。ジャケット写真は高橋幸宏が手掛けたゴルチエのジャケットにリーバイスを組み合わせた最先端のスタイル。こうした独特の美意識は「ソリッド・ステート・サバイバー(Solid State Survivor、1979年)」ジャケットを飾った「真紅の人民服」に継承されていく。
- そして21世紀に入ると国際SNS上での展開をも意識したボーカロイド(Vocaloid)の概念が登場してくる。
VOCALOID - Wikipedia
*その発想の起源がメビウスが世界観のビジュアル的グランド・デザインを手掛けたフランス映画「フィフス・エレメント(仏題Le Cinquième élément、米題The Fifth Element、1997年)」に登場する「歌姫」という展開がこれまた業が深い。そしてこうした電話網を巡る技術革新の波こそがインターネット網の原点、そしてその「絶対音感を備えた盲人によるハッキング」がハッカー文化の原点となっていく。
*「電話網を巡る技術革新の波こそがインターネット網の原点」…実際インターネットの起源となるARPANET(Advanced Research Projects Agency Network、世界で初めて運用されたパケット通信ネットワーク)の構築を主導したのは数多くの音響心理学系エンジニア達であった。
1929年 - 英国放送協会(BBC)がテレビ実験放送開始。
1931年 - NHK技術研究所でテレビの研究開始。
1932年8月 - イギリスで世界初の定期試験放送(機械式、週4日)開始。
1935年 - ドイツで定期試験放送開始。ベルリンオリンピックのテレビ中継が行われる。
1939年3月 - 日本でテレビ実験放送開始。
1939年5月13日 - NHK放送技術研究所による公開実験。
1940年4月13日 - 日本初のテレビドラマ「夕餉前」の実験放送。
1941年3月 - 米国でNTSC方式の白黒テレビ放送開始。
1945年 - 「日本のテレビの父」と言われる高柳健次郎らによって戦前より始められていた日本のテレビ研究が敗戦直後にGHQにより禁止される。
1946年 - 7月に禁止令が解除され、11月よりNHKがテレビ研究を再開。
1950年 - 電波法、放送法、電波監理委員会設置法の電波 3法施行。
1951年 - GHQの要請により電波監理委員会メンバーが視察のため渡米。
*アメリカから3人のコンサルタントが来日。軍事戦略のひとつとして占領国でのテレビ放送利用を重要視していたアメリカの圧力によりアメリカ式の技術標準が日本で採用される。
1953年
- 1月 - シャープが国産第1号のテレビTV3-14Tを発売。
*価格は175,000円。続いて松下電器・ナショナル(現在のパナソニック)の製品が販売される。当時、輸入品のテレビで17インチが25万円、21インチで35万円。公務員の初任給が8,700円、中堅サラリーマンの月給約3万円程度だった時代。
- 2月1日 - 日本放送協会(NHK)のテレビ放送開始
*日本での地上波テレビ放送の開始。- 8月28日 - 日本テレビ、テレビ放送開始(民放での初のテレビ放送の開始)。またテレビ画面が裏返しに映る日本初の放送事故が発生した。
*当時の主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など。白米10kgが680円、銭湯の入浴料が15円程度であった当時、テレビ受像機の価格が非常に高価(20万〜30万円程度)で一般人には買えないため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、土地の名士などの一部の富裕世帯宅、喫茶店、そば屋などが客寄せに設置したテレビを見ていた。
- 12月 - 米国でNTSC方式のカラーテレビ放送規格の成立。
1954年1月23日 - アメリカNBCが、NTSC方式によるカラー本放送開始。
1955年4月1日 - ラジオ東京(KRT・KRテレビ、現:TBSテレビ)がテレビ放送開始。
1956年12月 - NHKのカラーテレビ実験放送開始(UHF帯を使用)。
1957年
- 11月1日 - 日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)設立。
- 11月18日 - 富士テレビジョン設立。
*開局前の1958年12月にフジテレビジョンに改称。- 12月28日 - NHK東京、日本テレビがカラー試験放送開始
*通常テレビのVHF帯。1958年12月23日 - 東京タワーから放送開始。
1959年
*前年1958年からこの年にかけて多くの局が開設され、4月10日の皇太子明仁親王(今上天皇)御成婚の中継をきっかけにテレビ受像機が一般に普及し始める。同時期に、JNNを始めとするニュースネットワークが結成される。
- 1月10日 - NHK教育テレビジョン開局。
- 2月1日 - 日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)開局。
*日本では当初、教育分野へのテレビ利用が検討された為に、教育局、準教育局として開設される局が多かった。- 3月1日 - フジテレビ(略称:CX)開局。
*この頃より、東映を除く映画会社が、テレビへの作品販売や所属俳優の出演を拒否したため、代替としてアメリカ製のホームドラマや西部劇などのテレビ映画が大量に輸入され、各局の主力番組として放送された。この状況は1970年頃まで続き、高い人気を得た作品も少なくない。
1960年9月10日 - カラー本放送開始(NHK=東京、大阪の総合、教育両テレビ、日本テレビ、TBS、読売テレビ、朝日放送)。日立製作所、国産カラーテレビ「ポンパ」を発売。キャッチコピーは「色は日立の御家芸」。
1962年 - テレビ普及台数が1000万台を超える(普及率約50%)。1969年には普及率90%に到達。
1964年4月12日 - 財団法人日本科学技術振興財団テレビ局開局(通称:東京12チャンネル、別名:科学テレビ、略称:TX、後に東京12チャンネルを経てテレビ東京)。
1967年 - PAL・SECAM方式によるカラー放送開始。
1968年1969年 - 日本のテレビ受像機生産台数が世界1位になる。
補足3「インターネットの歴史(1060年代末〜)」
文化史上重要な流れは大まかに言って以下。
- 一般個人への開放が始まったのはHTMLが制定された1990年代以降。ただ2000年代前半までは過渡期でパソコン通信時代まで遡る「掲示板文化」が大きな役割を果たした。
- 2000年代後半以降はV.O.D(Video On Demand)技術の樹立による動画配信の本格化、ブロードキャスト方面の技術革新(Inovation)、SNSの急発展などが重なり交わされるデータも静止画や音声や動画が相応量を占めるに至る。
パソコンやゲーム機へのCD-ROMドライブ搭載が始まった1980年代後半から、インターネットの「マルチメディア化」が本格化する前夜に当たる2000年代前半にかけて「狭間期」が存在する。
- CD−ROMタイトル発表を主舞台とした「ハイパー・メディア・クリエーター(Hyper Media Creator)の時代(1990年代)」
- Web小説、自主制作アニメ、同人ゲームなどが一気に花開いた「インデーズの時代(2000年代前半)」
後世に何も残せなかった「ハイパー・メディア・クリエーター(Hyper Media Creator)の時代(1990年代)」と、2000年代後半以降に新たな成功インフラを伝承した「インデーズの時代(2000年代前半)」。どうしてそうなった?
- ハイパー・メディア・クリエーターが後世に何も残せなかったのは、(CD-ROMドライブを売りたい)ハード・メーカーのパトロネージュを受け、その意向に拘束され過ぎたせいとも。
- むしろ「CD-ROM普及以降の大容量定着」を生かして大きな足跡を残したのは、当時のエロゲーメーカー最大手エルフが放った18禁恋愛アドベンチャーゲーム「同級生(1992年)」や、ゲーム業界がこれに呼応した「ときめきメモリアル(1994年)」に端を発する「美少女ゲーム」の世界だったとも。
- 「インデーズの時代(2000年代前半)」が当時すぐそれと認識されなかったのは「美少女ゲーム」のブームが一貫して続いていたからだったからとも。
しかもこの時代の混乱は、スマート・フォンがFirst Screenとなった2010年代以降も全然決着がついてない。
第三部「グローバル金融取引網の興亡」
南北戦争後、ニューヨークの証券会社は業者間を走って回るメッセンジャーによって取引所の価格情報を得ていた。1867年になるとニューヨーク証券取引所が価格を電信網によって遠隔地に伝えるティッカーテープ(Ticker Tape)を導入したが、初期の機械は動作が遅く「ニューヨーク・タイムズ」から「遅過ぎてメッセンジャー達の失笑を買っている」と揶揄されている。それでもこれが世界初の電子通信システムである事実は動かず「テクノロジーはウォール街から始まる」重要な先例となった。これをまだ若い技師だった頃のトーマス・エジソンがゴールド&ストック・テレグラフ・カンパニーの為に改良したマシン(1867年)は、1929年夏に(ストック・テレグラフ・カンパニーを買収した)ウェスタン・ユニオンとニューヨーク証券取引所が四百万ドルを投じてシステム更新するまで現役であり続けた(それから数ヶ月後の大暴落によって大恐慌が引き起こされる事になる)。そもそも性能に大きな差のある新旧マシンの交代自体に10年近くの歳月が費やされた。「旧機種のトレーダーを出し抜こうとする目論見を予防し、公平を保つ為に」全てのマシンの入れ替えが完了するまで新機種は旧機種と同じ速度での稼働が義務付けられていた。
一方、機種変更完了を契機にウェスタンユニオンが月25ドルに据え置かれてきた使用料を十年ぶりに値上げすると発表して以降「情報を得る為のコスト」は加速度的に上がり続ける。
- HFT(High Frequency Trade、コンピュータを使った金融市場での高速売買)の真の意味での草分けは1970年から1973年にかけてジョー・リッチー(元刑務所の看守で心理学の学位を持ち、証券取引会社「Commodity Research and Trading(CRT)」を立ち上げニューヨークとシカゴの取引所で銀を取引していた人物)が展開した「電話取引(ニューヨークとシカゴの相場をお互いに逐一伝え合い「ズレ」が生じた瞬間に安いほうの市場で注文を入れ、高いほうの市場で売りの決済を入れる方式。目の前にある現実の価格差を利用して利ザヤを設ける必勝法)」とされている。コンピューター導入による取引所集中化が進んでいなかった当時は地方ごと、都市ごとに取引所が存在するのが一般的で、ウォール街のあるニューヨークだけでなくシカゴ・ボストン・フィラデルフィア・サンフランシスコといった大都市はもちろん、ハートフォードやスポケーン、さらにはアメリカ本土から遠く離れたハワイの州都・ホノルルといった地方都市でも取引が活発に行われていたのである。そして各地で取引される証券の価格にはわずかな「ズレ」が存在する事を利用してこの商法が成立した訳だが「取引所内に電話を持ち込んだ唯一の業者」なるアドバンテージは当然模倣業者を続出させ、長く続く事はなかったのだった。
- そしてこの概念をインターネットに応用したTradeworxとMcKayは現在ニューヨークとシカゴ(先物取引の中心地)を結ぶ通信速度を競い合っている。どちらも光ファイバーでは(直線距離でないので)遅い、と考え、シカゴ-ニューヨーク間をマイクロ波で通信。McKayは9ミリ秒、Tradeworxは8.5ミリ秒でデータが往復出来るとされている。Tradeworxによれば、そのインフラを維持するコストは年間25万ドル。マイクロ波通信は天候の影響などを受けやすく「信頼性が低い」と見る向きもあるが、McKayの共同創始者ボブ・ミード(元ハーバード大学の物理学者)によれば「信頼性が低くても99%の場合勝てる。(通信が遅ければ)100%負ける」と豪語する。2014年までにロンドンー東京間を北極海を通って結ぶ光ファイバー回線が開通する予定で、今まで230ミリ秒かかっていたのが最速155ミリ秒になるといわれている。
HFTの何が問題なのか?|2014年7月号|金融ITフォーカス|刊行物|NRI Financial Solutionsコンピューターのプログラムにより株の自動取引を行う「アルゴリズム取引」の一種。「ハイ・フリークエンシー・トレーディング」の頭文字をとったもので、日本では「超高速取引」「高頻度売買」「超高速売買」などと表現される。高速処理のコンピューターを駆使してミリ(1000分の1)秒単位で膨大な売買小口売買を行い、わずかな価格差を利用して利益を得ようとするもの。対象は株式だけでなく、外国為替や各種先物取引など多伎にわたる。2008年には、大手ヘッジファンドが、HFTを行う関連会社を通じて約10億ドルの利益をあげていたことが判明。11年には、HFT投資家が欧米を中心に200社を超えたとされ、米国ではHFTが原因とされる株式急落が度々発生している。13年5月に始まった日本の株価の乱高下の一因とも分析されている。
日本においても、2010年の東証の新株式取引システム「アローヘッド」の稼働以後HFTの利用が可能となり、最近では取引高の15~20%程度がHFTによるものではないかといった推計がなされている。- ダニエル・スパイヴィ率いるスプレッド・ネットワーク(Spread Networks)社はシカゴの先物とNYの現物との情報の速度を千分の4秒縮める為に既存鉄道網を無視する事で160km短いルートにダークファイバーを通し、他社の十倍に当たる年300万ドルの通信料金を提示する。
- 不公平といえば不公平だが、金融市場からの強い働きかけがなければ(口コミから伝書鳩、電報、電話、テレビ、ウェブ、そしてダークファイバー網に至る)我々の情報伝達手段の進化はもっと遅いペースで進行していたに違いない。(「電話の父」グラハム・ベルが先鞭をつけた)光速通信なしにクラウド・コンピューティングの発展はなく、かつまたリモート状態のサーバーやコンピューターを使ってどこでもサービスが受けられるクラウド・コンピューティングなしにアルゴリズムの全知全能化は達成出来なかった。
だがこの流れにも新たな変化が訪れる。2008年9月15日、リーマン・ショック開始。1980年代よりウォール街で優遇されてきたクオンツ(統計分析家)が以降、HFT(High frequency trading) やアルゴリズム取引暴走の倫理的責任を押し付けられる不安を感じる様になったとも、不況のせいで待遇が悪化したともいわれている。そして2010年末以降、ウォール・ストリートからデータ・エンジニアの大量離脱が始まる。
さて「次の段階」は如何なる事に?