AMERICAN ELdRITCH: A coloring of a Howard V Brown illustration for...
「生きた文化」というのは概ねそうですが、1930年代米国における錯綜ぶりには凄まじいものがあります。 世界恐慌発生(1929年)発生による進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)終焉の余波とも。
*ここで気をつけなければいけないのは、そもそも「進歩主義時代」なる歴史区分を提唱した一人が(1930年代にアメリカ共産党に魅了されて入党し、かつ1930年代末に絶望して脱退した)ニューヨーク知識人を代表する一人、リチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter、1916年〜1970年)だったという事。
「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」なる新ジャンルを創設したH.P.ラブクラフト(Howard Phillips Lovecraft、1890年〜1937年)は共産主義への共感を惜しみなく書き残しています。その一方で一緒に「宇宙的恐怖」を盛り上げたクラーク・アシュトン・スミス(Clark Ashton Smith、1893年〜1961年)は生涯反共的思想を貫いたといいます。まぁ、そういう政治的立場を超えた紐帯が成立していたのが1930年代米国文化の特徴だったのです。
そして、ここに日本人が見逃しがちなファクターが加わる訳です。
アメリカのマルクス主義というと実はSFなんかに受け継がれている。マルクス主義の継承者が他ならぬサイボーグフェミニズムのダナ・ハラウェイではないか。 https://t.co/SER0iNTGtD
— 猫屋レオ丸 (@Leonidas0727) 2016年11月2日
“never change” - Ree Artwork (rvsalochka)
ダナ・ハラウェイ(Donna Jeanne Haraway, 1944年〜)
アメリカ合衆国の学者。カリフォルニア大学サンタクルーズ校名誉教授。
コロラド州デンバー生まれ。コロラドカレッジ卒業。フルブライト奨学生としてパリ大学留学を経て、イェール大学大学院に進学し、当初は実験生物学を専攻。後に科学史に転じ、1972年、博士号取得。ハワイ大学(1971-74)、ジョンズ・ホプキンス大学(1974-80)を経て、1980年より現職。
科学技術の進展をフェミニズムおよびジェンダーの視点で考察している。またドイツの「マルクス主義事典」では「ジェンダー」を執筆。なお、アニメーション映画「イノセンス」に「ハラウェイ」というキャラクターが登場する。
- Crystals, Fabrics, and Fields: Metaphors of Organicism in Twentieth-Century Developmental Biology, (Yale University Press , 1976年)
- 巽孝之・小谷真理訳(サミュエル・R・ディレイニー, ジェシカ・アマンダ・サーモンスン)「サイボーグ・フェミニズム(A Cyborg Manifesto、1985年、邦訳1991年、増補版邦訳2001年)」
- Primate Visions: Gender, Race, and Nature in the World of Modern Science, (Routledge, 1989年)
- 高橋さきの訳「猿と女とサイボーグ――自然の再発明(Simians, Cyborgs and Women: the Reinvention of Nature(Routledge, 1991年、邦訳2000年)」
- Modest_Witness@Second_Millennium.FemaleMan_Meets_OncoMouse: Feminism and Technoscience(Routledge, 1997年)
- 高橋透・北村有紀子訳、対談集「サイボーグ・ダイアローグズ(How Like a Leaf: An Interview with Thyrza Nichols Goodeve,、2000年、邦訳水2007年)」
- 永野文香・波戸岡景太訳「伴侶種宣言――犬と人の「重要な他者性」(The Companion Species Manifesto: Dogs, People, and Significant Otherness、2003年、邦訳2013年)」
- 論文集The Haraway Reader, (Routledge, 2004)
- 高橋さきの訳「犬と人が出会うとき――異種協働のポリティクス(When Species Meet、2008年、邦訳2013年)」
1140夜『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ|松岡正剛の千夜千冊
本書には1978年から1989年までに執筆した文章がずらりと並んでいる。生物学者としてのフェミニストが科学について発言したものとしては、ごく初期にあたるのだが、そのラディカルな論旨と大胆でメタフォリカルな飛躍力で評判になった。
ダナ・ハラウェイは本書で「猿」をめぐる言説としてサル学や霊長類学を、「女」をめぐる言説としてフェミニズム思想を、「サイボーグ」をめぐる言説として道具や科学技術を俎上にのせたのだ。そして、それをつないだ。
なぜ、そんなことをしたかといえば、その答えは第9章に書いてあるのだが、アカデミックなフェミニズムも運動するフェミニズムも、何度も「我々」とは何を意味するのかを問い、ついつい「客観性」という奇妙な用語で折り合いをつけようとしてきたのは、それでよかったのかとハラウェイが感じていたからだ。
もともとは「彼ら」が客観性を持ち出した。その客観性による説明は「我々」にはあたかも身体も生体もないかのようなロジックをつくっていた。それが知識社会をくまなくつくりあげているストロング・プログラムというものだった。しかし「我々」は、そこに我々ぶんの客観性をもって答えるだけでいいのだろうか。逆に、我々ぶんの「フェミニズムの経験主義」で応戦するだけでいいのだろうか。
こうしてハラウェイは「状況におかれた知」(シチェイテッド・ナレッジ)によって客観性を標榜する科学をひとつひとつ検討していったのだ。とくにハラウェイの得意な動物学や生物学において。そして、「状況におかれた知」はもっとバルネラブル(vulnerable:脆弱)なのではないかと問うた。
いったいわれわれ(我々だけでなく)においては、どこがナマなのかということが、最も重大な問題なのである。眼鏡をかけた目はナマなのか。靴を履いた足は大地や環境に対してナマなのか。いや、靴の足はわれわれにとってナマなのか。顕微鏡で見た精子は精子の本来の動きなのか。数字の配列にした離婚曲線はナマなのか。それは科学にとってもナマなのか。マルクス主義で見た社会の姿はナマなのか。
同様に、オスの猛々しさを"男の動物"として観察することはナマなのか。メスの柔らかさや子育てを女性の女らしさを結びつける見方はナマなのか。キャサリン・マキノンが「女性とは、想像上の形象、すなわち他の者の欲望の対象が現実になったものだ」と定義したように、ハラウェイも自然や社会を純粋なジェンダーの目でナマに見ることそのものが不可能に近くなっていることを、深刻に受けとめている。
本書にはハラウェイがドイツの『マルクス主義事典』の「ジェンダー」の項目のために書きおろした長めの論文も収録されているのだが、そこでハラウェイは自分が英語圏の人間で(それもアメリカ英語の常習者で)、そのためふだんからセックスとジェンダーを区分けしてつかっているけれど、それがはたしてドイツ語では"Geschlecht"の一語によってあらわされているものと同じ意味で感じられているのだろうかという自身への問いかけをおこしている。いかにジェンダーの本来のままに言語をつかった思考が純度高く積み上げられていけるのか、その困難にもふれている。
これがハラウェイの「猿」に次ぐ「女」なのだ。ここには女ではあるけれど、ハラウェイの科学者としての真摯な自負がある。それとともに、科学があまりに言葉と生体の関係をぞんざいに扱ってきた怒りのようなものもある。科学者どうしが社会的合理や職能的合理の蓑笠をつけていることに、おまえたちも、ストリップしてみなよと言いたい気分も漲っていた。もっと吃りなさいとも言った。
しかし、旧弊に座りこんだままの科学者は杳として動かない。そこでハラウェイはさらに次の作戦に出る。ええいっと、ぶっ飛んだ。あなたがたがそういう態度なら、われわれは自分たちのことを「言語をもったサイボーグ」とみなしたほうがいいのではないか。そのほうが手っとりばやいのではないか。そう出たのだ。
これが有名なダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」になった。1985年に「社会主義評論」に書いたものだ。サイボーグとは生物学的決定論の軛(くびき)を脱したサイバネティック・オーガニズムの総体をさす。道具や機械と共生するハイブリッドなキマイラのことである。眼鏡をかけたらもうサイボーグ、靴を履いたらもうサイボーグ、ピアノを聞けたらもうサイボーグ、数字を読めるならもうサイボーグ、なのだ。ハラウェイは「サイボーグはポストジェンダー社会の生きものである」とさえ言った。
こうしてハラウェイは「猿と女とサイボーグ」ではなくて、「猿と女のサイボーグ」になっていく。
よく耳を澄ましてみると、サイボーグはホーリズムには警戒しているが、関係をとりむすぶことは切望する。サイボーグはよろこんで部分とアイロニーと邪悪に関与する。サイボーグはとうてい公私の対立では構成されてはいない。サイボーグはよしんば家庭を創成することはあっても、よもや家庭から守られようとは思っていない。
そんなサイボーグが敬虔主義者とはかぎらないのは、宇宙を構成しなおす気がまったくないからだ。サイボーグは軍国主義と家父長制資本主義とにうんざりし、いまさらエディプス・コンプレックスなんぞをあてはめられるのを気嫌いをする。つまりはサイボーグには父親が不要なのである!
こうしてハラウェイの勇ましいサイボーグの呟きが聞こえてくる。
ハラウェイの「猿と女のサイボーグ」は、動物とも機械とも交わっているナマのサイボーグであって、いつだってどんな部分を強調することも、どんな矛盾を抱えることも、どんなにバルネラブルになることも恐れない。そして経験主義にも還元主義にも相対主義にも与さず、そのうえで普遍的合理性よりエスノフィロソフィー(民族哲学)を、共通言語より言語混淆状態(ヘテログロッシア)を、新機関よりも脱構築を、統一理論より対抗的位置設定を、世界システムよりローカルな知を、どんなマスター理論より網の目状の記述を選ぶ。
ダナ・ハラウェイ(1944-)が85年に雑誌『社会主義評論』に発表した論文。後に単行本『猿と女とサイボーグ』(1991)に収録される。ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に代表されるサイバーパンクの黎明期に発表されたこの論文は、「すでに現代人はキメラ(=サイボーグ)になってしまった」といった大胆かつ刺激的な命題によって、その後の「サイボーグ・フェミニズム」と呼ばれる動向に決定的な指針を与えた。ハラウェイの「サイボーグ宣言」がフェミニズムと接続しえた第一の理由は、「機械と生物の混合体(=サイボーグ)としての人間」という非自然主義的な人間観が、男女の性差を前提とした生殖=再生産のモデルに対する批判として機能するからである。「サイボーグは、脱性差時代の世界の産物である」という強力な断定を各所に散りばめたハラウェイの議論は、狭義のフェミニズムやポストモダンの議論にはとどまらず広く人口に膾炙しており、アーティストのなかにもハラウェイからの影響を明言する者は少なくない。直接的な交流としては、画家のリン・ランドルフが彼女の著作に挿画を多数提供している。
自然/文化の二元論を批判しつつ、物質性と記号作用を連関させて論を進めるハラウェイの関心は近年、犬を中心とした動物との関係に向けられている。『伴侶種宣言』(2003)や『犬と人が出会うとき』(2007)といった一連の著作の中で提示されたのが「伴侶種」概念である。
「伴侶種」概念を用いながら直接的に論じられているのは、異種間に存在する「重要な/著しい他者性」を踏まえた上で、われわれは他の種とどのような非‐人間中心主義的な関係を結ぶことができるか、という種間関係における共生・協働の倫理である。しかしそれは、自然環境や生態系をめぐる既存の議論の射程を大きく超えるものである。
ハラウェイは既存の動物・生命倫理との距離感を示しながら、実験における動物と人間の使用関係やバイオテクノロジーによる生命に対して、肯定的な意味を見出している。しかしそれは楽観的な科学技術の是認ではなく、科学的知見に立脚しつつ存在論や関係性の観点から世界を考察する、科学技術/社会の二元論の内破の試みである。この内破は、人と動物の共進化や相互作用の中に混淆性や親密性を見出すところにも表れている。
本発表では、「生(bio-)」の領域がかつてないほど問題となっている現在において、いかに自らと異なった存在と関係性を築いていくのか、という問題に対する視座のひとつとして「伴侶種」が持つ意義を指摘する。
*彼女の観点はむしろこちらの話につながっていく?
これでもラディカル・フェミニズムの急進性を随分薄めた方だったりします。
Pro-life feminists were out in full force... | Life Matters
ラディカル・フェミニズム(radical feminism)
ケイト・ミレット「性の政治学(Sexual Politics 、1970年)」、シュラミス・ファイアーストーン「性の弁証法(The Dialectic of Sex、1970年)」を思想的支柱とする。
- ミレットは「家父長制」を男性が女性に性的従属を強いるシステムであると定義し、これが私的領域から公的領域に至るまで影響を及ぼしていると批判。男女の性差は家父長制の産物であるとした。またファイアーストーンは、女性の生殖能力も男性優位を前提とした階層構造を発展・維持させている要因であると論じている。こうした急進的な思想は、アンドレア・ドウォーキンらによって更なる発展を遂げ、一定の影響力を持った。
- ラディカル・フェミニズムを端的に象徴するものとしてポルノグラフィ撲滅運動がある。ラディカル・フェミニストは、ポルノグラフィに出演した女性の被害例(身体的・精神的暴力を伴う撮影など)や、ポルノグラフィが男性による性犯罪・ドメスティックバイオレンス・セクシャルハラスメントを助長するとした強力効果論を挙げ、またポルノグラフィの存在を社会的に容認することは女性蔑視を再生産するものであり、女性解放の障害になっていると主張して、厳罰を伴う法的規制を求めている。1980年代にキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンらが展開した「反ポルノグラフィ公民権条例反ポルノグラフィ公民権条例(Antipornography Civil Rights Ordinance)」運動は特に有名であり、ポルノ・買春問題研究会などの日本のラディカル・フェミニズム団体に多大な影響を与えている。
しかしポルノグラフィ撲滅運動などは、純潔思想からポルノグラフィを糾弾している保守系議員やキリスト教原理主義団体といったアンチフェミニズム・アンチジェンダーフリー勢力と連携して行われるケースが多く、具体的な人権侵害行為を伴わないポルノグラフィに対する法的規制には慎重な姿勢を見せているジュディス・バトラーやナディーン・ストロッセンなどのリベラル・フェミニストとは対立関係にある。
アンドレア・リタ・ドウォーキン(Andrea Rita Dworkin、1946年〜2005年)
アメリカ合衆国の法哲学者、ノンフィクション作家。ニュージャージー州カムデン生まれ。ユダヤ系。
- 1960年代から平和運動やアナーキズムに関わるが、左翼の中にもひそむ女性への暴力に気づく。オランダに渡り、結婚生活を送るが、夫からの暴力を受け、1970年代初頭よりラディカル・フェミニストとして活発に活動するようになる。
- ポルノや売春の暴力性を訴え、キャサリン・マッキノンとともに反ポルノグラフィ運動を行う。文芸批評においても、男性作家達がレイプや性暴力をエロティックに肯定していると糾弾。
- 例えば著書「ポルノグラフィ―女を所有する男達」では、以下のように書いている。「結婚とはレイプを正当化する制度。レイプは本来、婦女を無理矢理連れ去るという意味だが、連れ去って捕虜にすると結婚になる。 結婚とは捕虜である状態の拡大延長。略奪者による使用のみならず所有を意味する」「家族という孤立した小単位に分断されることにより、人々は共通利益のために一致団結して闘うことができなくなった」
- 晩年は変形性膝関節症や血栓などの病気に悩まされ、2005年にワシントンD.C.の自宅で睡眠中に心筋炎により死去。
ラディカル・フェミニズムを象徴する人物であるが、その急進的な主張には反フェミニズムのみならずリベラル・フェミニズムからも批判を受けている。その一方で共感や支持も少なくないのも確かである。
キャサリン・マッキノン(Catharine MacKinnon、1946年〜)
アメリカ合衆国の弁護士、ミシガン大学ロー・スクール教授。セクシャルハラスメント問題の第一人者として知られる。
- 1946年10月7日に、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスに生まれた。父親のジョージ・E・マッキノンは弁護士であり、元下院議員。
- イェール大学ロースクールで弁護士資格を取得後、1970年代半ばより、法学者のアンドレア・ドウォーキンらと共に、セクシャルハラスメントという概念を明確化させ、法規制を求める運動を行った。また同時に、女性の人権を侵害し、性犯罪を助長するものだとして、ポルノグラフィに対する法規制を求める運動も行う。
- 1982年からミネソタ州ミネアポリス市議会に働きかけ、性差別を扇動する内容のポルノグラフィを禁止する「反ポルノグラフィ公民権条例(Antipornography Civil Rights Ordinance)」の制定を目指したが、市長が拒否権を行使した為に不成立に終わる。
- 1989年より、ミシガン大学の教官に従事している。ミシガン大学ロー・スクール教授。1995年には、講演の為に来日したことがある。
弁護士としては、セクシャルハラスメントをめぐる様々な裁判の他に、1986年に米連邦最高裁によって違憲判断が下されたインディアナポリス市の反ポルノグラフィ公民権条例の有効性を訴えた裁判や、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~1995年)で集団強姦されたとする5名の女性を原告として、スルプスカ共和国の元大統領であるラドヴァン・カラジッチを訴えた裁判などを手がけた。
日本への影響力はむしろ以下の様な傍流の流れの方が大きかった様です。またセクハラの概念が広まって定着したのも1980年代においてでした。
Three of wands from the Barbara Walker Tarot
バーバラ・ウォーカー(Barbara G. Walker、1930年〜)
ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。ペンシルベニア大学で新聞学を修め、ワシントンD.C.のワシントン・スターで働き始めた。1970年代中頃、地域の身の上相談電話係として働く中、虐待を受ける女性や妊娠した若年者を救うためにフェミニズムに関心を抱き始めた。
- 主著書は「失われた女神たちの復権(The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets、1983年)」。新石器時代の原インド・ヨーロッパ人 (en:Pre-Indo-European) 社会に母権社会(matriarchy)が存在していたと信じており、ネオペイガニズムの観点から宗教、神話、文化人類学、スピリチュアリティに関して論じている。これら新石器時代の母権社会について論ずる際にはしばしば地母神のイメージを持ち出し、それが男権社会に上書きされたと指摘する。
ギリシア神話・伝説ノート
- 「The Skeptical Feminist: Discovering the Virgin, Mother, and Crone(1987年)」の中で自分自身はいずれの神も信仰していない無神論者であると述べているが、その一方で人々、特に女性が、彼女たちの日々の生活に女神のイメージを活かすことは可能だと信じている。「Woman's Rituals: A Sourcebook(1990年)」は、その為の「瞑想術(meditation techniques)」実践の試みであり、また他の女性が同じ「瞑想術」を行うための指南書でもある。
- 彼女はまた影響力のある手編み (knitting) の専門家でもあり、1960年代から1970年代にかけて手編みのパターンを研究した百科辞典のような参考書を残している。これには一千を越す異なったパターンが載っており、かつまた西洋の伝統的な編み物ではよく用いられている裾から上へと編んでいくやり方ではなく、首回りから裾下へと編んでいくやり方で上着を編んだり、モザイク風に多色模様を編むという方法が考究されている。その後も手編みに関する書籍への新たな寄稿や、1990年代中頃から始まった多くの著作の再版を続けている。
1993年にアメリカ人道主義協会(American Humanist Association)によって「人道主義のヒロイン(Humanist Heroine)」 に選ばれ、1995年には「女性史を作りあげた女性(Women Making Herstory)」という賞をニュージャージーの全米女性機構(NOW)から貰い受けている。
「ピーターパン症候群(Peter Pan Syndrome、1983年、邦訳1984年)」「ウェンディ・ジレンマ(Wendy Dilemma、1984年、邦訳1984年)」
アメリカ合衆国の心理学者ダン・カイリーの著作にして、そこで指摘されたパーソナリティ障害の一種。
- ピーターパン症候群患者は「大人という年齢に達しているにもかかわらず精神的に大人にならない男性」「成長する事を拒む男性」として定義される。心理学的なアプローチとしては言動が「子供っぽい」という代表的な特徴をはじめ、精神的・社会的・性的な部分にリンクして問題を引き起こし易いという事が挙げられている。過去に解析されてきた事象のほとんどでその症状に陥ったと思われる人物が「男性」であるという点もこの症候群が男性にのみ訪れるという特色を示している。人間的に未熟でナルシズムに走る傾向を持っており『自己中心的』『無責任』『反抗的』『依存的』『怒り易い』『ずる賢い』というまさに子供同等の水準に意識が停滞しており、ゆえにその人物の価値観は「大人」の見識が支配する世間一般の常識や法律を蔑ろにしてしまうこともあり、社会生活への適応は困難になり易く必然的に孤立してしまうことが多い。また母親に甘えている時や甘えたいと欲している時に、母性の必要を演じる傾向も持ち合わせている。(所謂幼児回帰の要素も含んでいる)。これらの症状に陥る条件としては、近親者による過保護への依存、マザーコンプレックスの延長、幼少期に受けた苛めもしくは虐待による過度なストレス、社会的な束縛感・孤立感・劣等感からの逃避願望、物理的なものでは脳の成長障害なども関係しているのではないかと諸説が唱えられているものの、現段階での学識的な因果関係としてはあくまで推測の域である。
- 一方対となる「ウェンディ」は、年齢的には大人の「少女」で、「ピーターパン」の母親的役割を演じる人の事を指す。誰かに頼っているカップル同士の関係の中で「ウェンディ(少女)」が「ピーターパン(少年)」に行う事柄は、時に不満がこぼされることもあるが過保護で独占的で、彼女はいわば「殉教者」のようなものであると述べた。完全に精神的に自立した「ティンカーベル」を対概念とする。
ウェンディ―ジレンマ「誰でも持っている問題の一種」であり、心理学・精神医学の正式な用語ではない。従ってアメリカ精神医学会出版の「精神疾患診断統計マニュアル」には記載されていない。
日本のエンターテイメント業界における動きも、また独自展開を辿ります。
- 主催者たる竹宮恵子自身が「当時の学生運動が内在する男女差別に幻滅して漫画に専念する様になった」経緯からか、大泉サロン/24年組は海外のフェミニズム運動の影響を色濃く受けた。ただし彼女らの権威主義そのものへの懐疑は筋金入りで「父権主義を母権主義に差し替えればすべてうまくいく」と楽観的に考えるラディカル・フェミニズムに安易に賛同する動きは見せなかったし、その一方で自らが腐女子・貴腐人だった影響で今日世界規模でサブカル界において支配的な「男子が想像の中で美少女や美女に何をしようが我々は感知しない。我々が想像の中で美少年やイケメンに何をしようが感知しない限り」なる「平等ルール」による線引きの先駆者ともなった。
*ちなみに海外において「フェミニズムの影響を色濃く受けた」と評価されているのは吉田秋生「吉祥天女(1983年〜1984年)」、CLAMP「ちょびっツ(Chobits、2000年〜2002年、アニメ化2002年)」、片渕須直監督作品「アレーテ姫(Princess Arete、2001年)」あたりで同じ片渕須直監督作品の「この世界の片隅に(2016年)」も、この筋の注目を集めたりしている。
just another "tortured" artist | i fucking love sumomo
hourglass of stardust, Oh, my. You still believe life has some...
- アーシュラ.K.ル=グウィン(Ursula Kroeber Le Guin、1929年〜)の薫陶を受けた宮崎駿監督映画「風の谷のナウシカ(1984年)」が大ヒットし、ヒロインのナウシカが環境保護派のシンボルに祭り上げられる。
*宮崎駿自身はこの展開を嫌い漫画版「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」を次第にその路線から逸脱させていく。その一方でル=グウィンも1990年代に入るとTV系サイバーパンク作家陣同様に「中年危機」に突入。
- そもそも日本では1970年代のうちに父権主義の問題について一応の片が付き、1990年代までに完全に過去のものとなった感がある。
新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より
どうして父親は娘から嫌われるのか?
①昭和型マチズモ
*1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。- 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
- 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。
- 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。
②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
*「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す- 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
- 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
- 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
- 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
- ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
- 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」
要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。
一方、 アメリカの1980年代にもいろいろありました。
1970年代後半のアメリカはヒッピー文化に連動したアメリカン・ニューシネマ(New Horrywood)運動が終焉したり、イーグルスが「ホテル・カリフォルニア(Hotel California、1976年)」で「ロックの商業化」を嘆いたり、「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」以降カルト教団への嫌悪感が強まったりと「旧世代」にとっては「世界の終わり」を間近に感じる実に暗鬱とした時代だった。
しかしその一方では南イタリア系映画人がシルヴェスター・スタローン主演脚本作品「ロッキー(Rocky、1976年)」やジョン・トラボルタ主演作品「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever、1977年)」「ステイン・アライブ(Staying Alive、1983年)」を次々と成功させ「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望(1977年 )」「スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲(1980年)」 「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還(1983年)」が大ヒットとなるまさに「New Hope登場」の時代でもあったのである。
かくして1980年代前半のアメリカは未曾有の「青春ロック映画」ブームを迎える事になりました。そもそもハリウッド映画界が「世界観の中心にしっかりタナトス(Thanatos、死の誘惑)が居座るが、それが巧みにキャンディ・コーティングされているせいで奇跡的に成立しているラブストーリー」の供給に手を染めたのはこの時期以降とも。代表作としては「タイムズ・スクェア(Times Square、1980年)」「愛と青春の旅だち(An Officer and a Gentleman、1982年)」「ストリート・オブ・ファイヤー(Streets of Fire、1984年)」あたり。それはまさに1970年代までは嫌悪の対象に過ぎなかった「商業主義/大衆消費文化の勝利」に塗りつぶされていく時代でもあった。
「エクソシスト(The Exorcist、1973年)」の段階では「思春期に入った少女が見せる奇矯な振る舞い」を「悪魔憑き」として描けなかったのに比べると大した進歩。
そしてこの流れがマドンナの「ライク・ア・ヴァージン(Like a Virgin、1984年)」やシンディ・ローパーの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン(Girls Just Want to Have Fun、1984年)」の大ヒットにつながっていく。そして、こうした高揚感を背景にラディカル・フェミニスト(第2次フェミニスト)の眉をひそめさせる「第3次フェミニスト」の形成が始まる訳である。
この波にそれまでアンダーグラウンド界に逼塞してきたデビッド・ボーイやニュー・ロマンティック系バンドなども便乗。メイン・ストリームの境界線を実に曖昧なものにしてしまう。
「第2次」が終わったと私が考えているのが、ERA(男女平等を定める憲法修正案)を求める運動が失敗に終わった83年です。時を同じくしてアカデミアでもポストモダニズムが爆発的に流行し、フェミニズムは古い考えとされてしまいます。レーガンという保守主義の大統領の元、アメリカの社会政策は後退を続け、第2次フェミニストの多くは80年代を闇の時代と考えています。
この時代のフェミニズムの弱体化を説明するのに、Susan Faludiは本のタイトルとなった「バックラッシュ(反動)」(1991)という言葉を使いますが、これは単に男性が女性を抑圧しているという単純なモデルではないんですね。そうではなく、女性が男性優位の価値観を内部化した事がバックラッシュの正体である、とし、Faludiの批判は後期ラディカルフェミニズムに向かいます。同時期のNaomi Wolf「The Beauty Myth」(1992)でも、「ダイエットに励む女性はマインドコントロールされたカルト信者と同じ」といった具合に同じモチーフが繰り返されます。
ところが「第3次」にとっては80年代は単に闇の時代ではないんですね。女性の大学進学率がはじめて男性を追い抜いたのは80年代だし、この80年代当初、同じ仕事をしても男性の6割しか稼いでいなかった女性の賃金が、男性の7割をはるかに超えたのもこの時代だったんです。だから、70年代の高揚の後から来た第3次の世代にとっては、80年代はただ単に闇だった訳ではなくて、70年代に運動で勝ち取った新しい力をどこまで使えるか実験してみた時代だったんです。その時代認識がまず全然違う。これは、どうしようもない世代間の感覚の差です。
*要するに1960年代に黒人公民権運動の勝利があって、1970年代前半にパム・グリアをスターダムにのし上げたBlaxploitation Movieの大ヒットがあったみたいな展開?
全体像を整理してみましょう。
- 1970年代から1980年代にかけて猛威を振るったラディカル・フェミニズムには「科学的マルクス主義の代替物」という側面もあったせいか権威主義や禁欲主義(女性らしさへの嫌悪)に対する執着心が強く、むしろ保守派キリスト教との共闘が成立したりする。
*トランプ候補勝利後のアメリカでじわじわとトレンドとなりつつある「(運動の強度を維持する為の)極左と極右の接近」の先駆けみたいなもの?
*これに対抗する形でリベラル・フェミニズム(liberal feminism)が次第に形成されていくが、国際SNS上の関心空間における女性アカウントの評判は必ずしも良くない。関連アカウントが「言葉狩り」に代表される様なリベラル勢のオルタナ左翼(Alt-Left)化に加担してきた経緯があるせいで「何でも政治に結び付けようとする点では他のリベラル勢力と同類」程度の認識に留まる側面も。
*ただ「Pink Tax許すまじ!!」みたいな話題を振られるとちゃんと乗るので別に扉を閉ざしっ放しという訳でもないらしい。
- 一方、同時期日本で流行したフェミニズムは「父権制も母権制も権威主義体制には変わらない」「男子が想像の中で美少女や美女に何をしようが我々は感知しない。我々が想像の中で美少年やイケメンに何をしようが感知しない限り」といった独自テーゼを次々と生み出し国際SNS上の関心空間における女性アカウントの支持率も高く1980年代頃から米国で形成が始まった第3次フェミニズムの波とも上手く合流。こちらの流れは「(自分を人形の様な存在に変えてしまう)自分自身という殻を破りたい」「(カント哲学でいう「物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)」を想起させる「他者性」を備えた)夢が自分を導く」といった発想に行き着く様で、ここまでくるともう(女性による女性の為の女性の)フェミニズム思想たる必然性がどこに存在するかも分からない。
*そもそも日本では大半の人が「この世界の片隅に」をフェミニズム映画として鑑賞してない。
アリーテ姫 https://t.co/DZhUf4mU7u 片渕監督の長編第1作。「この世界の片隅に」パンフでは、両方に”ある種のフェミニズム的問題意識への接続”があり、名を変えられ少女から女性に変えられながら自分を取り戻していく話としての捉え返し、リメイクの様な所がある…と。
— 田川滋 (@kakitama) 2016年11月13日「この世界の片隅に」はフェミニズム物といえるくらいど真ん中に「女の居場所」というテーマを扱っているのだけど、あんまりその事を正面から感想で語る人がいないのは持て余してるから?
— 小池倫太郎 (@butayamagoriko) 2016年12月18日*こうした流れの延長線上にこんな展開も。
*政治的原理主義と結びついた「日本のラディカル・フェミニズムの系譜」はこうしたメインストリームとは全く独立して存在してきた。はっきりいって「支持者が集まらないから、どんどん過激化してきた」ジレンマすら感じる。
ところでこれまでちらほら記述の端々に登場してきた「フェミニズム運動と父権性の確執」は「アメリカン・ルネサンス(American Renaissance、1830年代〜1870年代)」まで遡れたりする様です。
山本孝司「マーガレット・フラー(Sarah Margaret Fuller, 1810年〜1850年)超越主義思想の一断面」
超越主義に与した女性思想家のうちの一人であり、社会運動のうち女性解放運動で特に影響力をもった人物。彼女の社会問題に関する意識は,具体的には階級,人種,性別によらない大衆(「コモン・マン」common man)によって構成される社会(性別によらない民主政治の実現)へと造りかえることと関連していたが,こうした思想は当時のアメリカ国内においては先進的であった。ロマン主義的色彩の強かった超越主義のメンバーのなかで,1840年代の時点で国家的規模での社会制度変革の試みを経験した人物といえる。
“If you have knowledge let others light their...
- 1810年5月23日、父ティモシー・フラー(Timothy Fuller)と母マーガレット・クレイン(Margaret Crane)の第一子としてボストン近郊にあるケンブリッジポートで生まれる。他にジュリアン,ユージン,ウィリアム,エレン,アーサー,リチャード,ジェームス,エドワードの二人妹六弟がいた。
- キャパーによる伝記によると,幼少期における彼女に対する家庭教育は当時としてはユニークなものだった。フラーの父ティモシーはハーバード出身。1817年から1818年にかけてワシントンで代議士を務めた人物であり、長女フラーに徹底した知的英才教育を施す。弟で長男のユージンが生まれたのは1815年でフラー誕生から 5 年後のことだが、それまでに父の知的後継者としてラテン語,フランス語,論理学,修辞学,ギリシア語等の男子が修める学科をすべて教えられていたという。
- 19 世紀のピューリタン的性役割観が支配的な社会にあって,女性の精神的自由,女性が個人として自立することの重要性を説いたフラーの人間観は,ユニテリアンを信仰する家庭に育ったということのみならず,まことに父ティモシーから受けた男子と同様の教育の賜物であった。フラーは後年次のように述べている。「私は今世紀もっとも頭のいい男性のすべてと知り合った。そして彼らがだれも私以上でないことを知った」。
- しかし,男子同様の英才教育はフラーにとって良い面ばかりではなかったのである。どんなに学問を身につけ知性を磨いても,フラーが男子と同じようにハーバード大学入学が許可されることはなかったのである。こうした現実は,父から男子同等,否,男子以上の知的訓練を施されたフラーにとっては屈辱であった事だろう。これに関連してフェミニズム研究の立場からガーバーは,父ティモシーから受けた教育によって身に付いたフラーの文体,講話スタイルが「服装倒錯的」であること,またそのことが原因で当時のアメリカ社会においてフラーが圧力を受けたと指摘している。
- 父がコレラで他界すると,25 歳にして戸主となり,家庭を経済的に支える父親の役割も果たさねばならず,内外ともに「男性のように」振る舞うことを余儀なくされる。アーバンスキは「フラーの生涯そのものが,あらゆる女性たちの自己探求物語の原型を形成する伝説的物語だったのだ」と評している。
- フラーの「神」観念にみる超越主義的要素上のような所謂「男まさり」に生育したフラーが,19 世紀のピューリタニズムが色濃く残る社会にあって,因習打破的な思想を発信している超越主義に惹かれたのは必然であったのかもしれない。フラーが超越主義の開祖エマソン(Ralph Waldo Emerson, 1803–1882)と知り合ったのは 1837 年あり,ピーボディの仲介によってであった。1838 年から,フラーはピーボディとともに「ヘッジ・クラブ(後の「超越クラブ」(Transcendental Club))」の会員となり,エマソンをはじめ超越主義者たちと知的交流をもった。フラーの超越主義思想に関しては,エマソンら超越主義者との交流によって,生じたというよりも,すでに超越主義のエッセンスを持ち合わせていた。具体的には,フラーは元々宗派的にユニテリアン的な自由な気質を有していたし,文芸におけるドイツ・ロマン主義の流れを汲むコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)、ポスト・カント派の哲学にも深く通じていた。
- 彼女の超越主義思想は,超越主義者たちと交流をもつ以前の日記や手紙のなかにも散見される。たとえば「超越クラブ」に入会する直前の1838 年に友人に宛てて次のように書き送っている。「私の記憶にはある日のことが焼き付いている。それは物事の魂に交流があった,かつての穢れない天国のような日々です。……それは感謝祭の日でした。私は穏やかな森の中の詰まった噴水の傍で,一人でいました。私はそこで数時間過ごしましたが,その間,いろいろな時代の思考と感情に満たされました。……すべての光景が私の経験から生じてきているように思えました。そして,私は,魂が天国から降ってきていない限り,この乾ききった世界では決して生き延びられないと確信しました。もし私が望むなら,それらを集めるために太陽が昇るように自分自身も高まることもできる。その夕刻,私は教会の庭に行き,月がバラ色の雲の陰に隠れた。三日月は,天へと向かう尖塔にそびえました。もし私の生活が教会になるのなら,それらは信心深い考えと厳粛な音楽で満たされるでしょう」。この彼女の表現には,エマソンが「自然論」(Nature)のなかで示したような,既成宗派,宗教の枠を超越する,自然のなかに自己の精神を投影させる超越主義に特徴的な神理解,自然理解を見て取ることができる。
- 元来,宗教的観点でみたときに,超越主義は19 世紀にも色濃く残っていたピューリタニズムを継承する会衆派に代表される宗派宗教に対する批判から起こってきたという経緯がある。超越主義者たちは,人間と自然とが無限なる精神(大霊:Over Soul)によってつながるという独特の自然観,宇宙観を持ち,既成宗派の神を信仰する代わりに,人間のなかに流れる無限なる精神である内なる神性を信頼した。こうした自然観,宇宙観が「自らを恃みにしてよい」という彼らの「自己信頼」の思想に結びついている。この「自己信頼」の思想が,先にあげたフラーの言表のなかの「私の生活」と「教会」とが等値されるところに象徴的に示されている。
- 彼女の日記には,すでに 1832 年の時点で,エマソンに匹敵するほどの強い自己信頼の心情が書き記されている。「私のプライドはこれまで経験してきたいかなる感情にも優越している。……私は永久的な進歩を信じ,神の存在を信じ,美と完全さについて信じている。それらとの同化は私の全生涯にわたって努められる」。神の属性である「美」と「完全さ」への同化は,超越主義者にとっては,可能性としてみたときに「自己信頼」の思想の礎であるとともに,ここに示されているように,個としての人間が目指すべき実践的命題ともなっている。こうした命題は,それぞれの人間が内に神を宿すがゆえに万人に認められる可能性であるとともに,究極的にはそれぞれの個人によって目指される道徳的完成の要請として超越主義者たちによっては提示される。その意味では,超越主義の教義は,実践においては,きわめて個人主義的な色彩が強かったといえる。
- ボストン時代(1839年〜1844年)の活動と著作,すなわちの「会話」の組織と「十九世紀の女性(Woman in the Nineteenth Century、1845 年)の出版は,当時の女性たちを解放運動のなかに引き込み,後続のフェミニスト活動家たちに超越主義の視点の基礎を提供した。この視点は,人間性への信頼が貫かれていた点において,他の超越主義者たちの人間観にも共有された見方であった。フラーの人間性への信頼は,特に性別の超越という点において特徴的であった。
- 1844 年には「ニューヨーク・トリビューン」(NY Tribune)紙の編者ホーレス・グリーリィの誘いで,当紙の記者兼文芸評論家となり,1846 年から他界する 1850 年までアメリカ・ジャーナリズム史上初のヨーロッパにおける特派員を務めた。特派員としてはイギリス,フランス,イタリアを転戦し,イタリア在住時にはヨーロッパ革命の余波によって起こったイタリア統一運動にも遭遇している。その運動の渦中で,彼女はマッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1806年〜1872年)率いる「青年イタリア(Giovine Italia)」の共和主義的「人民」概念をアメリカに伝え,運動へのアメリカの支援を取り付けるよう試みるなどかなり「革命」の深部にまで入り込んでいった。
- 1850 年,イタリアからアメリカへの帰路,乗船した船の難破により志半ばで他界。
ホーソーンの 4 大長編小説のうちの一つ「ブライズデイル・ロマンス(1852年)」の主人公女性の権利運動家ゼノビアはフラーがモデルと言われている。実際にホーソーンとフラーが直接交流をもっていたのは1839 年から 1846 年の間のフラーがボストンにいた 5 年間に過ぎなかったが、ホーソーンの妻のソフィアはフラーが主催した「会話」の会員であり,ホーソーン夫妻とは,フラーが他界するまでの間,物理的には距離がありながらも相応の付き合いはあったと推測されている。『ブライズデイル・ロマンス』のなかでゼノビアは,知性溢れる女性であり有能な「演説家」であるが最終的にはある男性への感情的支配から抜け出せずに自ら死を選択するという「新しい女性」の限界を象徴する像として描かれる。この「新しい女性」像こそが,フラーが生涯を通して追及した「自らの意志で行動する才気溢れる自立した女性」「父権制社会にあって男性に引けを取らず、男性同様に理知的である女性」であったが、ホーソーンはこうした像に一定の理解を示しながらも,究極的にはピューリタン社会における「忠実な女性」像の信奉を脱しきれなかったのである。とはいえ結局アメリカは南北戦争(American Civil War, 1861年〜1865年)によって時代に追いつかれてしまう展開となる。
日本でいうと「女だてらに漢文がスラスラ読めた」紫式部や清少納言タイプの才女。しかもどちらかというと清少納言よりな感じがします。そして「超越主義」の部分を「科学的マルキシズム」に差し替えると社会主義フェミニストに、「超越主義」の個人主義的部分を伸ばすと「第三次フェミニスト」に。
こういう人の生き樣が「女性」を基本的に同質的な集団と仮定し「政治的なこと」を「個人的なこと」に重ね合せる「第2次フェミニスト」の大源流としても、多様性を肯定し「本当の自分らしさ」を「女性はこうあるべきだ」「フェミニストはこうあるべきだ」といった外部の規律より常に優先する「第3次フェミニスト」の大源流としても意識されてる辺りがアメリカのユニークなところとも。