諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ピーターパン症候群】【きずな喪失症候群】「大人になれない子供達とそれに共依存する殉教者」の物語。

以下の投稿で「男性の破滅願望と女性の破滅願望の共依存状態」なるキーワードが浮かび上がってきました。

要するに「産業革命の大量生産・大量消費スタイルが消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ階層から一般庶民に推移させた歴史展開」の結果、宗教論争や氏族戦争(Clan War)における正統性の主張、特に「(近代国家登場によってその存続が脅かされる様になった)領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的権威の回復問題」といったトピックが時代遅れとなる一方で、その代替物として浮上してきた問題意識。

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ところで以前の投稿でも触れた通り「本物の狂気の世界」自体はあくまで単なる実証主義的人文科学(臨床医学)の対象にしかなり得ません。

あえて(教会や王国が用意した)既存の救済計画に背を向け(悲壮な最後を迎える可能性すら辞さず)自らの内側から込み上げる自然の声にのみ従って善悪の彼岸を超越しようとするロマン主義の際どさはまさにここにあります。古くは青年フランス(小ロマン派)の「狂詩人」ネルヴァル、新しくはジャン・ジャック・ベネックス監督映画「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(37°2 le matin、Betty Blue、1986年)」や浅野いにおおやすみプンプン(2007年〜2013年)」の「実際にはただの狂人に過ぎない」ヒロイン達…

なので実際の商業的関心はむしろ必然的に「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM」に掲載可能な範囲外で展開してきたのです。

精神医学(Psychiatry) - Wikipedia

各種精神障害に関する診断、予防、治療、研究を行う医学の一分野。

1899年のエミール・クレペリンによる功績によって、精神障害を分類することが試みられ、これは現在のアメリカ精神医学会(APA)による『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM)が作成されるに至っている。生物学的な識別に基づかない記述精神医学である。

20世紀初頭にはジークムント・フロイトによる精神分析学の流れが精神医学に起こった。無意識に記憶されている幼少期の性的欲動に症状の起源があるという理論である。それは様々な批判や、理論的な指摘を受け新フロイト派といった他の学派を生んでいった。しかし、後の認知心理学は、何年も治らない症状や無意識への疑問から現在の主流となっている。

1950年代より精神科の薬が登場し、生物学的精神医学が全盛を迎えたが、21世紀初頭となっても精神障害を識別するための確かな生物学的指標は発見されず、その脳内伝達物質の化学的不均衡の理論や、薬の有効性にも疑問が投げかけられてきた。

 著名な先例の一つが米国の女性作家コレット・ダウリングが1981年に提唱した「シンデレラコンプレックス(Cinderella complex)」なる概念。

シンデレラコンプレックス(Cinderella complex) - Wikipedia

男性に高い理想を追い求め続ける、女性の潜在意識にある「依存的願望」を指摘した症候群の名称。童話『シンデレラ』のように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けている、としてこう名付けられた。

米国の女性作家コレット・ダウリングが1981年に提唱した概念。ダウリングは著書において、「他人に面倒を見てもらいたい」という潜在的願望によって、女性が「精神と創造性」とを十分に発揮できずにいる状態を「シンデレラ・コンプレックス」と表現している。幼い頃から女性の幸せは男性によって決まると考え、シンデレラのように理想を追い求めるも、主婦をやっているうちに自主性を見失い、結果的に夫に依存し自由と自立を捨ててしまうとされる。

女性の自立を拒む要因の一つとして、「白馬を駆る素敵な王子様がどこからか現れて、迷える女の子である自分を救ってくれる」という幻想に取り付かれていることが原因である。

加えて、シンデレラ・ストーリーへの宗教的な愛ともいえる憧憬は、裕福な家庭に生まれた女性が「シンデレラになるための条件を生まれつき持てなかった」といって両親を恨むという、そうした事例がありふれたこととして語られるほどに、洋の東西を問わない普遍的な現象として認知されてきた。
*実際の「シンデレラ」は「良い後援者を得る事が幸運の条件」とする教訓話で、これは「コネか努力か」の「ラスティニャックのジレンマ(The Dilemma of Rastignac)」とも密接に結びついてくる。

ペロー版「シンデレラ」の最後に付加された教訓は以下の様な内容。

  • 美しさは女性にとって稀な財産。みんな見とれて飽きることはない。しかし善意と呼ばれるものは値の付けようもなく、はるかに尊い

  • ただし才能や叡智を持っていても、それを生かす親やその代わりになるものがいなければ無駄なこと、何の役にも立たない。

つまり中世が終わり、近世が始まった展開に対応した「人間の人生は(血筋や神秘的由来譚でなく)しっかりした後見人を得られるかどうかで決まる。それを勝ち取るには(美貌より)善意が重要」なる人生訓。 

ラスティニャックのジレンマ(The Dilemma of Rastignac)

ラスティニャックとは、19世紀フランスの文豪オノレ・ド・バルザックの代表作「ゴリオ爺さん(Le Père Goriot、1984年)」に登場する法律を勉強する苦学生。勉強と労働で功成り名を遂げ、安寧な生活を得るのが効率的か、資産家の娘と結婚することで相続で不自由しない生活を手に入れるべきか、の二者択一で悩む。トマス・ピケティはジェーン・オスティンが描いた英国郷紳(Gentlemen)の娘達が繰り広げた性淘汰(Sex Selection)の世界と合わせてこのエピソードを紹介し、後者を「封建社会から資本主義社会への発展途上だった19世紀的サクセス・ストーリー」、前者を「その呪縛から逃れた20世紀的サクセス・ストーリー」とし、21世紀を「19世紀的サクセス・ストーリー」の方が有効だった時代に退行しつつある時期と規定する。

 女子学生の場合、多様な人生の展望があることもあり、その時点ではシンデレラコンプレックスも独立と依存の二重性を持つことが明らかとなっている。このような無意識の依存欲求は、裕福な家庭で育てられた女性や高学歴の女性に多く見られるとされる。有能で仕事ができ、社会的に自立している反面、他人に依存したいという潜在的な欲求が強いのだという。

同時期流行したのがアメリカ合衆国の心理学者ダン・カイリーが著した「ピーターパン症候群Peter Pan Syndrome、1983年)」「ウェンディ・ジレンマ(The Wendy Dilemma、1984年)」において描いた「大人になれない男達とそれに共依存する女達」の物語。

ピーターパン症候群(Peter Pan Syndrome) - Wikipedia

アメリカ合衆国の心理学者ダン・カイリーが著した「ピーターパン症候群Peter Pan Syndrome、1983年)」や「ウェンディ・ジレンマ(The Wendy Dilemma、1984年)」で提唱したパーソナリティ障害。「誰でも持っている問題の一種」であり、心理学・精神医学の正式な用語ではない。従ってアメリカ精神医学会出版の「精神疾患診断統計マニュアル」には記載されていない。

ピーターパン症候群…大人という年齢に達しているにもかかわらず精神的に大人にならない男性を指す言葉。カイリーは著書の中で、ピーターパン症候群は「成長する事を拒む男性」として定義している。言動が「子供っぽい」という代表的な特徴をはじめ、精神的・社会的・性的な部分にリンクして問題を引き起こし易いという事が挙げられている。過去に解析されてきた事象のほとんどでその症状に陥ったと思われる人物が「男性」であるという点もこの症候群が男性にのみ訪れるという特色を示している。人間的に未熟でナルシズムに走る傾向を持っており、『自己中心的』・『無責任』・『反抗的』・『依存的』・『怒り易い』・『ずる賢い』というまさに子供同等の水準に意識が停滞してしまう大人を指す。ゆえにその人物の価値観は「大人」の見識が支配する世間一般の常識や法律を蔑ろにしてしまうこともあり、社会生活への適応は困難になり易く必然的に孤立してしまうことが多い。また年齢的には大人の男性である「少年」で、母親に甘えている時や甘えたいと欲している時に、母性の必要を演じる傾向も持ち合わせている(所謂幼児回帰の要素も含んでいる)。この状態をカイリーは著作の中で「機能不全で誰かに頼らざるを得ない家族」になぞらえて説明した。

「ウェンディ問題」…年齢的には大人の「少女」で、「ピーターパン」の母親的役割を演じる人の事を指す。カイリーは、誰かに頼っているカップル同士の関係の中で「ウェンディ」が「ピーターパン」に行う事柄は、時に不満がこぼされることもあるが過保護で独占的で、彼女はいわば「殉教者」のようなものであると述べた。

 この21世紀版が「きずな喪失症候群」とも。

きずな喪失症候群と燃えつき症候群 五月晴郎

人には、人を殺するタイプと自殺するタイプがいる。その二人が出会えば、殺す人と殺される人になる。人には、殴る人と殴られる人がいる。搾取する人と搾取される人がいる。支配する人と支配される人がいる。いじめる人といじめられる人がいる。わがまま放題の人とじっと我慢する人がいる。

怠けて甘い汁を吸う人とただ働きをする人がいる。利用する人と利用される人がいる。操作する人と操作される人がいる。騙す人と騙される人がいる。得する人と損する人がいる。嘘つきと正直者がいる。要するに、ずるく立ち回ってうまくやる人と、逆にうまくやられる人とがいる。

この本できずな喪失症候群の人と言っているのは、殴る側の人、搾取する側の人、支配する側の人、いじめる側の人、わがまま放題の人、怠ける側の人、利用する側の人、操作する側の人、騙す側の人、得する側の人、である。

それに対して燃えつき症候群の人とは、殴られる側の人、搾取される側の人、支配される側の人、いじめられる側の人、じっと我慢する側の人、ただ働きをする側の人、利用される側の人、操作される側の人、騙される側の人、損する側の人、である。要するに、ずるい人に上手くやられる人である。

 あれ、この症状分析、最近話題の「あたしおかあさんだから」問題につながっていく?

おそらくこれも「男女/男男/女女間における存続/破滅願望の共依存状態」の一バリエーション。そういえば以前から以下の投稿も人気が高かったのです。

ここで案外重要なのが、19世紀起源の「運命の女(Femme fatale)/運命の男(Homme fatale)」概念の定義「男(息子/夫/父)の存続/破滅願望と女(娘/妻/母)の存続/破滅願望の共依存状態」が、21世紀に入るとLGBTs勢の公認化の影響で拡張/整理されていく流れとも。

*要するにここでも「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っているのである。

こうした全体像を私はこれまでの投稿で「(古くは由来譚や伝統の、新しくは国王や教会の権威の裏付けなどを以って)領主が領土と領民を全人格的に支配する農本主義的権威体制」が「(全ての評価基準がデカルト象限的にフラットで、それぞれが固有の歪みを内包しない)多様で多態的な人間関係」に平坦化(Fraternize)されていく流れと整理してきたのでした。

フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」の概要

豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。http://g01.a.alicdn.com/kf/HTB1qWgCIFXXXXa0XpXXq6xXFXXX3/%E7%A7%81%E6%9C%89%E8%B2%A1%E7%94%A3%E7%AB%8B%E3%81%A1%E5%85%A5%E3%82%8A%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%A3%85%E9%A3%BE%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC-%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%82%B9%E3%82%BA-%E3%81%AE-%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC-%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0-%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96-%E3%83%91%E3%83%96-%E3%83%90%E3%83%BC-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3.jpg
出発点となったのはラッサール自身が出版を後押ししたカール・マルクス「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」において提示された「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる人間解放論(上部構造論)だったが、やがて階級闘争論に執着するマルクスと決別。ドイツ修正主義を基礎付ける展開を迎える。
*19世紀革命主義は「誰が革命を主導すべきか」を巡って分裂を繰り返してきた。「王侯貴族や聖職者の様な不労所得階層でなく、実際の産業運営に従事する産業者同盟が主体となるべき」としたサン=シモン主義も「産業者同盟の頂点は全体の調停役としての国王/皇帝であってもいい」とし7月王政(1830年〜1848年)や第二帝政(1851年〜1870年)の主導イデオロギーに採用された「穏便路線」と「科学者独裁(ただしあくまで「実証哲学(Philosophie positive / Positive Philosophy)」を極めた人文学者が、その思考様式を数理に拘束された自然学者を統率する)」を提唱したオーギュスト・コントの「急進派路線」に分裂したし、さらに2月/3月革命(1848年〜1849年)を自壊させた利害の不一致を契機に農民(要求さえ通れば国王や教会の権威と妥協する田舎生活者)と都市住人(あくまで社会変革によって自らが主導権を握る事を要求する立場)が分裂し、産業革命導入に伴う貧富格差の拡大がブルジョワ階層(資本家や工場経営者)や自営業者と労働者(あくまで社会変革によって自らが主導権を握る事を要求する立場)の関係を引き裂いてきたのである。さらに産業革命の進行は伝統的共同体の崩壊を加速させる。19世紀末に成立した社会学(Sociology)は、当初こうした混乱を調停する役割を期待されたが、実証主義化を急ぐあまり「実写化再編への提言」への関心を喪失していく。

法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
http://gutezitate.com/zitate-bilder/zitat-der-allgemeine-geist-der-gesetze-aller-lander-hat-sich-unverkennbar-die-aufgabe-gestellt-stets-jean-jacques-rousseau-127064.jpghttp://gutezitate.com/zitate-bilder/zitat-die-alleinige-quelle-des-rechts-ist-das-gemeinsame-bewusztsein-des-ganzen-volkes-der-allgemeine-ferdinand-lassalle-241770.jpg
その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
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すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。http://pds.exblog.jp/pds/1/200709/24/21/a0071221_2303163.jpg
神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
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農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。
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ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
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そして現在の世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面している。
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こうした思考様式は「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算とも目されている。

ここで興味深いのが、元来「実証主義的」なるニュアンスで使われ始めたPositiveなる単語が「Negative(消極的で悲観主義に耽溺し成果が上げられない守旧派)」の対語として「積極的で楽観的だから次々と成果を上げる革新派」なる意味を獲得していく展開。ここで注意すべきはオーギュスト・コントの原義の影響で「全てを数理に基づいて評価する現実主義」が前者に分類されてしまうバグが内包されていくプロセス。

*そういえば太平洋戦争に突入していった大日本帝国の愚かさを告発した五味川純平「戦争と人間(原作1965年〜1982年、映画化1970年〜1973年)」においては「冷徹な現実主義者の立場から数理(統計上の戦争評価)を以って日中戦争や太平洋戦争の無謀を説く"当時の日本における唯一の良心だった"共産主義者」と「”何事もやってみないと分からないじゃないか。それを否定する貴様など所詮は生まれつきの敗戦主義者”と連呼する反知性的行動主義や危険な冒険主義に染まって日本を地獄に叩き落とした軍国主義者」が対比的に描かれるが、そもそもここでいう「共産主義者の理論」は60年安保においても70年安保においても消極的立場に徹した旧左翼陣営側の自己弁護でもあり、しかも次第に「何事もやってみないと分からないじゃないか。それを否定する貴様など所詮は生まれつきの敗戦主義者」と連呼してきた新左翼の「反差別主義」への屈服を余儀無くされていくのだった。この事は映画版「戦争と人間」に「(ボルトアクションライフル三八式歩兵銃の様な)貧相な兵装しか有さず、大陸では原住民に対する略奪と強姦しか遂行しなかった皇軍」が「本物の正義の軍隊」すなわち「(米国供与のガーランド連発ライフルやブローニング自動小銃武装した)八路軍」や「(クルクス戦車戦でドイツ機甲師団を打倒したT34/85を主力とする)ソ連戦車部隊」に単なる「悪役=やられ役」として蹂躙されていく内容であり、かつ同時に「新左翼陣営の敗残者の最後の牙城」としてそれなりのドル箱だった日活ニューアクション路線を取り潰してその収益を吐き出させる形で製作された事によって「新左翼=大陸では原住民に対する略奪と強姦しか遂行しなかった皇軍」なる等式を成立させる屍体蹴りプロパガンダ作品といった側面が垣間見られる点を考慮に入れると極めて興味深い。まるで蘇我馬子が政治的敗者の首長墓を蹂躙し尽くす形で築造した石舞台古墳と同じ意味合いの歴史的モニュメント…

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しかもこの展開は同時に「ソビエト連邦共産党中国共産党に懐柔された売国奴」を次々と粛清してきた日本共産党を逆に売国奴として告発するニュアンスを含んでいたのである。それでいて結局両者は「反差別主義」を共通のキーワードとする野合に到達するのだから、原著者五味川純平が以降次第に燃え尽き症候群に捉えられ、筆を鈍らせていくのも致し方ない事だった?

元来平坦化(Fraternize)とは純粋に「真の多様性と多態性」を実現すべく、あえて諸概念を「時空間の歪みさえなければ2点間の最短距離が直線となる」筈のデカルト象限にマッピングする事によって「評価空間上における認識論的(主観的)誤謬」を露呈させ、それを丁寧に除去していく作業を指す筈なのですが…

この「数理に従うのはNegative」と考えたがるバグのせいで「あらゆる価値観の衝突を回避しようとする)非戦主義(およびこの話を持ち出す事によって論争の主導権を掌握しようする都市生活者の田舎住人に対する態度」こそPositiveと信じ込むに至った結果が今日の「リベラル階層の価値観の迷走」の起源なのかもしれません。

*確かに「人間が五感からの入力を頼りに構築し得る世界観の限界を表す「物(独Ding、英Thing)の世界」を超越した「(直感でしか辿り着けない)物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)の世界」を提言したカントも、「実証主義哲学(Philosophie positive / Positive Philosophy)」を提言したコントも、「論理哲学論考(独Logisch-Philosophische Abhandlung、英Tractatus Logico-philosophicus、)」において「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と宣言したウィトゲンシュタインも、「人間の認識能力を超越した奇跡は、現実世界においては主観的誤謬と区別不可能な形でしか顕現し得ない(決して実証主義的方法論によって追認される事はない)」と割り切って魔術的リアリズム文学の先駆者となったエンルスト・ユンガーも「人間の認識能力を超越した、直感でしか辿り着けず超越的に存在するだけの真理の世界」の実在を内心では確信していた形跡が見受けられる。しかしながら、むしろそれ故にこの認識が個人的体験を超越して共有可能とは考えなかったのである。こうした諦観が理解出来ない限り欧米には「宗教右派に与さないリベラルな(すなわち決して自らの信念を他人に押し付けない)福音主義者」が偏在する事も、そもそも遠藤周作「沈黙(原作1966年、映画化2017年)」が何を語っているかも分からなくなってしまう。

 

ちょっと待った。一体何周捻れたらこうなるの?