諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「国民国家」概念の起源⑤ 「ゴビノー伯爵の悪夢」と「人類館事件」の狭間

f:id:ochimusha01:20170326201137j:plain

ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体(Imagined Communities、1983年)」

人種主義の夢の起源は、国民の観念にではなく、実際には、階級イデオロギー、とりわけ支配者の神性の主張と貴族の「青い」血、「白い」血、そして「育ち」のなかにある。とすれば、この近代的人種主義の種馬とされるのがそこいらのプチブルナショナリストではなく、ゴビノー伯ヨゼフ・アルチュールであってとしても別に驚くにはあたるまい。そしてまた全体として、人種主義と反ユダヤ主義は、国民的境界線を越えてではなく、その内側で現れる。別言すれば、それは、外国との戦争を正当化するよりも、国内的抑圧と支配を正当化する。

こういう指摘には気をつけて当たらないといけません。こんな指摘もあるからです。

長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」

反ユダヤ主義研究の泰斗レオン・ポリアコフは人種に関して科学的に考察しようとした時に生じる「自己検閲(オート・サンシュール)」について、こう述べている。「あたかも人種主義者である事を恥じたり、恐れたりするあまり、西欧がかつて人種主義者であった事を認めようとせずに、たいした事のない人物(ゴビノー、H.チェンバレンなど)に悪を肩代わりさせるように、すべてははこんでいる」。

この自己検閲は、人種主義の全責任をドイツに転化する事によって完璧なものになる。西欧思想の内奥に巣食う人種主義の腫瘍を摘出することこそが問題なのにも関わらず、有象無象の「人種主義者」を断罪し、彼らを西洋思想史の本流からの逸脱、ドイツにおける例外的な事例として処理する事で、全て落着したかの様に安堵している訳だ。

 そもそもゴビノー伯ヨゼフ・アルチュールなる人物、本当にそんな怪物めいた大物だったのでしょうか?

 ゴビノー伯ヨゼフ・アルチュール(Joseph Arthur Comte de Gobineau 1816年〜1882年)

フランスの貴族主義者、小説家、文人。「諸人種の不平等に関する試論(Essai sur l'inégalité des races humaines、1853年〜1855年)」の中で白人至上主義を提唱し、アーリア人を支配人種と位置づけた。

  • オー=ド=セーヌ県ヴィル=ダヴレー出身。自分自身を北欧のヴァイキングやイタリアのコンドッティエーリの末裔と信じていたが、母方を通じて四分の一クレオールの血を引いており、彼が二子を儲けた妻もまたクレオールであった。
    *二度に渡るペルシャ赴任の際の実体験を交えて語られる「ペルシャ人の歴史(Histoire des Perses、1869年)」、高貴さを身に纏った王の息子達(fils des rois)の恋愛を主題とする「プレイヤード(Les Pleiades、1874年)」、ゴビノー家をアーリア系北方ヴァイキングの末裔に位置付けた誇大妄想的幻想の産物たる「ノルマンディー・ブレー地方の征服者、ノルウェー海賊、オッタール・ジャールとその後衛の歴史(Histoire d'Ottar jarl, pirate norvégien, conquérant du pays de Bray, en Normandie, et de sa descendance、1879年)」といった小説群から読み取れる情報。
    長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」
  • 父親は官僚で強硬な君主論者。母親アンヌ=ルイーズ・マドレーヌ・ド・ジェルシは王室税務官の娘でサントドミンゴ生まれのクレオール女性であり、ポーリーヌ・ボナパルトの女官を務め、感傷的な長篇小説「Marguerite d'Alby(1821年)」や回想録「Une Vie de femme, liée aux événements de l'époque(1835年)」を著した。
    *元来はボルドーを本拠地に16世紀以来財をなしてきた裕福なブルジョワボルドー市議会に議員を送り込む名家だったという。大革命によって没収された様な体裁を繕っていたが、実際には父と兄の散財のせいで旧体制末には底をついていたらしい。
    長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」
  • 14歳の時、他の男と駆け落ちした母に連れられてスイスで数年間を過ごし、この地で東洋趣味への興味を育んでいる。
    *具体的にはオリエントの諸言語に興味を示すほど語学的関心の強い子供だったが、健康上の理由もあって正規の学校教育はほとんど受けていないという。母は奔放で派手好きで身持ちが悪いボナパルティストで、放浪中の生活費を全て詐欺行為で稼ぎ出す恐るべき悪女であり「自分は本当に父親の子なのだろうか?」という疑念が血統への執着、家族ひいては人類全体への憎しみにつながっていったという。「人種不平等説」で語られる「文明の崩壊」や「人類の滅亡」を予期させる暗いビジョンは、この絶望感の産物と考えられている。
    長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」
  • フランスに戻った当時は七月王政の末期であり、反動主義者の雑誌に連載小説を書いて生計を立てた。このころアレクシ・ド・トクヴィルと友情を結び、膨大な量の書簡をやり取りしている(トクヴィル第二共和政時代に外務大臣を務めていた頃、ゴビノーを外務省入りさせたことがある)。初めペルシアに、次いでブラジルやその他の諸国に赴任し、第二帝政時代に外交官として成功を収めた。
    *スイス・ベルンの公使館の一等書記官を皮切りにハノーファー、フランクフルト、テヘランアテネリオデジャネイロストックホルムの各地に赴任。第二帝政期から第三共和制初期まで実に30年以上も祖国に戻る事はなかったという。
    長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」

    人種イデオロギーの父とも呼ばれるゴビノーは1850年代、当時の外務大臣トックヴィルに引き抜かれて彼の秘書をしていた。専門の民族学や人類学者ではなく、旅行で得た観察からアマチュア学者としてこの本(『人種不平等論』)を上梓した。

    例えば東洋人についてゴビノーはこういう評価を載せている。

    黄色人種は凡庸で、実用性を好み、秩序を尊び、ある程度の自由の価値を知ってるが、夢想したり、理論化することを好まない。それほど深淵、崇高でないものは理解でき、みずから発明はしないが、自分に役立つものなら、価値を認めて取り入れる……」

    (1974年のパリでは)東洋人に対しては、これと大差ない評価がまだ一般的だった。ドゴール将軍が日本の池田首相の訪仏に際して「ああ、あのトランジスタのセールスマンがくるのか」と言ったり……。アメリカの言いなりになる日本の政治家への軽蔑を隠さなかった。

    「フジヤマ、ゲイシャ」の時代は終わっていたが、「ホンダ、ソニーヤマハ」の時代が来ようとしていた。ルノーなどの労組は日本の車メーカーは産業スパイでわれわれ(フランス人)の発案をコピーして、安い労働力で市場を奪っていると主張し、政府も日本車の輸入を制限していた。

    経済的にはフランスの方が日本よりまだ少し豊かな時代だった。石油危機を日本は生産性と燃費の向上、セラミックスの触媒をマフラーに装備するなど、大変な努力で乗り越えたが、フランスは慢心と労組など『親方三色旗」の甘えから脱け出られず、ついに日本に追い越されてしまった。

  • また複数の長篇小説を書いた。代表作は「Les Pléiades(1874年)」である。戯曲「(La Renaissance、1877年、邦訳:加茂儀一訳、みすず書房(1948年)、角川文庫(1953年)…いずれも絶版)」は当時高く評価された。どちらの書物にも彼の反動的で貴族趣味的な政治思想や、民主主義的な大衆文化への嫌悪が表れている。
    *ゴビノーは金銭づくの体質に浸かり切ったブルジョワ支配体制を憎み、無能で無節操な政治家ばかりが跋扈するパリを徹底して嫌悪し抜いた。二月革命(1948)年に対しても批判的態度を貫いている。リシュリュー以来の中央集権下がフランスの生ける身体たるコミューンとプロヴァンスを圧殺したと考え、エドモンド・バークが看過した通り「フランス革命とはパリによる地方の簒奪であり、国家権力の強化に他ならない」と信じていた。革命を助長する都市という空間とそこに集まって匿名化する群衆を蔑み「部分的祖国への愛なくして全体的祖国への愛なし」を信条として地方分権によって自由と秩序の調和をフランスにもたらそうとした。そしてこうして培われた国家・都市・群衆に対する嫌悪感を生涯に渡って保ち続ける。
    長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」
  • 死の直前、ヴァーグネリアンの聖地たるバイロイトを訪れ、反ユダヤ的なバイロイト・サークルの勃興に影響を与えた。その直後、トリノで死去している。

    ゴビノー自身は特に反ユダヤではなかった。上に挙げた本(『人種不平等論』)にも反ユダヤ的なことは書かれていない。だが、熱烈な民族主義者だったワーグナーはゴビノーが好きだったし、その娘婿のチェンバレンはドイツに帰化し、ゴビノーを曲解して反ユダヤ思想を宣伝した。ヒトラーの『我が闘争』の十一章『民族と人種』にはゴビノーをチェンバレンが歪曲した説がそっくり取り込まれている。

ゴビノーによると人種こそが文明の淵源という事になる。

  • 黒・白・黄の三人種間の様々な差異は自然が設けた障壁であり、混血によってその障壁が破られることで文明が退化し、カオスに戻ると考えた。その観点から中東・中央アジアインド亜大陸・北米・南仏を混血地域と規定している。

  • 古代印欧文化(別名「アーリア文化」ともしうるところだが、まだその呼称が流布する前の時代だったのでゴビノー自身は使っていない)を引き合いに出しつつ、「白色人種」の優越性を主張。それによれば白色人種復興の担い手たるに充分な力を持っているのはドイツ人であった。

  • ただし帝国というものは発展するにつれて異人種との混血を招き、故にその帝国の創り手たる「優越人種」は絶滅の危機に瀕することとなるという。一種の退化論である。

  • 実際スペイン人と大半のフランス人、大半のドイツ人、南部および西部のイラン人、スイス人、オーストリア人、北部のイタリア人、そして大半のイギリス人は混血により退化しつつあるという。また北部インド人の大半は黄色人種に属するとも述べている。

とはいえ別に人類学の黎明期に人種による優劣を信じていたのはゴビノーだけでもない。
*ゴビノーが「人類不平等論」を執筆した目的は(少なくともゴビノー本人の意図では)人類の全事象を科学的に説明し尽くす事だったらしい。「歴史を自然諸科学の一部門に入れる事が重要」と考え、フランス語文献はもとより英語やドイツ語の膨大な資料を駆使し、ギリシャ語やラテン語、時にはオリエント諸語の知識をも動員しながら民俗学・人類学・生理学等の知見を統合して何よりもまずコンスタティブ(「事実確認的」。「パフォーマティブ(行為遂行的)」の対語)な論証を目指し、所定の目的は達したと結論づけて「十分に証明された数学的真理」の域に到達したと自負している。一方特別な学問的訓練を積んだ訳でもない一介の独学者の手になる書物であり、「著者が果たして聖樹な知識を持っているか疑いたくなる様な」矛盾や誤謬が散見されるし(寺田和夫「人種とは何か(1967年)」)「学問の世界においてかくも高遠な目的が、かくも不適切な手段によって追求された事は恐らくないであろう(カッシラー「国家の神話(1960年)」)」と評されている。
長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」

1882年には世界反ユダヤ連盟が結成された。ユダヤ人が世界を支配してるから、反ユダヤ主義者たちは、ユダヤ人からその支配権を奪い返せと主張した。

『シオンの賢者の議定書』という本が20世紀初めに出回る。ユダヤの秘密権力が世界征服を計画している証明になる本とされた。ロシヤの秘密警察が民衆の不満を皇帝からユダヤ人に向ける為に捏造したという説が有力。ボルシェヴィキ革命を成功させたレーニンもユダヤ系だったしトロツキーユダヤ人だから。

ヒトラーは『シオンの賢者の議定書』の熱狂的な信奉者だった。偽物の本だと指摘されるとニセモノかもしれないが内容は本当だと擁護したのは有名な話。ヒトラーと並んでアメリカのヘンリー・フォードもこの本の信奉者だった。

フォードは自分が経営してる『ディアボーン・インデペンデント』という新聞にこの文書を連載させ、後で『国際ユダヤ人』という題で出版し五十万部も売った。『シオンの賢者の議定書』のタネ本はフランス人が書いた『マキャベリモンテスキューの地獄での対話』という本だった。

ナチスの台頭の半世紀も前に「ドレフュス事件」がフランスで起こったように、もともとフランスの貴族と軍人にはユダヤ人蔑視があった。

ドイツではユダヤ人の迫害が始まるが、ドイツと枢軸関係を結んだ日本は、満州国経営の困難をユダヤ資本を導入することで解決しようと試みた。『河豚計画』とおかしな名前で呼ばれている。フグ料理はひとつ誤れば命取りになるという、マジで? と訊き返したくなるような命名だ。

『日ユ同祖論』つまり日本人とユダヤ人は同じ先祖から出たという論も広まった。『河豚計画』とともに、主に石原莞爾を中心とする大陸派の間で支持されたらしいが。そのうち、統制派が主導権を握り、ナチス・ドイツとの枢軸関係が強化されてゆくにつれ、この計画は不可能になり立ち消えてしまった。

  • ゴビノー伯爵の思想はヒトラーとナチズムに多大な影響を与えたものの、ゴビノー伯爵自身は取り立てて反ユダヤ的ではなかった。
    福田和也「奇妙な廃墟 フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラツゥール(1989年)」にもこういう指摘がある。「あたかもフランスの知識人たちにはヴォルテールミシュレ、サン=シモンにまでおよぶ人種主義の潮流を忘却してフランス思想史から切り離し、ライン川の彼岸にのみ信奉者を持つフランスの作家、しかもフランス文学史にはどのような足跡も留めていない私生児で、流刑に付された一人の作家の名前に集約することで、フランスを人種主義から浄化し人種主義をフランスとは無縁な、ドイツに固有のものであるかに思わせる様な、無意識の作為でもあるかの様に」
    長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」
  • それどころかユダヤ人を優越人種の一部分たる知的人民と見なし、むしろ産業や文明の推進者と目してすらいた。したがってナチはゴビノー伯爵の理論を借用する際、彼の著作の少なからぬ部分を改竄しなければならなかった。これは、親ユダヤ的なニーチェの著作をナチが利用した時のやり方と軌を一にしている。

バハーイー教徒(19世紀半ばにイランでバハーウッラーが創始したダーウィンの進化論を否定する一神教)の間では、ペルシア帝国におけるバーブ教勃興史の唯一の完全版を手に入れた人物として知られている(この記録の筆者であるカーシャーンのハッジ・ミルザ・ジャーンは1852年頃、ペルシアの官憲によって殺害された)。この手稿は現在、パリのフランス国立図書館に保管されている。
*ゴビノー伯爵が選ばれたのはペルシャ人もアーリア人の一種として絶賛しているからだと推測される。
バハーイー教 - Wikipedia

まず直感的に思った事。この人物の考え方って、実は案外同時代の有名人と共通する部分も多いのでは?
*というか実際、当人も自分の作品について「数多くの文献を参照してまとめたもの」と述べています。そしてむしろ同時代資料としては(サド侯爵の文学の様に)そういう平凡な箇所こそが興味深かったりする次第。

  • そもそもフランス絶対王政下で栄えた啓蒙主義や百科全書派を特徴付けるのは「(普遍的世界観が未知の世界観によって転覆される可能性を抹消すべく)地上のあらゆる知識を網羅し尽くそうとする妄執」である。
    *このせいでルソーの恋愛小説「ジュリ または新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」は現代人にとって読み返すのが辛い代表作に。

    なので当初から、あたかも「ヨブ記における神の被造物自慢(河馬や鰐の様な珍獣を次々と列記して人類の想像力の限界を嘲笑する)」に抗せんとばかりに、当初から「全野蛮民族の特徴把握/カタログ制作/展示」とか「奇形学」といった暗黒面を備えていた。しかもその執念は確実に「多民族をまとめる帝国の称揚」と表裏一体の関係にあったのである。
    f:id:ochimusha01:20170326221727j:plain

    *そもそも「例外処理」を扱うのが王権の役割であり「眼前に現出した奇妙な景色が吉兆か凶兆か判断を下す」のも王が王たる伝統的条件の一つだったりする。アフリカ出身の聖アウグスティヌス(354年〜430年)による「神の国」21-8-4…驚異的なものは自然に反しているのではなく、私たちが自然として知っているものに反しているのである。

    しかもこの伝統的理念はサン=シモン派などを経由して19世紀を生き延び、第三共和制時代のパリ万博(1889年)に「野蛮人の生展示」を現出させている。
    ただし、こうした傾向は「フランス中心主義」だけでなく「(華夷弁別に執着する中国の)中華主義」にも見て取れるのである。例えば明代に李時珍(1518年〜1593年)が編纂した薬学事典「本草綱目(1578年完成、1596年上梓)」にも同種の妄執を見て取れる。そして日本は双方の国のこの分野の影響を受けてきた。f:id:ochimusha01:20170326220810j:plain

  • 都市空間およびそこに集まる群衆への嫌悪感」については、ルソーもある程度まで共有していた様である。リスボン地震(1755年)に関連してヴォルテールがすかさず「地上には悪が存在する」という意見を表明し翌年3月に「リスボンの災害についての詩(Poème sur le désastre de Lisbonne)」を発表したのに反応して「人間不平等起源論(Discours sur l'orgine de l'inegalite parmi les hommes, 1755)」を発表。「人間に悪をもたらしたのは神でなく人間そのものであり、もし人間がもし野生人のように素朴な生活のままだったら、こんな災害に遭う事もなかっただろう」と指摘している。「火災や地震などのために、さまざまな都市が崩壊し、あるいは全滅していること、そのために何千もの人々が死亡していることも考えてほしい」。そして都市の放棄とより自然な人間らしい生活様式への回帰を訴え、両者の関係は完全なる断絶を迎える。
    こうした考え方は、同著者の手になる「社会契約論(Du Contrat Social ou Principes du droit politique、1762年)」で発表された「一般意志(仏Volonté générale、英General will)」論とどういう関係にあるのだろうか。

    一般意志 - Wikipedia

    ルソーは「この社会の秩序はこの一般意志のみを根拠とした主権の力であり、こうして個人と社会と主権が全く対立することなく重なり合う」としたが、ヘーゲルは個人の意志の自由(主体的自由の権利) から出発して、その特殊的意志にもとづく社会契約国家を主張したところに恐怖政治の原因を見いだす。そして「人間の幸福とは時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)とも呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事である」と考える(反体制方向への逸脱を許さない)保守主義思想に到達した。

  •  「二月革命(1948年)において地方分権派がパリ解体を主張したエピソード」ならフローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1869年)」にも登場するが、それは人心が権威主義と反権威主義の両極端の間を揺れ動いた不安定な暫定心理状態の反影に過ぎなかったとも。
    *実際ゴビノー伯爵がせっかく創刊した関連雑誌はすぐに潰れてしまう。

    フローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」

    帝政を望む者もいれば、オルレアン家を望む者も、シャンボール伯を望む者もいる。しかし、地方分権化の体制を緊急に進めなければならないと認める点では、誰の意見も一致していたし、その方策もいくつか提案されていた。

    フローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」

    人びとは 田舎を讃美し、無学な人間のほうが、そうで ない人たちよりも生まれながらにしてより 良識を身につけているとされた。憎しみが世にはびこっていた。小学校教師に、酒屋にたいする憎しみ。哲学の授業に、歴史の講義に、小説に、(ロマン主義文学者が好んで着た)赤いチョッキに、(聖職者を連想させる)長いひげにたいする憎しみ。そして、独立不羈をとなえるあらゆるものに、すべての個性の表明にたいする憎しみである。というのも「権力というものの原則を立てなおす」必要があったからであり、それがどんな名において行使されようと、どこから下されようとかまわない、「力」であり「権威」でありさえすればいいのだ!

    *こうした考え方の延長線上にオルテガ「大衆の反逆(La Rebelion de las Masas 、1930年)」は登場したとも。
    199夜『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット|松岡正剛の千夜千冊

    「今日のヨーロッパ社会において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである」

    オルテガによれば、大衆の特権は「自分を棚にあげて言動に参加できること」にある。そして、いつでもその言動を暗示してくれた相手を褒めつくし、またその相手を捨ててしまう特権をもつ。

    ただし、大衆がいつ「心変わり」するかは、誰もわからない。それでも社会は、この大衆の特権によって進むのである。

  • また「民族的源流」を求めて歴史観に刻印しようとする動き自体は当時、フランスだけでなく欧州全域に見られたのである。

  • そして意外にもトクヴィル(Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年〜1859年)と「フランス人は何故安定した社会の建設に向かえないのか」「民主主義の進展(地位の平等化)がが国家的中央集権と多数者の専政をもたらす不安」「アメリカの地方分権制度(ジェファーソン流民主主義)や、アソシアシオン(association)の隆盛こそこれからフランスが目指すべき方向」といった問題意識を共有していたりする。
    トクヴィルと「アメリカの民主政治(前編1835年,後編1840年)」

    トクヴィルによると,アメリカは政治的には中央集権だが,行政的には中央集権ではない(外交政策や内政上の国民全体にかかわる事柄を決定する権限は国家(中央政府)に集中するが,個々の地方にかかわる問題は地方が権限をもつ)。

    これに対して,フランスは行政的にも中央集権であり,国民生活の細部までも政府が関与する(特定の地域社会にかかわるような行政(首長の任命,徴税の実務,学校や道路の建設など)についても国家が直接に関与する)。

    ところでトクヴィルは「ジェファーソン流民主主義」の背景に「(後に「南北戦争(1861年〜1865年)」の原因となる)家父長制と奴隷制を守り抜こうとする農場主の無政府主義」があったりする辺りにどこまで自覚的だったのだろうか。というのも、その内容次第で「ゴビノー伯爵の悲観的人種ビジョン」に対する観点が全く変わってきてしまうのである。

    そもそもこれまで述べてきた様な同時代発言との共用部から逆算するに「ゴビノー伯爵の悲観的人種ビジョン」の中核は「帝国というものは発展するにつれて異人種との混血を招き、故にその帝国の創り手たる優越人種は絶滅の危機に瀕することとなる」「実際大半のフランス人は混血により退化の過程にある」という部分にあるらしい。そしてそれはおそらく確実に彼の(そしてトクヴィルだけでなく多くの同時代フランス人が抱えていた)「国家・都市・群衆への嫌悪感」と表裏一体の関係にあった。
    *ゴビノー伯爵の「混血による退化」のイメージの原風景は、間違いなくオリエントやアジアのマーケットと地中海に面した南仏沿岸都市の間に共通する「多民族的喧騒」にある。こういう部族連合っぽい一体感も肯定出来ないと地方分権主義者としては大幅に軸足がブレてしまうのだが、その中途半端な貴族主義ゆえにそれが避けられない辺りにゴビノー伯爵の限界が見て取れるとも。

    ところで排外主義は概ね2種類に大別出来る。「敗北を認めたら即滅亡(「力の均衡」だけが平和をもたらす)」と考える大陸型。そして「隔壁さえ落とせば民族的純度は保てる」と考える半島・孤島型、である。

    大陸型排外主義」…(一度発動すると手段を選ばず、どんな滅茶苦茶な事でも平然とやらかすが)「力の均衡」が保たれている限り(少なくとも表面上は)平和を求める点に特徴がある。安直な人道主義ではなく、貴族主義同様「生存を最優先課題とする功利主義的態度」から本能的にそういう判断が下されるらしい。例えば日露戦争(1904年〜1905年)後、帝政ロシアの日本や英国に対する態度は明らかに融和的な内容に変貌した。幕末日本で活躍した英国人外交官アーネスト・サトウの言を借りるなら、まさしく「噛まないなら吠えるな。噛み千切れないなら噛むな」の世界なのである。
    *「一度発動すると手段を選ばず、どんな滅茶苦茶な事でも平然とやらかす」…しばしばユダヤ人がその対象とされてきたのは、彼らが欧州においてずっと「(高利貸しや管財人や役人として)伝統的共同体に孤立無援の状態で(つまり「力の均衡」など到底保ち得ない状態で)対峙させられる存在」だった事と深い関係にある。(植民地時代は宗主国の権威を笠に着て現地人と対峙する立場にあった)ロヒンギャ「族」が今まさに「あらゆる手段を尽くして」滅ぼされようとしているのも同一原理に基づく。むしろだからこそゴビノー伯爵は、同様の理由で滅ぼされつつある欧州貴族の立場からユダヤ人に同情的な立場を取ったとも見て取れるのである。
    ロヒンギャ - Wikipedia

    ミャウー朝アラカン王国(現在のミャンマーの一部)は15世紀前半から18世紀後半まで、現在のラカイン州にあたる地域で栄えていた。この時代、多数を占める仏教徒が少数のムスリムと共存していた。折しもムスリム商人全盛の時代であり、仏教徒の王もイスラーム教に対して融和的であった。王の臣下には従者や傭兵となったムスリムも含まれ、仏教徒ムスリムの間に宗教的対立は見られなかった。アラカン王国は1785年にコンバウン朝ビルマ王国の攻撃により滅亡し、その後、旧アラカン王国の地は40年ほどコンバウン朝による統治がなされるが、それを嫌ったムスリムベンガル側に逃げ、ラカイン人仏教徒も一部が避難した。

    だが、このような状況は19世紀に入ると一変した。

    コンバウン朝は第一次英緬戦争に敗北し、1826年にラカインは割譲され英国の植民地となった。すでに英領インドとなっていたベンガル側より、コンバウン朝の支配から逃避していた人々が回帰したことに加え、新しく移住を開始する者も増え、大勢のムスリムが定住。このような急激な移民の流入が、北部ラカインの仏教徒ムスリムとの共存関係を崩した。1886年、コンバウン朝は第三次英緬戦争に敗北して滅亡、ビルマ全土が英領インドに編入された。これにより多数のインド系移民(印僑)が流入するに至る。印僑には商工業経営や金融業、植民地軍将兵や下級公務員としてビルマに赴き、ラングーンなどに長期滞在したり定住するものも一定数いたが、多くの場合はヒンドゥー教徒ムスリムを問わず、下層労働者としての移住者であり、3-4年ほどでインドに戻る短期移民であった。だが、ラカイン北西部に移民したムスリムは、同じ下層労働者であっても定住移民となって土着化し、仏教徒との軋轢を強めていく。このような流れのなか、20世紀初頭からインド系移民への排斥感情が強まり、1939年、英領ビルマでは、ビルマ仏教徒女性を保護するという名目で、外国人との通婚にさまざまな制限を課す法律が植民地議会を通過して施行され、実質的にビルマ仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を制限しようとした。ほぼ同時に、結婚によって仏教徒からムスリムに改宗した(させられた)ビルマ人女性が夫へ離婚申し出をおこなう権利を保持していることを認める法律も、施行された。

    また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化するとラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。しかし、現実の戦闘はムスリム仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る。 

    1948年1月、ビルマは共和制の連邦国家として英国からの独立を達成した。しかし、ビルマは独立直後から、民族対立・宗教対立・イデオロギー対立などにみまわれて、混乱は収束することなくそのまま内戦に突入した(ビルマ内戦)。ラカイン州も例外ではなく、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接する北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人ムスリム)がラカインに流入し、そのことが仏教徒との対立をさらに強めた。流入したムスリムのなかには、1960年代初頭に政府軍によって鎮圧された、ムジャヒディンを名乗るパキスタン人の率いた武装反乱勢力も存在した。この混乱期において、ラカイン北西部に住むムスリムの「総称」として「名乗り」を挙げたのがロヒンギャだった。

    現在、ロヒンギャの名前を付した文書として最も古く遡れるものは、1950年に彼らがウー・ヌ首相に宛てた公式の手紙である。これ以前にもロヒンギャ名が使われた可能性は否定されていないが、使用したとする確実な史料はみつかっていない。宗主国英国側の行政文書には、チッタゴン人(Chittagonians)という表記が圧倒的に多く、ロヒンギャないしはそれに近い発音(スペル)の名称はいっさい登場しない。
    ビルマ人の歴史学者によれば、アラカン王国を形成していた人々が代々継承してきた農地が、英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール(またはザミーンダーリー)制度」によって奪われ、チッタゴンからのベンガルイスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。

    日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はミャンマー軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。

    1988年、ロヒンギャアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。結果、1991年~1992年と1996年~1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、UNHCRの仲介事業によってミャンマー再帰還させられている。

    2012年6月、ロヒンギャムスリムとアラカン仏教徒の大規模な衝突が起き、200人以上が殺害された。そのほとんどがロヒンギャであった。さらに13万~14万人のロヒンギャが住処を逐われ、政府は避難民キャンプに幽閉した。

    2017年現在、ロヒンギャの国外流出と難民化の問題は解決していない。

    *「漢族のウイグル人チベット人に対する仕打ち」もこれに該当する。

    「半島・孤島型排外主義」元老院制の統治下にあった共和制ローマ、大陸に既得権益を有さない時期の日本、ブリテン島、北欧諸国などに比較的純粋な形で見て取れるが細分化していけばキリがない。そしてここにおいて「ゴビノー伯爵の悲観的人種ビジョン」の「帝国というものは発展するにつれて異人種との混血を招き、故にその帝国の創り手たる優越人種は絶滅の危機に瀕することとなる」なる指摘が効いてくる。元老派ローマ人がポエニ戦争(紀元前264年〜紀元前146年)に反対し続けたのは何故か? 現代日本人は「大日本帝国の大陸進出失敗」を全然悔やんでいないのでは? 北欧諸国が最終的には英国同様「栄光ある孤立」を選んだのは何故か? イングランドブリテン島統一の為にウェールズアイルランドスコットランドを併合した時点で手遅れだったのでは? ましてやイスラム教圏とキリスト教圏の接点として激しい争奪戦が繰り広げられてきたイベリア半島の「スペイン人」や、アナトリア半島の「トルコ人」をや?
    カルタゴ滅ぶべし - Wikipedia

    *この問題は十字軍/大開拓時代(11世紀〜13世紀)を先導したノルマン人、大航海時代(15世紀中旬から17世紀中旬)を先導したポルトガル人、さらには「大航海時代の最終勝者」となったオランダ人にとってはさらに他人事ではない。

    ノルマンディ地方を奪取した北欧諸族を起源とするノルマン貴族は(西ゴート王国末裔たる)アストゥリアス貴族や(ブルグント王国末裔たる)ブルゴーニュ貴族や(ランゴバルト王国末裔たる)ロンバルディア貴族と結びつつ、ノルマン朝イングランド(1066年~1135年)、アンティオキア公国ノルマン人君主時代(1098年~1119年)、オートヴィル朝シチリア王国(1130年~1194年)などを次々と現出させ、ビザンチン王国やイスラム諸国を震撼させた。ノルマンディ発祥のクリュニー修道院(11世紀設立)やブルゴーニュ発祥のシトー会(12世紀創設)が牽引したロマネスク文化はまさに彼らのものである。

    13世紀までにその勢いが維持出来なくなり、やがて北フランス諸侯や神聖ローマ帝国諸侯にその座を明け渡す形でひっそりと消えていったのは、混血が進行して「種としての維持」が不可能になったせいと推察されている。その一方で彼らが次第に存在感を失っていった所領では「領主が領民と領土を全人格的に支配する農本主義的伝統」の形骸化が進行。ある種の市民意識が形成され、それが(羊毛と毛織物の交易で密接に結ばれた)フランドル地方にまで輸出される展開となる。
    *当時は欧州よりはるかに文化的先進地域だったイスラム諸国よりカタルーニャプロヴァンスチュニジア経由で渡ってきたセファルディム系(スペイン系)ユダヤ商人と、彼らと結ぶ事で身分上昇を図ろうとしたアシュケナジム(ドイツ系)ユダヤ商人。内陸部で彼らの好敵手となったのがロンバルディア商人で、ローマ教会に癒着して成功したフィレンツェはイタリア・ルネサンス発祥の地となる。

    *ゴビノー伯爵はスペイン人と大半のフランス人(おそらく特に南仏人)、北部のイタリア人、そして大半のイギリス人もまた混血により退化しつつあるとした。こうした民族混合状態への嫌悪感がそう言わせたとも見て取れる。その一方でロマン主義文学の雄たる英国詩人バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788年〜1824年)が地中海沿岸旅行で見て取ったのは、異国情緒に飲み込まれつつある古代ギリシャ残滓であり、その発見が欧州をしてギリシャ独立戦争(1821年〜1830年)なる茶番劇に向かわせていくのであった。

    アジアにやってきたポルトガル人達

    ポルトガルからアジアにやって来て、その艦船や現地の要塞、商館に配置されたポルトガル人は、少数の上級貴族のほかは、フィダルゴ(血統を重んじるが貧乏な農村貴族)と、平民の兵士や船員たちであった。彼らのインディア州において勤務できる期間は通常3年であった。

    • ポルトガルは、その王権が伸張した1527-32年という時期の調査で人口わずか140万人という、小農業国であったので、その拡大する支配圏に要員を補充することは容易ではなかった。平民の兵士や船員たちは、主としてリスボンの他、北部のミーニョやドウロ地方から供給された。その数を補うため、アルブケルケは現地人との混血を奨励したという。

    • 1540年頃、インディア州にいたポルトガル人の数が10000人を超えることはなかった。このうち、勤務者となる資格のあるのは6000ないし7000人で、実際に勤務についているのはその半数くらいであった。この10000人ぐらいでは、東アフリカのモサンバサから中国のマカオまでの要員としては、明らかに不足であった。

    • 1000、2000トン級のガレオン(大型で重装備したナウ)はポルトガル人だけで満たすことができず、数人の士官と15-20人の砲手を除いて、それ以外はすべてアジア人かアフリカ黒人奴隷を使わざるをえなかった。また、小型船の場合、船長ひとりがポルトガル人で、後はアジア人が当たり前であった。アジア人はグジャラートイスラーム教徒の船員が多かったといわれる。

    • インディア州の勤務者は任期が満了すると、原則として帰国しなければならず、帰国の旅費は自弁であった。ただ、現地の女性と結婚した人びとに限り、現地に住み着くことが許された。そのため、多くの人々が民間ポルトガル人として、アジアに残るようになった。

    • 民間ポルトガル人はインディア州を構成する都市のほかに、インド洋交易圏を形成する各地の港市にも住み着き、商人、傭兵、職人などになって活躍した。彼らは、現地でポルトガル人町を築いて、来航するポルトガル船のための商品集荷などのさまざまな活動を行った。彼らが特に盛んに活動した地域は、現在のビルマやタイであった。彼らは現地にポルトガル風の生活を持ち込み、「インド=ポルトガル文化」を生んだ。

    ポルトガル人傭兵隊が、ビルマのタウングー朝の成立、それをめぐる動乱、そしてアユタヤ侵攻に大きな役割を果たしたことはよく知られている。1543(天文12)年、種子島に漂着した倭寇王直の中国船に便乗していた3人のポルトガル人は商人であり、火縄銃を将来させたことはよく知られている。

    当時のオランダはヨーロッパの中でも小国で国民が少なかった。宗主国として国民が少ないオランダが、数倍の民族を支配する為に、オランダは大がかりにインドネシア人との混血児を作り、それを間接統治の官吏とした。行政官は混血児と華僑に任せ、インドネシア人の政治参加、行政参加はほとんど禁止した。

    インドネシアでの人種別人口比率では、インドネシア人200人に対し、およそオランダ人1人の比率であったと言われている。少ない人数のオランダ人が安全に支配できる様に、オランダ人男性はインドネシアの女性に混血児を生ませていた。その混血児をオランダ人とインドネシア人の中間の支配階層に利用して、支配層の厚みを増す為に混血児を増やしていたのであった。

    オランダ女性とインドネシアの男性の混血児は生まれてはいない。オランダ男性の欲求不満の捌け口にインドネシアの女性が利用されたに過ぎない。

     実は英国、日本、フランス、イランなどは歴史上、こうした視野偏狭な排外主義を(国境に沿った)国民意識の形成によって克服した稀有の例というべきかもしれないという話(ドイツ帝国やイタリア帝国もそれなりに頑張ったが、ゴビノー伯爵が「諸人種の不平等に関する試論(Essai sur l'inégalité des races humaines、1853年〜1855年)」を発表した時期にはまだその努力が必ずしも実っていないので視野外に置かれている)。この辺り、当時のアメリカが置かれていた状況はさらにややこしく、要するに「東海岸の半島・孤島型排外主義が領土の西方への大幅拡大によって脅かされていく」時期に該当する。そうまさに(元老院が采配する)共和制ローマが属州の大量獲得によって(皇帝が采配する)帝政ローマへの移行を余儀なくされたのと同じ展開を当時のアメリカは体験中だったのである。

    この問題の根深さは、H.P.ラブクラフトなどのアメリカ幻想文学のファンの間では周知の事実。1920年代に入ってなお、東海岸のアメリカ人はゴビノー伯爵的人種意識の拘束を受け続けていたのである。アフリカ系アメリカ人はしばしば、殴り合いを通じて相応の形で「力の均衡」を勝ち取ってきた(逆の立場からいえば上手に負けてきた)南部人より、建前上は「人類平等」を口にしつつ、絶対にそうした人種理念を手放そうとしない北部人の方が差別意識が根強いと口にする。同時に「それでも一応同じアメリカ人だし、本気の喧嘩は勘弁願いたいね」と、諦觀をもって口にさせる辺りに国民国家としてのアメリカの凄味があったりする。

    さらに根深いのがアイルランド系アメリカ人の後援を受けてイエズス会士がハリウッド向けに密かに起草した世界初の映画倫理規定「Hays Code(制定1929年、履行1934年〜1968年)」にも「異人種間の交際を奨励してはならない」なる条項が存在し、これが1950年代には「黒人をTV画面から追放しろ」というヒステリックな反応にまで過激化し、こうした動きが日本にまで伝播したという事である。

    だから現代人は「ゴビノー伯爵は当時の欧米社会において例外的存在でも何でもなかった」という事実を認めつつ改めて「トクヴィルはアメリカを訪れて何を考えたのか?」について問わなければならなくなる訳である。
    民主的国家:トクヴィルの功罪 - 立命館大学

    デモクラシーを信奉する自由主義者トクヴィルでさえ啓蒙主義的近代国家観という19世紀の病根を免かれることはできなかったと言われる。それはアルジェリア植民地問題や東方問題に対するトクヴィルの言説に如実にあらわれる。その辺のところを山内昌之氏は次の様に述べている。

    19世紀を生きたトクヴィルの最も見えていなかった汚点であろう。黒人問題はさらに根深い。

    「アメリカ連邦の未来をおびやかすもっともおぞましい害悪は,この地に黒人が存在していることである。」

    古代の奴隷は主人と同じ人種であり,教育や啓蒙 においてしばしば主人に優っていた。だから一端自由が許されると容易に交わった。当時の奴隷は全く違った。

    「奴隷という実体のないつかの間の事実が,もっとも致命的に人種の違いという肉体的永続的事実に結びつけられている。奴隷制の記憶が黒人を恥じいらせ,黒人は奴隷制の記憶を永続させる。」

    これは「アメリカのデモクラシー」が抱える最大の不平等の問題であった。北部では,黒人と白人の結婚は法的に許されているが,実例は皆無に等しい。黒人に選挙権は与えられているが,投票するのは生命賭けである。他方南部では,奴隷制が存続するけれども,ニグロは白人の労働と娯楽を分けあっている。法は苛酷だが習慣は寛大でやさしい。

    「アメリカ連邦ではニグロを拒否する偏見が,解放の度合いに応じて増しているように思える。不平等は法から消されると深く習俗に割りこむ。」

    北部が奴隷制を廃止したのは白人の利益にかなうからである。トクヴィルは自分がこの目で見たオハイオ河の左岸(奴隷を認めるケンタッキー州,1775年創設)と右岸(奴隷を認めないオハイオ州,1787年創設)の根本的差異を遂一詳細に書き込んでいる。明らかにオハイオ州の方が人口が多く,活気に満ち豊かなのである。制度廃止の第一原因は長子相続権の廃止であった。相続権の平等分配によって財産は目減りし,白人の自由労働者階級が圧倒的に増える。

    そこで北部の奴隷所有者は,いらなくなった奴隷をどんどん南部へ移送して金をもうける。奴隷制廃止はある意味で,北部人から南部人へ主人を変える制度であった。それによって,ニグロの問題は南部固有のものになっていく。

    南部が奴隷制を廃止しないのも,トクヴィルによると白人の利益にかなうからである。第一に風土による農作物の種類(タバコ,綿花,さとうきび)と労働期間(一年中)の問題。第二にニグロの数の多さ。自然増加に北部からの強制移住者を加えると,1830年の統計では,メアリランド州で100人のうちニグロは34人,ヴァージニア州で42人,サウス・カロライナ州で55人になっていた。南部の奴隷200万の上に突然自由の法則が適用されたら,権力を乱用している白人圧制者たちは身震いしなければならないだろう。約150年後,ケネス・スタンプはトクヴィルを敷延して次のように書いている。

    「経済性に欠けた労働制度と言われながらも存続していることの説明として,奴隷制擁護論者が好んで持ち出した主張は,黒人が自由身分に適さないということであった。奴隷制の存在意義は「人種問題」すなわち自由黒人が増えれば社会的危険が極めて大となり,南部の文明を脅かすことになりかねないという問題に関わる…だが…奴隷制が繁栄していたのは,単に感情的伝統に依拠して存続していたというに留まらず,経済的根拠もあったに違いないのである。事実1860年代にも奴隷制が依然として活発な成長を続けていた証拠にはこと欠かない。奴隷価格は未曽有の高騰ぶりで,南部各地で奴隷の需要が供給を上回っていた。」

    トクヴィルは南部の実情をつぶさに見て,奴隷制に関して未来にどういう選択がありうるか、身の裂かれるような考察をしている。

    「白人と解放されたニグロが同じ土地に二種の異民族のように顔を合わせると,未来に二つの可能性が考えられる。完全に融合するか分離するかである。」

    「アメリカのデモクラシー が主導権を把っている間は,誰も人種を融合させることはしないだろう。」

    「イギリス人に端を発する白人種の誇りは,アメリカ人では民主的自由に由来する個人の誇りにより,著しく強化されている。」

    「もし未来を予測しなければならないとしたらこういおう。恐らく南部の奴隷制廃止はニグロに対して白人が感じる嫌悪を増大させることになるだろう。」

    トクヴィルは立ち止まっては考え,後戻りし,先へ進んでいく。南部にとってそれは死活の問題であり,衝突の危険が常につきまとうからである。時にはアメリカ連邦の絆が破れる時にニグロに救いのチャンスがあると予測もする。その上でトクヴィルは次のような予言でこの問題をしめくくる。

    「南部のアメリカ人が奴隷制を維持するためにどんな努力をしょうと永久に成功しないだろう。奴隷制は地球の一点に限られ,キリスト教によって不正,政治経済によって致命的と攻撃されている。奴隷制はわれわれの時代の民主的自由と啓蒙 の中で永続しうる制度ではない。奴隷か主人かどちらかがそれを終わりにするだろう。どちらの場合も大きな不幸が予想されうる。南部のニグロに自由が拒まれても,最後には自ら手に入れるだろう。許されるとしたら,たちまち自由を乱用することになるだろう。」

    南北戦争(1861-1865)が終わった後,トクヴィルの予言(奴隷制廃止)は実現された。ニグロの地位は,自由人そして市民の地位に高められた。しかしトクヴィルの予言通り,同じ土地に異質の人種が平等な条件で融合しうるかという問題は長く残されることになった。果して人種主義は手を変え品を変えいまだに生き延びている。バリバールによれば新人種主義とは「その支配的テーマが生物学的遺伝ではなく文化的差異の還元不可能性にあるような人種主義」だが,渋谷望氏は「そのイデオロギーは移民や彼らをサポートする福祉国家を「強者」とみたて,イギリスの白人を「弱者」として位置づける言説を編み出し,明らさまな白人対黒人という敵対性を迂回しつつ,移民たちを暴力的に取り締まることを可能にした」ことを述べている。

    新しい定義のイデオロギーはたちまち排除の構造を内包させてしまう。何故だろうか。

    荒野に向かって、吼えない… 『トクヴィルが見たアメリカ』

    トクヴィルはアメリカの人種差別に直面し衝撃を受け、奴隷制は将来大きな禍根となるであろうことを予言している。その一方でヨーロッパではすでに失われた荒野に心惹かれ、インディアンに深い同情を寄せる。

    しかしまた、まだその言葉は使われてはいなかったが、「マニフェスト・デスティニー」という白人中心の拡張主義についてはこれを肯定的に捉えてもいた。このあたりは後のトクヴィル自身の政治家としての姿勢を予言しているかのようでもある。

    *太平洋戦争(1941年〜1945年)当時における米軍の黒人の扱いも悲惨極まりないものだったが、この戦争で果たした黒人の役割、その地位、彼らに向けられた眼差しは確実にその社会的地位向上に直結していったといわれている。

    第二次世界大戦における黒人兵士たち - Nichimy Corporation U.S. Office ニチマイ米国事務所

    *いずれにせよ本当に決定的展開が怒るのは総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)も末期に入った時代に起こった1960年代黒人公民権運動以降となる。

ところでゴビノー伯爵による「諸人種の不平等に関する試論(Essai sur l'inégalité des races humaines、1853年〜1855年)」の発表時期にはもう一つ特筆すべき点があります。それは「欧米文学史の微妙な狭間に位置している」という事です。

  • 赤チョッキ(小ロマン主義文学者)およびバルザック(1799年〜1850年)、アレクサンドル・デュマ1802年〜1870年、1851年に裁判所から破産宣告が降りてベルギーに逃亡して以降不調)、ヴィクトル・ユーゴー1802年〜1885年、ただし1845年にルイ・フィリップから子爵の位を授けられたのを契機に政界に足を踏み入れ、1951年のルイ・ナポレオン大統領のクーデターに際してベルギーへの亡命を余儀なくされる)らが築いてきた「文豪時代」の終焉。
    *亡命先でヴィクトル・ユーゴーが代表作とされる「レ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」を発表するのはずっと後の話となる。

    1220夜『モンテ・クリスト伯』アレクサンドル・デュマ|松岡正剛の千夜千冊

    *実際には「芸術至上主義」を打ち出したゴーチェや、評論家としてエドガー・アラン・ポーをフランスに紹介したり、サド侯爵の文学を再発掘した上で「悪の華(Les Fleurs du ma、初版1857年、発禁後の再版1961年)が象徴主義文学(Symbolisme)を基礎付けた時期にも該当するが、この系譜がメインストリームにのし上るのは1870年代に入ってから。
    テオフィル・ゴーティエ(Pierre Jules Théophile Gautier,1811年〜1872年) - Wikipedia
    シャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年〜1867年) - Wikipedia

  •  その一方でドイツや英国においては既に「科学主義」の時代が始まっており、ゴビノー伯爵は「フランスも急いでこの流れに追いつくべき」と考えた側面も見て取れる。実は案外ルイ・ナポレオン大統領が1851年にクーデターを起こした動機もこれだったのかもしれない。

    ある意味1859年は「社会学元年」とでも呼ぶべき年だったといえる。

    f:id:ochimusha01:20170327174524j:plain

    • ジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)」によって「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。権力が諸個人の自由を妨げるのが許されるのは、他人に実害を与える場合だけに限定される」なる考え方を発表。ちなみに男女同権を訴える様になったのは「女性の服従(The Subjection of Women、1869年)」以降となる。

    • ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」によって系統進化などの概念を発表。ちなみに「性淘汰(Sex Selection)」の理論が追加されるのは「人間の由来と性淘汰(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex、1871年)」以降となる。

      チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin、1809年〜1882年) - Wikipedia

    • マルクスが(パトロンたるラッサールの全面協力を受けて)「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」によって「我々が自由意思や個性と信じているものは、社会の同調圧力によって型抜きされた既製品にすぎない」なる考え方を発表。

    こうした諸概念の組み合わせから新たな時代の思考様式が紡ぎ出されてくるのである。ちなみに「自然主義文学の祖」とされるフランスの文豪エミール・ゾラもまた、ライフワーク「ルーゴン=マッカール叢書(Les Rougon-Macquart 、1870年〜1893年)」に着手したのはダーウィンの進化論やクロード・ベルナール「実験医学研究序説(Introduction a L'etude De la Medecine Experimentale、初版1865年)」に多大な影響を受けた事を告白している。科学の発展が人間の想像力を凌駕し始めたのである。

    クロード・ベルナール「実験医学研究序説」を読む
    175夜『実験医学序説』クロード・ベルナール|松岡正剛の千夜千冊

    • 「衛生統計学の祖」ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年~1910年)の活躍。以降都市計画と社会調査が不可分の関係となる。

      f:id:ochimusha01:20170327163021j:plain

    • 近代細菌学の発展。「自然発生説の検討(1861年)」発表によって従来の「生命の自然発生説」を否定しワクチンによる予防接種を発明したパストゥール(Louis Pasteur, 1822年~1895年)や炭疽菌の純粋培養成功(1876年)、結核菌の発見(1882年)、コレラ菌の発見(1883年)などに次々と成功したコッホ(Heinrich Hermann Robert Koch、1843年~1910年)の業績あたりが有名。

      f:id:ochimusha01:20170327162902j:plain

    • 英国人マクスウエル(James Clerk Maxwell、1831~1879年)による電磁界理論の発表と電磁波の存在の予言(1864年)、ドイツ人ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz, 1857年~1894年)による電磁波の存在を実証(1887年)、ボローニャ出身のイタリア人マルコーニ(Guglielmo Marconi、1874年~1937年)による無線電信の開発(1895年)。

      f:id:ochimusha01:20170327162738j:plain

    • シャルコー (Jean-Martin Charcot、1825年~1893年)の催眠療法と、フロイト(Sigmund Freud、1856年~1939年) の精神分析

      f:id:ochimusha01:20170327162622j:plain

     中には薬が効きすぎてユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848年~1907年)やコナン・ドイル卿(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, 1859年~1930年)の様にオカルトの世界に転落していく人々も現れた。そのくらい「近代化(不可視領域に対する認識の深まり)がもたらす存在不安(強迫概念)の高まり」は近代人の精神的存続意識に脅威を感じさせたという次第。

     *ダーウィンの系統進化論登場までの初期人類学、新カント派 (Neukantianismus、1870年代〜1920年代)登場までの俗流唯物論(vulgar materialism)の暴走ぶりは現代人の想像を絶している。

    *ゴビノー伯爵の「人種不平等論」はまさにその暗黒期の試行錯誤の集大成みたいな作品だから、元来なら後世に残る筈もない。なにしろ19世紀末には大きなパラダイムシフトがあった。

    チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso、 1835年〜1909年)

    イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者。犯罪学の父とも呼ばれることがある。ノーベル生理学・医学賞を受賞したカミッロ・ゴルジ(Camillo Golgi)の指導教官でもある。

    • 1836年11月18日(1835年との説、11月6日との説あり)、ヴェローナユダヤ人の家で生誕。

    • パドヴァ大学ウィーン大学パリ大学で学び、最終的にトリノ大学を卒業。この間、薬学やヘブライ語アラム語、中国語を習得。

    • 1859年、軍医としてイタリア統一戦争に従軍。

    • 1862年、パヴィア大学の精神医学の教授に就任。

    • 1870年4月10日にニナ・デ・ベネデッティ(Nina De Benedetti)と結婚。彼女との間に5人の子を儲けた。

    • 1876年、トリノ大学に籍を移し、精神医学や法医学、犯罪人類学を教えた。

    • 1909年10月19日、トリノで死去。

    ロンブローゾが行った研究のうち最も著名な成果は「犯罪人論(L'uomo delinquente、1876年)」である。全3巻、約1,900ページにも及ぶこの大著において、彼は犯罪に及ぼす遺伝的要素の影響を指摘した。
    *なお、学術用語としての「犯罪者」は、法律上の罪を犯した者を指す法学的・社会学的概念であり、「犯罪人」は、法律上の罪を犯したか否かに関わらず、その素質(即ち上記のような身体的・精神的特徴)を有する者を指す生物学的概念である。

    • かねてより「天賦の才能」についての研究を行い、『天才と狂気(Genio e follia、1864年)』などの著作を世に問うていたロンブローゾは、骨相学、観相学、人類学、遺伝学、統計学社会学などの手法を動員し、人間の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性を検証。処刑された囚人の遺体を解剖、頭蓋骨の大きさや形状を丹念に観察した。

    • 解剖された頭蓋骨は383個にのぼる。また、刑務所や精神病院で3,839人の受刑者の容貌や骨格を、兵士のそれと比較した。こうした多大な労力を費やした末に、彼は「犯罪者には一定の身体的・精神的特徴(Stigmata)が認められる」との調査結果を得た。

    • ロンブローゾは身体的特徴として「大きな眼窩」「高い頬骨」など18項目を、また精神的特徴として「痛覚の鈍麻」「(犯罪人特有の心理の表象としての)刺青」「強い自己顕示欲」などを列挙している。彼によれば、これらの特徴は人類よりもむしろ類人猿において多くみられるものであり、人類学的にみれば、原始人の遺伝的特徴が隔世遺伝(atavism)によって再現した、いわゆる先祖返りと説明することができる。

    • また、精神医学的見地からは悖徳狂と、病理学的見地からはてんかん症と診断される。これらの特徴をもって生まれた者は、文明社会に適応することができず犯罪に手を染めやすい、即ち将来犯罪者となることを先天的に宿命付けられた存在であると結論付けた。これが「生来的(生来性)犯罪人説」である。こうした彼の立論の背景には、当時流行していた ダーウィニズムへの傾倒があった。

    • 発表当初は、犯罪者の約70%が生来的犯罪人であるとしたが、のちにその数値を約35 - 40%に下方修正した。

    1880年頃からリボーの創刊した『哲学雑誌』に論文を投稿するようになったフランスの「社会心理学者」ガブリエル・タルドは「犯罪は遺伝的要因が起こす」とするこのロンブローゾの犯罪学に高い関心を持って研究。やがて「犯罪は伝播や伝染といった観点から模倣的な事実である」なる独自の結論に到達して「比較犯罪学(La criminalité comparée、1886年)」や「模倣の法則(Les lois de l'imitation: Etude sociologique、1890)」といった著作を発表して「模倣犯罪学」なる新ジャンルを打ち立てる。

    ガブリエル・タルド(Jean‐Gabriel de Tarde、1843年〜1904年) - Wikipedia

    *これに同じフランスの「社会学者」エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年〜1917年)が「個人の意識が社会を動かしているのではなく、個人の意識を源としながら、それとはまったく独立した社会の意識が諸個人を束縛し続けている」という観点から噛み付いて「社会実在論争」が勃発。デュルケームの提唱する「社会的事実(仏Le fait social 、英Social Fact、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式)」なる概念が世に広まって社会学なる社会そのものを扱う新ジャンルが勃興し「人種間の衝突が歴史を動かして着た」とするゴビノー伯爵の立脚して着た前提そのものが時代遅れとなってしまったのである。

という事で欧米におけるこの方面の騒動は新局面を迎えた訳ですが、大日本帝国の「ええとこどり」精神は、困った事にこうした「欧米の黒歴史」からも何か学んでしまった様なのです。 

人類館事件(「学術人類館事件」「大阪博覧会事件」1903年)

f:id:ochimusha01:20170327183548j:plain

大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会(1903年)の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件。

博覧会 - 帝国主義の視線

19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。

人間そのものの展示が博覧会に登場したのは、1889年のパリ万国博覧会である。欧米での万博では日本人を展示品とした日本人村もあった。パリ万博では展示役を務めた芸者に一目惚れした青年がプロポーズを申し出たり、着物を譲って欲しいと願い出た女性の存在の記録もあり、日本においては人種差別意識より純粋な民族文化の展示と受け取られた。

 大阪博覧会

明治期、様々な文物・制度が西欧より移入されたが、博覧会という催しもその一つであった。国際博覧会への参加自体は幕末から始まっていたが、明治の世になると富国強兵の手段として盛んに「内国勧業博覧会」というものが開催された。具体的には西欧文明の文物・技術の紹介と習得、そしてその切磋琢磨の場の提供、およびそれら産業への投資を募集する産業振興が目的であった。

大阪博覧会において、「人間の展示」は民間業者主催の学術人類館というパビリオンでなされた。当時の資料によれば学術人類館は以下のようなものであった。

『風俗画報』269号(1903年)

内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり(以降、大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」とほぼ同じ内容)

大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」(1903年3月1日)

人類館 斜に正門に対して其建物あり。準備の都合にて開館は来る五日頃となるべく夜間開館の事は未定なりと云へば当分は昼間のみならん。内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる/\自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事。

一方台湾館は、極彩色の楼門及び翼楼をもった建築物であり、中では台湾に関し15部門(農業・園芸から習俗まで)の展示が行われた。これは当時日本の植民地となってすでに9年が経過していた台湾の実情を内外に知らしめるために設けられたのである。この台湾館は、その後の博覧会でも常に設けられるようになり、また植民地の拡大とともに増設されていった樺太館や滿洲館・拓殖館・朝鮮館といった「植民地パビリオン」のモデルとなった。 

反発と積極的参加

当時の日本は、鉄道や船舶の整備によって国内の移動が促進されたことで、全国から多くの人々が博覧会を観覧しに来るようになっていた。さらに、日清戦争後に起きた日本留学ブームによって、清国や朝鮮などから来日した多くの人々が来場するようになった。彼らは展示物に対し素直に賛嘆し、明治維新の成果を認めた。しかし学術人類館の生きた展示に支那、沖縄が反発し、外交問題化した。反対に、後述のアイヌのように積極的に参加する場合もあった。

沖縄県

沖縄県からつれてきた遊女を「琉球婦人」として展示されていることに対し、地元では抗議の声があがった。たとえば当時の『琉球新報』(明治36年4月11日)では「我を生蕃アイヌ視したるものなり(私たちをアイヌなんかと一緒にするな)」という理由から、激しい抗議キャンペーンが展開された。特に、沖縄県出身の言論人太田朝敷が、

陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや

であると抗議し、沖縄県全体に非難の声が広がり、県出身者の展覧を止めさせた。
当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり本土出身者と同じ日本民族だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議であった。

清国

清国側からも同様に激しい抗議がいくつか寄せられた。まず宣伝によって事前に、学術人類館に漢民族の展示が予定されていることを知った在日留学生や清国在神戸領事館員から抗議をうけて、日本政府はその展示を取りやめた。博覧会開催前に清国の皇族や高官を招待していたため、すぐに外交問題となったためであった。その学術人類館に「展示」される予定だったのは、阿片吸引の男性と纏足の女性であった。清国人の展示が中止された後、今度は人類館に出演している台湾女性が実際には中国湖南省の人ではないか、という疑いが清国留学生からかけられた。しかし、その留学生が自分で確かめたところ、台湾女性は本当に台湾出身であることが判明し、一件落着となった。

アイヌ

アイヌはむしろこれを好機と捉え、来場者にアイヌの待遇改善をアピールした。

反発の構造 - 「誤解」と「野蛮」

「展示」された諸地域の反発は誤解に基づく部分が多く、日本側には差別意識は無かった。事実、同じ博覧会において「薩摩の裸踊り」も展示されていた。これは当時権勢を誇った薩摩(鹿児島)の大勢の若者が、褌姿で民族舞踊を踊るというものであり、生きた展示が人種差別ではなかった状況証拠となっている。また、博覧会本来の目的以外の子供向けアトラクションなどを当時は「余興」と呼称し、現代の遊園地のようにウォータースライダーなどの体感型遊具も設置され、特に「余興動物園」はアジアゾウ、ライオン、マレーバクなど、当時としては珍しかった動物が、外国産を中心に60種類ほど飼育され、子供たちに人気を博した。

しかし沖縄や清国といった抗議する側が反差別主義的であったかというと、実はそうではない。たとえばこの事件に関して、金城馨は、沖縄県の人々の抗議により、沖縄県民の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、沖縄人も差別する側に立っていた」と主張している。

また清国留学生たちも「インドや琉球はすでに亡国となり、イギリスと日本の奴隷となっている。朝鮮はかつては我が国の藩属国であり、今やロシアと日本の保護国と成り下がっている。ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」(『浙江潮』第2号、1903年)と悲憤慷慨しているように、抗議の原点は「野蛮」な他民族とひとしなみに扱われることであった。

坪井 正五郎(1863年〜1913年)

日本の自然人類学者。 

  • 蘭方医・坪井信道の孫として江戸に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。

  • 1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手。

  • 翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授。遠縁にあたる民間の研究家・林若樹がこの頃から助手として出入りする。同年蘭学者箕作秋坪の長女・直子と結婚。1899年理学博士号を授与された。

  • 1902年(明治35年)12月17日 - 正五位

  • 1904年(明治37年)12月27日 - 勲四等瑞宝章

  • 日本の人類学の先駆者であり、日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている。1903年の第5回内国勧業博覧会では学術人類館に協力した。

  • 人類学の創始者として鳥居龍蔵などを育てる。柳田国男南方熊楠を結びつけ、また、三越のブレーン「流行会」メンバーとして玩具の開発でも功績を残した。

  • 1913年、第5回万国学士院大会出席のため滞在していたロシア・ペテルスブルクで、急性穿孔性腹膜炎のため客死。

直子夫人は箕作阮甫の孫娘で正五郎・直子夫妻は2男2女をもうけた。地質学者・鉱物学者・岩石学者の坪井誠太郎は長男、地球物理学者の坪井忠二は次男。また、長女・春は西田正三に、次女・菊は佐谷台二に嫁いだ。物理化学者の坪井正道は正五郎の嫡孫(誠太郎の長男)。

現代日本人の所感

意外と重要なのが、日露戦争(1904年〜1905年)当時の日本には「人種戦争」とか「世界最終戦論」といった観点など皆無だったのに、太平洋戦争(1941年〜1945年)で欧米と戦火を交える段階には、これが総力戦を戦い抜くイデオロギーにまで成長していた点だったりします。
*そもそも日露戦争当時「世界最終戦論」は実在しなかった様にも見て取れる。そもそも「総力戦」という概念自体が第一次世界大戦(1914年〜1918年)以前には存在していなかったのだから当然といえば当然?

果たして当時の大日本帝国臣民達は当時の欧米から一体何を学び血肉としていったのでしょうか?  当人は「ええとこどり」してるつもりで、何かとんでもない考え方を仕入れてしまったのではないでしょうか?

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…