諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「帝国主義イデオロギー」とは何だったのか?

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19世紀には欧州じゅうに産業革命の輪が広がり、ブルジョワ経済の発展が促されたが、その先に行き着いたのが、様々な要因によって生産量ばかり過多となった事を主要因とする大不況 (1873年〜1896年)の到来だった。
産業革命を加速させた冷蔵技術 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

ある意味「資本主義はその構造が複雑で理不尽過ぎる為に、やがて高転びする」としたマルクスの予言は確かに当たったのである。それは「国王と教会の権威が絶対視される時代」終焉後の欧州に残された最も信頼のおける信念の一つでもあった。

欧州の18世紀的危機とその後遺症 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

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司馬遼太郎は日本史における応仁の乱(1467年〜1477年)を「乱というより革命意識のない一種の生物学的な発熱と脱皮現象」と表現したが第一次世界大戦(1814年〜1818年)はまさにその状態であった。実際、西洋史的にも中世的分権状態にあった神聖ローマ帝国領邦国家体制に解体した三十年戦争(1618年~1648年)の再来と指摘される事がある。要するにゴルディアスの結び目を一気に断ち切ろうとする動きだった点では同じという話。

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ただしその結果地上に生を受けたのはマルクスが待望した様な「何もかもシンプルで合目的に再構成された共産主義社会」でも、戦国時代を終焉させた徳川幕府がとりあえずの政体として選択した江戸幕藩体制の様な「妥協の総体」でもない何かだった。イタリアのファシズムもドイツのナチズムもこの混沌状態を母体としてこの世に生を受ける事になる。

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一応、ヴェストファーレン条約(1848年)後の欧州が「ヴェストファーレン体制」と呼ばれ、ウィーン会議(1814年〜1815年)後の欧州が「ウィーン体制」と呼ばれる様に、ヴェルサイユ条約(1819年)以降の欧州は便宜的にヴェルサイユ体制」と呼ばれる。しかしその視野内には、あくまで全体像のごく一部しか取り込まれていない。むしろヴェルサイユ体制加盟国が一斉に建前上投げ捨てた「帝国主義イデオロギーの残滓」の方にこそ、本当は無視してはならなかった重大な何かが付帯していたとしか思えないのである。

「長い19世紀」と「短い20世紀」 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

そもそもそれまで時代を席巻してきた帝国主義イデオロギーとは一体何だったか。「黄禍論とは何か」の著者ハインツ-ゴルヴィツァーはこう説明する。 

ハインツ-ゴルヴィツァー黄禍論とは何か―その不安の正体-(1962年)」

帝国主義という時代区分は概ね1870年代から第一次世界大戦までとされる。我々はこの区分を世界政策の時代と把握し、その意味でそれ以前のより欧州中心主義的で自由貿易主義的だった時代、戦闘的膨張傾向の少ない、まだ全体としては国民国家的だった時代と区別しようとする。その一方でこの基準に基づいてそれに続いた全体主義的体制、ブロック経済の時代とも切り分け様とする。しかし歴史的時間区分とはあくまで便宜上の規定に過ぎず、実際の時間は常に連続して流れているものである。

社会学者で哲学者でもあるハンナ・アーレントは「全体主義の起源(The Origins of Totalitarianism、1951年)」の中で「帝国主義というのは、ブルジョワジーが資本主義の競争・生産原理を政治の世界に持ち込む事によって起こった」と述べているが、これは帝国主義イデオロギーの核心を突いている。つまり軍事力に支えられた経済拡張という考え方で、今日我々が社会的ダーウィズム、あるいは政治的ダーウィズムと呼んでいる世界観とほぼ一致する。国家、民族、種族間の「生存競争」および強者の権利を指導原理として、いわゆる弱肉強食による自然淘汰を人間社会にも応用しようと思想傾向が広まり、社会的影響力を備えるに至ったのは他ならぬこの時代であった。

言い換えれば倫理的衝動、責任感、使命感、そして名誉欲といった要因が競争略奪の精神と奇妙な形で結びついて、それを推し進めたのである。そしてこうした動機がイデオロギーに擬結すると「白色人種の使命」とか「世界ミッションに対する揺るぎない信念」といった体裁をまとう様になった。無論こうした考え方の中にどれほど多くのいかがわしい魔力と政治利権が潜んでいるか、脱イデオロギー/脱神話化の教育を受けた読者諸賢に多くの説明は不要であろう。だからこそここではあえて、そうした使命感的イデオロギーが当時は熱狂と献身と信念に支えられ、実行に移されたという確固たる事実を指摘せざるを得ない。自分達は普遍的文明を東アジアに流布しているのだ、などという西洋人の人道主義的使命感は、もちろん純然たる実務家、現実的政治家、マルクス主義者にとって言語道断の暴論であろう。だが当時はそれが初めは素朴かつ強引なやり方で、後には反省の色を濃くしながら控えめに、ただし決して疲れ衰える事なく実践に移され続けたのだった。

何故ならこの原理は当時れっきとした科学理論に基づくとされ、その最盛期には実際に科学理論的性格を帯びていたからである。経済学、地政学、人類学、人口論統計学などが帝国主義イデオロギーの形成に参画し、その正当性を理論付けた。国家と国民、君主と臣下といった言い方に変わって、次第に「生存権」「広域」「新天地」「中心地域」「場所不足」「土地獲得の必然性」といった言葉が使われだした。それまではロマノフ家とホーエンツォルレン家のやりとりとか、ペテルブルグ政府とベルリン政府の関係だとか、ロシアとドイツの外交といった事があれこれ取り沙汰されてきたが、19世紀に入るとやおら「東方政策」などという言い回しが台頭してきて世の中を席巻してしまったのである。

その背景に古代ギリシャ・ローマ文明より継承したコスモポリタン精神の暗黒面を見る向きもある。「寛容(Clementia)」と表裏一体の関係にある感情。

①欧州産業革命の末期は南北アメリカに対する連戦連敗の状況を呈した。

②大不況 (1873年〜1896年)を引き起こした戦犯と目される事も多い。

③この状況が欧州全体に不安を撒き散らす。

ハインツ-ゴルヴィツァー黄禍論とは何か―その不安の正体-(1962年)」

「黄禍(Yellow Peril)」には先駆けとなったスローガンがあった。「米禍(American Peril)」がそれで、1870年代以降ヨーロッパでひしひしと感じられる様になったアメリカ農業(後にはアメリカ工業)による経済的脅威を意味した言葉である。とりわけ鉱山業と工業の分野で凌駕されていたイギリスの反応は敏感で、英国人経済学者スタンレイ・ジェヴォンス(1834年〜1882年)は以前から経済危機を乗り切る方策として限界効用論や太陽黒点説を唱えてきたが「炭鉱問題(1865年)」でやっといささかのセンセーションを巻き起こす事が出来た。

ベルギー自由貿易論者で経済界の論客でもあったギュスタブ・ド・モリナリ(1819年〜1911年)と並んでドイツ語圏にはオーストリアの活力溢れる経済学者で著作活動も精力的に行っていたアレキサンダー・フォン・ベーツ(1829年〜1911年)も声高に警鐘を鳴らしている。1890年オーストリア財界で行った講演の中でアメリカの脅威を盛んに警告した上で「オールアメリカン」に対してはこちらも一丸で対抗しなければならないと説いている。ドイツ産業連盟の論客D.W.ヴェントラントも1902年に発表した「ドイツから見たアメリカンペリル」という論文の中で、1879年にビスマルクが定めた新たな独仏通商同盟をアメリカの挑戦から守るにはどの様にすべきか論じている。

フランスの立場からは、先に名前の挙がったモリナリがフランス、ドイツ、オーストリアハンガリー・オランダ・ベルギー・スイスからなる中欧関税同盟を成立させるべきと提案しているが、ライン川左岸の地域でこの様な努力に邁進したのはモリナリ一人だけではなかったのである。ドイツ国内でもこれとほとんど時を同じくして同一歩調を取る者がいた。それはカトリック社会福祉政治家フランツ・ヒッツェ(1851年〜1921年)とプロテスタンントの保守的社会主義者ルドルフ・マイヤー(1839年〜1899年)で、マイヤーには「アメリカの脅威の原因」という著作もある。

 ④そもそもナポレオン戦争(1803年〜1815年)の最終的勝利者は、将軍でもなければ皇帝でもない宰相メッテルニヒである。この事実が既に暗喩していた様に、フランス二月/三月革命(1848年〜1849年)に至る動乱は(少なくともウィーン体制発足時には確実に絶対視されていた)王侯貴族や教会が普遍的権威の源泉として万能視されされる時代を終わらせてしまった。これに対する徹底抗戦を誓った政治的浪漫主義者達も目標を見失って自滅してしまい、その結果としてある種のイデオロギー的空白が生じる。これに乗じる様に19世紀中旬には(上部構造と下部構造の関係に注目する)マルクスや(語り口調とそれが表象する体系に注目する)ボードレールといった新世代の発想が雨後の筍の様に集中的に芽生えた。

⑤それでは、そうして芽生えた新思想のうちどれかが代替イデオロギーとして最終的勝利を収めたかというと否である。当時欧州列強を動かしていた現実が複雑怪奇過ぎて、付け入る隙すらなかったという方が状況を正しく表しているかもしれない。

  • 英国にとって19世紀とは何よりもまずナポレオン戦争終結後の安価な大陸穀物流入に対抗した穀物法(Corn Law、1815年)が1846年に破棄されてジェントルマン階層が地主として君臨し続ける事を不可能を悟って金融業界に進出していくブルジョワ化の時代、さらにはフランス革命からナポレオン戦争にかけての時代を主導した小ピット率いる独立派ホイッグ (Independent Whig)やポートランド公爵やアイルランドブルジョワ政治家のエドマンド・バークを擁するロッキンガム派ホイッグ(Rockingham Whig)を併呑したトーリー党(Tory)の発展型たる英国保守党(Conservative and Unionist Party)が「トーリー・デモクラシー(Tory Democracy)」を標語に掲げるプリムローズ・リーグ(Primrose League)の大衆動員力を武器に普通選挙を制した時代であった。その一方で南アフリカ戦争に取材したホブスン「帝国主義論(Imperialism: A Study、1902年)」が指摘した「私益増大の為に国を動かしたい植民地の経営者や官僚と、内政の不備を隠す為に海外戦争に国民の目を向けさせたがってる国内政治家の公私混同に満ちた利害の一致」がボーア戦争(Boer War、Anglo Boer War、1899年〜1902年)を泥沼化させてしまい、余力を失ったい英国はその隙を突いたロシア帝国のアジア方面における南下に対抗すべく日英同盟(Anglo-Japanese Alliance、1902年〜1923年)締結を余儀なくされる。
    *そして大日本帝国日露戦争(1904年〜1905年)に勝利し、第一次世界大戦(1914年〜1918年)に参戦して太平洋に面するドイツ帝国の植民地を次々と占領して米国の隣国となり、シベリア出兵(Siberian Intervention、1918年〜1922年)において他の列強同様の領土的野心を剥き出しにする。ただでさえややこしい「ベルサイユ体制」は、内部にこんな新顔を抱え込む事になってさらにややこしい事になる。

  • フランスにおいては産業者思想の受容によって「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれるエリート階層による寡占支配が確立する一方で(初代ナポレオンを見習った)ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世による海外積極進出策が進行した。普仏戦争(1870年〜1871年)敗戦以降はビスマルク包囲網によって国内発展が絶望視される様になり、資産家の投資は東欧諸国やロシア帝国、軍の展開は海外植民地に向けられる事となった。ちなみにシベリア鉄道が極東にまで到達し、義和団事件(1900年)に便乗して満州進駐が強行され、これを遠因の一つとする日露戦争1904年〜1905年)が遂行する流れを資金面で支え続けてきたのは前者。

    *「産業者(industriels)思想」復古王政時代にサン=シモンが「産業者教理問答(Catéchisme politique des industriels、1823年〜1824年)」などにおいて「フランス人はランティエ(rentier、地主などの不労所録者)と産業者(industriels、実経済を動かす関係者全て。統合の象徴として君臨する国王や金融方面を担う資本家を容認するのが特徴)に二分されてきたが、後者が勝利すべきである」と提唱。この考え方が7月革命(1830年)から「馬上のサン=シモン」ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世の時代にかけて主要イデオロギーとして採用され、フランスに産業革命を根付かせた。

    *「海外積極進出策」…アフリカ・アジア方面におけるフランス植民地拡大、メキシコ出兵明治維新期における徳川幕府後援などが有名。世界中に「日本の武士の切腹」が広まった堺事件(Incident de Sakai、1868年)もまたその一環として起こった悲劇だった。

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  • アメリカにおいてはフロンティア消滅宣言(1890年)以降、リストラを恐れる軍部の海外進出が活発化。米西戦争(1898年、カリブ海、太平洋沿岸)、ニカラグア干渉(1909年、カリブ海)、ハワイ併合(1898年)、パナマ運河を巡る千日戦争(Guerra de los Mil Días、1899年〜1902年)などが繰り返されていきた。こうした流れが金鍍金時代(Gilded Age、1865年〜1893年)に成り上がった米国資産家階層や政府機関や民間の科学者やエンジニアのネットワーク網に立脚する米国科学万能主義と統合されたのはセオドア・ルーズベルト大統領(任期1901年〜1909年)からウィリアム・タフト大統領(任期1909年〜1903年)の時代にかけてとされ、進歩主義を掲げて共和党より政権を奪取した民主党ウッドロウ・ウィルソン大統領(任期1913年〜1921年)の時代になっても一切の干渉を受け付けなかった。それで心労が溜まったせいかウィルソン大統領は1919年に脳梗塞で倒れ、以降2年は妻のイーデスが政務を担当。米国発の女性大統領、およびインディアン大統領(イーデスはディズニー映画で有名になった酋長の娘ポカホンタスの末裔)が誕生した瞬間であった。
    *米国科学万能主義(Scientism)…サン=シモンと袂を分かったフランス人社会学オーギュスト・コントが"Voir pour prevoir, prevoir pour prevenir(予見するために観察する。予知するために予見する)"というモットーで有名な実証哲学(Philosophie positive)を社会基盤とする科学者独裁構想をを提言。これが英国の社会進化論学者ハーバード・スペンサー経由で米国に伝わったのがその最初の契機になったとも、新カント主義が1870年代に伝わりプラグマティズムpragmatism)哲学が形成されたのが発端となったとも。

  • ドイツ帝国に至っては、当時は関税同盟の盟主としてしてきたプロイセン王国がシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を通じてナショナリズムが滋養され、普澳戦争(1866年)と普仏戦争(1870〜1871年)に勝利していく建国期そのものだった。歴史のその時点ではユンカーを中心とする東部地主層(自由貿易を希望)と西部工業家層(クルップジーメンスといった重工業初期段階を担う企業家群が切実に保護貿易を希望)の利害が対立していたが、大不況時代に入ると外国産の安い農産物がヨーロッパ市場に大量に流入してきて経済問題となった事からビスマルク宰相が主導する形で保護関税法(1879年。別名「鉄と穀物の同盟」)が成立し、西部工業家層はイギリスを出し抜く形でアメリカに次ぐ規模の鉄鋼産業育成に成功したが、その一方では海外在住のドイツ商人中心に「他の列強同様にドイツ帝国も植民地を獲得すべし」とする声が高まる。そして1890年に「植民地の獲得と経営は採算に見合わない(だからこそフランスがそれに邁進するのを放置してきたのだ)」という立場に立つビスマルクが失脚して以降、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はその声に応えるべく世界中で強引なまでの植民地獲得に邁進する一方、(三国干渉(1895年)から膠州湾租借(1898年)に至る過程で完全に怒らせてしまった)大日本帝國を牽制すべく最初はロシアに日本との対決を煽り、日露戦争(1904年〜1905年)以降はアメリカに日本との対立を煽り続けたのだった。その一方では汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の激突する東欧の金融業界にも積極的に進出し第一次世界大戦の重要な遠因の一つを生み出している。
    ドナウ帝国「周回遅れ」の悲劇 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

⑥もちろん各国の国民も国家が何をしてるか理解していた訳ではなく、その行き当たりばったりのプロパガンダにその都度扇動されるのが関の山だった。

  • 黄禍論(独: Gelbe Gefahr、英語: Yellow Peril)の時代…19世紀半ばから20世紀前半にかけてヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなどの白人国家において現れた黄色人種(中国人・日本人)脅威論。アメリカ合衆国の排華移民法(1882年)を契機に最初の種が撒かれ、日清戦争勝利した日本に対してロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化する為に政治利用され、日露戦争における日本勝利によって欧州全体に広まっていく。
  •  ジンゴイズム(Jingoism)の時代…自国の国益を保護するためには他国に対し高圧的・強圧的態度を採り脅迫や武力行使(戦争)も厭わない、あるいは自国・自民族優越主義的立場を指す言葉。ナショナリズムの極端な例である。主戦論。強硬外交論。戦闘的愛国心。“Jingo”自体にもこの意はある。語自体は1870年代、イギリス帝国のロシア帝国に対する好戦的な態度を表すために造られたもの。19世紀アメリカではかかる態度を「翼を広げた鷲主義」(spread-eagleism)と呼ばれたが、19世紀末頃アメリカでも広まり、米西戦争(1898年)の原因となったメイン号沈没事件において最高潮に達っする。

⑦こうした膠着状態に最後のとどめを刺したのが「(ウィーン体制の創始者メッテルニヒや(ビスマルク体制の創始者ビスマルクに続け‼」とばかり張り切って陰謀を巡らせてきた列強の宮廷人達である。そもそもこの時代の外交官には、地図上の領土拡張ゲームを競うような軽薄さが見てとれ、それが積み重なったことも第一次世界大戦勃発の重要な遠因の一つとなった。

外交官たちの起こした第一次世界大戦

エミール・ルドヴィッヒ著、「1914年7月(早坂二郎訳)」によれば…

オーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵は、セルビア運動の弾圧を含む強硬なオーストリア最後通牒を作成した。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフ(英語版)は、開戦に備えての軍の動員を、御前会議で取りつけた。本当に平和の為に尽力したのは、英外相エドワード・グレイのみ。

この時代の外交文書は捏造が多い事も後に指摘されている。曰く、諸外国は軍備を増強している、某国は我が国を侮辱した、等々。また、英外相の和平に向けての努力は一切黙殺されている。具体例を上げると、フランスの外交文書(黄書)は、ロシアの総動員を自国民に伝えず、ただドイツの脅威のみを強調した。また、「フランス人のごとき堕落せる国民を打ち砕くべし」という内容のドイツ皇帝の手紙を捏造した。オーストリアの外交文書(青書)では、ドイツ陸軍武官の「平和への欲望、仲裁の希望」といった句が削除されている。ロシアによる和平提案、グレイによる和平案も削除されている。ドイツの外交文書(白書)では、イギリスの威嚇が捏造されている。また、駐露大使による、当地の動員に侵略的意図はないという報告は削除されている。ロシアの外交文書(オレンジ書)は、特に捏造が多いので有名である。しかし当時の国民は、これら「捏造された外国の脅威」を信じるほかなかったのである。

 かつてナチスドイツについて「パラソル型統治を目指した」と書いたが、むしろそれこそが「帝国主義の時代」の全体像だったのかもしれない。NSDAPその再建を目指して国民的支持を獲得したが(フランス絶対王政末期もそうだった様に)やがてそれまで各ワールドを分断してき境界線が決壊。単一の実態としてディズニーランドだけが残った状態、つまり長期継続が不可能なほど極端な独裁状態へと移行してしまう。ジャコバン派独裁政権が革命戦争の激化した時期のみ存続を許された様に、それは急速に戦争継続と共依存の関係に陥っていく。
「パラソル型統治」…ディズニーランドの様にどのワールドからもシンデレラ城(中央政権)は目にする事が出来るが、それぞれのワールドは互いに視野外に隠されている状態。その起源はおそらく古代オリエントの専制帝国にまで遡り、モンゴル帝国を理想視した後醍醐天皇や、中華王朝やオスマン帝国を模倣したフランス絶対王政も志向したとされている。