むしろ私達はある意味、フランス大衆食文化が伝わった「デミグラ・ソース」と「ホワイト・ソース」、およびその影響を受けて発明された「濃厚・中濃ソース」をこそ「日本料理の三大ソース」と呼ぶべきなのかもしれません。
*フランス料理の世界はその後、味が画一的過ぎた「デミグラ・ソース」や「ホワイト・ソース」と縁を切ってしまったし、「濃厚・中濃ソース」はもはや英国で開発されたウースターソーストは完全なる別物へと変貌してしまった。その意味でこれらはもはや「日本固有の食文化」といわざるを得ない状態にあるのである。
高尚な伝統的和食文化と対峙する形で育ってきた「街の洋食屋さん」文化。そのエスニックな響が受けて日本全土を席巻した「蛇皮線」が、伝統楽器「三味線」として日本文化に取り込まれていった景色と重なります。これこそがロックだ?
ところでこうした要素、そももそも大元となった欧州の食文化(特にフランスのそれ)自体に埋め込まれていたとも。
フランス料理の歴史は複雑、かつ奇妙なまでに「政治的」です。
- 絶対王政樹立期に該当する17世紀まで、宮廷料理そのものが「(軍事訓練を兼ねた)王侯貴族の狩猟の付帯物」「高価な東方からの輸入香辛料をどれだけ惜しみなく使うか披露する場」といった純朴かつ大雑把な内容だった。
*ある意味今日の「スパイシー・チキン」といった料理の先祖筋。ちなみに何故か「子豚の丸焼き」とか「ハム製造」みたいな分野も、イタリアやスペインに到底及ばなかった。
- それ以降、宮廷料理のテーマは「地産地消」や「フランス宮廷では欧州中の味が全て楽しめる」といったローカル(あるいはグローカル)な内容へと推移した。
*そうした変化を主導したのは「イタリアから輿入れしてきたメディチ家王妃付き料理人」というより「(クリーニュー修道会運動やシトー修道会運動の発祥の地であり、国内美食文化を牽引してきた)南仏料理人」であり、彼らが生み出した究極の味の一つが「コンソメ・スープ」だった。
- フランス革命後の宮廷料理人大流出を背景に「(画一化された)大衆の味」としての「デミグラ・ソース」や「ホワイト・ソース」の世界が固まる。
*そもそも「味覚の平準化」はフランス宮廷料理界が「(それまで「庶民の香辛料」と蔑まれてきた)生姜やマスタード」や「グラタン料理(国王の直轄領だったフランスとイタリアを結ぶ峻険な山岳地帯の郷土料理)やブイヤベース(南仏漁師の賄い食として発達してきた魚介類ごった煮)やキッシュ(卵や牛乳といった田舎食材を惜しみなく使うアルザス=ロレーヌ地方の郷土料理)」時点から始まっていたとも。
- 20世紀に入るとそうした「平準化された味覚」の世界に飽き足らなくなり、これを捨てたヌーベル・キュイジーヌ運動が始まる。
*要するにフォン(肉や魚の茶色の出汁)やペシャメル・ソース(小麦粉をバターで炒めて牛乳で溶いた白汁)といった基本に立ち返って、より抽象度を高めたとも。
一般に「フランス料理はソースが決め手」といわれますが、最初からそうだったというより、こうした歴史展開がそういう動きを決定付けたのです。
- アントナン・カレームが19世紀に「The Art of French Cooking in the 19th Century」の中で定めたフランス料理における4つの基本ソースすなわち、ヴルーテ・ソース、アルマンド・ソース、ベシャメル・ソース、エスパニョール・ソーがその発展を基礎づけた。
*ある意味ベシャメル・ソースは「ホワイト・ソース」の先祖筋。ヴルーテ・ソースやアルマンド・ソースはそのバリエーション。そしてエスパニョール・ソースは「デミグラ・ソース」の先祖筋。
フランス料理の基本的なソースのひとつとされる牛乳で作った白いソースで、チーズを加えてモルネーソースを作るなど、他のソースのベースともなる。ホワイトソース(英:white sauce)またはソース・ブランシュ(仏:sauce blanche)を牛乳で溶きのばしたものだが、基本的には同様の物と扱われ、フランス語、英語の使い分け以外の違いは無い。
- このソースの名が最初に使われたのは、フランス料理の基本として75年間で約30版を重ねたラ・ヴァレンヌ著『フランス料理人(Le Cuisinier Français 、1651年出版)』。そこではこのソースはブルターニュの行政官マルキス・ド・ベシャメイユの機嫌を取るために名付けられたとされているが、実際の起源については諸説ある。
- イタリアでは、カトリーヌ・ド・メディシスのトスカーナ州出身料理人が発明し、17世紀にイタリアからフランスに伝えたとされている。Sauce Béchamelは、牛乳、子牛のストック(煮出し汁、ブイヨン)と調味料をゆっくりと煮立て、クリームで濃くしたものを濾したものである。
- フィリップ・ド・モルネー(Philippe de Mornay)が、モルネーソース、リヨネーズソース、ポルトソース同様に発明した。
- 17世紀の財務官で、ルイ14世の名誉主任執事であるルイ・ド・ベシャメイユ (Louis de Béchameil) マルキ・ド・ノワンテル(Marquis de Nointel) )(1603年 - 1703年)が発明した。
- ルイ14世の宮廷シェフであるフランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌ(François Pierre La Varenne、1615年 - 1678年)が発明し、当時のルイ・ド・ベシャメイユに敬意を表しソースを名付けた。
多くのシェフはルイ・ソルニエ著『フランス料理総覧』に掲載されたオーギュスト・エスコフィエのレシピ「白いルーを牛乳で溶いて、塩、タマネギにクローブを刺し、20分間調理する」を権威と考える。
フランス語でベルベットを意味する velour からの派生。薄いストック(焼いていない骨を使用)を焦げの薄いルーでとろみを付ける。鶏肉、子牛肉、または魚のストック(ブイヨン、煮汁)を使用する。したがって材料は同量のバターと小麦粉で作るルー、鶏肉、子牛肉、魚のストック、調味料の塩、コショウである。一般にこのソース作りに使用したストックの種類が、例えば「chicken velouté 」のように参照される。
他のソースのベースとしても使用される。著名な派生ソースは以下のとおり。
- アルブフェラソース…グラス・ド・ヴィヤンド(肉汁を煮詰めたもの)を加える。
ソース・アルビュフェラ - アルマンド(ドイツ風)ソース…レモン果汁少量と卵黄、クリームを加える。
アシェパルマンティエ アルマンドソース - 多国籍侍 - オーロラソース…トマトピューレを加えて曙の空のような淡いピンク色に仕上げる。
- ベルシーソース…エシャロット、白ワイン、レモン果汁と家禽を魚のヴルーテに加える。
ソース・ベルシー - 調味料辞典 - ソース・プーレット…マッシュルームを加え、家禽のこま切れとレモン果汁で仕上げる。
- ソース・ハンガリアン…タマネギ、パプリカ、白ワインを加える。
- ソース・ノルマンディー(Sauce Normande=ソース・ノルマンド)…マッシュルームの調理ソース、オイスターのエキスまたは魚のフュメ(だし汁)を魚のヴルーテに加え、卵黄とクリームでとろみ付けして仕上げる。
ソース・ノルマンディー - 調味料辞典 - シュプレームソース(Sauce Suprême)…マッシュルームを煮詰めたもの、クリームをチキンのヴルーテに加える。
- ヴェネチアンソース…タラゴン(エストラゴン)、エシャロット、チャービル(Chervil、セリ科のハーブでセルフィーユともいう)を加える。
タラゴン(Tarragon、学名:Artemisia dracunculus)
ロシア南部や中央アジアにかけて分布するキク科ヨモギ属の多年生植物。半耐寒性で、日本のような高温・多湿の気象にはやや弱い。料理の香味づけによく用いられるが、香りが飛んでしまうので、乾燥させたものではなく生で用いるのが望ましい。アニス様の香気を持ち、主成分はエストラゴールである。フランス語のエストラゴン (Estragon) の名でも知られる。
①草丈は60cmくらい、茎は直立してよく分枝し、葉は対生で、細長く、先がとがっていて、濃い黄緑色で光沢がある。不稔性なので、挿し木や株分けで増やす。種子が売られているのは、アメリカ原産のロシアン・タラゴン A. dracunculoides である。ロシア産が「フレンチ」で、米国産が「ロシアン」と名づけられているが、マリーゴールドもすべてメキシコ原産にもかかわらずフレンチ(くじゃくそう)、アフリカン(せんじゅぎく)と命名されているという例がある。ロシアンは、草丈1.5m位になる多年草で、性質は強いが風味は落ちるため、料理に利用されることは少ない。野性的な性質の植物であり、寒さや湿気には弱いが気候が合えば容易に育つ。適度に日の当たる場所で水はけの良い軽い土質を好む。収穫は年に2~3回でき、開花直前が最も香りが高いが花は滅多に咲かない。同じ株で何度も収穫していると段々と香りが弱くなるので、3~4年ごとに植え替える。
②名前は、蛇を意味するギリシア語のドラコン(drakon)が語源。エストラゴンは、フランス語で小さな竜を意味し、英語のタラゴンの語源は、フランス語のエストラゴンから転化したと言われている。BC500年頃からギリシャで薬草として栽培されてきた。ヒポクラテスは、蛇や狂犬に噛まれた時の毒消しに用いていたと言う。ローマ帝国では、疲労回復の薬草として使われた。13世紀の植物学者、薬剤師であるイブン・バイタールは、タラゴンの効能を口臭予防や睡眠導入に効果があるとした。 料理に使われるようになったのは、時代がぐっと下がって中世後半以後。
③セルフィーユ、パセリと並ぶフランス料理の3大ハーブで「食通のハーブ」という別名も。 ドレッシングなどサラダの味付けに使用する。フランス料理には欠かせないハーブで、ロースト料理を主としてトマトや卵を使った料理にひと工夫を与え、タルタルソースなど多くのソースに加えられる。鶏肉、魚介、卵料理で淡白な味を引き立てて料理の味を劇的に変化させることから「魔法の竜」と呼ばれている。 フランス料理の調味料であるタラゴンビネガーは、タラゴンを白ワインビネガーに漬けて作る。バターに練りこんで、エストラゴンバターにしたりもする。 特に、フランスのエスカルゴ料理には、必須のハーブ。またヴルーテソースにこれを加えたものをフランス料理界では「ベネチアンソース」と呼ぶ。
*中二病界隈では「肉じゃが」「じゃがいも」「ギアラ」「ガラムマサラ」「エストラゴ」「旧ソ連の武器」同様に「強そうな発音のスパイス」に分類される。20世紀におけるエスペラント語ブームに匹敵?ガラムマサラ(ガラムマサーラー、 garam masala ; گرم مسالا ; गरम मसाला )
主にインド料理で使われているミックススパイス。基本スパイスは シナモン(肉桂、桂皮)・クローブ(丁字)・ナツメグ(肉荳蒄)の3っつで、これにカルダモン、胡椒、クミン、ベイリーフなどを加えたり、ナツメグをメースに替えたりする。厳密なレシピは無く、同じ人が作る場合でもつねに配合が同じとは限らない。スパイスを種や樹皮などの原型のままフライパンなどで空煎りし、砕いて粉にすれば完成する。
①「辛いスパイス」と訳されることがあるが、辛味よりも香りをつけることを目的に使われる。ヒンディー語の "garam" には「暑い」「熱い」という意味はあるがこれは作る過程で熱を加える為で、「辛い」という意味はない。石井利一(S&Bスパイスクッキングアドバイザー)は、「『ガラム』は、“触れてあたたかい”というニュアンス。インドでは、それぞれの家庭で独自の配合で作られていることから、日本でいうところの『おふくろの味』といったイメージがある」と述べている。
②香りが命であるため出来立てを使うのが最良だが、瓶などで密閉しておけば1カ月程度は使用できる。「ホール・ガラムマサラ」といい、スパイスを砕かずに保存する方法もあり、使用する直前に粉にして使う。いずれにせよ早めに使いきるべきものである。香りと辛味が無くならないように、煮込み料理なら火を止める直前に加え、必要なら蓋をしてしばらく蒸らす。
③欧州諸侯は十字軍運動時代から大航海時代に掛けてこうしたアジアの香辛料を必死になって求めた。近代に入ってからも英国が現地調味料研究を続けケチャップ(17世紀に初出した時点では東アジアの魚醤を指す言葉だった)・カレー粉(18世紀より導入が始まり英国人の口に合う様に調整されたガムラマサラ)・ウスターソース(19世紀初頭に英国人がアジアの発酵系調味料にインスパイアされて開発)などを誕生させている。
*欧米のアニメ漫画GAMEファンも「Niku-Jagaはミック・ジャガーみたいで格好良い」とか言ってるし、思うより語感イメージに大差はない?
チャービル (chervil、学名Anthriscus cerefolium)
セリ科シャク属に属する一年草。パセリに類似する。マイルドな味わいの料理の風味付けに用いられ、フランス料理にも使用されるハーブである。仏名でセルフィーユ、和名でウイキョウゼリ(茴香芹)とも呼ばれる。
- 文献に初出するのは紀元後、ローマの時代である。「生垣や荒地に自生する一年生の雑草」といった認識でそれ以上注意を払われる事はなかった。アメリカ北東部などにも自生する。
- 中世の頃にロワール地方の貴族が北欧から持ち帰りフランスでの栽培が始まる。「フランス料理革命の証人」フランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌの名著「フランス料理人(Le Cuisinier françois、1651年)」にも使用例の記載がある。
- 19世紀後半、原産地がロシア南東部、コーカサス以南からイラン北部山地であることが判明し食材としての人気を一時的に回復したものの第二次大戦後は栽培されなくなった。その後ロワール地方とブルターニュ地方で栽培が再開されたものの年間5トンとごく僅か。 マルシェでは10月頃に出回る。 日本でも北海道で栽培が始められているらしい。
- 根を芋として食べられるが、そういうチャービルの葉には毒があり食べられない。芋用に育てられるチャービルは葉用のチャービルよりも太い根を持ち、品種が別物で19世紀には人気があったが、現在ではイギリスやアメリカではほとんど食べられず、フランス料理のスープやシチューの中でまだ使われている程度である。
- しばしば「グルメのパセリ」と呼ばれ、チャイブ、バジル、タラゴンなどと共に家禽、魚介、野菜等の風味付けに用いられてきた。フランスではオムレツ、サラダ、スープ等に加えられ、特に人気がある。パセリよりも傷みやすく、スペインカンゾウのかすかな味がある。乾燥すると香りが落ちるので生のまま使うのが望ましいとされる。キリスト教圏では復活祭前の料理の材料に使われる。
- パセリと似ている為混同されることがあるが、パセリとは栽培条件に差異がある。その根は長いため、植え替えは難しい。冷涼で湿った環境を好み、それ以外の環境では薹立ちという現象を起こしてすぐに種ができてしまう。葉の収穫は薹立ちを防ぐのにも役立つ。直射日光と湿気を嫌うので、日陰の窓辺、ベランダが栽培環境に適している。40-70cmまで育ち、葉は三回羽状で巻いている。白くて小さい花は散形花序で、直径2.5-5cmである。果実は約1cmの細い楕円体か卵型である。 高さ12-24インチ、幅6-12インチに育つ。園芸の世界ではナメクジ避けに用いられることがある。
伝統的に様々な医薬用途に用いられてきた。妊娠した女性はチャービルを滲出した風呂に入り、チャービルのローションは石鹸として用いられ、また血液浄化剤としても用いられた。消化促進や血圧低下にも効果があると言われ、酢に浸出したものはしゃっくりの治療にも使われた。
パセリ(parsley、学名: Petroselinum crispum)
和名はオランダゼリ(和蘭芹)。地中海沿岸原産。古代ローマ時代より料理に用いられており、世界で最も使われているハーブの1つ。
- 文献に初出するのは紀元後、ローマの時代である。「生垣や荒地に自生する一年生の雑草」といった認識でそれ以上注意を払われる事はなかった。アメリカ北東部などにも自生する。
主に家禽や魚介類の料理に供される。
アルマンドソースまたはソース・アルマンド(Sauce allemande)
「allemande」は「ドイツ風」の意。ヴルーテソースをベースに卵黄と濃いクリームでとろみをつけ、レモン果汁で味付けしたソース。アントナン・カレームがThe Art of French Cooking in the 19th Centuryの中で定めたフランス料理での4つの基本ソースの一つである。
20世紀初頭にオーギュスト・エスコフィエが完成させ、第一次世界大戦が勃発するとブロンドソースと名前を変えて、反独感情からソースを救った。現在はパリジェンヌソースとして知られている。卵、魚のポシェ、鶏肉、温かいオードブル、パン粉をトッピングした料理等に良く合う。
- このソースの名が最初に使われたのは、フランス料理の基本として75年間で約30版を重ねたラ・ヴァレンヌ著『フランス料理人(Le Cuisinier Français 、1651年出版)』。そこではこのソースはブルターニュの行政官マルキス・ド・ベシャメイユの機嫌を取るために名付けられたとされているが、実際の起源については諸説ある。
- 後にフランスの料理人オーギュスト・エスコフィエ(Georges Auguste Escoffier, 1846年〜 1935年)がトマト、マヨネーズ、およびオランデーズを追加し「七大ソース」の内容が固まった。
オランデーズソース(仏: Sauce Hollandaise )
バターとレモン果汁を卵黄を使用して乳化し、塩と少量の黒コショウまたはカイエンペッパーで風味付けしたフランスのソース。オランダのソースを模したことによる名前と言われている。
- フランス高級料理の5つの基本ソースの1つであり、エッグベネディクト(Eggs Benedict、イングリッシュ・マフィンの半分に、ハム、ベーコンまたはサーモン等や、ポーチドエッグ、オランデーズソースを乗せて作る料理)にも欠かせない’。
- 1651年頃、フランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌ (François Pierre La Varenne) が、草分けとなる著書『フランス料理人(Le Cuisinier François )』でオランデーズソースと似たソースを記述している。「新鮮なバター、少々の酢、塩、ナツメグ、そして卵黄を合わせてソースを作る。凝固させないよう注意する……」("avec du bon beurre frais, un peu de vinaigre, sel et muscade, et un jaune d’œuf pour lier la sauce")。これを掛けるのは「香ばしいソースをかけたアスパラガス( Asparagus in Fragrant Sauce)」である。
- アラン・デビッドソンは、はフランソワ・マランの『食の贈り物(Les Dons de Comus )』(1758年)の「ソース・ア・ラ・オランデーズ(sauce à la hollandoise )」に言及しているが、このソースはバター、小麦粉、ブイヨン、ハーブが含まれるが卵黄はないため、現代のオランデーズとは関連ないとされる。
- しかしながら『ラルース料理百科事典(Larousse Gastronomique )』では、「以前は、魚のオランデーズ(à la hollandaise )は溶かしバターと共に供された」と記述され、かつて卵黄の名前を示すことはなかったことを暗示している。
- デビッドソンはまた、ハロルド・マギーの、卵は乳化に全く必要ではなくバターのみで正しく乳化できる説明(Harold McGee 1990)を引用した。彼はまた、卵を使用する場合でも伝統的なレシピで求められほどの量は不要であると述べた。
- 卵黄とバターを使用するソースは、19世紀に現れる。しかしながら様々な文献で最初に知られるのは「ソース・イジニィ(Isginy)(sauce Isigny )」(バターの品質で有名なノルマンディーの村)であり、ビートン夫人の『家政読本』初版(1861年)に「独身男性向けのオランダのソース」(405ページ)および後続ページの「グリーンソース、またはオランデーズヴェルテ」のレシピがある。彼女のオランデーズの調理手順は大胆である。「レモン果汁以外の材料を、シチュー鍋に入れる。鍋を火にかけて、混ぜ合わせ続ける。十分に煮詰まったら、沸騰しないように、火から離す…」
実際にオランデーズソースを作るにはいくつかの技術と練習が必要となる。
- きちんと作ればまったく分離しない滑らかでクリーミーなソースになる。味はリッチでバターの風味豊か、レモン果汁と調味料を加えることで口当たりが良くなる。料理に添える際には温かいのが理想。いくつか調理法があるが、いずれも泡だて器などでコンスタントにかき混ぜることが必要である。 材料の分量は卵黄1に対しバターが55-85g、レモン果汁は好みでスプーン1杯まで、である。
- 金属の泡立て器と底の薄いボウルを用意する。ボウルに卵黄とレモン果汁、またはビネガーを加える(これは乳化をしやすくする役目もある)。鍋にお湯を沸騰させ、その鍋の上にボウルを置き(湯煎ではない)蒸気で加熱しながらかき混ぜ泡立てていく。とろみがつき色が明るく(62度)なったら加熱をやめ、溶かしバター(澄ましバターを使うのが一般的)をかき混ぜながらゆっくりと少しずつ加えていき乳化させてマヨネーズ状にしていく。 仕上げにレモンジュース、塩、コショウ、カイエンペッパーなどを加え味を調える。 好みの量や温度に調節する場合には水を加える方法もある。
- 他にはバターを固形のまま加える方法やミキサーを使った方法、全卵を使用した方法もある。
- いずれにしても温度管理が重要であり、温度が高すぎると黄身は固まり、低すぎるととろみがつかない。 一度卵にとろみを付けたらバターが液体になる温度(体温より少し上)より温度を上げないようにするべきである。
ソースは保温すれば、数時間は分離せずに保存できる。
被子植物の中の単子葉植物に属する多年生草本植物である。クロンキスト体系ではユリ科に含めているが分子系統学によるAPG植物分類体系ではキジカクシ科に属し、雌雄異株である。葉のように見えるものは実際は極端にほそく細かく分枝した茎であり、本来の葉は鱗片状に退化している。
- ユリ科アスパラガス属に分類される野菜。原産地は南ヨーロッパ近辺といわれ、紀元前から栽培されていたと考えられている。食用になるアスパラガスの学名は「Asparagus officinalis」。収穫してもどんどんと新芽を出す様子からギリシャ語の「新芽」や「たくさん分かれる」などの意味から名づけられた。また学名としての「オフィシナリス」は、ラテン語の「薬用になる」に由来しているとも。
- その多様な効能から、紀元前には医薬品として使用されていた南ヨーロッパ原産のアスパラガス。帝政ローマ時代に入ると普通に栽培され、食卓に供される様になっていくが、日本における山菜狩り同様に自生のアスパラガスも春先のヨーロッパの食卓を賑わす季節野菜として積極的に食べられる様になっていく。その過程で次第に「オランダの高級野菜」という認識が強まる。
*こうした流れの延長線上にフランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌ (François Pierre La Varenne) の主著書「フランス料理人(Le Cuisinier François、1651年)」における「香ばしいソース(オランデーズソース)をかけたアスパラガス( Asparagus in Fragrant Sauce)」が登場する訳である。
- ちなみに当初はグリーンアスパラガスよりホワイトアスパラガスの方が高級食材として珍重されていた。そもそも品種的には同じ。植物は芽を出して光合成をおこなうために葉緑素を増やしていくが、目を出してもモヤシのように光に当てないで栽培すると白いまま(軟白栽培)となり、この状態がホワイトアスパラガスとなる。なまじ一日に数cmも伸びるせいで、収穫後(成長の為に)あっという間に劣化してしまう野菜でもあって、近代に入ってからの工業化に際しても独特の食感を楽しむ為に「ホワイトアスパラガスの缶詰」が普及する展開となったのだった。
*ちなみにホワイトアスパラガスは、16世紀イタリアが天候災害によって農作物の大被害に遭遇して飢饉に苦しんでいた時に偶然発見された作物だった。しかもこの野菜はとても甘く、飢えを満たすだけでなく美味しさまで提供してくれたのだった。フランスでその芽が「マドモワゼルの指先」と形容されるほど呼ばれる高級食材としてもてはやされる様になる前夜には、そういう動きもあったのである。
- ヨーロッパ全域に広まったアスパラガスは、その後アメリカへの移民により新世界にも広がっていく。日本にも開国以前の1800年前後に長崎経由で伝来。ただし当時はあくまで食用ではなく観賞用として 用いられるだけで継続的栽培にまでは至らなかった。ジャガイモやタマネギなと同様、 北海道での試験栽培が始まるのを待たなくてはならなかったのである。
*日本古来からあるウドににていたことから、当時は「オランダウド」と呼ばれていた。また、アスパラガスが急激に育つ様子が、キジが隠れられるように見えることから、「オランダキジカクシ」もアスパラガスをさす言葉として広まった。 - 北海道開拓使が札幌官園にて試験栽培を始めたのは明治4年(1871年)で、導入元はフランスやアメリカなどだった。
*この時期になるとアスパラガスの呼び名はオランダウドに代わり「マツバ(松葉)ウド」となり「石勺柏」の字が使われている。マツバウドと呼ばれるのは、その葉の形が松の葉に似ていた為だった。 - 下田喜久三農学博士が本格的栽培に着手したのが大正11年(1922年)から。北海道の岩内町で約40haで栽培し、翌年あら東洋初の缶詰生産が始まったが、この頃のアスパラガスは全て(国際的に超高級品として認識されていた)ホワイトアスパラガスだったのである。
*なにしろ米一升15銭の時代に、国産アスパラの缶詰が1円、アメリカ産の缶詰が2円以上だった。
しかし実はアスパラガスは、そのまま育ててグリーンにすると、光が当たっている分、葉緑素他いろんな栄養素が産出され、栄養価はホワイトよりも断然に高いものとなる。日本でそうした認識が広がったのは1970年頃。当時、ちょうど緑黄色野菜のブームがあり(アスパラガスは緑黄色野菜に必要なベータカロテン含有量600μgには及ばないものの)緑色野菜の中でもそれなりに各種栄養価が豊富な事が注目を集める形となった。そして(プロジェクトXでも特集された通り)この時期に宅急便が発達し、北海道の特産品を宅急便で家庭に届ける仕組みができあがり(収穫後の劣化にも対処する方法として)産地直送が行われる様になる。そして次第にアスパラガスは、グリーン栽培にシフトし、今となっては、ホワイトの方が希少種となってしまった。
原則としてイングリッシュ・マフィンの半分に、ハム、ベーコンまたはサーモン等や、ポーチドエッグ、オランデーズソースを乗せて作る料理である。その発祥には諸説ある。
- 『ザ・ニューヨーカー』のコラム『Talk of the Town(街の話題)』での、ウォールストリート株式仲買人レミュエル・ベネディクトへの、彼の亡くなる前年である1942年のインタビューによると[1]、1894年にウォルドルフホテルを訪れ、二日酔いを直すために『バターを塗ったトースト、ポーチドエッグ、カリカリに焼いたベーコンと一口分のオランデーズ』を注文した。「ウォルドルフのオスカー」として知られる支配人のオスカー・チルキー (Oscar Tschirky) がこの料理に感銘し、ベーコンとトーストをハムとイングリッシュ・マフィンに替えて、朝食とランチのメニューに採用した。
- クレイグ・クレイボーン (Craig Claiborne) は、1967年9月の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』のコラムでフランスに移住したアメリカ人、エドワード・P・モンゴメリーからの手紙を紹介した。モンゴメリーは、この料理は1920年に86歳で亡くなった銀行家でヨット乗りのイライアス・コーネリアス・ベネディクトが作ったと述べた。モンゴメリーはまた、イライアスの友人である伯父から母が受け取ったとするエッグベネディクトのレシピを一緒に送った。
- 1967年11月にマサチューセッツ州ヴェニヤード・ヘブンのメーベル・C・バトラーは、モンゴメリーの主張に対し、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』で「ル・グラン・ベネディクト夫人にまつわる周知の真実」として彼女が考案者であると述べた。“ ベネディクト夫妻は、1900年頃ニューヨークに住んでいたとき、毎週土曜日にデルモニコスで食事していた。ある日ベネディクト夫人は支配人に「何か新しくて変わった料理はないの?」とたずねた。支配人がこれに応じて彼女の好みを尋ね、焼いたイングリッシュ・マフィンとハムの上にポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースとトリュフを添えることを提案した。 ”
参考文献は以下(日付は出版日時)
1898年 - 『Eggs, and how to use them 』の、エッグベネディクトのレシピ。「小さなマフィンを半分に切ってトーストする。それぞれに丸いハムの薄切りを焼いて乗せ、ハムの上にポーチドエッグを乗せる。適量のオランデーズソースを添える。」
1900年 - 『The Connecticut Magazine: an Illustrated Monthly, Volume VI 』のエッグベネディクトのレシピは、「3番目の種類がエッグベネディクトと呼ばれる。小さなパンのサイズに切って煮たハムの薄切りを焼く。パンの薄切りをトーストし、バターを塗り、水分を加える。ハムを乗せ、ポーチドエッグを乗せる。一つずつ配る。」
1907年 - 『Many Ways for Cooking Eggs 』には、マフィン作りからのエッグベネディクトのレシピがある。酵母を使うイングリッシュ・マフィンと異なり、このレシピはベーキングパウダーとメレンゲを使用して発酵させる。しかしながら、変わらずマフィンコンロで焼く。続くレシピでは、「ハムの薄切りを焼く。オランデーズソースを作る。トリュフを切る。必要分のポーチドエッグを作る。マフィンを皿に盛りハムを乗せ、ポーチドエッグを乗せる。卵にオランデーズソースをかける。トリュフを少々ふりかけ直ぐに供する。」
1914年 - 『The Neighborhood Cook Book 』でのエッグベネディクトのレシピは、「トーストの上に軽く焼いたハムを乗せる。ハムにポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースをたっぷりかける。」
1918年 - 『Boston Cooking-School Cook Book 』のエッグ・ア・ラ・ベネディクトのレシピは、「イングリッシュ・マフィンを半分に切りトーストする。茹でたハムの丸い薄切りをソテーする。マフィンの半分にハムを乗せ、落とし卵でアレンジし、オランデーズソースをかける。ソースはかけやすいように、クリームを加える。」
1919年 - 『he Hotel St. Francis Cook Book 』のエッグベネディクトのレシピは、「イングリッシュ・マフィンを2つに切り皿に盛る。それぞれに焼いたハムを、ハムの上にポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースをたっぷりかける。ソースにトリュフの薄切りを添える。」
1938年 - Haill Hayden's Hollandaise (6オンスで50セントの瓶入りオランデーズ)の広告がニューヨーク・タイムズに掲載された。「今まで知られていないソースが現れた。それを味わうと、有名シェフは卵とき器を壊して嫉妬に涙した! チモシーとアルファルファの香りがするバター、親鳥がまだ泣き続けている卵、レモンと刺激的なスパイスで作られる! 1滴の油も代用品も含まれない。カリフラワー、アーティチョーク、レタス、エッグベネディクト、魚にかけ「ブロッコリー、ブロッコリー」と歌って食べよう。」
1942年 - 『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューで、レミュエル・ベネディクトが二日酔いを直すために、ウォルドルフホテルで注文して考案したと主張した。
1960年 - エリザベス・デイビッドが『French Provincial Cooking 』を出版し、ほとんど同一の伝統料理ウ・ベネディクティヌ(œufs bénédictine )について述べた。
1967年 - クレイグ・クレイボーンが『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』で、エドワード・P・モンゴメリーからの、エッグベネディクトをコモドール・E・C・ベネディクトが考案したと書いた手紙を紹介した。
1967年 - 『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』でメーベル・C・バトラーはモンゴメリーの主張に対し、ル・グラン・ベネディクト夫人がデルモニコスでの注文でこの料理を考案したと述べた。チャールズ・ ランフォーファーの料理本『The Epicurean 』最新版に「エッグ・ア・ラ・ベネディク」のレシピがあるが、このレシピは1894年の初版には含まれない。1876年から1879年の間、チャールズ・ ランフォーファーは1862年から1896年に引退するまでデルモニコスのシェフであった。
「アメリカ国内で最も素晴らしいレストランの1つ」という評判を獲得したニューヨーク市のレストランの一つ。
デルモニコ家によって、19世紀から20世紀初頭にかけ、ロウアー・マンハッタンの2 サウス・ウィリアム・ストリートで運営された。世に広まったデルモニコ・ステーキの発祥地にして、メニューでアラカルトに注文可能とする事で定食制に対抗したアメリカ最初のレストランとしても評価されている。また最初に個別のワインリストを作成したとも主張している。
デルモニコ家は、一度に4つもの店舗を展開し、1923年にビジネスを終了させるまで合わせて10の同名のレストランを経営。1929年には、レストランの店主であったオスカー・トゥッチが2サウス・ウィリアム・ストリートで、レストランを復活させ、1977年まで運営していた。他のデルモニコスは、1981年から1992年、1998年から現在まで、営業を継続。
レストランや地域により、エッグベネディクトには多くの種類がある。
- シーフードベネディクト…ハムの代わりにカニ、小エビ、ロブスター、またはホタテガイを使う。
- エッグプラックストーン…ハムを脂身入りベーコンに替え、トマトの薄切りを加える。
- エッグフロレンティーン(フィレンツェ風)…ハムの代わりにホウレンソウを使う。旧式のエッグフロレンティーンは、ポーチドエッグ、溶き卵にホウレンソウを加えモルネーソースを添える。
- エッグユサルド…イングリッシュ・マフィンの代わりにオランダのラスクを使用し、マルシャン・ド・ヴァンを加える。
- サーモンベネディクト(エッグパシフィカ、エッグモントリオール、エッグロワイヤル)…ベーコンの代わりにスモークサーモンを使う。
- パシフィック・ノースウエスト・エッグベネディクト…焼いたイングリッシュ・マフィンにアラスカ産天然スモークサーモンにポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースを添える。マフィンをダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)のクラブケーキに替える場合もある。
- エッグサルドゥ…イングリッシュ・マフィンとハムの代わりにアーティチョークをベースにアンチョビの切り身を使い、刻んだハムとトリュフ薄切りにオランデーズソースを添える。この料理はニューオリンズのアントワーヌレストランが劇作家ヴィクトリアン・サルドゥに敬意を表して作った。この料理の世界的に普及したものは、クリーム和えのホウレンソウをベースとし、イングリッシュ・マフィンの代わりにアーティチョークを使い、ハムを使用しない。
- アーティチョークベネディクト…イングリッシュ・マフィンの代わりに、窪みをつけたアーティチョークを使う。
- カントリーベネディクト…エッグボールガールとしても知られ、イングリッシュ・マフィン、ハム、およびオランデーズソースを、ビスケット、ソーセージのパテ、カントリーグレイビー(ホワイトグレイビー)に替え、ポーチドエッグを目玉焼きに替える。
- エッグベネディクトアーノルド…イングリッシュ・マフィンをビスケットに、オランデーズをカントリーグレイビーに替え、ポーチドエッグは使用せず固焼きの黄身を用いる。
- アイリッシュベネディクト(Irish Benedict)…ハムをコンビーフ(コンビーフとキャベツの煮物は、アイルランドでは稀だが、アメリカのアイルランド料理として知られ、アメリカで年間に消費するコンビーフ4700万ポンドの半分が聖パトリックの祝日前の2週間に消費される)またはアイリッシュベーコン(バックベーコン)に替える。
- エッグチェサピーク…ベーコンに替えてクラブケーキを使う。
- ダッチベネディクト…ハムまたはベーコンをスクラップルに替える。ペンシルベニア州東地区で食べられる。
- ベジベネディクト(Vege Benedict)…ベーコンに替えてアボカドとトマトを使用する。
- エッグカールズバッド…ハムをアボカドに替える。カリフォルニア州、カールズバッドのDon's Country Kitchenで作られる。
- ワッフルベネディクト…イングリッシュ・マフィンの代わりにワッフルを使用する。通常、オランデーズに加えてメープルシロップを添える。
- まんまるたまごのハムサンド…日本ケンタッキーフライドチキンのモーニングメニューとして2009年より一部店舗にて販売されている。半熟のゆで卵とハムにオランデーズ風ソースとチェダーチーズをかけて二分割したマフィンで挟んだサンドイッチ形式である。
- エッグベネディクト(ロイヤルホスト)…ロイヤルホストのモーニングメニューとして2012年より販売されている。「ロイヤルホスト風」として、皿1枚に通常のエッグベネディクトと、イングリッシュマフィンに野菜とサワークラウトを乗せたものを盛っている。
パンに肉や野菜等の具を挟んだり、乗せたりした料理のこと。アイスクリーム・サンドイッチ(アイス・サンド)やクッキー・サンドのように、パン以外の素材に具を挟んだものを指す場合もある。日本においては具材の名称を前に付して「○○サンド」の略称で呼ばれることがある。簡単に調理でき、気軽に食べることができ、工夫次第で栄養バランスも良くなるので、世界中のいたるところでよく食されている。日本では食パンに具を挟んだものが主流である。
パンに類する食材に適宜の具を挟んで食べるという料理法自体は、古代ローマのオッフラ、インドのナン、中東のピタ、メキシコのタコスやブリート等、世界各所で古くから自然に発祥したものである。
ファラフェル(ヒヨコマメまたはソラマメから作ったコロッケ) - Wikipedia
- 1世紀のユダヤ教の律法学者ヒレルは、過越の時に犠牲の仔羊の肉と苦い香草とを、昔風の柔らかいマッツァー(種無し、つまり酵母を入れない平たいパン)に包んだと言われている。西アジアから北アフリカにいたる地域では昔から、食べものを大皿から口へ運ぶのに、このような大きくは膨張させないパンを使い、すくったり、包んだりして食べた。
*アシュケナジム系ユダヤ人は、さらにこれを砕いてパイ皮の様に使ったりする。ある意味コテージ・パイの原風景とも。
- またモロッコからエチオピアやインドにかけては、ヨーロッパの厚みのあるパンとは対照的に、円形に平たく焼かれた。またパン系ではないが、茄子やズッキーニやメロンやオリーブを刳り抜いて中に色々詰める詰め物料理もトレンチャー(食べ物の下に敷く皿)文化の原風景として重要だったりする。
*トルコは「ドルマ(Dolma)」や「サルマ(Salma)」といった詰め物料理もさかん。
- 中世ヨーロッパでは、古く硬くなった粗末なパンを、食べ物の下に敷く皿がわり(トレンチャー)に使っていた。下敷きのパンは食べ物の汁を吸う。これを食事の最後に食べたり、腹が満たされている場合には、乞食や犬に与えた。このトレンチャーは、オープン・サンドイッチ(パンで挟んだものではなく、一切れのパンの上に具を置いただけのサンドイッチ)の前身といえる。
- 英国風サンドイッチのより直接な前身は、例えば17世紀ネーデルラントに見ることが出来る。博物学者ジョン・レイは、居酒屋の垂木に吊るされている牛肉を「薄くスライスされ、バターの上にのせられ、バター付パンと一緒に食べられる」と記している。このような詳細な記述は、当時のイギリスにおいては、オランダの belegde broodje(オープン・サンドイッチ)のような食べ方が未だに一般的でなかったことを示している。
- 始めは、夜の賭博や酒を飲む際の食べ物であったが、その後、ゆっくりと上流階級にも広がり始め、貴族の間で遅い夜食としても食べられるようになった。19世紀には、スペインやイングランドにおいて、爆発的に人気が高まった。この時代は工業社会の擡頭があり、労働者階級の間で、早い・安い・携帯できる食べ物としてサンドイッチは欠くことのできないものとなった。
*18世紀からイングランドでパブや簡易食堂が供する様になった「ウェルシュ・レアビット(Welsh rabbit ウェールズのウサギ)」もその一種とも。
- 南イタリアの軽食「ブルスケッタ(Bruschetta、ナポリ風オープンサンド。典型的なタイプではオーブンで軽く焼いたパンにニンニクをこすりつけ、オリーブ・オイルをかけて塩とコショウを振る。赤ピーマンやトマト、豆などの野菜、チーズ、ハーブ、肉などをトッピングする事もある)」や「パーネ・カラザウ(サルディーニャ島のオープンサンド)」もこの仲間である。
ブルスケッタ(Bruschetta) - Wikipedia
- 同時期に、ヨーロッパの外でもサンドイッチは広まりはじめたが、アメリカでは、(大陸とは異なり)夕食に供される手の込んだ料理となった。20世紀初期までには、すでに広く地中海地方でもそうなっていたように、アメリカでもサンドイッチは人気のある手軽な食べ物となった。
その語源について諸説ある。
- M. モートンの調査によれば、16世紀から17世紀英国では「サンドイッチ」はただ単に"bread and meat" とか "bread and cheese"などと呼ばれていたという。食べ物としての「サンドイッチ」の語の初出は、エドワード・ギボンの日記(1762年11月24日)にある。「ココア・ツリーで食事をした。この立派な場所は、毎晩、本当に英国的な光景を見せてくれる。二、三十人のこの国の一流の男たちが……テーブルで少しずつ食べる……わずかな冷たい肉、あるいはサンドイッチを」。
- この名は、当時のイギリスの貴族、第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューにちなんで付けられたものであるが、モンタギューはサンドイッチを発明したわけでも、推奨したわけでもない。サンドウィッチ伯爵の評伝を著したニコラス・ロジャーによれば、その理由について唯一の情報源は、ピエール=ジャン・グロスレ (Pierre-Jean Grosley) による、1765年のロンドン滞在の印象をまとめた著作『ロンドン Londres』(1770年。英訳はA Tour to London 1772年)の中の次のゴシップだという。「国務大臣は公衆の賭博台で24時間を過ごし、終始ゲームに夢中になっていたので、二枚の焼いたパンにはさんだ少しの牛肉を食べる他に生きてはおられず、ゲームを続けながらこれを食べる。この新しい食べものは、私のロンドン滞在中に大流行した。発明した大臣の名前で呼ばれた」。一方、ロジャーは、伯爵は海軍や政治や芸術に傾倒していたから、最初のサンドイッチは仕事机の上で食べられたのではないかと推測している。また放送作家のわぐりたかしが現代も英国に続くサンドイッチ伯爵家を直接取材した結果として、第4代伯爵が海軍大臣としての仕事が忙しいためにサンドイッチを作らせたのだという同家に伝わる伝承を、2013年7月28日放送の安住紳一郎の日曜天国にて紹介している。
またその分類も様々である。
- スライスされた2枚のパンで挟んだタイプとの比較で「具を挟まずにパンに乗せただけのタイプ」は「オープン・サンドイッチ(オープンサンド)」と呼ばれる。例えばライ麦パンの上に多彩な具材を乗せたデンマーク料理・スモーブローがある。
*「好きな具材(土地柄から海鮮率が高い)と主食の組み合わせを楽しむ」という感覚は日本の手巻き寿司文化に近い。実際、その影響を受けたスムッシー(SMUSHI)と呼ばれる現代版スモーブローも存在するという。
- 細切りした耳なし食パンに薄切りにした具を乗せ、端から円筒状に巻いたものはロール・サンドイッチやロールサンドと呼ばれる。
- 棒状(長楕円状)のパンを厚く二つにスライスして具材を挟んだものは潜水艦に見立てられて「サブマリン・サンドイッチ(サブ)」と呼ばれている(サブウェイやクイズノス・サブがファーストフードとして世界的に普及させた)。
- また、温かく(あるいは熱く)調理したものはホット・サンドイッチ(ホットサンド)に分類されることがあり(フランスのクロックムッシュや、専用器具で両面を焼いたものなどがある)、それに対して冷たいパンや具材だけで作るサンドイッチを「コールド・サンドウィッチ」と分類することがある。バリエーションとして、パンに具材を挟んだものに溶き卵を絡めて油で揚げたモンテクリスト・サンドイッチ等もある。
各国の特徴が出ている食べ物や独特の食べ物と認知されているもの中には、サンドイッチの一種に分類されるものもある。例えばイタリア料理のパニーノもサンドイッチの一種である。フランス料理における前菜には、食パンベースのカナッペが供されることがあるが、これもサンドイッチの一種である。また米国人が好み世界に広まったホットドッグやハンバーガーも実はサンドイッチの一種にあたる。
1910年にはフランスのパリ・オペラ座近くのカフェのメニューに掲載されていた。名前は「かりっとした紳士」という意味で、由来は定かではないが、一説には食べるときに音がして上品ではないので男性専用とされたという。マルセル・プルーストが1919年に書いた『花咲く乙女たちのかげに』(『失われた時を求めて』第2編)にも登場。日本でもドトールコーヒー系列フランチャイズ店など、喫茶店の一部などがメニューに取り入れている。
パンにハムとチーズ(グリュイエールチーズやエメンタールチーズなどが望ましい)をはさみ、バターを塗ったフライパンで軽く焼いて、ベシャメルソースやモルネーソースなどをかけたり、またソースをかけてからグラタンにして温かいうちに食べる。
クロックムッシュの上面に目玉焼きを盛り付けたもの。その構成上、ソースを掛けたりグラタンにしたりするのは珍しいとする説も。
アメリカの金鍍金時代(1865年〜1893年)にはヨーロッパ中の料理人やバーテンダーが一攫千金を夢見てニューヨークに集ったという。そしてその終焉とベル・エポック期(Belle Époque、19世紀末〜第一次世界大戦が勃発した1914年)の始まりに直面すると彼らが欧州へと舞い戻り「アメリカ文化」のヨーロッパへの伝承者となった。クロック・ムッシュやクロック・マダムといった「カフェの食文化」誕生の背景には、こうした流れも存在したと考えられている。 - フランス高級料理の5つの基本ソースの1つであり、エッグベネディクト(Eggs Benedict、イングリッシュ・マフィンの半分に、ハム、ベーコンまたはサーモン等や、ポーチドエッグ、オランデーズソースを乗せて作る料理)にも欠かせない’。
全体像を改めて俯瞰してみましょう。
- どのソースもシェフのギョーム・ティレル(Guillaume Tire)、通称タイユヴァン(Taillevent)がフランス語によるフランス料理レピシ集「ル・ヴィアンディエ(Le・Viandier)」を執筆した1380年頃には存在していなかった。
辻調理師専門学校: ボキューズ:すずきのパイ包み焼き ソース・ショロン
スズキのパイ包み焼き | グランメゾン グラシアニ 神戸北野-ブログ
- 17世紀より導入の始まったソースの多くには「スペイン風(Espanyol)」「オランダ風(Hollandaise)」「ドイツ風(allemande)」「ヴェネツィア風(V'enitenne)」「ナポリ風(Napolitain)」「ハンガリー風(hungarian)」といった具合に異国情緒を誘う呼称がついていたのです。そして(日本で輸入楽器「蛇皮線」が伝統楽器「三味線」へと変貌していった様に)これらの少なくとも一部は「フランスの伝統的ソース」という定評を獲得していくにつれて新たな名称を獲得していった。
*一般にルネサンス期フィレンツェの食文化の影響が強いとされるフランス宮廷料理だが、実はむしろ逆にそれから脱却しようとする試みの始まりこそがその始まりとなった側面も。 - そして1900年代までに「ドミグラス・ソース(Brown Sauce or Demi-glace Sauce)」や「ホワイト・ソース(White Sauce or Bechamel)」の優位が固まり、これが日本の「洋食」を基礎付ける展開となる。
*「ホワイトソース」という表現は、どうやら英語圏において五大ソースを「色」で呼び分ける慣習に端を発しているらしい。
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1940年代から始まった「ヌーベルキュイジーヌ」運動、すなわち(「ソースが決め手」の古典レピシを象徴する)オーギュスト・エスコフィエへの反逆運動においては、まず真っ先にが「重ったるくて画一的で工夫の甲斐がない」デミグラ・ソースやホワイト・ソースが目の敵とされ駆逐されていったが、やがてこの二つの流れは妥協点を見出すに至る。
*実は日本の寿司の国際的知名度が高まったのは、この運動に負うところが大きい。その流れを主導したフランスの料理人達が「対抗馬」として意識したのが、まさに「素材の味を引き出す」日本料理の伝統だったのである。一時期は主要なレストランがヌーベルキュイジーヌに席巻されたが、現在、ヌーベルキュイジーヌの発想は活況を呈しているとは言えない。1980年代の中頃になると、フランス料理の伝統技法を土台としながら、新しい技法を融合させていくという「キュイジーヌ・モデルヌ」というスタイルが新たに提唱され、再びバターや伝統的なソースの重要性が認識されるようになった。その代表的なシェフが、ジョエル・ロブション、アラン・デュカス、ピエール・ガニェールなどであり、古典回帰と新技法の調和によって、世界的名声を博するようになった。
「フランス人の美食術」が2010年に無形文化遺産登録されるまでには、こうした激動の歴史が存在した訳です。
戸川律子「和食という思想の誕生-ユネスコ無形文化遺産の登録を契機として日仏比較の視点から- 」
フランスでは、2010 年に「フランス人の美食術」が無形文化遺産に登録された。
1970年に無形文化遺産保護条約が採択された後、フランスの料理人たちが「フランス料理」の登録を提案し、2008 年ニコラ・サルコジ前大統領は「フランス人の美食術」を無形文化遺産代表リストに登録申請する意向を表明した。それまで〈食〉という分野からはリストに登録がなかったので、フランス政府は、フランス人にとって食事とは「出産、結婚、誕生日、成功、再会など、個人や集団の生活の最も大切な時を祝うための社会的慣習」と定義し、料理そのものだけでなく、生活や習慣を含む大きな枠組みで〈食〉を捉え、それを守るべき伝統文化の一つとし、登録に至った。
当該要素に関係する社会は海外在住を含めたフランス国民全体であり、その社会は広大、多様、かつ統合されており、それは美食のような行為を共有することで実現化されてきたという。だから、この社会的習慣は特定の料理というより、むしろ「美味しく食事をするという共通の視点」に結びついている。それゆえに、食事の全構成要素が重要であるとされた。その内容は以下とされる。
- 絶えず増加するレシピ集から慎重に料理を選ぶこと。
- 全体の風味がよく合い、特に地元の良質な食材を仕入れること。
- 料理とワインの組み合わせ。
- 食事の様式の尊重(美食と呼ばれる食事では、食事作法も重要であり、食前酒で始まり食後酒で終わり、間に少なくとも 2 品から 4 品の料理が続く、すなわち前菜、魚または肉料理、チーズ、デザートなどである)。
- 食卓の美学。
- 美食の懇談、飲食中の行動および会話。
この様にフランス人にとっての食事は、他の文化的アイデンティティとの結びつきが強く、その保護については、フランス独自のメソッド「フランス味覚教育」の実施を通じて意識啓発を行うとされている。
一方、2013年12月4日、「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録された。日本での無形文化遺産申請発起人は京都の料理人であり、子どもたちに食材や料理の知識を伝える「食育」の活動の中で、日本の伝統的な料理を知らない子どもが多くいることに気づいたこととされる。
当初、日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会では「会席料理」を「もてなし料理」いわゆる高級料理として申請する予定であったが、「和食」としてより大衆化し、日本の社会的習慣を強調することで申請に至った。それはフランスの提案内容に影響を受けていたからである。
- 「和食」は「日本人の伝統的な食文化」であり、当該要素に関係する社会は、全ての日本人で構成されるという。
- また「和食」は「食の生産から加工、準備及び消費にいたる技能や知識、伝統に係る包括的な社会的習慣」であり「資源の持続的な利用と密接に関係」し「『自然の尊重』という基本的な精神に因んでいる」とされる。
- そしてその意義は「他の日本人が消費し、また祖先も味わった文化的・社会的・栄養的に適切な食事を共にすることにより、日本人は帰属感を強め日本人としてのアイデンティティを再認識」することとされる。
またその保護については、食育推進基本計画により活動していくとされている。
そもそも食分野における無形文化遺産とはどういうものなのでしょうか。すでに登録されている4つの食の無形文化遺産について簡単にまとめてみました。
- フランスの美食術(フランス、2010年)…フランスの人たちが、誕生日や結婚などの記念日や大切な出来事を料理で祝う社会的慣習。食材の選び方、ワインと食べ物の組み合わせ方、フルコースの料理を出す順番、食器のセッティグ、マナーなどの知識や慣習。これらの、社会的慣習や知識といった側面が主に評価されています。
お正月に録った『黒木瞳が行く 食の世界遺産Ⅱ ~フランス美食術の真髄を訪ねて(BSジャパン)』観てました。フランス料理はソースが絶妙だけど、食材や素材の味を生かす家庭料理に惹かれたなぁ。そして本場のフランス(ブルゴーニュ)ワインは美味しそうだった(*^-^*)
— masa del giorno (@masagiorno) 2013年1月7日- 地中海料理(スペイン・イタリア・ギリシア・モロッコの4カ国の共同申請、2010年)…地中海式の農業によって栽培・収穫・加工されたオリーブオイルと少量の肉から油脂をとり、穀類、フルーツ、野菜、適度な肉・魚・乳製品といった食材をバランスよく適量のワインとともにいただき、食卓を囲みながら語り、楽しみながらゆっくりと味わう。このような、食品の生産、加工、消費に関わる風景や技術、知識、社会的慣習が総合的に評価されています。
地中海式ダイエット、世界無形文化遺産となる - 地中海式とは
地域社会の信念とは、あまり聞きなれない言葉ですが、何を意味しているのでしょうか。イタリアを例にとってご説明します。イタリアは今年建国150周年を迎えますが、もともとは明治維新前の日本と同じように北から南まで小国が分裂していました。明治以降、日本では地方色が薄れてきたのに対して、イタリアでは現在でも個性豊かな地方文化、食文化の特色が残っていると言われます。例えば地方に行くと、外国料理のレストランは皆無であり、地域の新鮮な農作物を地元のオリーヴオイルで調理し、さらに地元のワインと併せて食事するというスタイル(ダイエット)が続いているのです。
そのような生活、食事のスタイルは必然的に人と人の交流を深めることでしょう。毎日の食卓を囲む家族のふれあいはもちろん、食品の生産者と消費者の交流、さらには地域の催しや祭りを通じて住民同士の交流を深めます。文化的にみれば、食事、食習慣は社会的慣習や儀式のなかで重要な役割を占めており、祭りで歌われる歌や、物語・伝説などの口頭伝承にも食べ物に関する事柄が表現されることがあります。
人々のふれあい、社会的慣習、生まれ育った土地で収穫される新鮮な農作物、豊かな海の幸を届けてくれる漁撈など、そうしたこと全てが身の回りの自然や風物への愛着を育み、地域社会の一員としての誇りを高めることにもつながるとユネスコは説明しています。「地中海式ダイエットは、その景観から食卓にいたるまで、作物の栽培と収穫、漁猟、保存、調理、食事に関する知識、技術、伝統の集合である」という意味はそこにあるのでしょう。
アメリカ人のアンセル・キーズ博士が提唱した、地中海地域の食事は、心臓疾患を減らす効果がある、という長年にわたる研究結果が元になっています。コレステロールを減らす、という発想が初めて広まった研究でした。イメージが先行する“和食”と比べると、かなり科学的、実際的なもの。
世界遺産に登録されたことによって、地中海の人たちの自国への愛と誇りはかなり高まったようですよ。
- メキシコの伝統料理(メキシコ)…メキシコ料理には7000年前から口承で伝えられている伝統が色濃く残っており、トウモロコシ、豆、唐辛子の3つを基本とし、多様な国土でとれる様々な農産物を材料に作られます。環境と調和した伝統農法や、儀式や祭礼行事、人生の出来事に結びつき生活の中にとけ込みながら、代々受け継がれてきたことなど、儀式や慣習としての側面が評価されています。
- トルコのケシケキ(2011年度)…トルコの伝統料理のひとつケシケキは、麦と肉、タマネギを水と油で一晩かけて煮込んだおかゆのような食べ物。おかず扱いなのでパンと一緒にいただきます。結婚式や割礼式、祝日、雨乞いなどの儀式で、連帯感を強めるために儀式の主催者がふるまうもので、歌を歌いながら音楽にあわせて小麦を脱穀し、すりつぶす儀式全体が文化遺産として認められています。
ケシケキは麦粥と言える食べ物で、トルコの多くの地域で食べられるものです。 そもそもはケシケキは遥か昔から、今のトルコに住んでいたアルメニア人や他民族のキリスト教徒を含め、宗教的や特別な日に食べられていました。現在登録されたのは主にエーゲ地方で伝統として残っているケシケキとなっています。どちらの食べ物といういい方は出来ませんが、トルコ人もアルメニア人もお互いかなり長い間共存し、影響しながら今日まで伝統を引き継いで来れたわけです。
日本で言うとまさに年末の餅つきの行事に似ていますが、それ以上に作り方、料理方法、分業、共同作業、音楽、祈り、伝統などがそのイベントにすべて含まれているから、選ばれたのだと思います。それによって、社会的な結びつきが強まりますし、伝統が続いて行くわけです。ケシケキを通じて、人々の繋がりを強く感じるので、それを象徴している食べ物とも言えると思います。
こうやって見ていくと、意外と内容が地味なんですよね。宮廷料理のような高級感や絢爛豪華なものはなく、むしろ庶民の生活に根ざしたようなものばかりです。また、食べ物そのものや味がどうこう、というよりは食と社会の関わり、食に関わる文化・慣習・知識全体が対象とされています。この辺りが、ミシュランなど、いわゆる食の格付けとは大きく異なる点と言えるでしょう。
今回無形文化遺産に申請された「和食:日本人の伝統的な食文化」の定義・詳細については、農林水産省のHPや申請書に詳しく記載されています。(農林水産省HP「日本食文化を、ユネスコ無形文化遺産に」)これらを整理すると以下の要点に分けられます。
(1)「自然の尊重」が基本的な精神である:日本は南北に長く四季が明確で、季節や地域ごとに様々な食材が得られます。また、気候は比較的穏やかで、海からも山野からも豊富な食材が手に入ります。このように多彩な食材に恵まれていることから、季節感を大事にし、素材の味わいを活かす料理や技術が発達しました。
(2)日本人の帰属意識を強めるものである:和食、すなわち他の日本人や祖先が味わってきた食事を共にすることで、日本の伝統や日本人としてのアイデンティティを再認識させる役割があります。
(3) 地域や家族の関わりを深める:家族で食卓を囲むことで家族の中を深めたり、行事食においては、地域の絆を強くする働きもあります。今では減りつつありますが、正月の餅つきや秋の収穫祭など、地域で協力して行事食の準備をすることで、地域における人のつながりを形成しています。
(4) 日本人の健康に貢献している:和食の、一汁三菜を基本とする食事スタイルは、バランスがよく健康的であると言われています。また豊富なうま味を持つ出汁や発酵調味料を活用することで、カロリー摂取の抑制や肥満防止に寄与しています。
これを食の5つの機能に分類してみましょう。(1)と(2)が文化的機能、(3)が社会的機能、(4)が生理的機能、となるでしょうか。中でも(1)の「自然の尊重」はこれらの要となるポイントと言えるでしょう。また、(4)に生理的機能が含まれる点も他にない特徴です。
自然や地理的条件に基づいた日本の食文化
日本の文化は「自然の尊重」という精神に基づいたものであり、和食はそれを体現するものと言えます。
日本は温帯に属し、平均雨量が1800mm(世界平均が700mm程度)と大変恵まれた自然環境にあります。加えて四季がはっきりとして、海に囲まれ山々も多いことから、季節ごと地域ごとの多様性が日本の地理的な特色です。日本の文学や美術などを振り返ってみると、こうした多様な顔を持つ自然に寄り添い、感謝し、活かすというのが日本の文化の特徴のひとつと言えるのではないでしょうか。
和食も、この文化・気質に基づいたものであると定義されています。季節の移り変わりにあわせて、旬の食材を食べ、季節を思わせる盛りつけや飾りをあしらいます。例えば、春には桜や菜の花をイメージした彩りを用いたり、新筍と新若布を使った若竹煮は「春先の出会いもの」として喜ばれたりします。
また、海や山による様々な地形や緯度による気候の違いといった地理的条件に歴史的な背景が加わり、地域ごとに様々な郷土料理が存在します。例えば先日の「ごちそうさん」にも出てきた「がわがわ」は、静岡県御前崎市周辺の郷土料理。鰹や鯵などの夏にとれる魚を新鮮なうちにたたき、薬味と一緒に、冷たいみそ汁に入れてつくります。これはもともと、この辺りの漁師さんが、夏の暑い時期に船の上で作って食べていたもの。海が近い漁師町らしい郷土料理です。一方、海が遠い京都では、かつては新鮮な海の幸なんて手に入りませんでしたから、若狭でとれた鯖を塩漬けにして運んでいました。輸送に使われた道が「鯖街道」と呼ばれるほど。京都で最も代表的なお寿司といえば、この鯖でつくった「鯖寿司」です。海から離れた土地ならではの努力と工夫が詰まった郷土料理です。
(2)の和食が日本人としてのアイデンティティを強めるというのも、和食自体が、日本の文化をよく表したものであるからではないでしょうか。また、(3)で社会的機能として挙げたように、行事食の支度や食卓を通じて人と人の関わりが深まるというのもまた、和食が日本の文化を共に作り上げ、継承していく場として機能しているからかもしれません。
出汁や発酵調味料を活用するうま味文化
もう1点特徴的なのが健康への貢献が挙げられていることです。これは他の食の無形文化遺産にはあまり見られない要素です。しかし、この健康的な食事スタイルもまた、日本の歴史や地理に影響を受けて発展した文化的なものであり、それが結果的に長寿や肥満防止など健康面にも結びついています。
和食を健康的な食事として特徴づけているのは、動物性油脂を使わず、味噌や醤油などの発酵調味料や出汁のうま味によって満足感を与えているという点です。発酵調味料や出汁のうま味を活用することは、もともとアジア全体で一般的なことでした。しかし肉食文化圏の拡大とともに肉食や油脂の使用が広がり、徐々に存在感が薄れていきました。一方日本では、仏教の影響により6世紀頃から肉食が禁止され、そこから明治に至るまでの長い間、肉食は一般的ではありませんでした。島国であったことから、外国からの侵略を受けにくかったというのがひとつの要因でしょう。鎌倉時代の「元寇」により元に侵略されていたら、今の和食はなかったかもしれません。肉食の禁止は実際には、時代ごとに厳しくなったりゆるくなったり、鶏や猪などの例外が認められたりもしましたが、それでも、肉食を忌避する風潮は明治の文明開化まで続きました。なんと1000年以上!そのため、肉のうま味や動物性油脂によって得られる満足感を補うため、出汁や発酵調味料を重視した食文化が発達したと考えられます。
現在多くの国で問題となっている肥満や生活習慣病の多くは動物性油脂の摂り過ぎによる部分が大きいとされています。一方うま味が、動物性油脂によって得られる満足感を補い、カロリー摂取の抑制に効果があるという点について、研究が進められています。日本人のみならず、世界的にも今後重要な食の知恵として和食を活用していくことができるかもしれません。
既にお気づきでしょうか。こうした記述の端々に見受けられる「ナショナリズム」要素について。
オランダでインドネシア料理と寿司、食べ物ナショナリズム | のんべんだらり
- ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体(Imagined Communities、1983年)」の中で述べた「過去と現在と未来をひとつの均質な時間で貫こうとする」想像の政治的共同体(imagined political communities)としての特質。
「王国」というのは王がいる居城から周辺にいくほど主権はあせ、境界が不明瞭となります。歴史地図では私たちは境界線のはっきりした王国を見るため、そうした袋のような輪郭のはっきりした王国をイメージしがちですが、実際には辺境にいけばいくほど、王権の力はよわく、そこがどの王国に属しているのかはあいまいでかつ流動的なものでしかありません。
そして宗教的共同体において、人びとは宗教のお話を、壁画や絵画などの視覚芸術と、説教や物語の聴覚的芸術によって、見たり聞いたりしていました。宗教的な出来事は昔のことでも未来(終末)のことでも、いま、そこに目に見え耳に聞こえる形であらわれるのです。たとえば、救世主(メシア)の登場は、その誕生が紀元元年の過去の話でもあり、その救済はその未来(終末)におけるものでありながら、見聞きする者にとって、今まさにここで、現れてあることでした。こうした過去と未来が現在において同時に出現するという形の、「メシア的時間」(即時的現在のおける過去と未来の同時性)が支配したのです。
ところが18世紀ヨーロッパにおいて、小説と新聞が生まれることで、これとは全く異なる、「均質で空虚な時間」が生まれます。小説と新聞のもつ時間性では、登場人物、著者と読者、すべてを包括して暦の時間に沿って進んで行く、そうした単一の共同体が想定されます。
また新聞は、その日に起こったさまざまなことがら(選挙、交通事故、催し物などなど)を一挙に紙面として提示します。結果、その紙面にあることが、ひとつの社会で同時に起きている事がらとして読者は意識するようになります。
こうして「十八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つに想像の様式、小説と新聞…これらの様式こそ国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提示した…」のです。
古来、三つの基本的文化概念が支配していました。その三つの基本的文化概念とは、
- 特定の手写本(聖典)語だけが真理への特権的手段を提供する
- 社会が高き中央のもとに自然に組織されている[という空間概念]
- 宇宙論と歴史との区別不能による、世界と人との起源は本質的に同一であるとの時間概念
出版(資本主義)の発達により、古来の三つの基本的文化概念の支配力は低下します。そして、水平・世俗的で時間・横断的なタイプの共同体が想像される可能性がうまれまたのです。
- カール・マンハイム「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」は、あらゆる「個別的なるものへの執着心」の寄せ集めに過ぎない伝統主義や復古主義を「自らを決っして意識した事のない植物的特性」「すべての個人のうちに多かれ少なかれ働いていた形式的態度」と規定する。そしてそれが全てを主体的体験の内に取り込もうとするロマン主義運動を経て「人間の幸福は、民族精神(Volksgeist)ないしは時代精神(Zeitgeist)との完全なる合一を果たし、自らの役割を与えられる事によってのみ達せされる」としたヘーゲル哲学を代表例の一つとする「保守主義的思考」に到達するとする。
- 「戦前最大の無政府主義者」大杉栄は「(それ自体は傲岸なエゴイスト集団に過ぎなかった)心理的個人主義」と「(それ自体は各人の幸福に関知せず、人類の発展可能性を引き出す多様性の維持や、操作対象としての統計数字として民衆を意識するのみの)社会的個人主義」の狭間から新たなる社会認識や社会集団が芽生えてくる事を期待した。
*同時進行で「(科学実証主義に基づく)語り口調」と「(伝統主義や復古主義などから抽出された「個別的なものへの執着心」のリストともいうべき)語られる対象」の峻別が進行していく。
*こうした考え方は最終的に「計算癖が全人格化した現代社会」に到達するが、大正時代の自由主義者達が現代人よりむしろ「心理的個人主義者が死体の山を築いて蓄積してきた経験が、社会個人主義の非人間性を克服していく」みたいな観点に鋭敏だった辺りが興味深い。まさしく坂口安吾いうところの「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」的な行動主義そのもの?
そう、根底にあるのはあくまで「ゲマインシャフト(伝統的共同体)的一体感」。その料理が実際にはどういう発展史を辿ってきたかすら直接関係ないケースすら存在したりするほどです。
*ベネディクト・アンダーソンもまた「フランス革命期に実際に何があったかではなく、それがどう語り伝えられてきたかかが世界を動かしてきた」とも述べている。
ところでベネディクト・アンダーソンは「国民」なる存在の特徴について以下の様に説明しています。
- それは限られたものとして想像される(国境といった境界線の実在)
- それは主権的なものとして想像される(「自由の保証」が前提)
- それは1つの共同体として想像される(同志愛などに立脚)
この点、食文化にまつわる「ゲマインシャフト(伝統的共同体)的一体感」はナショナリズムそのものというより、その素材(ナショナリズムの素)に過ぎない事は明らかです。「地中海文化」や「トルコ人とアルメニア人の共有文化」の様にその範囲が実際の国境線と一致しないケースに至っては、最初から国民国家における国民統合の道具にすらなり得ません。その一方で「(反中央集権的な部族連合的段階ともいうべき)御当地グルメ自慢大会」のレベルを越え様とすると、たちまち「ナショナリズムの一種」でもあるが故の固有リスクが浮上してくるのです。
“だれかといっしょ”の共食はバランスのとれた食事のキーワード [講義内容]|平成23年度 食育実践活動推進事業の取組内容 [事業の取組内容]|おとどけシステム食育推進協議会
- 「健康ファシズム」…「地中海式ダイエット」理念にせよ和食の「衣食同源」理念にせよ、突き詰めていけば究極的には伊藤計劃「ハーモニー( <harmony/> 、2008年)」における「生命至上主義(Lifism、構成員の健康の保全を統治機構にとっての最大の責務とみなす政治的主張、もしくはその傾向。)」の域に到達する。さらに「地中海式ダイエット」には「(贅沢食を煽る)レストランの放置は全国の伝統的共同体を崩壊に導く」といった反商業主義的理念も一部内包する。
- 「エスニズム(ethnism)やエスノセントリズム(ethnocentrism)の全否定」…ゲマインシャフト(伝統的共同体)的一体感は、当然それと表裏一体を為す形で「身内と余所者を厳しく峻別する態度」を高めたりもする。おそらく「フランスの美食術」は(19世紀の労働者向け大衆食堂で完成した)「デミグラソース」や「ホワイトソース」の世界を再評価する事はないだろう。「和食:日本人の伝統的な食文化」もまた「街の洋食屋さん」文化や「おやき・タコ焼き・お好み焼き」といった下町粉食文化を省みる様な展開とはならないだろう。
熊蔵の小部屋:日経新聞と産経新聞が、そろって和食認定制度に突っかかったお話 - livedoor Blog(ブログ)
◎マグリブ地域を植民地として支配していた歴史があるフランスにおいても「世界最小のつぶつぶパスタ」クスクス(アラビア語: كسكس、フランス語: couscous、英語: couscous、ヘブライ語: קוסקוס、kuskus)は食材として広く普及している。その意味ではフランスはしっかり南仏経由で「地中海文化圏」の一部にも所属しているのである。「フランスの美食術」はこれを許すや否や?
◎南フランス発祥の「ラタトゥイユ(ratatouille)」やイタリア南部のシチリア島が発祥の「カポナータ(caponata)」やスペインの「エスカリバダ(Escalivada)」なども同様の関係にある。またトルコ料理「シャクシュカ(Şakşuka)」も同源の料理と考えられている。果てさて「フランスの美食術」はこれを許すや否や?
*そもそも茄子はアラブ人が地中海沿岸のイベリア半島、南仏、南イタリアに伝えた野菜。
*そしてトルコ料理「シャクシュカ(Şakşuka)」は揚げ野菜(ダイス状に切ったじゃがいも、茄子、ズッキーニなど)のトマトソース掛け。おそらく本料理が存在し、素材の一部が新世界の作物に置き換えられた。オスマン帝国の宮廷料理起源とも?
ナス | Aubergine | フレンチ・コード french-code
ナスがフランスへやってきたのは15世紀。ヴェルサイユ宮殿を建設した、太陽王ルイ14世の菜園でも栽培されていたというから面白い。大の食いしん坊で有名な国王は、当時、一番穫りのアスパラガスやアーティチョーク、ズッキーニやナスを、誰よりも早く味わうことを大いに自慢していたらしい。
*南仏にはトゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers、アラビア語: معركة بلاط الشهداء、732年)の頃には既に広まっていたとする説もあるが(その保存性を重視した調理法から「当時のイスラム軍(あるいは後のノルマン貴族軍)の移動中の部隊食が起源」説まであったりする)「それは伝わったうちに入らない」と考えるのが(北フランス貴族社会に立脚してきた)フランス宮廷料理の思考様式。そもそも「イスラム遠征軍がアキテーヌ地方(フランス南西部)への進出を果たし大西洋に面したボルドー港まで脅かした」「彼らがピレネー山脈の向こう側に追いやられたのは、アッバース革命(750年)の混乱を突いた反攻の結果」という事は南仏もブルゴーニュも四半世紀近くイスラム勢力の統治下にあった事を意味するが、民族的自尊心ゆえに、まぁまず直接そう語られる事はない。*ちなみにマジャール人の侵攻(9世紀〜10世紀)は現地に「釜煮グヤーシュ(ハンガリー語: bogrács gulyás、ドイツ語: Kesselgulasch、ハンガリー風シチュー)」を残したとも。ただ要するに「ごった煮」だからそれ以前から現地に存在していても不思議はない。いずれにせよ以降独自発展を遂げ、12世紀にこの地に進行したモンゴル軍団の食生活にも大きな影響を与える事になった。
グヤーシュ - Wikipedia◎和食を基礎付けたのは「美味しく飲める水」が好き放題使えるインフラとされるが、その影響を受けたのは日本の料理人ばかりではない。中華料理人は「汁入り担々麺」や「冷やし中華」を発明してきたし、後者についてはさらにマヨネーズを入れる文化が派生するのである。「和食:日本人の伝統的な食文化」はこれを許すや否や?
中国の担担麺は1841年頃、四川省自貢の陳包包というあだ名の男性が考案して、成都で売り歩いたのが最初と言われる。もともとは、天秤棒の片側に豆炭を使う七輪と鍋を、もう一方に麺、調味料、食器、洗い桶などを吊して、担いで売り歩いた。鍋はまん中に区切りがあり、片方には具を、片方には湯を入れるようにしていた。暖かく、辛い麺を出したのが受けて流行ったという。
- 本場の中国四川省では、日本で言うところの「汁なし担担麺」が食べられている。もともと、天秤棒を担いで売り歩いていた料理であり、スープを大量に持ち歩くのは困難であったことから「汁なし」が原型である。日本の汁椀からご飯茶碗程度の小さな碗に入れて売られる事が多く、一杯あたりの量は少ない。小腹が空いたときに食べる中国式ファーストフードの一種と考えられている。麺は一般的にストレートの細麺で、鹹水は使わないので色は白い。
- 四川風の花椒とラー油の風味を利かせた醤油系の少なめのたれに、ゆで麺を入れ、「脆臊」(ツイサオ 拼音: cuìsào)と呼ばれる豚肉のそぼろとネギ、ザーサイなどを載せたスタイルのものが一般的である。そぼろは、豚肉を中華包丁でみじん切りにし、ラードを入れた中華鍋で、料理酒、甜麺醤、塩、醤油を加えてぱらぱらになるまで炒める。
- 味付けは、ラー油、花椒(山椒の同属異種)の粉または花椒油、醤油がベースで、少量の酢、塩などを合わせる[6][7]。日本の担担麺でよく用いられる豆板醤や芝麻醤はあまり用いられない。この辛い液が入った碗に、ゆでた麺を入れてから、具を載せる。具は一般的に豚肉のそぼろで、薬味には刻みネギ、もやし、刻んだ「川冬菜」という菜の漬物、エンドウの芽、煎りゴマ、刻んだピーナッツ、揚げた大豆などが添えられる。混ぜてから食べる。
- 近年は中国各地の四川料理店や専門店で食べられるが、上海など、辛いものを食べ慣れていない地域では、辛さを控えて出す例がある。また、スープが十分に入ったものは、後述のように日本においてアレンジされて普及した担担麺であるが、現在では中国大陸の四川料理店でも、スープのある汁麺を用意しているところも増えつつある。
- 担担麺と称しないが風味や具が似た麺料理として、四川省成都市崇州市羊馬鎮の「査渣麺」、四川省成都市の「甜水麺」、貴州省貴陽市の「康家脆臊麺」[11]などがある。また、台湾台南市の「担仔麺」は天秤棒で担いで売り歩いた麺料理という点で共通する。
日本の担担麺は、麻婆豆腐と同様に、四川省出身の料理人陳建民が日本人向けに改良した作り方を紹介して広まったと言われる。
- 一般に中国のものと比べて直径で1.5倍以上、場合によっては3倍ほどの碗で出され、日本のラーメンのように一杯で一食が事足りるようになっている。そして、辛さをおさえるためにラー油と芝麻醤の風味を効かせたスープを合わせ、汁麺として出されることが多い。汁の味や辛さは中国のものよりも薄く、飲める程度になっている。
- 麺は店によって異なるが、一般的に中国のものよりも少し太く、鹹水を使った中華麺がほとんどである点も異なる。太麺になると、スープにからみにくくなることもあり、一部の店では、縮れ麺を使用し、スープとからませるようにさせている。
- 日本では、担担麺の定義が決められていないため、店によってまちまちの味付けと具材になっており、たとえば肉のそぼろは挽肉を用いるのが普通で、豚肉ではなく牛肉、合い挽き肉、鶏肉のものだったり、チャーシューや煮豚などを載せたりと店によって様々である。また、チンゲンサイ、ホウレンソウ、サヤエンドウ、モヤシなどの野菜が少し添えられたり、みじん切りのニンジンなどがそぼろに加えられたりする場合もある。薬味は刻みネギや唐辛子の細切りなどが多い。
また近年、一部の日本国内の料理人が香港の担担麺をまねた味を出す店もあり、干し海老の味がするものもある。また、千葉県勝浦市には、ラー油ベースの激辛スープを使った勝浦式タンタンメンが存在し、広島市周辺では汁なし担々麺専門店が多くあり、最後にご飯を入れるといった独特の食べ方、黒ごまやうどんを使ったものを出す店もあるなど、地域や店舗独特の風味のものもある。
中国、香港、台湾などの中華圏においては、拌麺(Lo mein)とは茹でた麺を様々な具材や調味料で和えた料理の総称であり、その中に冷麺/涼麺(リャンメェン)や冷拌麺/涼拌麺(リャンパンメェン)と呼ばれる麺料理が存在する。麺は日本の冷やし中華・冷麺ほど冷たくなく(冷水や氷を使って食品を直接冷やす慣習が無く、団扇や扇風機を使って茹でた麺を冷ますため)、花生醤(ピーナッツ・ペースト)や芝麻醤(すり胡麻)を用いた濃厚なタレがかかっており、例えば鶏絲涼麺(チースーリャンメン、茹で鶏と胡瓜の千切りのせ)はゴマだれの冷やし中華の源流となっている可能性もある。北中国の冷麺は日本における酢を使用した冷やし中華・冷麺とは異なる趣の料理であり、当地の中華系民族は酸味のある冷たい料理を食習慣から腐敗による酸味と捉えるため、日本の冷やし中華・冷麺や酢飯などを嫌う傾向があるが、南中国の冷麺、特に上海冷麺は酢を使用した。
- 1929年(昭和4年)に発刊された「料理相談」(安東鼎編、鈴木商店出版部)という本には冷蕎麦(ひやしそば)の一項があり、シナそばを茹で、酢、砂糖、氷をまぶし、その上に叉焼、キュウリ、ラッキョウ、タケノコを乗せ、冷スープ、醤油、酢、コショウをかけるとの記述がある。
- 1936年(昭和11年)に発行された雑誌『栄養と料理』には三絲涼麺(サンスーリャンメン)として鶏肉、焼豚、キュウリ等を細切りにして、水にさらした麺の上にのせ、酢、砂糖、醤油等のタレをかける料理が紹介されている。
- 他方、細切りの具を彩りよく盛った現代風の冷やし中華の原型は五色涼拌麺(五目冷やしそば)として東京の神田神保町の揚子江菜館で第二次世界大戦後または1933年(昭和8年)に創作されたとされている。2代目オーナーの周子儀が、上海で食べられていたもやしと細切りの肉を冷した麺に乗せて食べる涼拌麺とざるそばから着想を得たとされる。様々な細切りの具を皿の中心から放射状に盛る独特の形式は富士山とそこに積もる雪をイメージして作られた。
- また、京都の「中華のサカイ」は、創業時(1939年)より、ゴマだれを使った「冷麺」(関西および西日本での「冷し中華」の呼称)をメニューに載せており、関西では、関東以北の「冷し中華」とは異なり、独自に発展したとする説もある。異説として、戦後、寿がきやが心太(ところてん)のつゆ(三杯酢)を冷やしたラーメンに掛けたのが今のスープによる冷やし中華・冷麺の発祥とする説もある。
仙台市錦町の龍亭では、冷し中華・冷麺が発売されたのは、1937年(昭和12年)のこととされる。「仙台支那ソバ同業組合」(現・宮城県中華料理環境衛生同業組合)の会合で、中華料理店共通の問題である夏の売り上げ低下の解決法、及び、多数の観光客が集まる仙台七夕の際に売れる目玉商品の開発について話し合われた。そして当時の組合長だった龍亭店主を中心に、龍亭が閉店した後に集まってざるそばを元に新メニューの開発を行ったのだという。
- それは現代の冷やし中華とは異なり、湯がいたキャベツ・塩もみきゅうり・スライスしたニンジン・叉焼・トマトを上に乗せた物だった。
- 戦中・戦後の食料難の間メニューからは消えたが、昭和20年代後半になって復活し、1965年(昭和40年)まで当初のスタイルを踏襲。その後徐々にスタイルを変化させているはいるが、現在でも龍亭は錦町で営業を続けており、改良された冷し中華を看板メニューにしている。
- また、仙台市では他地域と異なり、冷やし中華は年間を通して提供されている。
東海地区ではマヨネーズを添えることが多い。
- 1957年に東海地区を中心にチェーン展開する寿がきやの当時の商品開発担当者が温かいラーメンスープにマヨネーズを溶かした上で冷やしたものを「冷やしラーメン」として売り出したのが始まりとされ、冷やし中華にマヨネーズを添えるという現在のスタイルになったのは1965年頃である。ただ、詳細に関しては当時の担当者が誰で、どういった理由でマヨネーズになったのかまではわかっていないため不明(ただ、寿がきやの冷やし中華のTVCMでは、独自の歌と共にマヨネーズをかけることをアピールしている)。
- 山形県にも同様の風習はあるが、こちらは1980年代後半にテレビで紹介されたのをきっかけに真似したことから始まったものとされ、元々さっぱり風味では物足りないと感じた濃い味が好きな人達の間で定着している。なお、この風習は福島県の一部にも広まっている。また東海地方のコンビニエンスストアで売られている冷やし中華にもマヨネーズが付いてくる。こちらに関してはサークルKサンクスでは後に全国で、ファミリーマートでも関東と九州以外の地域では付けるようになった。セブン-イレブンでは、東海地方進出当初は付けていなかったが、客の要望で付けるようになった。
日本国外でこの調理方法による麺料理は、韓国では「中国(式)冷麺」、中国では「日式冷麺」と呼ばれ、日本料理店や日系コンビニエンスストアのファミリーマートなどの現地店舗で季節限定メニューで販売されている。
- 本場の中国四川省では、日本で言うところの「汁なし担担麺」が食べられている。もともと、天秤棒を担いで売り歩いていた料理であり、スープを大量に持ち歩くのは困難であったことから「汁なし」が原型である。日本の汁椀からご飯茶碗程度の小さな碗に入れて売られる事が多く、一杯あたりの量は少ない。小腹が空いたときに食べる中国式ファーストフードの一種と考えられている。麺は一般的にストレートの細麺で、鹹水は使わないので色は白い。
ところで以前の投稿において「国民統合を果たした国家間の国際競争」が世界を動かした「総力戦体制時代(第一次世界大戦が勃発した1914年から戦禍の続いた欧州がそれ以前の黄金期の経済規模まで復興した1970年代)」前後の日本には「個人主義の時代」が存在したと指摘した事があります。
特に1910年代から1920年代前半にかけての大杉栄や与謝野晶子が展開した個人主義論には「(観測される都度)様々な可能性の片鱗を覗かせてこそ自由人」といった量子脳理論の先駆けの様な認識がみて取れるのです。
量子脳理論(心または意識に関する量子力学的アプローチ(Quantum approach to mind/consciousness)、クオンタム・マインド(Quantum mind)、量子意識(Quantum consciousness)などとも言われる) - Wikipedia
*学術的には極めて高度かつ複雑な発達経緯を辿っているが、21世紀初頭に入ってやっと「記憶の物質的側面」の検証に成功したレベルだから、まだまだ当分実証科学の領域には入ってこないとも。とりあえずここで重要なのは、大正期(1912年〜1926年)の自由主義には、既に人間の意識が「男=息子=夫=父親」とか「女=娘=妻=母親」といった可能性の確率波の重ね合わせで出来ている事についてざっくばらんな認識があった事、やがてそうした思考様式が後に台頭してきた軍国主義者と社会主義者の双方の逆鱗に触れ、両者から迫害対象とされる展開を迎えた事。
「和食ナショナリズム」や「街の洋食屋さん文化」や「下町粉食文化」も同様の形で日本人の中で共存しながら発展してきた訳で、無理やりどれかを選択する意義はあまりない気もしています。
海外反応! I LOVE JAPAN : 日本の食文化って最高だね! 海外の反応。
さて私達は一体どちらに向けて漂流しているのでしょうか…