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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「コンピューターの時代」が人類に与えた影響は?

赤樫満枝 金色夜叉

http://img.theepochtimes.com/n3/eet-content/uploads/2015/03/07/Wikipe_she_needs_your_help2.png

Wikipediaには、その独特の「反商業主義的スタンス」同様、所々完全に崩壊し尽くしたページがあります。以下などはその典型例。

合理主義 - Wikipedia

合理主義とは感覚・経験ではなく理性・論理(辻褄)・合理性に依拠する態度である。理性主義(Rationalism)。

http://image.slidesharecdn.com/rationalism-report-100607092449-phpapp01/95/rationalism-report-4-728.jpg?cb=1275902774

  • 合理主義哲学(Rationalism、大陸合理論)…17世紀ないし18世紀の近代哲学認識論における一派。特定の原理・原則・基準・理屈に適合するものだけを認識・許容・受容する態度。

    http://www.greenmanhouse.org/Images/EmpiricistsandRationalists.png

  • 慣習・伝統・常識に囚われず、目的達成のために最短・最効率な手段を選択していこうとする態度。効率主義(Utilitarianism)。

    http://3.bp.blogspot.com/_wuSqJG5bIKE/SyqWysNkSbI/AAAAAAAAADg/vi7XWUqUvKQ/s320/Types+of+utilitarianism.png

極端主義・過激主義(Extremism)、原理主義(Fundamentalism)、排他主義(Xenophobia=外国嫌い)の別名でもある

http://twarmagazine.com/wp-content/uploads/2016/04/xenophobiaggg.jpg

 悪意に満ちた編集合戦の痕跡が認められます。おそらく誰もが互いの判断を絶対に合理的と認められない基本的不信感が背景にあるのでしょう。誰もが「これ以上の絶対悪の存続は国際正義と人道主義が許さない!!」と叫び合ってる状況。まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのもの?

本質的に人の集団を科学的に分析、管理することには、一人の人を一単位、いわばものとしてみなす倫理的な問題が潜んでいる。全体の最適化は抑圧される個体を生む。まだ身分制がのこり人権が曖昧な時代に多くの弊害を生む。

コンドルセの統計的な最適化は平均的な人間という理想像を産み出し、平均から外れた人を不良品を見なす方向へ進む。たとえば民族差別を生んだ優生学へ繋がる。あるいはルソーの思想は集団の最適のために管理される個としての全体主義に繋がる。また社会主義の弊害は最近まで続いた。ヒュームはベンサムなどの功利主義に繋がる。最大多数の幸福。これはまさにいまも続く倫理的な問題だ。

いわはこの潮流が世界大戦へ繋がるといってよい。そしていまは昔ほど無頓着ではなくなったが、社会科学の裏面として隠されている。だからその黎明期はいまも多くが語られないのだ。人々はしらーと科学技術を語り、哲学を語り、経済学を語り、社会学を語る。実はそこに昔と変わらず狂気が潜んでいることを見ないふりをしている。

「コンピューターの時代」は、まさにこうした「闇の部分」を抱えたまま幕を開けたのでした。

【データ・エンジニアリング】計算を補助する器具の使用は数千年前まで遡る。その多くは普通に指で数を数えるやりかたの延長線上に現れ「電卓」以上の機能を持たされる事はなかった。

  • 最初期の計数器具として tally stick と呼ばれる原始的な割符のようなものがあった。肥沃な三日月地帯では小石(粘土球、粘土錐など)を家畜や穀物の数のぶんだけ容器に入れて封印しておく記録保管法が広く使われていた。算木もこのグループに入る。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/SAM_PC_1_-_Tally_sticks_1_-_Item_01.jpg

  • 最初期の算術器具としてそろばん(abacus)がある。「ローマそろばん」は紀元前2400年ごろバビロニアで使われ始めた。その後、様々な計算用の盤や卓が発明されてきた。中世ヨーロッパではテーブルにチェック柄の布を広げ、その上でマーカーをある規則に従って動かし、金額を計算するということが行われていた。

    http://www.rs.kagu.tus.ac.jp/infoserv/museum/si/p21-2.gif

  • 古代から中世にかけて、天文学に関する計算を行う目的でアナログコンピュータの一種が何度か考案されてきた。古代ギリシア(紀元前150年から100年ごろ)ではアンティキティラ島の機械やアストロラーベが作られており、既知の最古のアナログコンピュータとされている。似たような初期の器具として星座早見盤やアブー・ライハーン・アル・ビールーニー(紀元1000年ごろ)の発明した計算機械、アッ=ザルカーリー(紀元1015年ごろ)の発明したどの緯度でも使えるアストロラーベなどがある。他にも中世イスラムでは天文学者や技術者が様々な天文用アナログコンピュータを作っており、中国では宋代の蘇頌(紀元1090年ごろ)が天文時計の塔を作った。

    http://livedoor.blogimg.jp/qloiolp/imgs/e/a/ea26b534-s.jpg

  • 1206年、アル=ジャザリが「城時計」という天文時計を発明。世界初のプログラム可能なアナログコンピュータとされている。黄道十二星座、太陽と月の軌道、月相を示すことができる。月相を表した針が門の上を移動し、門が1時間おきに自動的に開く。そして、5体のロボット楽団が音楽を演奏する。その動力源は水車で駆動されたカムシャフトでてこを操作することで得られていた。昼と夜の長さをプログラムの変更で変えられるようになっていた。

  • スコットランドの数学者で物理学者のジョン・ネイピア (1550-1617) は、乗算と除算がそれぞれ元の数の対数の加算または減算で実現できることに気づいた。世界初の対数表を作る過程で多数の乗算を行う必要があったため、ネイピアは乗算と除算ができるそろばんのような器具「ネイピアの骨(Napier's bones)」を考案した。実数は直線上の距離または間隔として表現できることから、1620年代に計算尺が発明され、乗算や除算がそれまでより格段に素早く行えるようになった。計算尺は技術者や仕事上で数学的な計算を必要とする人々が数世紀に渡って使い続け、最終的に電卓の登場で役目を終えた。
    http://www.geocities.jp/kyo_oomiya/napier1.jpg
  • ドイツの博学者ヴィルヘルム・シッカートは1623年に calculating clock を設計したが、製作中の1624年に火事で破壊され完成をあきらめた。1957年に2枚のスケッチが発見されたが、既に計算機の歴史に影響を及ぼすには遅かった。

    https://media1.britannica.com/eb-media/17/23617-004-18A9D5B0.jpg

  • 1642年、まだ十代だったブレーズ・パスカルが計算機の先駆的研究を始め、3年後に完成させて50台の試作機を作った。このため一般にパスカルが機械式計算機の発明者とされている。その後10年間に20台の(Pascaline と称する)計算機を作った。

    https://c2.staticflickr.com/4/3083/2632674049_47bb4302ab_b.jpg

  • ゴットフリート・ライプニッツは1672年、Pascaline を改良して乗除算を直接計算できるようにした Stepped Reckoner を発明。重要な点は段付歯車機構である。ライプニッツは「立派な人間が労働者のように計算などという誰でもできることに時間をとられるのは無駄だ。機械が使えたら誰か他の者にやらせるのに」と言ったという。ライプニッツは二進法の提唱者でもあり、今日のコンピュータは全て二進法に基づいて動作している。しかし1940年代ごろまで、計算機は十進法を使っていることが多かった(チャールズ・バベッジの1822年の機関や1945年のENIACなど)。ENIACのリングカウンタは機械式計算機の数字歯車の動きをエミュレートしたものだった。

    http://www.3quarksdaily.com/.a/6a00d8341c562c53ef01a3fd2a054e970b-500wi

  • 1820年ごろ、チャールズ・ザビエ・トーマスが世界初の量産された機械式計算機アリスモメーターを作った。これは四則演算が可能だった。ライプニッツの計算機を元にしている。

    http://www.rs.kagu.tus.ac.jp/infoserv/museum/si/p23-1.gif

  • 1833年チャールズ・バベッジは数表作成用の階差機関の開発からより汎用的な解析機関へと興味を移した。1835年に残した記述によればそれは明らかに「電卓」に域を超える内容だったが、残念ながら完成しなかった。
    *当時の科学者や学者はいちいち関数から答えを導出する手間を省く為に数表を使っていたが、検算が適当で間違いだらけだった。バベッジはその状況に怒り狂って階差機関の開発に取り掛かったといわれている。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/45/Difference_engine.JPG

  • 日本では矢頭良一が1903年に自働算盤という機械式計算機の特許を取得。歯車式で1個の円筒と22枚の歯車などで構成されている。乗算の桁送りと計算終了を自働判定する機能もある、とされている。200台以上が主に軍や政府に売れた。

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  • 20世紀に入ると機械式計算機、キャッシュレジスター、会計機などは電動機で駆動されるようになり「コンピュータ(計算手)」という言葉がそういった計算機械を使って計算を行う職業を意味する様になった。1920年代、ルイス・フライ・リチャードソンは天気予報に興味を持ち、多数の計算手を集めて気象モデルの数値解析を行うことを提案。しかしナビエ-ストークス方程式を使った気象データの数値解析には今日でも強力なコンピュータが必要である。

  • 1930年代ごろからフリーデン計算機、マーチャント計算機、モンロー計算機といった企業が四則演算のできる機械式計算機を製造販売し始めた。マンハッタン計画において、後にノーベル賞を受賞したリチャード・P・ファインマンの指揮で多数の女性数学者を計算手として集め、微分方程式の数値解の計算を行った。真空管を使った初期のコンピュータは信頼性が低かったため、マーチャント計算機では八進法版の機械式計算機を発売。コンピュータの計算結果の検算に使った。

  • 1948年、クルタ計算機が登場。小型で携帯可能な機械式計算機で乗算と除算もできる。1950年代から1960年代にかけて、様々な機械式計算機が登場した。1970年代に入ってからも手回し式の機械式計算機は以降も電卓にとってかわられる直前までさかんに使われ続けた。addiator、コンプトメーター、モンロー計算機、クルタ計算機、Addo-X、などがある。日本では「タイガー計算器」が代名詞となった。

  • 世界初の完全電子式の卓上計算機はイギリスの ANITA Mk.VII (1961) で、表示にはニキシー管を使い、177本の小型サイラトロン管を使っていた。1963年6月にはフリーデンがEC-130を発売。こちらはトランジスタを使い、5インチのブラウン管に13桁の数値を表示し、逆ポーランド記法を採用していた(価格は2200ドル)。後継のEC-132では、平方根と逆数を計算する機能も追加されている。

  • 1965年にワング・ラボラトリーズが発売したLOCI-2は10桁のトランジスタ卓上計算機で、ニキシー管で表示し、対数も計算できた。

もちろんこうした機器は1970年代における電卓の登場によって一掃される事に。

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【データ・エンジニアリング】産業革命黎明期におけるパンチカード・システム開発過程を巡る悲劇。しかし、それ自体は英国産業革命において決定的役割を果たしたばかりかコンピューター誕生期にも重要な役割を果たす事になる。

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  • それを最初に開発した自動人形(単数形Automaton、複数形Automata)技師ジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年~1782年)は、音楽を奏でる自動人形の「演奏曲入れ替え技術」を複雑な模様を扱う織機に応用しようとしたのだった。しかし職人から「オレ達が何を覚えるか指図するなんて何様だぁ?」「オレ達から職を奪うつもりか」と散々罵られ、石を投げつけられただけだった。せっかくの発明品も跡形もなく破壊されて現存してない。

    https://68.media.tumblr.com/f037ff16f2e7734bf11ff9d9823407bc/tumblr_mgk7dpnszX1qg0hwao1_1280.jpg

  • 実は英国でも1733年に飛び杼(どんな幅の物でも一人で織れる)を発明したランカシアの織工ジョン・ケイが、生産効率の飛躍的改善の代償として熟練工の大量失業を誘発したせいで残りの一生を貧困の中で襲撃を恐れながら送る羽目に陥っている。

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  • そして1745年には英国の産業発明家ジョゼフ・マリー・ジャカールがBasile Bouchon や Jean Falcon の先駆的成果を発展させて世界初の完全自動織機を開発した際、このパンチカード・システムを「データ入力」手段として採用。これが産業革命推進者達(Captains of industry)の手により爆発的に広まって英国繊維産業の産業革命において決定的役割を果たす事になった。

    http://cs-exhibitions.uni-klu.ac.at/uploads/pics/Basile_Bouchons_loom_01.jpg

さて、問題はどこにあったのか?

  • コンシューマー市場側の問題…18世紀時点では消費の主体は王侯貴族や聖職者達であり、パンチカード・システム(というか、その原型)のこの分野への応用例は「音楽を演奏する自動人形や大型オルゴールの演奏曲交換の効率化」程度にとどまった。次第に大衆向け見世物の世界へも進出を果たすが、英国に比べフランスにおける市場展開はあくまで鈍かった。

  • 生産者側の問題…18世紀から19世紀前半にかけてはパンチカード・システム導入といった織機の生産効率向上努力は、それが自分達の大量解雇に結びつくという理由で職人達の直接暴力による反抗を誘発する事が多かった。

  • 需要と供給の問題パンチカード・システム導入などによる生産規模拡大は、伝統的な需要と供給のバランスを破壊し大不況時代(1873年〜1896年)を到来させてしまう。しかしその過程で市場経済の担い手が王侯貴族や聖職者達からブルジョワ階層や一般庶民に拡大してコンシューマー市場の急拡大につながる。

  • 一方(鉱山や工場や流通のラインの一部から「万人の足」に発展した蒸気機関車や蒸気船などと異なり)そしてこうした過程すべてにおいてパンチカード・システムは証券取引所におけるティッカーテープTicker Tape)の利用同様、コンシューマーに直接恩恵を与える事はなかったのである。こうした不運はそれが国民投票国勢調査に不可欠となって以降も続く。

サイエンス・フィクション「ロボット」という言葉を発明したカレル・チャペック1920年の『R.U.R.』に出てくるロボットは自分で考えるが、金属製ではなく、原形質を化学的合成で似せて作った、人間とは異なる組成の肉体と人間そっくりの外見を持つものでバイオノイドである。ただ、工場で知能あるものが大量に作られるという意味では起源の一つとされる。それが科学の対象となる為には「工業製品」となる必要があり、それと同時に「人間への反乱」というテーマ性も盛り込まれる事に。
*社会進化論と優生学が発達した時代には「人種の混血による劣化」が重要なテーマとして議論の対象となった。ロボットにはそんな時代「人類と決っして混血しない新種族」として設定されたという側面も存在する。

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  • 機械仕掛けの人間が最初に描かれたのはライマン・フランク・ボームの「オズのオズマ姫(1907年)」に登場した「チクタク(Tik Tok)」だと言われている。
    *それ以前に「オズの魔法使い(1900年)」 に「ブリキの木こり」が登場しているが、こちらはもともと人間だったという設定である。

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  • 興味深い事に自動人形(単数形オートマトン(Automaton)、複数形オートマタ(Automata))の普及はドイツ・ロマン主義者ほどSF作家の想像力を刺激しなかった様に見える。その製造目的が「人間の模倣」なる非科学的なもので、製造するのも科学者でなく錬金術師や人形師だったせいかもしれない。フリッツ・ラング監督テア・フォン・ハルボウ脚本の「メトロポリス(Metropolis、1926年)」に登場する自動人形(C3POのモデルとなった事で有名)も作中では「Parody(人間の模造品)」と呼ばれる。物語文法的にも「(死霊やドッペルゲンガーの類と同様に)不気味の谷の境界線上を彷徨って人間を不安に陥れるギミック」として登場する事が多く固有の人格など備えていなかった。

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【データ・エンジニアリング】20世紀前半まで人間が想像し得た「データ処理」は「自動演奏機械のレパートリー拡大」にせよ「織物の模様管理」にせよ「国税調査の統計処理」にせよ「弾道計算(現場には砲弾の重さと火薬量と砲身の仰角が飛距離に如何なる影響を与えるか記した一覧表のみが配られる)」にせよ、所謂「バッチ処理」に留まっていた。

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①通信技術の発展により南北戦争後のニューヨークの証券会社でティッカーテープTicker Tape)の利用が始まる。

南北戦争後、ニューヨークの証券会社は業者間を走って回るメッセンジャーによって取引所の価格情報を得ていた。1867年になるとニューヨーク証券取引所が価格を電信網によって遠隔地に伝えるティッカーテープTicker Tape)を導入したが、初期の機械は動作が遅く「ニューヨーク・タイムズ」から「遅過ぎてメッセンジャー達の失笑を買っている」と揶揄されている。それでもこれが世界初の電子通信システムである事実は動かず「テクノロジーはウォール街から始まる」重要な先例となった。これをまだ若い技師だった頃のトーマス・エジソンがゴールド&ストック・テレグラフ・カンパニーの為に改良したマシン(1867年)は、1929年夏に(ストック・テレグラフ・カンパニーを買収した)ウェスタン・ユニオンとニューヨーク証券取引所が四百万ドルを投じてシステム更新するまで現役であり続けた(それから数ヶ月後の大暴落によって大恐慌が引き起こされる事になる)。そもそも性能に大きな差のある新旧マシンの交代自体に10年近くの歳月が費やされた。「旧機種のトレーダーを出し抜こうとする目論見を予防し、公平を保つ為に」全てのマシンの入れ替えが完了するまで新機種は旧機種と同じ速度での稼働が義務付けられていた。

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一方、機種変更完了を契機にウェスタンユニオンが月25ドルに据え置かれてきた使用料を十年ぶりに値上げすると発表して以降「情報を得る為のコスト」は加速度的に上がり始める。

②アメリカにおけるコンピューター利用史はタビュレーティングマシン(Tabulating machine、パンチカードシステム)を使った1890年における米国国勢調査のデータ処理にまで遡る。そして統計調査調査の自動化は優生学の概念をも飛躍的に進歩させる事になった。

*この次元におけるコンピューターの発展は社会学(Sociology)と二人三脚の関係にある。

http://iws2.collin.edu/lstern/RKM-TOON.jpg

  • 19世紀前半にはサン=シモン伯爵と袂を分かったオーギュスト・コントが「予見するために観察する。予知するために予見する(Voir pour prevoir, prevoir pour prevenir)」をモットーに実証哲学(Philosophie positive)を提唱し「これからの社会は科学者の観測・計画・予測の結果に従って運営されるべし」とした(科学者独裁構想)。これが社会学の嚆矢となるが、オーギュスト・コントが18世紀の統計学コンドルセから出発しながら「社会学において統計の果たす役割」を故意に軽視したのはむしろ退歩だったといえる。英国人スペンサーの「社会進化論(Social Dawinism)」経由でアメリカ大陸に伝わり、むしろこちらで栄えた。

    http://www.civillink.net/sozai/images/pics2563.gif

  • クリミア戦争(1953年〜1956年)を契機として軍隊や都市の運営に統計学が導入される。こうした動きが社会学の発展を促したが、それが「反乱の効果的抑制」といった側面も伴っていた為に反体制主義者が反感を募らせる。「社会学(Sociology)VS 社会主義(Socialism)」なる図式の嚆矢。フランスではサン=シモン主義を標榜する皇帝ナポレオン三世が急進的共和主義者に圧勝した王党派を押さえ込む形でこの図式が成立した。

  • 両者の対立は1871年に建国されたドイツ帝国を支えた「プロイセン宰相ビスマルクの鉄血主義とラッサールの国家福祉主義の両輪」、ベルンシュタインの修正主義などを経て一旦は解消に向かう。

    しかしそうして成立した社会民主主義(Social democracy)路線はロシア革命(1917年)の成功とソビエト連邦の建国以降、「社会ファシズム(Social facizm)」のレッテルを貼られていく事になる。そして両者の対立の漁夫の利をヒトラーが拾う事になった。

  • 社会主義者やマルクス主義者達は19世紀末頃より「産業革命と自由放任主義の放置は破滅への道。コンピューターなどを使い全ての生産と分配をコントロールする無限に賢い政府へ移行すべき」と言い出した。

ところで社会民主主義(Social democracy)に激しく反対したローザ・ルクセンブルグらが志向したのはある意味「神聖ローマ帝国」すなわち、その中央政権なき「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」に基づく分封状態の復活だった(ただし統治の主体はあくまでロシアにおけるソビエトと同義のレーテ(Räte、Rat)もしくは労兵評議会(Arbeiter- und Soldatenrat)とする)。スタンスとしては奴隷制と家父長制を存続させる為に中央政権の介入を断固拒絶するジェファーソン流民主主義(Jeffersonian democracy、1790年代〜1820年代)に極めて近い。そしてこうした傾向は1960年代後半に盛り上がったヒッピー運動にも確実に継承されていく。

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タビュレーティングマシン(Tabulating machine)…日本では「パンチカードシステム」の呼称で親しまれる。原理はオルゴールそのもの。紙や金属やセルロイド製の円盤やリボンの表面に穴を穿ったり突起を刻印したりして記憶媒体として利用する。
テープの歴史と技術革新

  • チャールズ・バベッジは機械式の自動計算機としては非常に大規模なものを設計し制作。1833年には数表作成用の階差機関の開発からより汎用的な解析機関へと興味を移したが、この時にジャカールのパンチカードをプログラムの表現に使った(ジャカード織機では、カードの穴は経糸の上げ下げを直接示すだけだが、これはコード化である)。1835年に記されたその解析機関についての記述によれば汎用のプログラム可能なコンピュータであり、入力にはパンチカード、動力源には蒸気機関を採用し、歯車や軸の位置で数値を表すものとされている。元々は対数表を高精度で作成することを目的としていたが、すぐにそれ以外の用途にも使える汎用プログラム可能コンピュータとして構想を発展させたが、機械製作を担当した職人との不和など様々な要因が重なって頓挫。プロジェクトへのイギリス政府の出資も中止となった。ちなみにこの頃、ジョージ・ゴードン・バイロンの娘エイダ・ラブレスがFederico Luigi, Conte Menabrea の著した "Sketch of the Analytical Engine" を英訳し、大量の注釈を付記している。これが世界初のプログラミングについての出版物とされる。またダブリン出身の会計士 Percy Ludgate はバベッジの業績を知らなかったが、独自にプログラム可能なコンピュータを設計し、1909年に出版した著作にそれを記している。
  • *階差機関の初期の限定的設計のものを再現する計画が1991年、サイエンス・ミュージアムで実施された。いくつかの瑣末な修正を施し、バベッジの設計通りに動くことが確認され、時代を遥かに先行していたバベッジの設計が正しかったことが証明された。部品製作にはコンピュータ制御の工作機械を使ったが、当時の職人のレベルに合わせて誤差を生じるようにしている。

  • 1880年代末、アメリカのハーマン・ホレリスは機械で読み取り可能な形で媒体にデータを記録する方法を発明。それまで、機械が読み取り可能な形で媒体に記録されるのは制御情報であって(ピアノロールやジャカード織機)、データではなかった。当初紙テープを試したが、最終的にパンチカードに到達。鉄道の車掌が切符に鋏を入れる様を見て思いついたという。パンチカードに穴を開けるキーパンチ機とそれを処理するタビュレーティングマシンを発明し、これが現代の情報処理発展の基盤となった。機械式カウンタとして、リレー(とソレノイド)を使っている。アメリカでの1890年の国勢調査に使われ、予定の数カ月前に集計を終え、予算も抑えることに貢献した。前回の国勢調査よりも数年短い期間で集計を終えている。このホレリスの創業した会社が後にIBMの中核となる。
    *Leslie Comrieのパンチカード技術に関する記事やウォーレス・ジョン・エッカートの著書 Punched Card Methods in Scientific Computation (1940) によれば、パンチカードシステムは微分方程式を解いたり、浮動小数点数の乗除算を行うことも 出来て第二次世界大戦中には暗号の統計処理にも使われた。またコロンビア大学の Thomas J. Watson Astronomical Computing Bureau(後のトーマス・J・ワトソン研究所)では、最先端のコンピューティングとしてパンチカードシステムを使った天文学の計算が行われていた。

  • IBMはパンチカード技術を発展させて一連の商用データ処理機器(パンチカードシステム)を開発。1950年ごろまでに産業界や政府で広く使われるようになっている。文書として一般人が手にするようになったカード(小切手や公共料金の明細など)には "Do not fold, spindle or mutilate"(折ったり穴を開けたり破いたりしないでください)という警告が印刷され、第二次世界大戦後の時代を表すキャッチフレーズとなった。
    *パンチカードは、初期のコンピュータでも入力メディアとして鑽孔テープとともに使われた。IBMなどパンチカードマシンのメーカーがコンピュータに乗り出してきて、コンピュータが設置された「計算センター」を設置。そこでは以下のような光景が見られた。ユーザーはプログラムをパンチカードの束の形で計算センターに提出する(プログラムの1行がパンチカード1枚に対応)。カードが読み取られて処理のキューに入れられ、順番がくるとコンパイルされて実行される。結果は提出者の何らかの識別と共にプリンターで印字され、計算センターのロビーなどに置かれる。多くの場合、その結果はコンパイルエラーや実行エラーの羅列であり、さらなるデバッグと再試行を必要とする。パンチカードは今でも使われており、その寸法(および80桁の容量)が様々な面で影響を及ぼしている。その寸法はホレリスのころのアメリカ合衆国の紙幣と同じで、紙幣を数える機械が流用できるためその寸法を採用した。

  • こうした展開が音声記録技術として独自発展を遂げてきたレコード技術や磁気テープ技術と合流を果たすのは世界初の商用コンピューターUNIVAC I (Universal Automatic Computer=万能自動計算機,1951年)が金属テープを使用したタビュレーティングシステムを付属入出力装置として搭載し、これへの対抗策として翌年IBM社がイメーション社(現在の3M社)の開発したModel726磁気テープユニット(1952年)を発表して以降となる。

  • パンチカードシステムが1分間に80文字の情報を記録した100枚のカードを処理するのが精一杯だったのに対し、磁気テープユニットは最初から1秒間に 7500 文字を処理出来た。50倍以上の高速化でありまさしく不可逆的なイノベーション(技術革新)だったのである。

  • ちなみに磁気テープの原型事態は19世紀末には既にアメリカやデンマークに出現していたが、これを録音用メディアとして実用化したのは第2次世界大戦中のナチスドイツ。ノイズの少ない音楽や演説のラジオ放送に興味津々だった連合国側は終戦によって初めてその技術の実態を知り、一挙に世界中で広まった。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0f/Ton_S.b,_tape_unit.jpg

米国的優生学と欧州的貴族主義の狭間…元来生物学上における適者生存原理は「強者のみが生き延びる」弱肉強食原理と必ずしも一致しないが(どんなに強くても食糧不足の時代に大食らいの恐竜は滅び「粗食」に耐える鼠大の小型哺乳類が生き延びるのが元来の自然会の摂理)「貧民の急増に既得権益を脅かされる特権階層意識」は決してそうは考えない。この問題は政権奪取の過程でこの問題を背負わされたナチスだけでなく、今日の移民問題にも深い影を落とし続けている。基本的に人種問題にまでは足を踏み入れなかったグラハム・ベルや、むしろ「ドイツ帝国への同情心から第一次世界対戦参戦に反対する非アメリカ人」の政治への影響力排除に専心したセオドア・ルーズベルトの様な「骨のある」米国的優生学支持者は案外少なかったのである。
1920年代の「狂乱のジャズエイジ」を描いた米国人作家F・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby,1925年)」でも太平洋戦争下のニューヨークを舞台とする米国人作家トルーマン・カポーティの手になる「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany’s,1958年)」でも米国的優生学支持者は「白人優位主義やナチスの人種政策を内心では支持している富裕層」として登場するのみである。

  • 「電話の発明者」グラハム・ベルにとって優生学とは「(自らも聴覚障害者を輩出する家系の一員からの)厳格な遺伝情報プロファイリングによる障害者再生産予防の提言」であり、かつ「弱視者にとっての眼鏡、聴覚障害者にとっての補聴器といった)障害補償技術の発展への渇望」を意味した。

  • 「共和党的進歩主義の権化」セオドア・ルーズベルト優生学とは「米国に愛国心を懐かぬマイノリティの米国政治からの排除への渇望」だけでなく「国家そのものが愛国心の対象であり続けるべく大企業間のトラスト防止や雇用問題への介入、および自然破壊の阻止などに資本主義原理を超越した立場から取り組むスタンス」を意味し、後者はウィルソン大統領やフランクリン・ルーズベルト大統領といった民主党リベラリスト達へも継承されていく。

  • その一方で欧州にはワラキア公ヴラド・ツェペシやフランス国王ルイ13世常備軍の規模拡大によって貧民を吸収しつつ「それでも救えない貧民は皆殺しにするのが手っ取り早い」という政策を実践し「ロマン主義の暗黒面」マルキド・サド侯爵がマルサス人口論に依ってフランス衰退の理由を(栄養たっぷりの馬鈴薯食普及に伴う餓死者や病死視野の激減に伴う)貧困家庭の急増に求め、その対策を「ジャコバン独裁政権やナポレオン皇帝が遂行した)国民皆兵制履行とその結果現出する圧倒的軍事力に頼っての国内外の政敵駆逐」でなく「疫病や毒の頒布による間引き」に求める事を夢想してきた闇の歴史が存在する。

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③1931年にはニューヨークワール紙が「スーパーコンピューティング」という言葉を初めて使っている。IBMコロンビア大学に納入した大型特製タビュレーティングマシンを指しての事で、その意味ではスーパーコンピューターの歴史はまさしく「演算能力ゼロ」の状態から始まったといえる。

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ロバート・A・ハインライン月は無慈悲な夜の女王(The Moon Is a Harsh Mistress 1965年〜1966年)」に登場する人工知能は、このIBMを繁栄に導いたワトソン社長とコナン・ドイルの「名探偵シャーロック・ホームズ」シリーズに登場するシャーロック・ホームズの助手ワトソンの重ね合わせからマイクロフト(Microft、英国政府に雇われたシャーロック・ホームズの兄)と命名される。時代こそ人類が月に移住して何世代も経た2070年代だが、そこに登場するコンピューターは幾つもの建物を占有する巨大装置で政府や民間記号が数台ずつ(概ね国家に数台あれば良い方)保有されているに過ぎない。月世界でも銀行で経理処理に使われていた1台を射出機制御用に徴用したら、銀行員は算盤を使った手計算に戻るしかなかった。

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IBM社( International Business Machines Corporation,1911年〜)…1914年から1956年にかけて率いたトーマス・ジョン・ワトソン・シニア(Thomas John Watson、 Sr.,1874年〜1956年)が最初の黄金期を現出させた。

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  • 社長に選ばれた前年の従業員数は1300人で売り上げは年間900万ドル。1924年IBMへと社名変更して1952年までに全米のタビュレーティングマシンの実に90%を所有し顧客にリースする様になっており、連邦政府から独占禁止法違反で訴えられた。1956年に死去した際の従業員数は72,500人、年間売り上げは8億9700万ドル。

  • エドウィン・ブラック(IBMOS/2販売方針をエンタープライズ向けに変更した結果、廃刊に追い込まれたコンシューマー向けパソコン雑誌『OS/2プロフェッショナル』『OS/2ウイーク』の編集発行人)はその著書「IBMホロコースト(2001年)」の中で「IBMのニューヨーク本社とCEOトーマス・J・ワトソンが海外子会社を通してナチス・ドイツにパンチカード機器を供給した事がホロコースト遂行を可能とした」という独自見解を述べている(ニューヨーク本社の協力下、IBMジュネーヴオフィスとドイツ内の子会社 Dehomag がナチスの残虐行為を積極的にサポート)。ブラックはそれらのマシンを使うことでナチスの行為が効率化されたとも述べている。この問題はドキュメンタリー 「The Corporation(2003年)」 でも掘り下げられ訴訟問題に発展したが、IBMは「それを裏付けるだけの当時の資料は現存しない」とし訴訟を退ける一方で、こうした一連の動きが提起した問題意識を真剣に受け止め「この件に関する適切な学問的評価を期待している」とコメントしている。

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「コンピュータは全世界で5台ぐらいしか売れないと思う」IBMのワトソンが1943年にそうと言ったとされる(「50台」と言い換えられる事も多い)。しかし証拠は不十分。Author Kevin Maneyは引用元を探そうとしたがワトソンのどのスピーチや文書からもその文章は見つけられなかったし、当時のIBMに関する記事などを見てもそのような言葉は出てこない。
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  • 一般に間違った予言の例として挙げられるが、ワトソンが1943年にこれを言ったとすれば、ゴードン・ベルACMの50周年式典の基調講演で述べたとおり、少なくともその後10年間については正しかったと言える。

  • IBM Archives Frequently Asked Questionsは、この件についての疑問(ワトソンは1950年代にこれを言ったのか)にこう答えている。そもそも当時社長となっていたトーマス・J・ワトソン・ジュニアが1953年4月28日の株主会議で、IBM 701 について述べた言葉が元で、しこも答えは最初からイエスでなくノーだったというのである。IBM 701 は「IBM初のコンピュータ製品で、科学技術計算用に設計されている」。彼はその会議で「IBMはそのようなマシンの開発計画を策定し、そのようなマシンを使う可能性のある20ほどの場所に説明に回った。なお、このマシンは月額12,000ドルから18,000ドルでレンタルされるものであって、右から左へ売買されるようなものではない。我々はこの巡回で5台の注文を予定していたが、結果として18台の注文を得た」と述べたという。なおワトソン・ジュニアは後に自伝に若干異なる話を載せており、確実な注文は11台、他に見込みがありそうな顧客は10箇所だったと記している。

  • この話は既に1973年には伝説として語られており、エコノミスト紙に「よく引用される世界中で5台のコンピュータで十分という予言をワトソンが決してしなかったことは明らか」という Maney の言を引用している。

  • インターネット上で初めてこの言葉の引用が見られるのは1986年のネットニュースでのことで、発信元はコンベックス・コンピュータであり、"'I think there is a world market for about five computers' —Remark attributed to Thomas J. Watson (Chairman of the Board of International Business Machines)、 1943" と記されていた。別の引用は1985年5月15日、San Diego Evening Tribune 紙の記者 Neil Morgan のコラム。さらに初期の引用として Christopher Cerf と Victor S. Navasky の1984年の著書 The Experts Speak もあるが、これは Morgan と Langford の著書 Facts and Fallacies からの引用とされている。そして1985年の時点で既にAnnals of the History of Computing 誌の編集者 Eric Weiss はこれらの引用をいずれも疑わしいと記している。

  • 1985年にはこの話がネットニュース (net.misc) でワトソンの名は出さずに話題になった。議論の発端は不明だが、ケンブリッジ大学数学教授 ダグラス・ハートリー の1951年ごろの次の言葉がよく似ているという話が出ている。「私は、微分解析機をイギリスで初めて作り、誰よりもその特殊なコンピュータの利用経験のあるダグラス・ハートリー教授に会いに行った。彼は個人的意見として、この国で必要な計算は当時1つはケンブリッジで、1つはテディントンで、1つはマンチェスターで製作中だった3つのコンピュータでまかなえるだろうと言った。彼はまた、誰もそのようなマシンを所有する必要はないし、そもそも購入するには高すぎる、とも言っていた。」。ハワード・エイケンも1952年に似たような言葉を残した。「あちこちの研究所に半ダースほどの大規模コンピュータがあれば、この国のあらゆる計算の要求に対応できるだろう」。

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【データ・エンジニアリング】米国科学技術管理者ヴァニーヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush、1890年〜1974年)が情報検索システム構想「メメックス(memex)」を提唱。

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  • 1917年、ハーバード大学マサチューセッツ工科大学から工学博士号を授与される。

  • 第一次世界大戦(1914年〜1918年)中、米国学術研究会議で働き、潜水艦を発見するための技術を開発。

  • 1919年、MITの電気工学科に移籍し1923年から1932年にかけて教授として在職。このとき、18変数の微分方程式が解ける微分解析機を開発。それ自体はアナログコンピュータだったが、その時の教え子クロード・シャノンが後にデジタル回路を生み出す。1932年から1938年にかけてはMIT副学長と工学部学部長を務めた。

  • 第二次世界大戦が始まった1939年にワシントン・カーネギー研究機構の総長職となる。この研究所は権威も評価も高く研究資金も潤沢で、ブッシュは政府の非公式科学顧問としてアメリカ国内の研究の方向性を左右する力を得た。さらにアメリカ航空諮問委員会の議長も務め、その力をもって研究内容の軍事展開を強烈に指導。

  • 1940年、自らその設立を強力に推進したアメリカ国防研究委員会(NDRC)の議長となる。第一次世界大戦の際に科学者と軍の協力関係がうまく機能しなかった事を反省しての措置だった。1940年6月12日に大統領と会談し、部局新設願いを提出したところ、ルーズベルトはそれを10分で許可したという。レーダー科学者アルフレッド・ルーミスは「1940年の夏に、あの男たちが死んでいたら、その後は大変な惨状が待っていただろう。その第一は大統領であり、二番目か三番目にDr.ブッシュが挙げられる」と述べている。NDRCは1941年にはブッシュが局長を務める科学研究開発局の一部となり、同局はマンハッタン計画を含む戦時中の科学研究の調整・制御役を任される事になった。

  • 1950年、戦時中に培われた軍産学の協力関係を維持するために米国科学財団(NSF)を設立し、軍需企業のレイセオン社の設立にも関与した。

  • その過度なまでの技術過信は、後世にヴァネヴァー(vannevar)なる不名誉な人名由来語まで残した。彼は核兵器ICBMのようなミサイルの弾頭に収まるほど小さくなることはあり得ないと断言したことがある。また「電子頭脳」のサイズに関して、エンパイアステートビルディングの大きさで冷却装置がナイアガラ滝ほどにもなると予言したこともあるが、これを比喩と捉えれば、たとえばGoogleの全部のLinuxサーバを集めればその程度のサイズになるかもしれない。

メメックス(memex)

情報検索システムとして、後に登場するパーソナルコンピュータやコンピュータのユーザーインターフェイス、Webブラウザなどで広く利用されているハイパーテキストの概念に大きな影響を与えた。

  • その着想の起源は1930年代まで遡る。マイクロフィルムを使用する想定の機器で、自らの蔵書と記録文書を全て内蔵して高速かつ柔軟な検索手段を提供し、通信機能まで備える予定だった。ブッシュが情報工学に疎かったせいもあって、当時の技術では容易に実用化出来るレベルではなかったし、そもそもブッシュは従来のシステムの現状を調査さえしていない。おそらく彼は1938年に Leonard Townsend が提案したマイクロフィルムベースのワークステーションについても、1931年に Emmanuel Goldberg が特許を取得したマイクロフィルムと電子工学を基にしたセレクターについても知らなかったと推測されている。彼は人文科学や社会科学を軽蔑しており、その考えを洗練させる助けをしてくれるかもしれない図書館員と話すこ事さえ忌避していた。

  • 1945年7月には Atlantic Monthly誌に「As We May Think」なる論文を発表。この論文の中でブッシュは「全く新しい形の百科事典が出てくるだろう。項目同士が網の目のように関連付けられていて、memex に入れることによってさらに威力を発揮するだろう」と予言している。数ヵ月後(1945年9月10日)、Life誌は「As We May Think」の要約版を掲載し、そこに memex の予想図も載せた。このバージョンが後にテッド・ネルソンやダグラス・エンゲルバートに読まれ、ハイパーテキストと呼ばれるアイデアを生み出させる触媒として働く事になる。

かくして「原子爆弾の父」は同時に「インターネットの父」となったのだった。ハイパーテキストの発想の延長線上に現れたHTMLの発明なしには、インターネットの普及もまた有り得なかったからである。

【データ・エンジニアリング】コンピューター技術のブレークスルーとなったのは1950年代前半における(データ記録媒体としての)磁気テープの登場で「(逐次記録内容が更新され続けるマスタ(元帳)データを共有する)リアルタイム処理」の登場を促す事になったのである。これによりコンピューター利用法は「(世界中に10台もいらない)巨大な関数電卓」から新しい次元に踏み入れていく事になる。

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①第二次大戦後のIBMは企業や政府の計算需要に目をつけ、コンピュータの開発と販売に乗り出す。1950年代にはアメリカ空軍の自動化防衛システムの為にコンピュータを開発する契約を結び、SAGE対空システム開発に関わる事でMITで行われていた重要な研究(第二次世界大戦下、爆撃機乗組員の訓練用フライトシミュレータの制御部として研究が始まったWhirlwindプロジェクト。当初はアナログコンピューターとして開発されていたが,1945年にチームの一員がENIACのデモンストレーションに触れて以降デジタル式コンピュータに移行)へとアクセス。それは世界初のリアルタイム指向のデジタルコンピュータで、CRT表示、磁気コアメモリ、ライトガン、最初の実用的代数コンピュータ言語、デジタル・アナログ変換技術、電話回線でのデジタルデータ転送などの最新技術が含まれていた。IBMは56台のSAGE用コンピュータを製造し(1台3000万ドル)、最盛期には7,000人が従事していた(当時の全従業員の20%。プロジェクト関係者 Robert P. Crago は「プロジェクトがいつか完了したとき,2000人のプログラマIBM内で次に何をさせればいいか想像も出来なかった」と述べている)。直接的な利益よりも長期にわたるプロジェクトによる安定に意味があったが先端技術へのアクセスは軍によって制限されていた(ソフトウェア開発はランド研究所が独占的に担当)。それでもIBMはこの経験を生かし航空予約システムSABREを完成させている。

https://dome.mit.edu/bitstream/id/303497/?sequence=-1

「SAGE(Semi Automatic Ground Environment、半自動式防空管制組織,1958年〜1984年)」 …当時の米国防空体制は爆撃機が侵入してきたのを検知してから迎撃機を離陸させ、人力で迎撃地点を手動計算、それから無線で誘導を行っていた。しかしジェット機と核爆弾が実用化されると「ただでさえ検地の難しい低空からジェット爆撃機で進入されるとわずか数分で対応せねばならず、しかも対応失敗が核攻撃成功に直結する」という恐ろしい事態となる。またすべてのレーダー施設から検知の報告が殺到するとそれを捌くオペレーターが大量の報告で過負荷状態に陥るという問題も急浮上してきた。

  • これらの問題を解決するには全自動化しかなく、そのためにも全レーダー施設から検知を1つのコンピューターに集中させて処理、オペレーターは迎撃目標と迎撃方法をコンピューターに指示してすべての通信を高速化、リアルタイムに迎撃するシステムが必要になった訳である。実際に構築されたのは複数の大型コンピュータを使用してレーダー施設からのメッセージを集め要撃機に送るシステムで、世界各地のテレタイプ端末から集められた情報が戦闘機の基地のテレタイプ端末に送られる最初のオンラインシステムのひとつ。インターネットがまだ無かった頃に米国本土をすべてカバーするためにあちこちのレーダー施設とネットワーク接続べく世界で初めてモデムを搭載しネットワーク接続されたコンピューターになった。また初めてCRTモニターが搭載されたと同時にライトガンと呼ばれるライトペンでモニター上の標的をタッチすることによって情報を得たり攻撃の指示を与えられる仕様が採用され世界初のタッチスクリーンインターフェースの実用例ともなったのである。さらに世界で初めて磁気コアメモリーを使用し150人までのリアルタイム使用を可能とした。

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  •  システムは全部で27基のコンピューターによって構成され、各コンピューターは6万本の真空管・17万5000個のダイオード・1万2000個の最新式トランジスターを使っており、毎日数百本の真空管が交換されていた。真空管は実際には1時間に1本ずつしか故障しないものの診断プログラムによって危なそうな真空管を予防的措置として交換。各センターには真空管交換専門のスタッフがいて、交換部品を満載したショッピングカートを押してマシンの中を行ったり来たりしていた。しかもシステム全体が二重化されており、予備のシステムが常に電源が入って稼働しているホットスタンバイ状態であった為にシステムがダウンするのは年間わずか2時間か3時間程度だったという。

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  • 計画全体で80億ドル(約7545億円)から120億ドル(1兆1317億円)を使用。核爆弾を開発したマンハッタン計画を上回るコストで、底面積そのものは地球シミュレータに負けるが、単一プロセッサーのシステムとしては史上最大、今後も破られることはないと予想されている。

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「Sabre(SABRE、Semi-Automatic Business Research Environment,1960年〜)」システム…航空・鉄道・ホテルなどで使用されているコンピュータ予約システム(CRS)。2012年現在、Sabre Holdings の所有する Sabre Global Distribution System (GDS) として運営され65,000の旅行業者,400以上の航空会社,125,000以上のホテル、27のレンタカー業者、17のクルーズ会社、50以上の鉄道事業者などが利用している。

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  • 1950年代に深刻な問題に直面していたアメリカン航空(AA)のために開発された。当時のフライト予約システムは完全にマニュアル(手動)であり,1920年代に建設された米国アーカンソー州リトルロックにある予約センターが定めたものであったが、そのシステムはフライト毎のカード・ファイルを使ったもので、8人でソートしたカードが格納されている。ある座席が予約されると対応するカードに印が付けられ、その席が予約済みかどうかが示される。ここまでの処理は便数が今ほど多くないのでそれほど問題にはならない。ひとつのフライト予約が最終的に実施されるまでを見てみると、チケットを作成するには予約があってから最長三時間、平均でも90分かかっており限界に差し掛かっていたのである。ひとつのファイルに関われるオペレータは8人が限界であり、さらなる予約注文や問い合わせに対応するには階層構造を持たせて折り返し回答するようなシステムにせざるを得ない状況だった。

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  • アメリカン航空はいくつかの解決法を試しており、カード・ファイルを置き換える Magnetronic Reservisor という新たなマシンが 1952 年に試験導入された。これは、磁気ドラムメモリを持っていて、その中に各フライトの残り座席数を記録するものである。これを使うと同時に多数のオペレータが残り座席数を見ることができるため、旅行会社からの問い合わせにすぐに応えることができたが実際のチケットの発券などは依然として手作業であり、そのためにしばしば機械と手作業の食い違いによるミスが発生した。一説には予約12件に1件の割合でトラブルが発生したという。アメリカン航空はもっと根本的な自動化システムを必要としていた。

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  • 1953年にはIBMのセールスマンであるブレア・スミスがアメリカン航空の便に乗ってロスアンゼルスからニューヨークの本社に戻り途中でたまたまアメリカン航空の社長C・R・スミス(英語版)の臨席となり、同姓であることから話がはずんで互いの仕事について語り合った。当時のIBMはアメリカ空軍のSAGEプロジェクトに参加しており、その考え方がかなりの部分でアメリカン航空の予約システムに当てはまると2人は気づいた。テレタイプ端末を発券オフィスに置き、予約や問い合わせの要求をセンターに送り、途中で人手を介することなく応答を返すのである。各フライトの残り座席数は自動的に更新され、座席があれば旅行業者に即座に知らせることが出来る。実際に予約するには再度要求を送り、データを更新すると共にチケットをプリントアウトすれば良い。わずか30日後、IBMアメリカン航空に調査報告書を送った。それはIBMが真剣に問題を考えたことを示すもので「電子頭脳」を使えば問題を解決する助けになることが示唆されていた。彼らはIBMの技術者とアメリカン航空の予約業務や発券業務に関わっている多くの人々を集めて、共同チームによるプロジェクトを開始。まず短期的対策としてIBMのパンチカードシステムを改良型 Reservisorと組合わせ予約業務の半自動化に着手した。

    http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/images/icp/T482097A41782S76/us__en_us__ibm100__sage__sabre_reservation_1960__620x350.jpg

  • 正式な開発契約は1957年に締結された。最初のシステムは2台の IBM 7090 メインフレームを使ったものでプログラム開発費は4千万ドルだったと言われている(2000年の価値に換算すると3億5千万ドル)。1960年に親しみやすい SABRE と名づけられ(キャンベル=ケリーによれば、ビュイックの1960年型 LeSabre の広告から思いついた名称で、後付けで "Semi-Automatic Business Research Environment" の頭字語とされたという)ニューヨーク州ブライアークリフ・メナーに設置されて大成功を収め1964年までに全ての予約関連業務がこのシステムに集約された。当時のSABREシステムは1日あたり83,000本の電話を受けつけ、黙々と大量のトランザクションを処理し続けたという。1972年にはオクラホマ州タルサに設置された System/360 上に移植され,1976年以降はアメリカン航空だけでなく旅行業者も使える様になった。IBMはこの経験を他の航空会社にも売り込んでデルタ航空の Deltamatic(IBM 7074)やパンアメリカン航空の Panamac(IBM 7080)を構築し,1968年にはそれらの機能をPARS (Programmed Airline Reservation System) システムに統合。これはSystem/360のどのマシンでも動作したので、いかなる規模の航空会社でも導入出来る様になり、やがてACP (Airline Control System)、TPF (Transaction Processing Facility) へと発展した。このソフトウェアは当初アセンブリ言語で書かれていたが、後にPL/Iの方言である SabreTalk で書き直され、現在 (TPF) はC言語で書かれている。

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②同時期IBMは米国政府の宇宙飛行計画への関与にも注力。コンピューターの活用はもはや宇宙船設計においても必要不可欠なものとなり、宇宙センターの建設、飛行計画のためのプログラミングなどにIBMのコンピューターとスタッフ達がその力を発揮したのである。

③1950年代末からIBMの製品は世界各国へと拡がり始める。
*1953年3月時点では地球上に存在した高速ランダムアクセス・メモリは合計五三キロバイトに過ぎなかった。1950年代後半にIBMが市場規模を急拡大させる。その流れを主導したのは500万6bit(3.75MB)もの「大容量」で世界を驚愕させたロッカーほどの大きさのHDDドライブユニットのJBMによる大量出荷だった。そのIBMは「ディスケット(diskette)」すなわちFDD(Floppy Disk Drive)ユニットの発明者としても歴史にその名を残している。

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  • 西ベルリンの工場で1,000台ものIBM分類機が生産され、フランスのエソンヌ工場、ドイツのジンデルフィンゲン工場ではそれぞれ、IBM705とRAMAC305が初出荷された。

  • ヨーロッパだけではなく中南米、東京、シドニーなどにも工場や研究所が作られ、アメリカ以外の87カ国で2万9000人以上の社員が誕生。

  • 各国の戦後経済の復興とともに勢いを増したIBMの躍進は「System/360」の発表によってさらに加速していく。1966年には世界で2万5000人もの社員を雇用して生産をスピードアップさせ、かつ、大規模な製造工場を建設。その工場の規模はアメリカとヨーロッパを合わせて、総面積300万平方フィートにも及んだ。

  • 数百名のプログラマーが300万以上の指示書を書いて、ソフトウェアを作り続けた結果、月に1000システム以上を生産する体制が出来上がる。

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サイエンス・フィクション科学技術の発展がSF作家の想像力に追いついてきた時代。逆に「安住の地」に踏み込まれたSFオタクは混乱の坩堝に叩き込まれる。

「60年代SF」

1960年代とは、そもそもどういう時代だったのだろうか。

昭和30年代後半から昭和40年代前半。まず第一にそれは〈高度成長〉の時代であり、社会的な変動の時代だった。60年安保から70年安保へと〈学生運動〉が高揚し、新幹線が走り、日本の沿岸に巨大なコンビナートが生まれ、テレビが急速に普及し、通信衛星が世界を結び始めた時代。科学がその〃悪用〃を恐れられつつも基本的には未来を開く善玉であり、核の恐怖が重く基調音を奏でながらも、未来は希望にあふれ、理想が語られた時代。それは『鉄腕アトム』の時代でもあった。
*しかしその「鉄腕アトム」も「精霊流し(1960年)」の回で初めて機動隊と衝突するデモ隊を登場させる。さらにソ連ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させ、地球周回軌道を回って帰還したユーリ・ガガーリン少佐が「地球は青かった」という名言を残した1961年には宇宙戦士に改造される犬の悲哀を「ホットドッグ兵団」で描き、1965年の「青騎士」では遂にロボットの人間に対する反逆が描かれるのである。「決して間違いを犯さない人工頭脳」を備えている筈の鉄腕アトムが「人類は一刻も早く全員滅ぶべき」とか言い出す。

世界全体を見ても、それは未来への変動の時代だった。東西の冷戦はしばしば核戦争の危機を呼びつつ世界の枠組みを固定していたが、ベトナム戦争の泥沼化は若者たちの反戦運動を引き起こした。ロックのリズムが、電波にのって、世界共通の同時代の若者意識といったものを作り上げて入った。キューバ危機からベトナム戦争の時代。ケネディからニクソンの時代。公民権運動からベトナム反戦運動文化大革命の時代。フラワー・チルドレンとヒッピーとドラッグと〈性と文化の革命〉の時代。ビートルズローリング・ストーンズ、そしてレッド・ツェッペリン他のハード・ロックボブ・ディランサイモン&ガーファンクル、サイケ、アングラ、おっと、このリストはきりがない。それは〈ロックと若者革命〉の時代でもあった。

そしてもちろん、60年代は〈科学技術の時代〉であり、〈宇宙開発の時代〉でもあった。マイクロチップによるコンピュータ革命はもう少し先だが、コンピュータは大学や企業に浸透し(それでも70年の統計で、日本全国のコンピュータ設置台数は一万台なかったんですよ)、トランジスタやICがあらゆる電化製品を小型化し、テレビが家庭に入り、通信衛星が世界を実時間でつないだ。ガガーリンが地球を回り、ケネディ大統領は「60年代の終わりまでに月へ人間を送る」と宣言し、そしてあれよあれよという間に、われわれは月や火星の近接写真を新聞で眺め、そして月面上の宇宙飛行士からのテレビ中継を茶の間で見るということになったのだ。ぼくら、当時の子供たちにとって、「明日はSF」の時代だった。SFに描かれる未来はもうすぐそこに見えていた。

こういったことからいえるのは、外の世界がSFと相互作用を始めた時代だということである。「核による人類滅亡への警告」「科学技術の発達と未来の人類、そして文明のあり方」「変化する社会、文化に対応できる、新しいものの見方」こういったものが〈宇宙時代の文学〉〈文明批評の文学〉としてのSFに求められるようになったのである。また正統的、伝統的な文学に対するカウンターカルチャーサブカルチャーとしてのSFのあり方にも、むしろ好意的な目が向けられるようになった。もちろん、宇宙に夢中の子供たちにとっては、SFがすべてだった。SFが世界のすべてを包含する必要があった。なぜなら「明日はSF」なのだから。

しかし、ジャンルSFはこういった外からの期待をストレートに受け止めることはできなかった。外と内の出会いはジャンルの中に大きな渦を引き起こし、とまどいと停滞、そして一部での激流を生じた。60年代のSFは、こうした不安定な、外の世界との相互作用によって特徴づけられる。

それまでのSFは、いかにすぐれた作品が書かれていようと、その評価はあくまで狭いSFのジャンル内にとどまっていた。ハインラインブラッドベリの作品が〃スリック雑誌〃に載ったといって高級扱いされた時代である。ブームがあったといっても、まだまだマイナーな存在にすぎなかった。ところが、60年代には外の世界がSFを(ジャンル内の評価とはまた別の基準から)求めるようになり、ハインラインの『異星の客』(1961、創元推理文庫)がカウンターカルチャーの観点から爆発的ベストセラーとなるような事態も生じたのである。アーサー・C・クラークとスタンリー・キュブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1968)の成功も、このような内と外との幸運な出会いとしてとらえることができよう。しかし、こういった相互作用を受け止めるためには、60年代のジャンルSFはまず停滞と混乱を経験しなければならなかったのである。

〈十億年の宴〉とも称される〈黄金時代〉の後、60年代初めのSF界は停滞期をむかえていた。すぐれた作家や作品が現れなかったわけではない(だが、その多くは後の再評価という形で振り返って見られるのだ――例えば、フィリップ・K・ディックのように)。けれども、ジャンルは自己満足な宴の後の無気力感に包まれていた。この雰囲気を打ち破ったのが、60年代半ばに起こった、〃新しい波〃〈ニューウェーブ〉運動である。それはイギリスに始まり、アメリカへ移り、若い作家たちやファンたちの間で熱狂と論争を巻き起こし、古いファンたちの反発をかったのである。運動としての〈ニューウェーブ〉は64年、マイクル・ムアコックがイギリスのSF雑誌「ニュー・ワールズ」の編集者となった時をスタートと考えるのが妥当だろう。彼の「ニュー・ワールズ」には、J・G・バラードやブライアン・オールディスといった一流作家の実験的な作品や、もっと無名な作家たちの意欲的な(そしてしばしば自意識過剰の)作品が掲載された。そこには若きトーマス・M・ディッシュ、チャールズ・プラット、ラングドンジョーンズ、ジョン・スラデック、パミラ・ゾリーンといった気鋭の作家たちがいた。この運動をアメリカへ伝え、広げたのは作家で編集者のジュディス・メリルだった。彼女は自分の編集する『年刊SF傑作選』やF&SF誌の書評などでこの運動を喧伝し、反発とともに多くの支持者をかち得た。ノーマン・スピンラッド、サミュエル・R・ディレイニーハーラン・エリスンロジャー・ゼラズニイなどの作家も、自分たちの作品に〈ニューウェーブ〉のレッテルが張られるのを容認し、あるいは積極的にそれを支持した。この運動によって再評価された作家や、スタイルを変えて売りだした作家もいた。ロバート・シルヴァーバーグなどが後者の代表だろう。ここにきて運動としての〈ニューウェーブ〉は容認されたジャンルの一分野となり、70年代に入ると存在意義を失って自然消滅していった。

異星の客』や『2001年宇宙の旅』の評価を外からの視点と見るとき、60年代のSF界を揺らした〈ニューウェーブ〉運動は、こうした内と外の相互作用によって引き起こされたジャンル内部の乱流として位置づけることができる。運動の中から生まれた作品自体には(バラードなどいくつかの例外を除き)さほど見るべきものはないのだが、それはジャンルの内部の意識を変革させ、ゆらぎを起こし、ジャンルのポテンシャルを高めた点で、大きな意味があったといえる。アシモフがいった「〃新しい波〃が去った後には、SFの固い大地が現われる」という予言はある意味で当たったが、そのSFの大地には新しい地層が残ったのである。それはテーマの自由度だったり、文体の洗練だったりするが、何よりもSFの大地には外洋からの大波が絶えず打ち寄せるという認識、そしてそれをSFの大地が受け止め、新たな地層を残すことができるということの理解、それが60年代のニューウェーブが残した大きな意義だといえるだろう。

【データ・エンジニアリング】第一次AIブーム(1956年〜1969年)

人工知能の歴史

人工知能(AI=Artificial Intelligence)」という言葉は1956年、アメリカで開催されたダートマス会議においてJ.McCarthyが初めて使った(A.Newell,J.C.Shaw,H.Simonによって,最初のAIプログラム“Logic Theorist”をデモ)。この会議で「人間の知能」をコンピュータ上で再現することが、高々と宣言され、それを真に受けた企業や政府が、大学や研究機関に多額の研究資金をつぎ込む様になる。気をよくした研究者たちは、実現性も実用性も吟味せず、アイデアを次々と形にしていった。

  • 1957 A.Newell,J.C.Shaw,H.SimonがGeneral Problem Solver(GPS)を制作.
  • 1957 J.Backusが最初の高級言語FORTRANを開発.
  • 1952-62 A.Samuelがチェッカーというゲームを行うプログラムを作成し,世界チャンピオンに挑戦するにまでになりました.
  • 1958 J.McCarthyがLISP言語を開発.
  • 1958 J.McCarthyがAdvice Takerを作成.動作中でも新たな公理を受け入れることができるため,新しい問題に対しても再プログラムが不要な,初めての本格的AIシステム.
  • 1958 Friedbergが機械進化(現在の遺伝的アルゴリズム)の実験を行う.
  • 1959 H.GelernterとN.Rochesterが幾何的な定理証明を行うプログラムを作成.
  • 1950末-1960初 M.Mastermanらが機械翻訳に意味ネットワークを用いた.
  • 1960 B.WidrowがHebbのニューラルネットの学習則を拡張.
  • 1961 J.Slagleが最初のsymbol integrationを行うプログラムSAINTを作成.
  • 1962 最初の工業ロボット企業Unimation創設.
  • 1962 F.RosenblattがB.Widrowのニューラルネットパーセプトロンと呼び,その集束定理を示した.
  • 1963 T.EvansがIQテストで行われるのと同様の幾何類比問題を扱うプログラムANALOGYを作成.
  • 1963 I.Sutherlandが対話的なグラフィックの利用をコンピュータに導入したスケッチパットの論文を発表.
  • 1963 E.A.FeigenbaumとJ.Feldmanが最初の人工知能全般についての本“Computers and Thought”を出版.
  • 1964 D.Bobrowが,代数の文章題を解くのに十分な自然言語の理解がコンピュータに可能なことを示した.
  • 1964 B.RaphaelがQ&Aシステムでの知識の論理表現の能力を示したSIRプログラムを発表.
  • 1965 J.A.Robinsonが機械的な証明手続きResolution Methodを発明.形式論理によってプログラムが効率よく実行できるようになる.
  • 1965 J.WeizenbaumがELIZAを開発.英語でいろいろな話題について会話ができるプログラムで,精神科医をまねたバージョンはネットワーク上で人気を集めた.
  • 1965 L.A.Zadehがファジー集合を提唱.
  • 1966 R.Quillianが意味ネットワークのデモを行った.
  • 1966 最初のMachine Intelligenceワークショップの開催.
  • 1966 機械翻訳に対する否定的なピアス勧告がでた.機械翻訳研究に対する財政支援がうち切られ,研究が停滞.
  • 1967 E.Feigenbaum,J.Lederberg,B.Buchanan,G.SutherlandのDENDRALは,生体の化合物の質量スペクトルを解析した.科学解析において成功した最初の知識ベースのプログラム.
  • 1967年、ウルリック・ナイサー(Ulric Neisser 1928年〜2012年)が「認知心理学(Cognitive Psychology)」という題名の本を出版。観察や実証が可能な事しか研究出来ない制約に苦しんでいた行動主義(behaviorism)心理学の関心が人工知能研究に向けられる契機となる。
  • 1967 J.MosesのMacymaは数学において成功した最初の知識ベースのプログラム.
  • 1967 R.Greenblattは知識ベースのチェスプログラムMacHackを制作.クラスCのトーナメントで対戦できた.
  • 1967 S.Amariによるニューラルネットバックプロパゲーションによる学習手法.
  • 1968 M.MinskyとS.PapertがPerceptronsを出版し単層ニューラルネットであるパーセプトロンの限界を指摘.
  • 1968 B.RaphaelのSemantic Information Retrieval(SIR)システム.かなり,制限の強い部分英語による入力を理解できた.
  • 1968 D.C.EngelbartがoN Line System(NLS)のデモを行う.マウスやビットマップディスプレイなど現在のインターフェースの基本的な要素が含まれていました.
  • 1968 N.WirthがPascal言語を開発.
  • 1968 A.C.Clarkeの小説「2001年宇宙の旅」がS.Kubrickによって映画化されました.人工知能を搭載したコンピュータHAL9000が登場します.
  • 1969 軍事用ネットワークのARPA-net稼働
  • 1969 SRIrobotが移動能力,パーセプトロン,問題解決を統合したデモを行う.
  • 1969 R.Shankは自然言語理解での概念依存モデルを定義.R.WilenskyとW.Lehnertは話の理解に,J.Kolodnerは記憶の理解に利用.
  • 1969 第1回International Joint Conference on Artificial Intelligence (IJCAI)開催

しかし1969年には最大の難問「フレーム問題(探索何度が上がると組み合わせ爆発に直面)」がJ.McCarthyとP.J.Hayesによって指摘され、企業も政府も研究資金を引き揚げてしまう。.

人工知能史

AIの開発手法はその初期から今日に至るまで2つの対立したアプローチがとられている。トップ・ダウン型とボトム・アップ型だ。

  • トップ・ダウン型はマーヴィン・ミンスキーを筆頭に、 脳の生理学構造をひとまず無視して、シンボルやルールで人工知能を作り上げようとするもの。

  • ボトム・アップ型はフランク・ローゼンブラットを筆頭に、神経構造を重視するもの。

これら2派は1960年代まで競い合ったが、神経構造モデルのパーセプトロンの限界が示されボトムアップ型は下火となる。この辺の解説は、ハワード・ガードナー「認知革命」やパラメ・マコーダック「コンピューターは考える」がおもしろい。

それ以降1970年まではトップダウン方式全盛の時代だったが、「背景知識」や「フレーム問題」など根本的な問題を解決することはできなかった。

サイエンス・フィクション1950年代からメインフレーム群の普及が始まると「フランケンシュタイン問題との訣別をはかるべくロボット三原則を樹立したアイザック・アシモフ(ロシア系ユダヤ人として生まれ。ニューヨークで育った)の「我はロボット(I, Robot 1950年)」を嚆矢としてサイエンス・フィクションの世界でも次第にコンピューターが重要な役割を果たす様になっていった。

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  • アシモフの画期は人間の脳に当たる部分を陽電子頭脳(Positronic Brain)なる呼称で完全ブラックボックス化した点にあった。ある意味「CPU(Central Processing Unit=中央処理装置)」とか「人間の脳は量子コンピュータQuantum Computer)」といった概念の嚆矢。ちなみに人工知能 (artificial intelligence) という用語はジョン・マッカーシーが1956年に考案し一般化した。

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  • 月は無慈悲な夜の女王(The Moon Is a Harsh Mistress 1965年〜1966年)」に登場する人工知能マイクロフトは300万人を超える月世界住人全ての電話を盗聴し、電子投票システムの投票結果を好きな用に操作し、宇宙航行に必要な計算を全て担当する一方で未来を予測する統計計算を繰り返し行う。これが1950年代から1960年代にかけてのアメリカのSF作品に登場する「誤った管理社会を現出させる可能性を秘めた」スーパー・コンピューターの一般的イメージであった。アシモフも「コンピューター自身に殺人を行えない様にプログラミングする事自体は可能だが、統計によって社会の、経理処理によって経済の実状を掌握する立場から、特定集団の生存率を恋に高めたり低めたり、あるいは人間同士殺し合わせる事で目的を達成する様な間引き行為に着手するかもしれない」というビジョンを提示している。
    *1970年代の作品だが「ソイレントグリーン((Soylent Green、1973年)」や「2300年未来への旅(LOGAN'S RUN、1976年)」も当時のカウンター・カルチャーSFの雰囲気を漂わせている。政治運動が挫折してからが文化運動の本番?
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    最低映画館〜2300年未来への旅

  • ちなみに第一次怪獣ブーム(1960年代後半)の頃のオペレータールームはこんな感じ。「怪獣総進撃Destroy All Monsters、1968年)」より。そもそも「コンピューターに処理を任せる」という概念自体がまだ存在していなかった?
    *既に手塚治虫鉄腕アトム(1951年〜1968年)」や横山光輝鉄人28号(1956年〜1966年)」「ジャイアント・ロボ(1967年〜1968年)」といった「人工知能で動く人型ロボット」の概念はすっかり定着していたにも関わらず。

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  • 一方、石ノ森章太郎仮面ライダー(1971年〜1973年)」に登場する悪の組織ショッカーの最終目標はコンピューター(電子頭脳)による国民の背番号管理システムを乗っ取り、テレビを洗脳装置として全国民を奴隷化する事だった。

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  • 横山光輝バビル2世(1971年〜1973年)」に登場する(バビルの塔を制御する)メインコンピューターも、同じ横山光輝作品の「セカンドマン(1974年〜1975年)」に登場する未来のコンピューター」も、手塚治虫ブラックジャック」の一挿話「U-18は知っていた(1976年)」に登場する「ブレイン(900人の患者の治療を一斉に行う自動医療装置)」も竹宮恵子「地球へ(1977年〜1980年)」のマザー・コンピューターもこんな感じ。それが1960年代末に米国大学のコンピューター間を結ぶARPANETが稼働を開始しインターネットの形成が始まった時代、まだtelnetや電子メールやFTPやニュースフィードといったネットサービスの存在すら知らずにいた70年代日本人の想像力の限界だったという訳である。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-22-56/goo_goo43/folder/1706879/88/66538788/img_0

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-7b-b8/samusongo/folder/1525055/33/29737733/img_2?1244853459

    http://www.geocities.co.jp/ruke_n0/reading/blackjack/005_2_01.gif

    https://www.evernote.com/shard/s45/res/a0c95527-5e0c-47cc-9386-3a55f891c8af

  • 松本零士の「キャプテン・ハーロックSpace Pirate Captain Herlock、1977年〜1979年)」「銀河鉄道999(Galaxy Express 999、1977年〜1981年)」に登場する「人工頭脳」もこの系譜。そういえば松本零士のトレードマークたる「計器だらけのコンソール」は極めて1950年代っぽい。ただそれはもはや「絶対悪たる体制側の中枢」ではなかった。

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  • リドリー・スコット監督の 「エイリアン (Alien、1979年)」もこんな感じ。

    Sci-fi Gifs : Alien (1979) directed by Ridley Scott

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  • ちなみに「機動戦士ガンダム(1979年)」のコントロール・ルーム。「DOSゲームっぽい」?

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    Maximum Thrill — Zeon’s ultimate space gun bridge looks like a DOS...

  • そして以降は「(1950代までは身近に存在していた)暗い森に日本人が自然に懐く畏敬の念」の様な概念と混じり合いながら宮崎駿風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」に登場する「(王蟲巨神兵、シュワの墓所といった)人間に神へと祭り上げられた被造物」の様な存在へも投影されていく。ある意味それは壮麗かつ威圧的な教会美術が「森の神域を模倣した石造物」という側面を備えたゴシック建築精神の継承であった。ありとあらゆる知識を統合し尽くす事によって、未知の領域が引き起こすパラダイム・シフトを食い止め様としたフランス啓蒙主義の起源が(ゴシック建築精神の延長線上に現れた)バロック建築精神の継承であった様に。
    *人によってはここに教皇至上主義(Ultramontanism)やスターリン主義(Stalinism)や毛沢東主義(Maoism)の原風景を見る。スタニスワフ・レムSF小説ソラリスの陽のもとに(Solaris,1961年、映画化1972年、2002年)」ではそれが欧州資本主義社会ではとっくの昔に御役御免となった「神人同形論(Anthropomorphism/アントロポモルフィズム)」と結びつけられ「いつの間にかそんな歴史上の遺物が共産主義イデオロギーの主体となってしまった」と批判し、その対極的存在、すなわち「人間の思惑が一切届かない神秘的存在」として惑星ソラリスを設定した。その発想自体はストルガツキー兄弟の「丘の上のピクニック/願望機(1977年)」における「異星人の足跡が発生させた神域」という設定と重なる。そしてアーシュラ・K・ル=グウィンゲド戦記(Earthsea、1968年〜2001年)」における「太古よりの残留思念」を出発地点としてJ.P.ホーガン「造物主の掟(Code of the Lifemaker、1983年)」「造物主の選択(The Immortality Option、1995年)」やオースン・スコット・カード「死者の代弁者(Speaker for the Dead、1986年)」や宮崎駿監督「もののけ姫(Princess of Mononoke、1997年)」やジェームズ・キャメロン監督映画「アバターAvatar、2009年)」を経て「コンピューターとしての森林」という概念につながっていく。「(人間の手が決して届かない)本物の神に帰依したいという衝動」と「神殺しの機会を狙う復讐心」のアンビヴァレントな共存がこのジャンルの特徴。
  • http://www.maniado.jp/usrimg/194_3976d8d8387c3d0da74bf8f00b42724a

    http://www.maniado.jp/usrimg/194_ec6ed281ba7d3d0bcc28ce2d69ff8f9f

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    http://media.dunyabulteni.net/haber/2013/12/26/mao-cin.jpghttp://2.p.mpcdn.net/23585/409712/16.jpg

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  • 新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」に登場するスーパー・コンピューターMAGIもこうした系譜の末裔の一つ。「カスパー(Casper)、バルタザール(Barthasar)、メルキオール(Merchior)の三独立ユニットから構成される」なんてハッタリの効いた設定も実にそれっぽい。

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サイエンス・フィクションところで「月は無慈悲な夜の女王」に登場する人工知能マイクロフトが宿った「2070年代のコンピューター」にはコンソール画面の様なモニターやキーボード経由での経由のマン・マシンインターフェイスが一切備わっていない。受付けるのは原則として「(1954年にIBMのジョン・バッカスが考案したFortranめいた)英語ベースの厳密な数理処理に特化した特殊言語を用いた「会話(キーボードで入力しプリンタで回答を得る)」のみ。ただし人工知能マイクロフトだけは電子化されたあらゆる言語情報にアクセス可能であり、それを駆使して音声を用いた日常会話が可能という設定になっている(ただしあらゆる音声を合成し、立体音響マイクロフィニック技術によって受話器の向こう側の状況を壮絶な制度で把握可能。前者ですらVOCALOID発売が2004年で現在なお完全な自然発声には到ってない事を思えば超技術の部類。後者に到っては呼吸音や心臓の鼓動を診療データベースに照会して人物まで特定)。その一方でマイクロフトは「ディンカム・シンカム(公平な本物の思索家)」と呼ばれるが、それは肉体を一切持ち合わせず「言葉だけで構成された存在」だからという。まさしく現代に蘇ったゴーレム(Golem)という次第。
*男性の前では男性人格「マイク」、女性の前では女性人格「ミシェール」として振る舞う両性具有的存在として振る舞うという意味でまさにギルガメッシュ叙事詩に登場する最古のゴーレム「エンキドゥ」的キャラクターの後継といって良い存在であった。

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  • まぁこれも1960年代まで遡るSF作品に共通する特徴で「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey,1968年)」に登場するHAL9000もそういうコンピューターだったし、「スタートレックStar Trek,1986年〜’)シリーズ」においても過去にタイムスリップしたエンタープライズ号乗組員がマウスをマイクだと思い込んで摑み、口頭でコンピューターに命令を下そうとする。

    http://vignette4.wikia.nocookie.net/2001/images/1/18/Hal9000.jpg/revision/latest?cb=20091004150956http://hitobashirar.com/wp-content/uploads/2009/08/star_trek_4_apple_mac_plus11.jpg

  • 一説に拠ればこうしたスタンスは「完璧な言語体系さえ構築されたなら、あらゆる概念がそれだけで表現可能となる」とした1930年代のサピア・ウォーフ仮説(エドワード・サピアベンジャミン・ウォーフの共同研究)が背景にあるという。「月は無慈悲な夜の女王」の著者ロバート・A・ハインラインも他の同年代のSF作家同様に若い頃はすっかりこれに嵌まっていたというし、ジョージ・オーウェル「1984年(1949年)」に登場する「(批判は敵に対してしか、称賛は味方に対してしか行えない様に慎重に設計された)ニュースピーク」もある意味そのバリエーションとも。
    *ちなみにtelnetや電子メールやFTPやニュースフィードといったネットサービスの規格が次々と固められた1970年代初頭「インターネット電話」の規格も一緒に定められたが技術的障壁が高過ぎてその時には実用化に到らなかった。そういえば最初期のネットワーク技術者には音響心理学畑の出身者が多かった。アナログ電話網なら既に実現済みで、これを利用する形でモデムによるネットワークも比較的簡単に構築出来たのだが「音声のネットワーク化」は当時の人間が想像したほど容易なものではなかったのである。ただしその事が明らかとなったのは(インフラが整って本格的着手が可能となった)1970年代に入ってからだった。

    http://www.miyazaki-gijutsu.com/series4/densi0821/fg8_2_53.gif

  • 特筆すべきはデータの持ち方で,300万人の月世界住人の電話を盗聴するのに「10の八乗バイト(すなわち約12.5MB)」を割り当てるだけで済んでいる。確かに全てテキストデータに置換したら大図書館の全蔵書の文字情報でも軽々と収録可能な容量なのであり、この時代の電話は全て送信前にテキスト化され、受信時改めて音声に復号されるのかもしれない(もちろんそれでは音声や立体音響マイクロフィニックの技術が説明出来なくなるが)。当時の人間にはむしろ現在の様にネット回線が太くなり巨大な動画データが飛び交う未来の方が想像出来なかったのである。

  • スワフ・レムのSF小説ソラリスの陽のもとに(Solaris,1961年)」の原作では宇宙ステーション内に設置された図書館が重要な役割を果たすが、電子化されているのはインデックス機能や検索機能のみ。実際のデータはすべて書籍やマイクロフィルムに収録され、それを中央コンピュータが制御する無数のマニュピレーターが要請に応じる形で超高速稼働し人間に実物を引き渡す設定となっていた。

  • そういえばジョージ・オーウェル「1984年(1949年)」の世界ではあらゆる場所に双方向テレビジョンと盗聴マイクが設置され、レイ・ブラッドベリ華氏451度(Fahrenheit 451,1953年)」の世界では読書が禁じられる一方で「TV視聴による社会への強調」が強く奨励された。ところが「月は無慈悲な夜の女王」においては電話盗聴網を構築するのはむしろ反体制側で、TV放送は存在せずラジオ放送も簡潔なニュースを客観的に流すばかりである。TV普及以前には新聞やラジオ番組や映画、映画館で映画放映前に流される報道映画が国民へのプロパガンダの道具として駆使されたものだが、そうしたものも一切登場しない。だからこそ革命も比較的スムーズに成功するのだが「全ては自由意思で蜂起した人々によってのみ遂行された」体裁を表面上保ちつつ「盗聴」と「投票操作」によって少数エリートが国家を統制下に置くのはむしろ「1984年」や「華氏451度」における体制側の立場とも。
    *ただし「月は無慈悲な夜の女王」では何故か革命成功後にはテレビジョンを使ったプロパガンダが解禁となる。人工知能マイクロフトも「完全に人間にしか見えない合成画像」をリアル映像を生成しこれに積極的に関与していくが(ビデオ収録という概念が現れるのはまだ先の時代)、自らを「言葉だけの存在」と認識する当人に「仮面」以上の愛着が湧く事は最期までなかった。

【データ・エンジニアリング】1960年代に入ると、それまでアメリカと華々しい宇宙進出競争を繰り広げてきたソ連セクト主義が蔓延。その結果、情報処理分野において完全にアメリカの後塵を仰ぐ立場に零落してしまう。
*そもそも共産圏には「標準規格を意識しつつ互いに研究成果を公開し合うフェアプレー精神に基づく健全な競争」が欠けていた。またIBMにも当初その意識が欠けていたばっかりに「自由な発想のぶつけ合いが急激な変化をさらに加速する」インターネットの時代に出遅れる事となる

http://apocalypsejohn.com/wp-content/uploads/ti-eixe-symbei-den-ebazan-tafoplaka-sobietikoys-ypologistes.jpg

こうした状況の最中にあって「ソラリスの陽のもとに(Solaris,1961年)」の中でスタニスワフ・レムが展開した「共産主義圏の悪癖」論が興味深い。

  • ソラリスの陽のもとに(Solaris,1961年)」では図書館が重要な役割を果たすが、そもそも図書の分類はルネサンス期英国で活躍した自然哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon,1561年〜1626年)が「学問の進歩(1605年)」が原型を示し、ウィリアム・ハリスが逆順にした「ハリス分類法(1870年、逆ベーコン式分類)」を起源とする。

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  •  そこで前提となっているのは「1哲学がおこり宗教が生まれ、2歴史、地理、そして3法律や社会の仕組みが出来、4自然や5技術を知り、6様々な産業がおこり、7芸術や余暇が生まれ、8言語、9最後に架空の物語が生まれる。」なる進歩史観。さらにその背後に、欧州の代々の権力者が主知主義を「正しい知識を継承する限り王権の正統性が担保される」便利なツールとして利用してきた状況が見え隠れする。

    http://www.kodomo.go.jp/kids/images/res/cnt_res_use_01-04.jpg

  • 共産主義文化圏はこの精神を継承。「(フランス革命の衣鉢を継いだ)社会主義リアリズム」の名の下に「人類の進化と発展を支えてきたのはその理性の普遍性であり、最終段階として理想の共産主義社会建設が始まった。共産主義が人類を完成させる最終発展段階である以上、これを奉ずる人類の理性も史上最高の完成段階に到達した訳で、その歴史的事実を疑う退廃主義は一切許されない」とする強固な信念を形成するに至る。
    *例えばソ連SFの古典長編の一つアレクセイ・トルストイ「アエリータ(1922年〜1923年)」では火星に到着したソ連技師が「生命は至る所で発生しますが、最終的にその頂点に君臨するのは常に人間に似た何かです。なにしろ人間より完璧な生物を創造する事は不可能なんですから」と豪語する。また戦後ソ連SF小説の第一人者となったエフレーモフの長編「アンドロメダ星雲(1957年)」でも「宇宙のいかなる生物も、進化の到達点は必ず人類同様の理性と審美眼に至る」とする立場から未来の共産主義ユートピアを描く。

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  • スタニスワフ・レムはこの様な状況を生み出す人間中心主義を「アントロポモルフィズム(Anthropomorphism)」と呼んで弾劾した。その起源は絶対王政時代の欧州に求められるという。ピョートル大帝(在位1682年〜1725年)がロシア帝国に持ち込み、スターリンが復活させたとも。

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    *「アントロポモルフィズム(Anthropomorphism)」…「人間形態主義」とか「神人同形論」と翻訳される言葉。SF的には「(極端にデフォルメされたり、特定器官の能力が誇張されたりする事はあっても)宇宙人の姿を究極的には地球人(人間)の似姿として描き、その理性を地球人(人間)のそれと分かり合える同質のものと規定する態度」を指す。

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  • ソラリスの海」はそのアンチテーゼとして設定された「絶対他者」だという。かかる存在との邂逅が引き起こした最初の問題は「図書分類の崩壊」。

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  • 日本文学研究者として安部公房を敬愛し、第五福竜丸事件を題材とする「ビキニの涙」でデビューを飾ったストルガツキー兄弟の「路傍のピクニック( Roadside Picnic,1977年)」に登場する「宇宙人」もまた同種の存在として描かれた。1979年にタルコフスキー監督が「ストーカー(Stalker)」の題名で映画化。

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  • K.W.ジーター「ドクター・アダー(Dr. Adder、執筆1974年、刊行1984年)」に登場する「役立たずの宇宙人」も同類。

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  • ウィリアム・ギブスンも「辺境(Hinterlands,1982年、短編集「クローム襲撃」収録)」と「赤い星、冬の軌道(Red Star、 Winter Orbit,1982年、同じく短編集「クローム襲撃」収録)」でソ連SFに敬意を捧げ、初長編「ニューロマンサー(Neuromancer,1984年)」 では人智を超えた知能を備えてしまったが故に「右脳と左脳を分けて管理されている」超AIの悲劇を描いている。ヒッピー上がりの彼のソ連への思いは深く、サイバーパンク黎明期のマスターピース「クローム襲撃(Burning Chrome,1982年、短編集「クローム襲撃」表題作)」も主人公チームを対ソ連侵攻作戦の生還者とした。

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  • クライヴ・バーカーは「血の本(Books of Blood,1984年〜1985年)」シリーズにおいて「決して人類と分かり合えない異形の神々」とスプラッタ・ホラーを結びつけた。ラブクラフトの「コズミック・ホラー(Cosmic Horror)」路線のリヴァイヴァルとも。

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  • 士郎正宗ソ連の現状を批判したハンガリー系ユダヤ人アーサー・ケストラーの影響を色濃く受けて「攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL、1989年〜)」を発表。中でも「人形遣い」の暗躍が目覚ましい。

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  • 荒川弘ストルガツキー兄弟の提示した願望充足器のジレンマと錬金術における等価交換の原則を結びつけた「鋼の錬金術師(2001年~2010年)」を発表。

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【データ・エンジニアリング】サイエンス・フィクション第二次世界大戦中に大量の予算が投じられた)射撃制御装置の延長線上で通信理論について論じたノーバート・ウィナーの主著書「サイバネティックス 第2版(Cybernetics, Second edition、1961年)」が発表される。

http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2011/AccesstoTools/images/Communications/Cybernetics%20cover.jpg

  • フィクションの世界においてそれは「サイボーグ(cyborg)」の概念として広まったが、実は提唱者たるノーバート・ウィーナーが目指したのはコミュニケーション(通信と制御)オリエンテッドな新たなる社会学だった。ある意味その「Unfinished Business」を回収したのが1980年代におけるサイバーパンク運動だったとも。
    867夜『サイバネティックス』ノーバート・ウィーナー|松岡正剛の千夜千冊

  • 実は共産圏のコンピューター技術が1960年代に入ってから致命的停滞状態に追い込まれたのは(無数の高性能コンピューターを高負荷に耐える回線で結んだネットワークによって構成され、およそ「中心」なる概念を有さないインターネット社会を技術的に基礎付けた)サイバネティック(cybernetics)情報工学を全面否定し「人類を堕落させる退廃主義的似非科学」として激しく弾劾したせいともいわれている。
    *全てを線型代数学(linear algebra)と扱おうとした結果、フィードフォワード(Feed Foward)の対語となるフィードバック(Feed Back)の概念を世に広めた。最近ではカオス理論(英: chaos theory、独: Chaosforschung、仏: Théorie du chaos)や複雑系(complex system)や散逸構造(dissipative structure)やソリトン(soliton)理論や自己組織化(self-organization、self-assembly)理論やリミットサイクル(Limit Cycle)やフラクタル(仏: fractale, 英: fractal)理論やホログラフィック原理 (holographic principle) といった非線形科学(Nonlinear Science)の導入も進んでいる。
    http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_14453/slides/05/img/5.png
  • ちなみに1980年代日本を席巻したニューアカ運動にはある意味、射撃制御装置の延長線上で通信理論について論じたノーバート・ウィナーの主著書「サイバネティックス 第2版(Cybernetics, Second edition、1961年)」が純粋に線型代数学に拠ってフィードバック・メカニズムを論じているのに付け込む形で「(非線形科学を援用する形で共産主義の根幹にある)フィード・フォワード理論の復権を果たす」なる目的意識が存在した。そうした試み自体はその衒学性(pedanticly)をソーカル事件(1994年)に突かれる形で挫折を余儀なくされたが、それでは実際に(線型代数学から導出された)フィードバック理論と非線形科学をどう融合させるべきかという課題自体は21世紀に持ち越される形となった。

サイエンス・フィクション共産主義は「フルシチョフスターリン批判(1956年,1961年)」によっても打ちのめされた。そして、それまでスターリンを熱烈支持してきた「保守派」の沈黙に業を煮やし、さらに激烈な革命闘争を志向する新左翼運動が台頭。米国ではベトナム戦争泥沼化を背景に黒人が公民権闘争に邁進し、ヒッピー運動が盛り上がったが両者の接点は思うより少なかったのである。

*「月は無慈悲な夜の女王(1965年)」はフランス五月革命(1968年)に伴う国際的スチューデント・パワーの高揚以前に「互いをロシア語で同志(タワリシチ)と呼び合う少数派エリートが月世界で起こす未来の革命」をシミュレーションしてみせた作品。インスピレーション元として考えられるのは真の意味で新左翼運動の発端と鳴った英国共産党の発行する「New Left Review(1960年〜)」くらい。とはいえハインラインの「異星の客(Stranger in a Strange Land,1961年)」は教科書として熱狂的に受容したヒッピー運動家達もこの作品については揃って違和感を表明している。

ロバート・A・ハインライン月は無慈悲な夜の女王(The Moon Is a Harsh Mistress 1965年~1966年)

「革命なら以前も成功してるわ。レーニンがほんの一握りの仲間と導いたのよ」
「レーニンは権力闘争の真空地帯を突いただけだ。革命が成功するのは政府が腐敗して消滅していく時だけと相場が決まってる」
「それは真実じゃない。アメリカ革命を思い出して!!」
「あれは南軍の敗北に終わったろ?」
「それより1世紀前のやつ。私達月世界人同様に植民地の人達もは英国に辛酸を嘗めさせられてた。そして蜂起し、勝ったのよ!!」
「でも当時の英国は面倒な状態にあった筈だよ。フランス、スペイン、スウェーデン、そして多分オランダとも関係をこじらせてた。それに加えてアイルランドでも反乱が起こってたんじゃなかったっけ?」
「貴方は悲観論者だわ」
「現実主義者なだけだ。悲観主義者になった事は1度もない」
「同志を増やすということはそれだけ裏切られやすくなるという事です。革命派大衆を同志にすることでは勝ち取れません。ごく少数の人間がけで遂行するからこそ成功が見込める科学なのです。正しい組織が持てるかどうかは正しく意思の疎通がはかれるかにかかっています。あとは歴史において正しい時間に正しい場所で実行される事。全てが上手く運べば無血革命となりますが、不器用に、あるいは時期尚早だったり遅すぎたりすれば内乱、群集による暴力、追放、恐怖政治を伴います」
「機能が設計形態(デザイン)を決定するのです。組織も必要以上に大きくあってはならない。単に参加したいだけの同志を入れてはいけません。また他の人に自分と同じ見解を持たせる楽しみの為だけに他人を説得しようとしてもいけません」
*まぁこれではフランス五月革命(1968年)に浮かれたヒッピー達がついていけなかったのも無理はない。「決して大衆を信じない」ハインラインの面目躍如。

  • 同時代には早くも電話回線網やTVをガジェットとするサイバーパンク文化の萌芽が始まっている。

  • 英国から上陸した「ニューウェーブSF旋風」が吹き荒れた。
    ムアコックの産み出したアンチ・ヒーロー像は1970年代に入るとマーベルの英雄コナンリヴァイヴァルとウルヴァリン誕生につながっていく。日本でも平井和正の「ウルフガイ」シリーズが人気に。

  • 同時進行でサイバネティック工学発展の影響でアン・マキャフリイ「歌う船シリーズ(THE SHIP WHO SANG 1969年〜1997年)」の頭脳船やジェイムズ・ティプトリー・Jr接続された女(The Girl Who Was Plugged in,1974年)」の美女義体の様なサイボーグ概念も広まっていく。

    https://67.media.tumblr.com/5d7500863ca45c68f1572302bbe67c5a/tumblr_n3fb2gcGSS1r7nbrao1_1280.jpg
    そういえば「接続された女(The Girl Who Was Plugged in,1974年)」の悲劇はへのオマージュらしき場面が「ラーゼフォン(RahXephon、TV版2002年、劇場版2003年)」にあって屈指の名場面とされている。このあたりの系譜は「セカイ系作品群」へも合流していくらしい。

    http://janegilmore.com/wp-content/uploads/2015/03/pluggedin.jpghttps://66.media.tumblr.com/aae3543a1a734f9887eb91747be0fd61/tumblr_mjbiwuBblZ1qzqnxxo1_500.gifhttps://66.media.tumblr.com/17a591553a83a8397c868fe3132a356a/tumblr_mhyjrrDlFS1qeumowo1_500.gif

  • アシモフが「バイセンテニアル・マン(200歳の男,1976年)」において、その生涯を芸術の探求に捧げ、最期は僅か数日しか生きられぬと知りつつ完全人間化手術を受けて死んでいくロボット音楽家を描き「ロボットの人間視」に先鞭を付けた時代でもあった。

    https://www.evernote.com/shard/s45/res/376ccf48-3562-4ce6-aec2-6eddc4c1a67c

    * 実は江戸川乱歩も少年探偵団シリーズの一作「鉄人Q(1958年〜1960年)」で同種の仕掛けを試みているが「チェス無敗の自動人形」とか「フランケンシュタインの怪物」といった既存イメージに引き摺られて支離滅裂な展開になってしまっただけだった。

    http://www.poplar.co.jp/shop/bookimages/978-4-591-11148-2.jpg

    *実は手塚治虫鉄腕アトム(Mighty Atom、1951年〜1968年)」も60年代安保のあった年の「精霊流しの巻(1960年)」辺りから「人間とロボットの共存する未来なんて有り得ないかもしれない」なる悲観テイストが混じり始め「青騎士の巻(1965年)」以降のアトムははっきり「ロボットが生き残るには人間を皆殺しにするしかない」と口にする様になっていく。アトムが最終的に修理不能の状態に陥って朽ちていく原作版のラストはそうやって準備される事になった。その一方で「オロオロするばかりで決断を下せない人間達を差し置いて自己判断によって自爆攻撃を敢行する」アニメ版のラストは横山光輝ジャイアントロボ(1967年〜1968年)」を経て「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」というセカイ系作品の系譜に継承されていく。

    虫ん坊 2010年04月号 オススメデゴンス!::TezukaOsamu.net(JP)

    http://66.media.tumblr.com/tumblr_lo9mpfB4551qihjppo1_1280.jpg

    *要するに1960年代とゼロ年代の違いとは要するに観測者側が「人間として死んでいったのだからアレはアレで本望だったのだ」なんて自己憐憫に無反省に浸れるほど若かったか「全責任を彼女一人に負わせるなんて最近の若者は酷すぎる」なんて義憤に無反省に浸れるほど年老いてしまったかの違いに過ぎないのかもしれない。尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」の「バットエンド」場面でお宮と赤樫満枝の殺し合いを指一本動かせずただ凝視している事しか出来なかった間貫一が「これぞ人間」と絶賛された明治時代から、日本人は思うより進化を遂げてなかったと言うべきなのかもしれない。

【データ・エンジニアリング】日本では1960年代後半から急速にカラーテレビが普及。時期的には「第一次怪獣ブーム(1966年〜1968年)」や「第二次怪獣ブーム /変身ブーム(1971年〜1974年)」と重なる。

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【データ・エンジニアリング】1968年12月9日のコンピュータ会議((Fall Joint Computer Conference)の席上において、米国人発明家ダグラス・エンゲルバート(Douglas Carl Engelbart、1925年〜2013年)がそれまでの発明を総合したグラフィカルユーザインタフェース(GUI)のデモンストレーションを行う(Mother of all demos=全てのデモの母)。

  • オレゴン州立大学に進学したが、第二次世界大戦末期に徴兵されてアメリカ海軍に入隊。フィリピンでレーダー技師として2年間働く間にヴァネヴァー・ブッシュの論文 "As We May Think" に触れ、強い衝撃を受ける。

  • レーダー技師としての経験から「情報を分析してスクリーンに表示する」対話型コンピュータを思いついたのが最初の発想の飛躍となる。当時の人々は、そもそもコンピュータを単なる「数値を処理する機械」としか認識していなかった。さらに想像の翼を広げ「知的労働者達がディスプレイの前に座り、情報の空間を飛び回り、より強力な方法で重要な問題を解決する」集合的知性システムを発案。これは後世"Network Computing"や"Workstation構想"と呼ばれる構成の先駆けとなる。科学史の専門家 Thierry Bardiniによれば、エンゲルバートベンジャミン・ウォーフの言語的相対論に強い影響を受けていたらしい。ただしウォーフが言語の洗練度が思考の洗練度を左右するとしたのに対し、エンゲルバートは技術のレベルが情報操作能力を左右するとし、技術開発によって人間の能力は向上すると考えた。そしてそれがこうした着眼の出発点になったという。

  • 1957年、SRIインターナショナル(当時はスタンフォード研究所)に雇われる。1962年には長年温めていたビジョンについて Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework(人類の知性の増強: 概念的フレームワーク)と題したレポートをまとめて研究を提案。これにARPAから予算がついてAugmentation Research Center(ARC)がSRI内に新設され、oN-Line System (NLS) の開発と設計を主導。ビットマップ・スクリーン、マウス(特許申請1967年、開発自体は数年前)、ハイパーテキストグループウェア、先駆的なグラフィカルユーザインタフェース (GUI) などを次々と開発。これらを組み合わせる事で伝説のデモンストレーションを成功に導いたのだった。またARPAから研究資金が出ていた事もあり、インターネットの前身たるARPANET開発にも大きく関与した。

  • 様々な災難と誤解もあって1976年頃から全く誰からも見向きもされない状態となる。タイムシェアリングシステムを利用した協調型ネットワークに執着するあまりパーソナルコンピュータの可能性を黙殺したり(彼の下にいた研究者の少なくとも一部は、後にMacintoshの原型となるALTOを発表するパロアルト研究所へと移った)、1970年代前半に不評だった自己啓発セミナー(EST)の取締役会に名を連ねていたせいであった。ただでさえマイケル・マンスフィールドによる研究開発全体への支出制限法案、ベトナム戦争アポロ計画の終結などを受けてARCへのARPAやNASAの予算割は激減。やがてARCはBartram Raphael人工知能研究部門の配下となり、Raphael は ARCをTymshare社に譲渡。最終的にエンゲルバートは1986年に独立し、以降は細々と独自研究を続けていく事になる。

サイエンス・フィクションマイケル・クライトン「アンドロメダ病原体(The Andromeda Strain、原作1969年、映画化1971年、TVドラマ化2008年)」によって初めてSF作品中でコンピューターがリアルな使われ方をする。惜しむらくは同時期よりインターネットの前身となるARPANETの運用が始まったにも関わらず、それについての言及が一切なかった事だった。物語の舞台の大半が外部と基本的に遮断された隔離施設内なので仕方のない側面も。
*ある意味「SF小説」から「テクノロジー小説」が分離した契機とも。ある意味アーサー・ヘイリー(Arthur Hailey)の「群像小説(1958年〜1997年)」から別れた分野で次第に再融合を果たしていく。

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【データ・エンジニアリング】第二次AIブーム(1981年〜1993年)

1980年代に入ると人工知能研究者達は分野を絞った「エキスパートシステム」に目を付け始める。たとえば、医者の知識をルール化して、コンピューターに組み込めば、医者にかわって、コンピュータが診断できる(はず)。ルール化の効率を上げるため、「推論コンピューター」も提唱された。

それを加速したのが、日本の「第五世代コンピュータプロジェクト」だった。1981年、通産省が提唱し、ICOT(新世代コンピュータ開発機構)が推進する一大国家プロジェクトである。

目標は「人間脳を超える人工知能」を造ること。それから、10年経った1992年、プロジェクトはひっそりと解散した。使えない並列推論マシンとプログラミング言語だけを遺して。

結局、「第五世代コンピュータプロジェクト」は社会に役立つものを何一つ作れなかった。プロジェクトは完全に失敗したのである。

北極カモメのトルーマン

北極カモメのトルーマンは、巣を必要としていた。トルーマンは、小枝を探した。小枝は見つからなかった。トルーマンは、ツンドラの方へ飛んで行った。トルーマンは、北極グマのホーラスに会った。トルーマンはホーラスに、小枝はどこにあるのか、と質問した。ホーラスは、小枝を隠した。ホーラスはトルーマンに、小枝は氷山の上にあると教えた。トルーマンは、氷山に飛んで行った。小枝は見つからなかった。ホーラスは氷山に泳いで行った。ホーラスは肉を探した。トルーマンは肉だった。ホーラスはトルーマンを食べた。

これは1993年、「小説執筆プログラムTAILOR(人工知能)」が手掛けた「人工知能が最初に書いた小説」。「努力家ではあるのだが」とお情けの評価を下した科学者もいたが、燦々たる失敗であった・

人工知能史

1980年台にはいるとAIというアイディアそのものが不可能であるという意見が他分野から提出される。哲学者サールの中国語の部屋である。これはチューリングテストに対する反論として、著書「心・脳・科学」の中で展開された。


第2の攻撃はロジャー・ペンローズの「皇帝の新しい心」に始まる。これは、ゲーデル不完全性定理がベースになっている。この理論はその後「量子脳理論」となって現在の最新理論の一つに発展した。 

こうして、第二次冬の時代が始まる。

【データ・エンジニアリング】サイエンス・フィクション1980年代に入るとパソコンの普及が始まり、AI研究の話題が盛り上がった。これに連動してフィクションの世界でも様々な動きが起こる。

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  • この時期にはマイコンの延長線上でTVゲーム機もまた人間の想像力を刺戟するガジェットとして機能した。かくして日本では原作滝沢解作画森村たつお「スーパー巨人(1978年)」、すがやみつるゲームセンターあらし1978年〜1983年)」といった漫画が人気を博する事に。
    *ちなみに「スーパー巨人」のラスボスは宇宙空間に廃棄された人工衛星を乗っ取った宇宙生命体(巨大な単眼が生えている)。「犬の額にICチップを突き立てて完全制御下に置く」なんてぶっ飛んだアイディアあたりは、もしかしたら塚本晋也監督「鉄男(1989年)」「東京フィスト(1995年)」といった「(体への金属埋め込みや刺青やピアシングといった)自傷行為を通じてしか生きてる実感が得られない」キャラクターに何らかの影響を与えてるかもしれない。
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  • 「人形系」ジャンルに「人工知能美少女」が加わったのもこの時期。最初に登場したのは「部屋いっぱいのメインフレームを外部脳とする植物人間」だった。

  • ティモシー・リアリーがドラッグと縁を切って「コンピューター操作による脳の再プログラミング」を提唱する様になる一方でウイリアム・ギブスンに示唆を与えサイバーパンク小説を書かせ始めた時期でもあった。

    *こちらの系統の作品においても「(体への金属埋め込みや刺青やピアシングといった)自傷行為を通じてしか生きてる実感が得られない」キャラクターには事欠かない。そこに一つの時代性を見てとる向きもある。

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    *同時期のクローネンバーグ監督映画「スキャナーズ(Scanners、1981年)」では秘密組織に所属する超能力者が電話回線経由でコンピューターに侵入してメモリの中身を読み取ったり、CPUを暴走させて爆発させたりしている。またその秘密組織のボスはトレパネーション(Trepanation、穿頭)手術によって能力を強化している。

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    *「青い珊瑚礁(The Blue Lagoon、1980年)」「E.T.E.T. The Extra-Terrestrial、1982年)」といった「大人を絶対に信用してはならない」と教育する映画が量産されたのもこの時期の特徴だったが、そういう薫陶を受けて育った子供達はまず自分達を信用しなくなると気付いて次第に制作が自粛される様になっていく。かくして1980年代中より欧米のヒッピー世代の保守化が始まる。「暗い未来を描くサイバーパンクから明るい過去を描くスチームパンクへの推移」もその影響とも。

  • 日本においては「左翼運動の断絶」が生じた時期ともされている。順当に「中年危機」を迎えた米国のヒッピー世代と異なり、日本の元学生運動家達は若者の若さに嫉妬しながら依存する吸血鬼の様な存在として存続する道を選択したのだった。
    *一方「分断された若者達」はブルーハーツの時代からオウム真理教サリン事件(1994年〜1995年)にかけてを一気に駆け抜ける。

サイエンス・フィクション1990年代に入ると技術の進化についていけず脱落者が続出。それに加えてさらにそれまでファンタジーやTV系サイバーパンク文学を牽引してきたヒッピー世代が中年危機に陥る。

【データ・エンジニアリング】第三次AIブーム(1997年〜)
1997年5月、IBMのスーパー・コンピュータ「ディープ・ブルー(Deep Blue、1989年〜1997年)」がガルリ・カスパロフ(露)とのチェス対戦で初めて世界チャンピオンに勝利し開発目標を達成。

https://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/vintage/images/overlay/4506VV1001.jpg

http://s1.ibtimes.com/sites/www.ibtimes.com/files/2015/02/26/deep-blue.jpg

1980年代に端を発する「人工知能ブーム」の一つの到達点。ただしディープ・ブルーは人間の様に思考する機械ではない。盤面と指し手を数値化し、スコアの高い手を選んでいるだけでチェスをしているという認識も、勝った事もわかってない。

  • いわく「人間は鳥を真似て飛行機を発明したわけではなく、新たな飛行原理を発見したのである」。いわく「人間を真似て思考マシンを作る必要はない。新たな思考原理を見つければいい」。この事実の発見こそが次世代以降の人工知能の画期となったのであり、これ以降しばらくの間IBMの「コグニティブ・コンピューティング(認知計算)」が快進撃を続ける事となる。
  • 2011年2月には、同じくIBMの開発した人工知能「ワトソン」が、アメリカのクイズ番組「ジェバディ!」で人間のチャンピオンを破る。

  • 2012年6月、Googleが「猫を認識する人工知能」を発表。

第三次人工知能ブーム

ワトソンの本質とは自然言語で書かれた文章を読んで、知識を抽出する。問題の意図を理解し、最適の回答を選び出す。これが、クイズで終わらないことは確かだ。事実、ワトソン型コグニティブ・コンピュータは、すでに社会に進出を開始した。

  • 2000年から10年間で110万人の秘書が失職した。さらに、カスタマーサポートの電話オペレータが64%、タイプ入力の63%、旅行エージェントの46%、簿記係の26%が失職している。さらに、会計士、税理士などの需要がこの数年で8万人も減っている。そのすべてが、最新のコグニティブ・コンピュータによって奪われたわけではないが旧タイプのITも加担している。

  • 新薬を商品化するには、10~15年の歳月と1000億円の開発費がかかる。現在、コグニティブ・コンピュータは、この新薬開発に参加している。何千もの記事や論文を読み、そこに隠されたパターンを見いだし、開発のヒントを科学者に提案しているのだ。人間には「見落とし」があるが、マシンにはない。これで、開発の効率は劇的に向上するだろう。

  • 2015年3月20日、ワトソンが三井住友銀行から「内定」をうけ、話題になった。史上初のコンピュータ銀行マンである。ただし、当面の仕事はコールセンターの支援に限られる。オペレータが、電話で顧客の質問をうけ、ワトソンに問い合わせると、模範回答を表示してくれる。オペレータはそれを読み上げるだけ。しかも、今後、ワトソンに音声認識機能と音声出力機能が付加されるので、いずれ、オペレータはいらなくなる。

この現実は、新しい世界を示唆している。コグニティブ・コンピュータが人間の仕事を奪う世界だ。

  • 企業買収(M&A)では、膨大なデータを分析し、推論し、最適の買収先を提案する。人間が気づかない相関関係も見逃さないので、精度の高さは人間の比でない。経営陣は、コグニティブ・コンピュータが推薦した会社を買収するか否か、決定するだけでいいのだ。

  • どの大学に進学するべきか? コグニティブなら、偏差値のみならず、自分の好み、性格、得手不得手、すべて考慮して、選択してくれる。

人間には認知バイアスという思い込みがあり、判断を誤りやすいがコグニティブは人間の職を奪う反面、人間の良きアドバイザーにもなる。ただし、最終的に決めるのはあなた。コンピュータは人生の責任までとれないので。つまり、コグニティブ・コンピュータは、会社、個人をとわず、意志決定を支援するシステム、人間でいえば、最良の相談相手なのである。

猫認識人工知能

これまでも画像認識システムは存在したのに「猫を認識する人工知能」の何が画期的なのか? 認識能力をコンピュータが自ら獲得した事である。

  • Googleが開発したのは、ニューラルネットワークという脳の構造を真似たシステムだが、「ディープラーニング(深層学習)」という最新テクノロジーを用いている。このシステムに、1週間、YouTubeを見せたところ、猫を認識するようになったという。

  • 一枚一枚画像を見せて、これは猫、これは猫じゃない、と人間が教えたわけではない。YouTubeの1000万枚の画像を見せただけで、誰に教わることなく、猫の概念を獲得したというのだ。あとは、この概念に、「猫(単語)」をヒモ付けすれば、画像を見せるだけで、「それは猫です!」と答えられる。猫が認識できれば、家具、船、自動車など形のはっきりした物は造作もないだろう。

  • Googleの画像認識人工知能は、画像を見せるだけで自学自習し、オブジェクトを認識する。それに単語をヒモ付けすれば、画像に写っているオブジェクトを言い当てることができる。これまでの機械学習では、こんなことは不可能だった。人間が教育する必要があったのだ。

  • さらに、ディープラーニングのおかげで、コンピュータのパターン認識率が劇的に向上したという。すでに、人間の認識率を超えたというから驚きだ。じつは、これまで、コンピュータが人間のパターン認識率を超えることはないと言われていた。

街中に監視カメラを設置し、人工知能に監視させれば、指名手配中の犯人は一網打尽。それも、遠い未来の話ではない。すでに確立された技術なのだ。

「汎用人工知能(AGI=Artificial General Intelligence)」

コンピュータのハードウェアはハイパー進歩を遂げたが、ソフトウェアの根本は何も変わっていない。古典的なプログラミング言語で、シコシコ作っているのだから。にもかかわらず、人工知能のようなブレイクスルーが起こったのは、なぜか? 理由は4つある。

  • コンピュータの処理能力が劇的に向上したこと(70年間で100兆倍)。
  • 人間の思考にとらわれない思考原理「統計学的確率」が実用化されたこと。
  • ウェブ上のビッグデータのおかげで、機械学習の餌(エサ)に困らなくなったこと。
  • ディープラーニング(深層学習)で、機械学習の精度が劇的に向上したこと。

つまり、マシンパワーと機械学習の進化だけで、人間の知能を超えることができたのだ。もちろん、超えたといっても一部の分野に限られている。パターン認識や相関関係を見つけるのは得意だが、全く新しい発見や発見はムリ。たとえば 現在の人工知能は、ディープラーニングを使うことはできるが、ディープラーニングを発見・発明することはできない。その発明・発見が可能な人工知能について名前だけはすでに決まっている … 「汎用人工知能(AGI=Artificial General Intelligence)」。

人工知能史

1997年チェスプログラムがカスパロフを負かしたニュースが世界を駆けめぐった。しかしこれは単なるゲームで、知能ではない。しかしカスパロフは「指し手に異星人の知性を感じた」と述べているのが、非常に興味深い。十分に発達したプログラムに一種の人間を感じたようだ。しかし、ディープ・ブルーの延長線上に創造性を期待することはできない。

【データ・エンジニアリング】1990年代後半からコンピューターの普及が加速。

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【インフラ面】人類に影響をあたえる主体が個々のコンピューター(ゲーム機含む)からインターネットそのものに推移していく時代。

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  • 1990年代に入るとHTMLフォーマットの浸透とインターネットの普及が始まった。1998年にはもうHTTPプロトコルがインターネット上の通信の75%を占めるまでになっていた。

  • 1999年、iモード運用開始。携帯電話のネットワークとしては国際的にそれなりに最先端の動きだったが、インターネット規格非互換が後々じわじわと累積ダメージの様に効いてくる。

  • 2001年に「関心空間」がサービス開始。また2004年にMixiサイバーエージェントアメーバブログ(Ameba Blog、略称:アメブロ)が稼働を開始し「先行者メリット」でYahoo Japanのネット広告独占状態に風穴を開ける。

  • 2005年頃よりロードバランサーなどの処理能力が劇的に向上しサイトのリッチ・コンテンツ化(静止画・GIF・音声データ・動画の多用)が始まる。その波に乗るかの様に、2007年頃より国米IT企業の躍進が始まる。

  • 同じく2007年頃よりFacebookを皮切りにソーシャルゲームの躍進が始まる。日本でも(SNSで出遅れた)Greeや(それまでネットオークションなどを生業としてきたDeNAが運営する)Mobageiモード・サイトの侵食を開始。

  • 2010年頃より米国でデータエンジニアの金融業界流出が始まる。

  • 2012年頃より急激に「スマートフォンのFirst Screen化(何かあると真っ先に確認する媒体化)」と「SNSで回覧される内容のリッチ・コンテンツ化」が加速。

【ユーザー動向】マスメディアがプロパガンダによって一方的に大衆を動員する時代から、SNS上における回覧投稿が重要な意味を持つ時代への変遷。

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  • 1980年代後半〜1990年代前半…「あちら側(マスメディアのプロパガンダによって動かされている一般人の生活場所)」を拒絶する若者達がブルーハーツ登場からオウム真理教サリン散布事件(1994年〜199年)までを一気に駆け抜けた。実は「あちら側とこちら側の境界線」自体はソ連崩壊(1991年12月)、バブル崩壊(1991年3月〜1993年10月)、角川春樹逮捕(1993年8月29日)による角川商法終焉などを経て次第に消失。

  • 1990年代後半…若者に憎みながら依存する大人達の暴走が始まり、若者達が五感で感じられる官能しか信じられなくなった時代。

  • 1990年代末〜2000年代前半…若者デスゲームを通じてしか生きてる実感を回復出来なくなった時代。自主制作アニメや同人ソフトやWeb小説などで「個人と個人の繋がり」を軸にエンターテイメント業界の再建が始まった時代。

  • 2000年代後半…「異類婚や彼岸と此岸の交流は悲劇しか生まない」なる物語文法の崩壊が進んだ時代。2000年代前半の反動か「日常系ほのぼの展開」が主流に。

  • 2010年代…「風景オリエンテッドな展開の選好」や「納得のいく痛みの選択」といった主題が登場。2012年以降は「スマートフォンのFirst Screen化」と「SNSで回覧される内容のリッチ・コンテンツ化」を背景に言語圏を超えた相互影響が顕著となる。

 全体像を俯瞰して思った事…

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  • 商業主義の立場からすれば、個々のトピックに対する関心が高まるのは「実用の可能性が生じてからコモディティ(日常品)化が完了するまで」の短い期間。その影響はエンターテイメント業界も受ける。
    *色々と新技術の恩恵を受けてきた怪奇映画の歴史を見ても「1950年代における立体映画の一時的流行」みたいに大した足跡は残せず終わったケースが存在する。すべての技術革新がコンテンツ展開に役立つとは限らない。

  • エンターテイメント業界の立場からすれば「それまでの時代から継承したトピックの多くが失われてしまった」様に見えるかもしれない。しかし新しいトピックもどんどん追加されているので総量としてはそんなに変わってない様に見える。果てさて正解はどっちだ?
    *少なくとも、そうした変遷に敏感にならないと生き残れない。というか成功してる人達は確実にこういう変遷を何らかの手段でチエックしている様に見える。

  • どうしてWikipediaの「合理主義」の項目が崩壊してしまったか、この年表の範囲だけ見ても明らか。おそらく「どんな時代でも絶対に定義が揺らがない合理主義」は科学実証主義くらいなのである。かくして20世紀後半には社会を線形代数とフィードバック理論で割り切ろうとするサイバネティック社会学と、それを否定するポストモダン社会学が衝突したが、結果は限りなく「対消滅」?
    オーギュスト・コントからやり直せという事かも。という事は、デュルケームの方法論的集団主義と、タルド模倣犯罪学の再衝突?
    オーギュスト・コントと社会学の誕生

    社会学(la sociologie)」という言葉は,コントが「実証哲学講義」ではじめて使った言葉である。かれは,《socius》という“社会(より正確には仲間,同盟)”を意味するラテン語と《logos》という“論理,学問”を意味するギリシャ語とを合成し,sociologie (つまり,社会学) という言葉をつくった。コントが「実証哲学講義」を講義したのは1820年代後半だから,この時期にすでにコントはこの言葉を使っていたはずだが,私たちがこの言葉を印刷された活字でみるのは『実証哲学講義』第1巻(1830年)が最初である。

    そして1857年にコントが死去すると、1890年代にデュルケームウェーバーなどが取り組むまでは,今日の社会学の研究にまで影響を与える様な重要な研究はあらわれなかった。

さて、それではこれからどうなる?